2016年10月2日 石を取りのけて出て来なさい

◆ ヨハネによる福音書11章28〜44節 
11:28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35イエスは涙を流された。
11:36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

イエス様はベタニアに着きました。そのベタニアでは、イエス様の到着を待っている人たちがいました。ラザロさんの姉妹マルタさんとマリアさんです。彼女たちは、イエス様が到着するのを今か今かと待っていたのですが、ようやく会えた時には、「今頃来たけど、もう遅い」、そう心の中で思っていたようです。病気であったラザロさんはすでに墓に葬られて4日もたっていました。マリアさんはイエス様にこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。この言葉の中には彼女のいろいろな思いが詰まっています。大切な兄弟が病気のために死んでしまった。主であるあなたが彼の死ぬ前にここに来て、彼を癒してくださっていれば、こんなことにはならなかった。使いの者をやったのに、あなたはすぐに来てくださらなかった。どうしてなんですか?彼女はすんなりと兄弟の死を受け入れることができません。あなたはなぜ助けてくれなかったんですか?イエス様に対する怒りにも似た気持ちが伝わってきます。イエス様はラザロさんが弱り死んでいく時、そこにはいませんでした。マリアさんは、イエス様がそこにいなかった。だから兄弟ラザロは死んだ、と言うのです。

みなさんの中にも受け入れがたい現実にぶつかった時に彼女と同じような思いを持った人がいらっしゃると思います。神様に向かって「どうしてなんですか?」と怒りに近いものを感じたり、こんなひどいことが起こっても神様は何もしてくださらない。あるいは神様なんかいないからこんなことが起きた、神様がいたらこんなことは起きなかったはずと涙を流しながら訴えかけたかもしれません。神様、なぜこんなに苦しい病気をお与えになったのですか?なぜ、あの人が死ななければならないのですか?そのように問いかけた時、みなさんは神様から答えをいただいたでしょうか?何も答えてもらっていないと思う方もいるかもしれません。イエス様が本当に今も生きておられるなら、その時に答えてくださってもいいのに、何も聞こえてこない、そう思うのです。

イエス様は彼女の訴えをお聞きになり、彼女が泣いているのを見て心に憤りを覚え、興奮されました。ある聖書ではそのイエス様の様子をこのように訳しています。「マリアの泣くのを見、マリアとともに来たユダヤ人たちの泣くのを見て、ギリギリと歯を食いしばり、目を真っ赤にし」た。
 
イエス様もマリアさんと一緒に「なぜなんですか?」と叫ぶような気持ちになられたのです。イエス様は言われました。「どこに葬ったのか」。このイエス様の声には、怒りに近い響きを感じます。

みなさんがマリアさんのように「どうしてなんですか?」と神様に訴えかけ、神様は何も答えてくれないと思っても、イエス様はあなたと一緒に嘆き、目を真っ赤にして「なぜなんですか」と叫んでくださいます。その声が聞こえないと思うのは、その声に気づいていないだけなのかもしれません。確かにイエス様はあなたと一緒に怒りの思いを込めて「なぜですか?」と目を真っ赤にして言われています。

この世にあるいくつもの不条理に向かってイエス様は「神様、神様、なぜ、この人をお見捨てになるのですか?」と今も世界のあちこちで叫ばれています。地震や水害などの自然災害で突然に大切な人を亡くした人が「神様、なぜなんですか?」と呻く言葉を主イエス様は確かに聞かれています。テロによって突然に命を奪われた人の家族、病気で思いもしなかった時に死んでいった人の家族の叫びをイエス様は聞いてくださり憤りを覚えて「なぜ」とその人たちと一緒に叫ばれています。

イエス様のその憤りに気づく人もいたようですが、そうでない人もいました。イエス様の憤りをわからない彼らは言いました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」。今、まさに進行中の神様のご計画が見えないのです。神様の御業を見えなくする力が彼らの心を覆っています。同じように皆さんの目を塞いで神様の御業を見えなくする大きな石があります。それは皆さんの心にささやく声です。「自分は救われないんじゃないか」「わたしは天国に行けないのではないか?」「こんなダメ信徒、ダメキリスト者が証などしていいのだろうか」。あなたはイエス・キリストによって救われたと神様の御業が示しているのに、心の目が神様の方ではなく自分の方に向いてしまい、「救われないんじゃないか」と思ってしまうのです。「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」「わたしたちの本国は天にあります」「天への道はイエス・キリストによって開かれた」と主は救いを宣言されているのですが、心の目が自分の方に向いていると、「こんなわたしは天国に行けないのではないか?」と思ってしまうのです。そのように大きな石によって塞がれた人の心の目を開くためにイエス様は叫ばれます。「その石を取りのけなさい」。みなさんが救われたのは、みなさんが良いことをしたからではありません。神様がみなさんを愛しているからです。みなさんが天国に行くことができるのは、皆さんの努力の結果ではありません。イエス様の十字架と復活があったからです。自分のことでなく、神様があなたにしてくださったことに目を向けるためにもあなたの心の中にある「石を取りのけなさい」とイエス様は言われるのです。

そう言われて皆さんは「はい、イエス様。そうします」と応えられるでしょうか?石を取りのけるのはイエス様でなく、皆さん自身です。「でも、イエス様。石をどかしても何も変わりませんよ」とどこか心の中で思っていませんか?もう、こんなに歳をとりましたから、石をどかす力もありません。わたしは病気ですから、石をどかすことはできません。そう言い訳して石を動かすことに消極的になっていませんか?マリアさんも「主よ、四日もたっていますから、もう臭います」と人間の現実に目を向けて文句を言っています。

あまりにも人間の現実がひどくて、神様が見えなくなることがあります。祈っても祈っても一向に憎み、争い、殺し合いはなくなりません。祈っても何も変わらない。むしろこの世は前よりも悪くなっているんじゃないだろうかと思ってしまいます。神様は平和をもたらすことができないのか。わたしたちの現実の中の不条理が大きな石となって神の栄光を隠し、見えなくしています。「主よ、苦しみや悲しみは一向になくなりません。もう何もできません」。マリアさんはわたしたちの現実を主イエス様に伝えました。イエス様は言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」。

イエス様の声に促されて、人々は石を取りのけました。どんな気持ちだったのでしょう。どうせ無理だよと思っていた人もいたでしょう。こんなことしても意味がないと思う人もいたでしょう。でも、人々はイエス様の言葉に押し出されて石を取りたのです。もし、人々が石を取り除けなかったら神の栄光は見られなかったはずです。イエス様が一人で洞穴をふさぐ石を動かすことはできたかもしません。しかし、イエス様は自分一人で石を取りのけず、人々にそれを任せました。石を動かすのは、みなさん一人一人なのです。
 
最近の祈祷会では、イエス様のたとえ話のシリーズをやっていますが、先日、タラントンのたとえを学びました。マタイによる福音書25章14〜30節の御言葉です。祈祷会では、まず聖書を読んで、10分間ほど黙想をし、それぞれが御言葉から与えられたことを分かち合っていきます。その中である人が面白いことを言いました。「このたとえでは5タラントンもらった人も、2タラントンもらった人も商売に成功しているけど、たとえ5タラントンもらった人が商売に失敗し、負債を抱えてしまっても、神様である主人は同じように『忠実な良い僕だ。よくやった。』とほめたはず。二人とも成功しているので、儲けることがいいことのように読めてしまうけど、神様の思いに忠実であることが大切だから、このたとえ話に失敗した人もいれたらよかったのに」。

わたしはとっても励まされました。福音伝道のためにこれまでも色々と挑戦しては失敗を繰り返してきたわたしですが、たとえ失敗したとしても神様が望んでいることはこれだろうと信じて、これからも挑戦し続けていこうと思うことができました。福音を伝えてもなかなか教会につながってくれる人は増えていきません。他の教会でこのクリスマスには6人がバプテスマを受けましたなんて聞きますと、いいなぁと思って自分はダメだなと思ってしまいます。人と自分を比べてしまって、神様がわたしにくださったものが見えなくなってくるのです。だから、イエス様は「石を取りのけなさい」「神様があなたを心から愛していると信じることができるように神様の方を見なさい」と言われます。

石が取りのけられますとイエス様は続けて言われます。「ラザロ、出て来なさい」。洞穴の中に閉じこもっていないで、人間の現実ばかりに目を向けていないで、そこから出て来なさいと言われます。勇気を持って心の中にある石を取り除いて、一歩外に出てみますとそこには明るい陽の光があります。信仰生活は「出て来なさい」とのイエス様の呼びかけに応えるところことから始まります。「こんな私が何の役に立つのか。自分なんかに何ができるのか」と心をふさごうとする石を取り除いて、主イエス様にできないことは何もないと信じてまず一歩でも半歩でもいいのです。信じて外に出るのです。イエス様は今も、これからもあなたのために祈ってくださいます。「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。

神様にできないことは何もないと信じることができるように、イエス様はわたしたちのために今も祈ってくださっています。失敗を恐れずに心の中にある石を取り除きましょう。主イエス・キリストが必ず助けてくれると信じて、与えられた福音を伝えるために外に出てまいりましょう。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。