2016年11月10日 最も小さい者の一人に

◆マタイによる福音書25章31〜46節
25:31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33羊を右に、山羊を左に置く。
25:34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

神学生時代、わたしは横浜市中区にある「なか伝道所」の礼拝に1年間、研修のために通っていました。妻と上の娘は当時、牧師館をお借りしていた横浜本牧教会の礼拝に出席し、わたしは下の娘がまだ1歳になる前でしたが、彼女をおんぶして自転車に乗って2人でなか伝道所の礼拝に出席していました。わたしの赴任先が茨城県の牛久教会に決まり、そのことをなか伝道所の牧師に報告した時のことでした。その牧師がわたしに「牛久には入管の収容所があるから、そこに行くといい。マタイ福音書25章で『牢にいたときに訪ねてくれた』とイエス様が言われてますよ」と言ったのです。そのことがきっかけとなって、わたしは茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに収容されている人たちを訪問するようになりました。

それまで、わたしはそこがどんなところなのか、まったく知らなかったのですが、入管の収容所に行ってみて初めて、そこは刑務所と同じような厳しいところだということがわかりました。窓のない畳10畳ぐらいの部屋に多い時には7~8人が生活していて、施設の外に出るどころか、その部屋から出ることも午前3時間、午後も4時間ぐらいしか認められていないので、1日の大半をその部屋で過ごさなければなりません。部屋から出られる時間に室内で卓球やサッカーなどのスポーツはできても、刑務所のような労働時間はありませんので、あとは何もやることがない状態になります。食事は毎日、ほとんど同じメニューで朝は二切れのパン、ゆで卵、200mlのミルクまたはジュースです。昼食や夕食もご飯とスープとおかずというように同じようなものが続きます。そこからいつ出られるのか、刑期のようなものはありませんし、強制退去命令が出されている人は、いつ強制的に国に送還されるのかわからない恐れに不安の日々を過ごしています。国に帰っても、家族がいて仕事があるならばそうしますが、そこに留まる多くの人は国に帰ることが難しい人たちです。中には難民として命の危険から逃れるために来ている人もいますし、移民として仕事を求めて、働きたくて来ている人もいます。

わたしが入管収容所の中にいる人たちを訪ねるのは、助けを必要としている人がいるからで、そのきっかけを作ってくれたのが、マタイによる福音書の25章の御言葉です。原町田教会の礼拝にも時々、外国籍の方が来られます。そのほとんどが以前、入管に収容されていた人たちですから、どうぞ、皆さん、教会に来た彼らをこれからもあたたかく迎えてあげてください。入管収容所から出られた彼らですが、出た後の生活もなかなか大変ですから、彼らのためにもお祈りください。

このマタイ福音書25章の御言葉に導かれて、わたしはとっても素敵な人たちと出会ってきました。先日のゴスペルコンサートに出演してくれたAlexさんと出会ったのも牛久の入管でした。背が高くて、会う人たちと楽しそうに大きな声で「ガハハ」と笑っているAlexさんがゴスペルシンガーだったとは、出会ってからしばらく知りませんでした。馬鹿でかい声で笑う楽しいアフリカ系の人を、まさか原町田教会のコンサートに招くことになるとは夢にも思っていませんでした。御言葉を信じて、小さな一歩でも前に踏み出せば、神様が道を開いてくださるんだなぁと実感しています。ですから、「お腹が空いています」という人に出会えば、すぐに何かを差し上げ、病気の人がいて、入院したと聞けば、できるだけ早めにその人に会いに行くようにし、入管収容所にも定期的に行くように心がけてます。御言葉がわたしたちの道を切り開いてくださいます。

新共同訳聖書には、小見出しがありまして、今日の箇所には「すべての民族を裁く」とあります。なんだか、この見出しだけを見ると厳しい感じがしますが、実際にここを読みますとそうではなくて、イエス様がわたしたちにどのように生きて欲しいのか、その生き方を伝えていると受け止めることができます。今もイエス様がわたしたちの生きるこの社会で最も小さい者として生きておられて、あなたが「この一人にしたのは、わたしにしてくれた」のですよと言われています。イエス様は、世の終わりの時に小さな一人にしてくれなかった人を永遠に罰したいからこう言われたのでなく、皆さんは神様によって「助ける者」として造られていますから、そのように生きるのが、あなたの喜びなんだよと言われているのです。
 
ここで王として登場しているイエス様は、終わりの時にすべての人たちを右と左により分けて、まずはじめに右にいる人たちに「お前たちはいろいろと世話をしてくれた」と言われます。しかし、彼らは自分の業績をほとんど気にしていない人たちのようです。自分が積み重ねてきた過去の業績や成果をいちいちしっかりと覚えていて、それを誇りに思う人でもないようです。だから、王様から「あの時あなたはわたしにこれこれをしてくれましたね」と言われても「いつそんなことをしましたっけ」と覚えていない。肩肘はらず、自然体で小さな者を助けるこの人たちが素敵です。

次に左側の人たちに王は言われます。それもいきなり「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の前に用意してある永遠の火に入れ」と言い、「いつ、わたしたちはお世話しなかったですか」という人たちに対して、イエス様は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかった」。だから、お前たちは永遠の罰を受けると言われます。

ここを読みますと、いかにも自分の業績が評価されることなど望んでもいない、「そんなこと、しましたか?」という右側の人たちのようになりなさいよと勧められている感じます。ただ、わたしはつい先ほど、この御言葉がきっかけとなって入管収容所という牢屋のようなところにいる人を訪ねるようになったと皆さんにお話ししました。この御言葉があってそうするようになったのですから、当然自分のしていることをどうしても意識してしまいます。ですから、終わりの時、主の前に立ったわたしに、「あなたは病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれましたか?」と聞かれたら、すぐに「はい、しましたよ。マタイによる福音書25章に書いてあることをできるだけ守ろうとしました」と言うと思います。

そんなわたしがどうして今も入管に訪ねて行くのか、その理由はこの聖書の御言葉がきっかけになったことは確かですが、それよりも前にわたしが経験したことと関係があります。それは大学の時に行ったフィリピンやインドで、経済的にとても貧しい人たちに出会ったことです。その時に「どうしてこんなに貧しい人がいるのだろう」という心の痛みや、「この人たちにわたしは何かできることがあるのか」とわたしなりに苦しんだ経験があって、それが今の自分につながっていると思うのです。ですから、日本という国に来て苦労している人にできることがあればしたいと思うようになりました。

今年の2月に天に召されました佐藤初女さんも同じようなことを言っています。彼女は17歳の時から35歳くらいまで17年間、ずっと闘病生活をしていました。長い長い闘病生活が終って、ようやく苦しみから解放されたとき、彼女は「これ以上の幸せはない。これからはもう何をすることも厭わない」と思ったのです。彼女は70歳を過ぎてからですが、青森県の岩木山麓で「森のイスキア」という居場所を作り、悩みや問題を抱えた人たちを受け入れてきました。佐藤初女さんは、ある本の中でこんなことを言っています。「わたしは心や体を病む人と接する機会が多いのですが、自分の体験から、その人たちのために親身になって考えてあげることができます。お見舞いや看病の仕方、どうすれば病人が癒されるかということが、単なる言葉や知識としてでなく、体でわかっているからです。17年余りの闘病生活は、人生にとってマイナスの時間と人には思われるかもしれません。ですが、わたしは闘病の体験から、病で苦しんだこと以上に大きく大切なものを与えられていると思うのです」。

みなさんもそれぞれに痛みを感じたり、苦しい経験をされていると思いますが、神様はその痛みや苦しみをそのままにされないで、ご用のために用いてくださいます。その一つの道がマタイ25章です。皆さんが経験する痛みや苦しみは、それを経験しているその時には、ただただ、早く過ぎ去ってくれと祈り、自分からそれがなくなることを願います。しかし、痛みや苦しみはそう簡単に自分の中からなくなるものではありません。治療や時間によって治り、それが過ぎ去ったように思っても、傷として心や魂に跡を残すことがあります。その傷跡を見るとあの経験が自分の人生にマイナスだけを残したように感じるかもしれません。しかし、神様はその経験を用いて、他者を助ける糸口としてくださるのです。旧約聖書にこのような言葉があります。「あなたたちの中にいる外国人、寄留者を助けなさい。何故ならばあなたたちもエジプトにいた時、外国人、寄留者だったから」。マイナスだと思っていたあの経験が人を助け、実はそれが自分にとってもプラスとなる。

みなさんが経験した痛みや苦しみは、必ず他者を助けるために用いられます。イエス様は今も、小さい者として、わたしたちの中におられ、こう言われます。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。