2017年10月15日 信仰によって

◆ヘブライ人への手紙11章17〜22、29〜31節
11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

◆マタイによる福音書21章18〜32節
21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

◆詩編31:22〜25節
31:22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を
都が包囲されたとき、示してくださいました。
31:23 恐怖に襲われて、わたしは言いました
「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを
嘆き祈るわたしの声を
あなたは聞いてくださいました。
31:24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り
傲慢な者には厳しく報いられる。
31:25 雄々しくあれ、心を強くせよ
主を待ち望む人はすべて。

—————————————–

ヘブライ人への手紙の11章の御言葉は、わたしたちを励ましてくれる言葉が繰り返し出てきます。11章の1節から31節まで「信仰によって」「信仰によって」「信仰によって」と繰り返し、信仰によって神様を信じて生きてきた人たちの証が示され、神様を信じる信仰がどれほどにその人に勇気を与え、一歩また二歩とその人を前進させるのか、この11章を繰り返し読みますと、その神様の力、神様を信じることによって与えられる力がずんずんと伝わってきます。何よりも信仰はその人の生き方と直結している、信仰はわたしたちの行動とつながっているということを強く感じます。

11章17節にはアブラハムの名前があります。17節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです」。アブラハムと妻サラは若い頃からずっと「神様、どうか子どもを与えてください」と祈り願い続けてきたのに与えられず、もうこんな年寄りに子どもは無理だととっくにあきらめていた頃に神様はイサクという息子を2人に与えました。でも、イサクが少年に育ったとき神様はアブラハムに言いました。「イサクを焼き尽くす捧げものとして捧げなさい」。焼き尽くす捧げものですから、イサクさんの命を奪わなければなりません。「神様、どうしてですか?」。アブラハムはどれほど悩み、苦しい思いをしたのでしょうか。ただ聖書はアブラハムが淡々と神様に従ってイサクを献げたと伝えます。アブラハムがイサクを献げようと刃物で彼の胸を刺そうとしたその時、神様が「アブラハム、アブラハム」と言って彼を止めたのです。(幼稚園の子どもにこの物語を話しますとこの場面で子どもたちはグーっと引き寄せられていきます。)ヘブライ人への手紙では「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じていた」と伝えます。創世記では神様が繰り返しアブラハムに伝えていた約束があります。「あなたの子孫にこの土地を与える」「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムは神様が「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた約束を心から信じていましたし、たとえイサクが死んだとしても生き返らせることもできると信じていたからこそイサクを捧げようとしたのです。

信仰によってアブラハムはイサクを献げた。信仰によってイサクは祝福を祈った。信仰によって、ヤコブは祝福を祈り、神を礼拝した。信仰によってヨセフは自分の遺骨について指示を与えた。信仰によって人々は紅海を渡った。信仰によって、エリコの城壁は崩れ落ちた。信仰によってラハブは探りに来た者たちを穏やかに迎え入れ、殺されなくても済んだ。この「信仰によって」という約束はこの後もずーっと続いて、今もわたしたちの中に生きています。信仰によって原町田教会のわたしたちは祝福を祈り、「信仰によって」わたしたちは今礼拝を捧げています。信仰によって「わたしの命は神様のものです」と信じますから心が平安になります。信仰によってわたしたちは一人ではない、イエス様がこの教会としてわたしと共にいてくださると信じルことができます。だから安心します。

この聖書箇所を読んでいて気づくのは、信仰とは神様の約束を信じて一歩前に進むことだということです。モーセに率いられてエジプトを出た人たちは、信仰によって海を渡りました。今日もわたしたちは信仰によって一歩二歩と教会に向かって進みましたし、ここから出て行くときも信仰によって神様から示された挑戦を持って一歩前に進むのです。

誰かが言ったことを信じて挑戦するって、実はみなさんは小さい頃からすでに経験済みです。たとえば、自転車に乗ることもそうです。わたしの場合は小学校の3年生ぐらいだったと思いますが、友だちが自転車に乗っているのをみて、自分も乗りたいと思い、父に話しました。そして「大丈夫、乗れるようになる」と父の励ましの言葉に支えられて、何度も挑戦し、ついに乗れるようになりました。友だちが乗っているのを見て自分も乗ってみたいと思ったこと、父親の「大丈夫」という言葉を信じて挑戦したこと。自分が大人になって自分の子どもにも同じように「大丈夫、できるよ」と励まして子どもが乗る自転車を何度も押してあげたこと。みなさんも似たような経験をしているはずです。信頼できる人が言った言葉に励まされ、その言葉を信じて挑戦したこと。必ずあるはずです。そして、今度は自分が他の誰かを励ます。聖書が伝える「信仰によって」も全く同じです。神様の言葉を信じて生きている身近な人の姿に感動し、わたしも神様を信じて生きていきたいと思うようになる。そして神様が言われた約束を信じて励まされ、勇気をいただき自分なりに挑戦してみる。一度でうまくいかず、失敗することもありますが、でも信じて挑戦し続ける。それが真の親なる神様が言った約束を信じるわたしたちの姿です。

先日、原町田幼稚園で「みんなで運動をする日」がありました。その日に向けて子どもたちはいろいろなことに挑戦していました。年長クラスたんぽぽさんたちは鉄棒に挑戦していました。ある子は前まわりに挑戦、別な子は逆上がりに挑戦です。子どもたちは友達が逆上がりをできるようになるとそれに刺激されて「わたしもやりたい」と思う。信頼する先生が「○○ちゃん、できるよ」「そうそう、もう少し」と手伝ってもらいながら、何度も何度も挑戦して突然ある日できるようになるのです。一人で逆上がりができるようになった時の喜びは「ね、見て見て」と自分ができるところを見てもらって「すごいね」と言われることで何倍にも大きくなります。

わたしたちはみんなキリストによって神様の子どもとなりましたから、何歳になっても幼稚園の子どものように神様からの「大丈夫。恐れることはない。わたしがあなたと共にいるからチャレンジして」という言葉に励まされ、その言葉を信じて挑戦します。何に挑戦するのか。それは一人一人違っていることもありますし、同じこともあります。

教会は神様から色々な課題を受けて、それに挑戦しようとする者の集まりです。わたしたち原町田教会は今、神様から一つの課題を受けています。それは会堂建築のことです。わたしたちがこうしてこの礼拝堂で安心して礼拝を捧げ、伝道の柱として幼稚園を運営できているのは、この礼拝堂と幼稚園を建てようと50年ほど前に挑戦してくれた先達たちがいたからです。この礼拝堂と幼稚園を建てた先達たちは神様の約束を信じて勇気を出して一歩前に踏み出したから、これを残すことができました。イエス様は言います。今わたしたちが挑戦しているそれが神様の御心であると「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られ」る。

何のために神様がわたしたちに信仰を与えたのでしょうか。皆さんは何のためだと思いますか。皆さん自身を支え、一人でも多くの人に神の愛を伝えるために皆さん一人ひとりを用いるために神様が信仰を与えてくださいました。わたしたちが神様の御言葉に支えられて励まされて「わたしは本当に神様を信じて生きていることが嬉しい」と証しながら生きているならば、それを見た人がわたしも信じたいと思うでしょう。自転車や鉄棒に挑戦したくなる子どもたちと同じです。神様の約束の御言葉を信じて生きることの素晴らしさを証するためにわたしたちを生かしてくださっています。

イエス様も言っています。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。信じて祈って「立ち上がって海に飛び込め」と挑戦するのです。はじめからそんなの無理です、難しいと言いたくなるところですが、それは人間の力では無理なことでも、神様が言われたことですから、信じて祈って挑戦していいのです。山を動かすのはわたしたち人間を通して働かれる神様の力です。

御言葉を信じ、一歩前に踏み出しなさいとわたしたちを励ます言葉が聖書には満ち満ちています。例えば「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」。「明日のことまでも思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない」。神様が聖書を通して、その時のその人に必要な御言葉を語られます。ヘブライ人への手紙に出てくる一人一人が信仰によって神様からいただいた御言葉と同じです。

信じることってものすごい力です。神様がわたしたちにくださったものの中でも最高に良いものです。「これ、とってもいいから買ってみて」って、初めて会う人に言われるのと、何年も付き合いのある信頼できる人に言われるのとではその信頼度は違いますし、この人が言うなら本当だと信じて実際に買ってみることもありますよね。ましてや、天地を創造された神様が約束されていることならそれを信じて「よし、やってみよう」と安心してさらに一歩踏み出せるはずです。神様が今もわたしたちの間に生きて働かれ、御言葉によって力づけ導いてくださるのですから、「信仰によって生きる」ということ、こんなに素晴らしいことはありません。

頭がいいとか、聖書のことをよく知っているとか、そういうことは信じることとはあまり関係ありません。イエス様が言っているじゃありませんか。「徴税人や娼婦たちは信じたからあなたたち祭司長や民の長老よりも先に神の国に入る」。聖書も神様もよく知っている祭司長や民の長老は、ヨハネが示した道を信じませんでしたが、聖書のこともほとんど分からない徴税人や娼婦たちは、その道を信じました。信じるってことは知識うんぬんではないのです。「あなたが何をしたわけでもなく、ただ神様があなたを大切だと思うからイエス様によってあなたを赦し、あなたを神の子としてくださいました」。この神様の御言葉を信じて、そして一歩前に出て「わたしは神様を信じます」と発表する。そこに救いがあるのです。教会の仲間と一緒に「アーメン、その通りです」と言う。教会には神様を信じて一歩前に進む仲間がいます。信じて生きるというのは一人の出来事ではなくて教会の出来事なんですね。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。