2017年受難節 4月9日9時礼拝「イエスの十字架」

いよいよ、4月16日がイースター。
ここ数年はあの超有名な遊園地でも春になるとイースターの大型企画が組まれるので、「イースター」という言葉を耳にすることが多くなったと思います。でも、私たちはなぜ、イースターをお祝いするのでしょう?
4月9日の9時礼拝での聖書のお話を下記に紹介します、お読みください。

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4月9日 9時礼拝説教「イエスの十字架」
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聖書箇所:ヨハネによる福音書19章17~42節

先週4月2日のお話の箇所(ヨハネによる福音書18章)では、逮捕されたイエスさまと話したローマの役人のピラトは、何度も「私はあの男に何の罪も見出せない」と言いましたが、「イエスを十字架につけろ」というユダヤ人の声に負けてしまいました。それだけユダヤ人の勢いは激しかったことがうかがえます。罪のない人を十字架にかけて死刑にするなど、全くありえないことです。

イエスさまは、十字架を背負ってゴルゴタというところへ向かわれました。その前にイエスさまは鞭で打たれていますので、傷を負い、その上に重い十字架を背負わされ、さらに人々にはののしられ、私たちには想像もできない深い悲しみや苦しみの中、その場から逃げることなくゴルゴタに向かわれました。
十字架刑は、犯罪人を罰するための最も残酷な刑でした。手と足を釘で打ち付けられて苦しみが何時間も続くからです。そのような十字架に、何の罪もないイエスさまがかけられたのです。イエスさまの十字架の上には、「ユダヤ人の王」とピラトが書いた札がつけられました。

23節で兵士たちは、イエスさまの服を取り4つに分け合い、下着は一枚織りだったので裂かないでくじ引きでだれがもらうかを決めました。このことは、24節の後半に「『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじをひいた』という聖書の言葉が実現するためであった」とあります。その聖書の箇所は、旧約聖書の詩篇22章18節にあります。このことからもイエスさまの生涯が、イエスさまがこの地上に誕生されるずっと前に書かれた、旧約のメシア(救い主)の預言のとおりになっていることがわかります。
25節では、十字架に架けられたイエスさまは、十字架のそばにいた母マリアとヨハネに痛みと苦しみの中、声をかけられました。残されるマリアのお世話を、愛する弟子ヨハネにお任せになりました。

それからイエスさまは「渇く」とおっしゃいました。この「渇く」は、神であるイエスさまが、人としての生涯を送り、私たちと同じ渇きを覚え、私たちと同じ死を経験されることを意味します。
その場でイエスさまの「渇く」という言葉を聞いた人は、喉が渇いたのだろうとぶどう酒を含ませた綿を木の枝につけてイエスさまの口元に差し出しました。イエスさまはそのぶどう酒を受け取ると「成し遂げられた」と言い、息を引き取られました。

この「成し遂げられた」という言葉は、これで神様のご計画が実現したという勝利の言葉です。

神様のご計画とは、なんでしょうか。全く罪のない救い主イエスさまが、すべての人の罪を背負って罰を受けること、そのことによって罪人が赦され、神様から新しい命を与えられるというご計画でした。神様はそのために愛するひとり子イエスさまを地上にお遣わしになったのです。

すべての人の罪の中に私たちの罪も含まれています。私たちもイエスさまが十字架についた時、釘で打たれた時、鞭で打たれた時、時空を超えその場にいたのです。もしかしたら「十字架につけろ!」と叫んでいたかもしれません。
2000年前の十字架の事実が、今ここに生きる私たちと深く関わっています。

神様のご計画はこれで終わりではありません。十字架の苦しみのあとに、神の子の栄光が現れることになるのです。
来週はその栄光をみんなでお祝いしたいと思います。
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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。