2018年2月18日 新しい契約に生きる

◆エレミヤ書31章27-34節
31:27 見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。
31:28 かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。
31:29 その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く」と。
31:30 人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

◆マルコによる福音書1章12-15節
01:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
01:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
01:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
01:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

灰の水曜日と言われる14日のから受難節に入りました。2月14日から3月31日までの46日間はイエス様が十字架に向かって歩む受難を覚えて過ごすとても大切な期間です。この46日から6回の日曜日を引きますと40日となります。40日と聞いてお気付きの方もおられると思いますが、イエス様が荒れ野でサタンから誘惑を受けられたのが40日間です。ですから、長い教会の歴史の中でこの受難節の40日間に、信徒たちは断食をしたり、自分の好きなものを食べたり飲んだりすることを絶って少しでもキリストの苦しみに連なるようにと勧められることもありました。プロテスタント教会ではあまり知られていませんが、この受難節に入る直前にこれからお肉のようなぜいたく品が食べられなくなるから、その前にしっかり食べて楽しんでおこうと始まったのが、「謝肉祭(カーニバル)」です。ブラジルのリオの謝肉祭(カーニバル)は有名ですね。実はわたしも受難節に入る前の日に謝肉祭に参加してきました。リオではなく上野のカトリック教会に行きまして美味しいステーキをたくさん頂いてきました。

わたしはこれまで20数年間、信仰生活、教会生活を送ってきましたが一度も受難節に何かを断つということはしてきませんでした。修行みたいなことをするのはキリスト教的信仰にとってはあまり意味がないと考えてきたからですが、今回わたしは一つのことに挑戦しています。ある好きな飲み物を46日間断つことにしました。なぜ、そんなことをするのか。体の健康のためではありません。神様から頂いている挑戦状、あなたは本気でわたしに従ってきていますかと言われることに自分は「はい、従って行きます」と約束して、神様の恵みに応えることができているのか、この46日間の小さなチャレンジを通して見つめなおしてみたいと思ったからです。「少しぐらい飲んでも誰も見ていないから大丈夫だよ」といった誘惑の声はたびたび聞こえてくると思いますが、「飲んでもいいよ」と声が聞こえたら「これは神様と交わした約束だから今日は飲まない」と言います。このような試練を通して神様はわたしの心を今まで以上に神様に向けさせてくださっているんだと受け止めて受難節を過ごしていきたいと思っています。

なぜ、わたしがそのような心境になったかと言いますと信仰生活は日曜日だけでなく、月曜日から土曜日こそが信仰者として挑戦すべき日だと聖書が教えるからです。マルコによる福音書1章13節にあるとおりイエス様がサタンから誘惑を受けたのは46日間ではなく40日間でした。受難節を40日間とするならば、それは日曜日以外の月曜日から土曜日までとなります。月曜日から土曜日までの生活の中でどれだけ神様のこと、イエス様のことを考えて行動しているのか。そういう意味でも自分自身をもう一度試して見つめる必要があると思ったのです。

イエス様もサタンから40日間誘惑を受けられました。神様から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を頂いた直後のことです。「自分は神様に愛されている神の子なんだ」という確固たる土台、「神様の心に適う者なんだ」という揺るがない基礎をいただいた直後に、イエス様は誘惑を受けられました。神様の愛があればもう大丈夫。御言葉があればなんの問題もないと簡単に思ってしまうのですが、実はバプテスマ(洗礼)はイエス様にとって試練の始まりでしたし、わたしたちにとっても月〜土曜日の生活の中でキリスト者として生きていくことの始まりですから、サタンの誘惑もあるのだと聖書は伝えます。バプテスマを受けて、「わたしはイエス様に従って行きます」と告白したからこそ、サタンの誘惑をより強く感じるのです。

マルコによる福音書には誘惑の中身は何も示されていませんが、わたしの小さな試み、大好きなものを断ってみて少し見えてきたのは、誘惑とは神様と交わした約束を邪魔するものだいうことです。このように神様を信じる仲間、神の家族と教会に集っていますと安心して神様の御言葉に集中して、心を神様に向けることができるのですが、月曜日から土曜日までの日々はそうはいきません。日曜日に神様から愛と恵みを頂き、よし今週はこの御言葉を大切にしていこうと思ってこの世へと遣わされるのですが、月曜日、火曜日、水曜日と日を追うごとにその気持ちは弱くなっていきます。そして、自分はダメだ。神様に従っていけない罪ある者だと思ってしまうような「誘惑のサイクル」の中に入ってしまうのです。そうではなくて、イエス様が40日間の誘惑を経て確信したことは「時は満ち神の国は近づいたのだから、悔い改めて福音を信じる」ということでした。神の国はすぐそこまで来ている。エレミヤが伝えるように新しい契約の時代はイエス様によって始まっている。神様はモーセの石の板ではなくわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださったのですから、そのことに目覚めるのです。イエス様が言われる「悔い改め」とは、何か悪いことをしてそのことを反省してもうやりませんと思うことではありません。「悔い改め」と訳されたメタノイヤという言葉は、視点を変えるという意味ですから、こんな自分はダメだと思って心の中で内省するのではなく、神様がすでにわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださった。だから、わたし自身がどれだけ弱く小さくてもわたしの中のイエス様がわたしを支えてくださると信じて月曜日から土曜日の生活の中で何度も神様の方を向き直して歩き始めることなのです。悔い改めは心の中の問題というよりも生き方の問題です。自分はどっちに向かって進んでいくのか、心も体も生活も全てを含んでいるのが悔い改めですから、日曜日に教会に来て悔い改めるよりも、むしろ月〜土曜日の生活の中で神の方を向いて生きていくことが本当の悔い改めと言えます。

「悔い改めて福音を信じなさい」。神様の方向を向いて進むことがこの世的にみますと苦しいこと、受難の始まりなのですが、しかしそこには福音、喜びの知らせがあるとイエス様は言われます。詩編91編にはイエス様を信じて生きる人を支える福音が繰り返されています。3節「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」。月曜日から土曜日の生活の中で誘惑の言葉によって神様を忘れてしまっても、神様は必ず手を伸ばして進むべき道に引き戻してくださいます。わたしたちの道案内はこの世の言葉ではなく、聖書の御言葉ですから、日々の生活の中でこのような御言葉に支えられます。ただ、日曜日に神様からこの世へと遣わされたわたしたちは道半ばで疲れてしまい、「神様、もう歩けません」と言いたくなることもあります。でも、神様はわたしたちを見捨てずに言われます。91編4節「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾」。母鳥が寒さに震え弱っている小さいヒナたちを羽の中に包み込むように神様はわたしたちを守ってくださいます。

エレミヤ書にも福音の御言葉があります。31章29〜30節「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」。何か原因のわからない病気になったり、自然災害に巻き込まれたりしますと「あなたの先祖が何か悪いことをしたから、今、あなたは苦しんでいる」という声が聞こえることがありますが、神様はそんなことはない、あなたの苦しみは先祖の罪のゆえではないと言われ、続けてこう言われます。34節の一番最後のところ。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。イエス・キリストの十字架によって自分の罪のゆえの罰としての死もなくなり、あなたたちの過ちも罪もすべて赦すとの福音が実現したのです。

古い契約では文字として書かれていましたのでだれが守ったか、守らなかったかとチェックすることができて、それができないと「できていませんね」「ルールを守ってください」と指摘されます。守れない場合には罰が与えられました。しかし新しい契約は義務でもありませんし、守らなければ罰が与えられるものでもなく、ただ神様の愛と恵みに応える喜びの約束となりました。神様とわたしたちとで交わした新しい契約はわたしたちの心の中に記されておりますから、月曜日から土曜日までの生活の中で、わたしたちは神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束したことをそれぞれの賜物を用いて喜んで果たしていきます。  

原町田教会では2年前から「教会の約束」というものを考えて宣教長期委員会で作ってきました。それは神様の愛と恵みをいただいたわたしたちが今度は「神様、あなたにこの約束をいたします」と言ってその恵みに応えてどう生きていくのかを自分たちの言葉で言い表すものです。その「教会の約束」にはこのような言葉があります。「わたしたちは、教会に集うすべての人たちを、神の家族として受け入れ、互いに喜びと悲しみを分かち合い、祈り支え合います」。その他にもこうあります。「わたしたちは、主の力が弱さの中でこそ十分に発揮されることを信じ、病や老い、労苦をも恵みとして受け入れ、すでに救われていることの喜びを証しします」。わたしたちは新約の時代に生きています。今日も、神様から福音という約束をいただきました。「わたしはあなたを仕掛けられた罠から、陥れる言葉から救い出す」「わたしは羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってあなたを守る」。「イエス・キリストの十字架によってわたしはすべての人の悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。聖書が繰り返し伝える約束、「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。わたしはあなたを決してひとりにしない」。神様から繰り返しお約束をいただいているわたしたちが、今度はわたしたちの方から神様に向かって喜んで約束を結び、初めて新しい契約となります。月曜日から土曜日の生活の中で神様からの約束を信じ、それに支えられて、自分が約束したことを守っていこうと生きる。それが私たちキリスト者の生きる力ですね。

受難節は福音に目覚める期節、神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束していることをやっていこうと決意を新たにする期間です。苦しいことがあっても、神様は詩編91編11節「あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださ」いますから、新しい契約に生きてまいりましょう。神様は今日、わたしたちに言われました。「あなたたちの中にはイエス・キリストが生きている。だからもう『主を知れ』と言って教えなくてもいい。あなたたちはすでに神様の恵みの中に生きているのだから、その福音を信じて、あなたがわたしに約束したことを生きていけば、それでいい。それがあなたたちの喜びとなる」。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。