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2017年11月26日 こんなわたしでも

◆サムエル記上16章1〜13節
16:01 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
16:02 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
16:03 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
16:04 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:05 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:06 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:07 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16:08 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:09 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

◆テモテへの手紙一1章12〜17節
01:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
01:13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 01:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
01:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
01:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
01:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

パウロほど劇的な変化を経験した人はいないかもしれません。キリスト者を迫害していた者から、キリストを信じる者に変えられるという経験です。パウロほど劇的ではありませんが、わたし宮島もイエス様と出会って少しずつですが自分の考え方が変えられ、それにともなって生き方も変えられていると感じています。皆さんはどうでしょうか。テモテへの手紙の1章13節でパウロが「以前、わたしは〇〇する者でした」と言うのと同じようにわたしたちも「以前、わたしは〇〇する者でしたが、今は」と言えることがあると思います。例えば「以前、教会の日曜日の礼拝に出席していませんでしたが、今は礼拝に出ています」というのは多くの方が言えることですし、「以前、わたしは聖書の言葉を知らない者でしたが、今は折々に聖書の言葉を思い出します」とも言えます。以前と比べて変わったのは、日曜日の午前中の1〜2時間を教会で過ごすようになったことだけのように思えますが、この礼拝で語られる福音の言葉は、東に向かって進んでいる人を「いや、わたしは東ではなく西に行くんだ」と思わせるほど力あるものだとパウロを筆頭に2000年の教会の歴史に生きた多くの人が伝えています。今日、わたしたちの進む方向を変える御言葉は15節です。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。

ここでいう罪人とはどういう人のことを言うのでしょうか?聖書にはっきりと「正しいものはいない。一人もいない」とありますから、全ての人が正しく、間違いなしに生きることなどできない罪人と言えます。聖書によれば、罪というのは「的外れ」という意味の言葉ですから、神様の願いから外れてしまっている、神様がこうしなさいと言われていることを守れないこと、それが罪となります。「神様を愛して、隣人を自分のように愛しなさい」と言われたことを守りたいと思っていても完璧にはできませんから、人が神様の前に立つならば誰でも自分の罪を感じずにはいられません。だからこそ、今日の御言葉が心にしみます。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。キリスト・イエスはわたしたち全員をその罪から救うために来てくださったのです。

わたしが「自分の罪」を感じるのは、いつの間にか自分のことを優先して物事を考え、実際にそのように行動して、そのことに後になって気づいた時です。何かをしたい、何かをしようと心に思った時、ふと立ち止まってそれは何のためにしたいのか、誰のためになのかと考えますとなんだかんだ言って結局自分のためなのかなぁと思うのです。ある機会があって外国人問題に取り組んでいる弁護士たちにわたしが行なっている外国人支援のことを話すことになり、ちょっと立ち止まって自分が何のために外国人の人たちの支援をしているのかを考えてみました。わたしが入管収容所に行くようになったきっかけはお世話になったある牧師の一言でした。神学校を卒業する時に、茨城の牛久教会に赴任先が決まったことをその牧師に報告しましたら、「牛久には入管収容所があるから、そこを訪ねたらいいよ。外国人を助けるのはわたしにしてくれたことだとイエス様が言っているからね」と言ったのです。それから9年間、地道に入管収容所にいる人を訪ねてきましたが、どうしてこのように続けていられているのかと考えますとやっぱり自分のためなのかなぁと思います。入管収容所の中で何ヶ月も、長い人は1年、2年と収容されている外国人が「宮島さん、助けてください」と言ってくる。わたしのできる範囲で手を差し伸べ、その人が収容所から出ることができ、「宮島さん、助けてくれてありがとう」と言われた時は嬉しい。そのように心から喜んでくれるのが嬉しくて続けているのかもしれません。でも、この活動を続けていられるのはその牧師を通してきっかけを与えてくれた神様の力があるからだと信じています。ですから、「宮島さん、ありがとう」と言ってくる外国の人にわたしは「神様に感謝してね。神様があなたを助ける天使として宮島を遣わしたから」と言っています。

人のために良かれと思ってやったつもりが他の人の努力の邪魔をしてしまうこともあります。目の病気をしているナイジェリア人のJさんが入管収容所から出るために保証人を必要としているとナイジェリア人のEさんから聞きました。入管もJさんの病気を気にしているので早く申請すればすぐにでも入管から出られるとのこと。Jさんと面会しましたら、彼も早く出たいと言うので、仮放免を申請しました。わたしは1日でも早く出られるといいなと単純に思っていたのですが、何日かして医療支援をしている団体の方から電話があり、Jさんは外にいると目の治療にすごくお金がかかるからあえて入管に収容されてその中で適切な治療を受けて直してもらった方が良いとのこと。弁護士ともそのように相談して決めたことだから、勝手に仮放免を申請しないでくださいと言うのです。1週間ほどして入管からJさんの申請は許可されたという連絡がありました。わたしはJさんに医療支援をしている方の話を伝えましたが、Jさんはとにかく出たいというのです。「出た後の治療の支援はあの団体から受けられなくなるし、わたしも経済的な支援はできないけど大丈夫?」と聞くと「大丈夫だ」というのです。そこで彼の気持ちを尊重し、彼は仮放免されました。しかしその直後ですが、医療支援をしていた方から「宮島さんが責任をとって彼の目の治療をしてくれるのですか。それが無理ならどうして仮放免したのですか」とお叱りを受けました。自分が良かれと思ってしたことであってもそれが人の気持ちを傷つけてしまうことがあります。自分の都合を優先せずにJさんを支援する人たちとの話し合いをしていけばよかったと思っています。

他の人を傷つけず、迷惑をかけずに生きていくことはなかなかできないわたしですから、「配慮が足りなかった」「どうしてあのようなことを言ってしまったのか。やってしまったのか」と後になってから反省して、落ち込むことがあります。最近もあることで落ち込んでいたのですが、神様は今日の御言葉でわたしを励ましてくださいました。16節「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。主イエス様の忍耐には限りがありません。「限りない忍耐をお示しになった」とパウロが言うのは、こんなわたしは許されないだろうと思うほどのことをしたパウロが十字架につけられたイエス様と出会い、こんなわたしでも神様は憐れんでくださると信じることができたからです。パウロは、イエス様を信じる人たちに暴力をふるい、ステファノが石で打たれて殺された時には彼もそこにいてそれに賛成していました。改心した後のパウロには自分が何か償いをしなければならない、自分の命に匹敵するものによって償いをしなければならない、心の深いところでウズウズと癒されない傷のような罪悪感があったはずです。しかし、イエス様がこんな自分のため、自分の罪のために十字架にかかってくださったこと、イエス様の十字架には償うことのできない罪はないと気づき、彼の心の傷は癒されました。だからこう言うのです。14節「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」

こんなわたしをも神様は憐れんでくださいます。聖書が伝える憐れみとは「人が苦しんでいるのを見て、いてもたってもいられなくなって手を差し伸べる」と言う意味で、英語で言えば「コンパッション」です。苦しみを意味するパッションを「コン」共にしようとする。人が苦しんでいたらその痛みを感じてその人のかたわらに立とうとする。それが憐れみです。パウロは十字架につけられたイエス様と出会い、あの苦しみはわたしの苦しみのためなんだと受け止めたのです。どうしてあんなことをしてしまったのだと後悔と罪悪感に苦しむ中で「あなたの苦しみと痛みをわたしの十字架に委ねなさい」と聞いて、彼はそうしたのでしょう。

「こんなわたしでも神様は憐れんでくださる」。わたしたちの理屈や思いをはるかに超えた神様のご計画がここにあります。それは神様がダビデを王として選ばれる時と同じです。主なる神様はサムエルに言いました。「容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は眼に映ることを見るが、主は心によって見る」。神様はわたしたちが見るようには見ません。サムエル記では神様の選びがテーマとなっていますが、テモテへの手紙と共通しているのは、「こんなわたしもですか?」というわたしたち人間の驚きです。サムエルから見れば、王にふさわしいのは長男のエリアブだろう、見た目も良いし長男だからと思うのですが、神様が選ばれたのは末っ子でまだ小さい少年のダビデでした。ダビデにしてみれば「こんなわたしでいいのですか?お兄さんたちでなくてどうしてわたしなんですか?」と思ったことでしょう。

今日は、収穫感謝の日として、横浜市の寿町で路上生活をしている人、いわゆる「ホームレス」の人たちのために毎週500〜600食の炊き出しをしている寿地区センターで炊き出しの食材として使ってもらうために日々、神様からいただいている食料品などの恵みやその他の献金をここに捧げました。年に1回するだけでは自己満足かもしれません。でも、これも神様がわたしたちを用いてくださる神の業です。イエス様が言われています。「与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる」。お望みでしたら、わたしたちを用いてくださいと捧げましょう。神様が今、皆さんの中に生きて働いてくださっているのですから、こんなわたしですが用いてくださいと祈りましょう。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。