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2018年3月4日 『苦しい』と安心して言える

◆マルコによる福音書8章27-33節
08:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
08:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
08:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
08:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
08:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
08:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
08:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

イエス様は次のように弟子たちに話されました。マルコ8章31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。自分がこれから多くの苦しみを受けて排斥されて殺されると話されたイエス様に弟子たちはとても驚いたはずです。ついさっき、周りの人たちから「エリヤだ」とか「預言者の一人だ」とか言われていたほどの方で、また弟子のリーダー的な存在のペトロからは「あなたはメシア、救い主です」と言われたほどのイエス様が、今度は「わたしは苦しめられて殺される」なんて言うのですから、冗談じゃないと思ったことでしょう。

この時、ペトロはイエス様の腕をギュっと掴んで、「ラビ、こちらに来てください」と引っ張るようにしてわきにお連れして、「そんなことは言うものではありません。あなたが苦しめられて殺されるなんてあるはずがない。イエス様、それはどう考えても間違っていますよ」と忠告したようです。ペトロさんは救い主であるイエス様が多くの苦しみを受けるということ、また当時の権力者たちから「お前なんかいらないやつだ」と退けられてイエス様が殺されることに納得できなかったのです。彼の頭の中では、救い主=苦しみから最も遠くにいるお方、救い主=力強いお方という方程式があったのでしょう。ペトロの反応は他の弟子たちも同じだったと思います。メシア救い主であれば、ローマの支配からわたしたちを救い出してくださる方。力強くローマ軍を打ち破り、イスラエルの民に自分たちの国、神の国を築き上げてくださる、そう思っていたからです。しかし、イエス様はペトロを叱りつけました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。

イエス様は、ご自分が多くの苦しみを受けること、その後に排斥されて殺されることを隠そうとはされませんでした。「そんなことは言うものではない」といさめ始めたペトロに向かって厳しく「それは人間の思いであって、自分の苦しみや悲しみ、弱さを隠すのではなく互いに伝え合っていくことを神様は望んでおられる」と言われたのだと思うのです。このように自分が苦しみを受けることを弟子たちに伝えるのはイエス様にとって辛いことだったと思います。でも、イエス様は弟子たちを信頼していたからこそ、このように伝えられたのです。ただそのように心を開いても何もわかってくれない弟子たちだったのでイエス様は本当に大切なことを伝えたい、その思いからつい厳しい口調になったのかもしれません。自分の心の中にある苦しみを隠していたら仮面をかぶった表面的な関係になってしまう。そうではなくてお互いに苦しみや弱さをオープンにできる信頼した関係を築くことが大切。だからあえてイエス様は自分の方から隠しておきたい苦しみを伝えられたのだと受け止めます。

自分が苦しいと思うことを他の人に伝えるのは恐いです。自分自身をさらけ出して人前に出るのですからそこに危険を感じます。弱さや苦しみを伝えたら共感されるどころか、批判されてしまうかもしれないからです。自分の心の中にある苦しみを誰にでも見えるように差し出すと、その部分に対して「そんな苦しいことを言ったって何にもならない。もっと強くならなければいけない」と非難される場合があります。でも、イエス様は「自分が苦しい」と感じることはもっと話していいんだよと伝えています。自らが「こんなことを言っても弟子たちはわかってくれるだろうか」と感じながらも「でも、弟子たちを信頼して話してみよう」と思い「自分は多くの苦しみを受けて殺される」と伝えたのです。

苦しい時に「苦しいです」と安心して伝えられる人がいて、その人が「そうですか。大変でしたね。苦しかったですね」とわかってくれる。そのような関係性の中に生きることができるのは幸いなことです。先日、ある牧師からこんな話を聞きました。その牧師は神学校を卒業後、ある教会に牧師として赴任しました。その人の前任者だった牧師はその教会に20数年間いて、とても影響力のある人だったようで、その後に赴任した彼は役員会などでいろいろな提案をするのですが、その度に「前のあの先生はそんなことはしていませんでした」とことごとく却下されてしまいます。説教までも前任牧師と比較されるうち、ついには彼は精神的に苦しくなって病院に行ったところ、「心の病にかかっているからしばらく休んだ方が良い」と言われてしまいました。彼はそこで神学校に電話をしてかつてお世話になった先生に相談しました。「先生、とっても苦しいです。もうこのまま続けることはできないと思います」。するとその先生は彼に言いました。「何を言っているんだ。もっと頑張りなさい。弱音を吐いてはいけない」。その言葉を受けて彼曰く、「心がぽきっと折れたような気持ちになりました」。その後、彼は二度とその先生には相談することなく教会を辞任して、今、休みながら充電しているとのことです。

本当に苦しい時に「苦しいです」と安心して言えて、「そうだね、大変だったね。あなたのこと、お祈りしますね」と言って「神様、どうぞ◯◯さんを守ってください」と祈ってくれる人がいる。そのような教会こそが人間の思いではなく、神様の思いの教会なのではないでしょうか。

木曜日の祈祷会の時に、ある人が祈りの中でご自分の家族のことを祈りました。「二人の息子が苦しんでいると思います。どうぞ、神様と出会って救われますように」。祈るその人も自分の家族のことを思い、苦しんでおられるようにわたしは感じ、わたしもその人の祈りの後に「神様がすでにお二人の苦しみを担ってくださっている。お二人がそのことに気づいて救われますように」と祈りました。そうしましたら、祈祷会の後にその人から携帯にこんなメッセージが届きました。「個人的なお祈りをおさえきれずしてしまいましたのに、先生も加わってくださって本当にありがとうございます。勇気百倍です」。

先日にも同じようなことがありました。妊娠されている女性で、その方もまた胎児も心配な状態で1ヶ月くらい前から入院している方がおられました。そのご両親がわたしのところに来られて、「今日、手術をすることになりました。まだ600グラムぐらいですが、母親の状態を考えるともうこれ以上待てないそうです」と言うのです。帰って行こうとするお二人にわたしが「お祈りさせてください」と言いましたところ、「お願いします」と言われたので、手を合わせて祈りました。「今日、これから赤ちゃんを帝王切開の手術で出産します。神様。手術が無事に終わりますように。お母さんと生まれてくる赤ちゃんの命をお守りください。赤ちゃんは小さいですが、元気に成長しますように」。祖母の方は涙を流しながらアーメンと言っていました。その夕方、お二人が「無事に手術が終わりました。まだ会っていませんがお祈りをありがとうございました」と話してくれました。

イエス様は、ご自分が必ず多くの苦しみを受けることになっていると「自分の苦しみ」を話しました。けれども、リーダー的存在だったペトロはそのことを理解できませんでした。理解するどころか彼の中にメシア、救い主は苦しむことなんかありえない。救い主は力強くあるべきだ。そのようなメシア像を持っていたので逆にイエス様をいさめました。わたしたちも知らず知らずにうちに、「救い主はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなくてはならない。牧師とはこういう人だ」と自分の中にある鋳型に当てはめて、その形にその人がうまくはまらなかった場合には、その人を脇に連れて行って、「そんなこと、言うもんじゃありませんよ。あなたはクリスチャンなんですから」とペトロのように言ってしまうかもしれません。しかし、イエス様は「それは人間の思いです」と言われます。

「人は皆、強いところもあれば、弱いところもあるし、誰もが苦しみを抱えている。その苦しみを隠して一人で苦しまなくてもいい。苦しい時には苦しいと言ってもいい。あなたたち一人ひとりは、みんな同じように弱さや苦しみを抱えた一人の人として神様の前にこうべを垂れて、主の御手に苦しみを差し出して一緒に祈る。それが神様の思いなのですよ」とイエス様が言われていると信じます。

今日、わたしはみなさんに苦しみの情報公開をお勧めします。苦しんでいることを隠さなくてもいい。誰にでもどんどん話してくださいとは言いません。信頼できる人、一緒に祈ってくれる人に「わたしは今、このことが大変なんです」と伝えることでつながっていくのです。苦しみなど、できるだけ少ない方がいいと思うのですが、不思議なことに神様は「苦しみ」を用いて、わたしたちとの神様とのつながりを強くしてくださいますし、わたしたち同士のつながりも強くしてくださいます。苦しみを通して恵みを与えてくださるのです。苦しみの中にあるとき、わたしたちはこれまで以上に真剣に祈るようになります。また苦しみの情報公開があって、それを知った人はその人のためにこれまで以上に祈るようになって、神様をもっと近くに感じるようになるのです。

イエス様は多くの苦しみを受けられましたから、わたしたちの苦しみをすべて知ってくださっています。イエス様だって苦しみをできれば避けて通りたかったでしょうが、でも、この苦しみは苦しみのまま終わらない。神様はどんなことでもそれを益としてくださる方だから、この苦しみも必ず恵みへと変えてくださると信じていたのです。

「人は皆、強いところもあれば弱いところもあって、苦しいことも経験する。その全てがあってこそ一人の人なんだ」と人の子イエス様は言われます。自分の一部分だけをわかってもらっても信頼関係は深まりません。自分の強いところだけ、よく見える部分だけをわかってもらうのではなく、良いところも悪いところも、元気なところも苦しいところも、健康な自分も、病気の自分も全てをひっくるめたあなたをわかっている。それが人間の思いでなく、神の思いです。神様はあなたのすべてを知っておられますから、わたしたちも少しずつでいいですから、まず自分の中にある鋳型から、まず自分自身を取り外してあげましょう。そうすれば、「とっても苦しいです」と言ってくる人に「もっと頑張りなさい」ではなくて、「そう、苦しいですね」と言えるようになっていくでしょう。安心して自分の弱さや苦しみを話せる、そんな教会を目指していきましょう。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。