2016年4月10日 さあ、来て、食事をしなさい

◆ヨハネによる福音書21章1〜14節
◆詩編 145編1〜9節

今日の聖書の出来事は、イエス様が復活された後、故郷のガリラヤで弟子たちと再会した場面です。イエス様が故郷ガリラヤに帰った後、初めて言った言葉が書いてありました。それは、「何か食べ物はあるか」でした。皆さんが、しばらく故郷を離れて、久しぶりに故郷に帰ってきたとします。帰ってきて、久しぶりに会った友だちが「あなたにまた会えて嬉しい」と言う代わりに「何か食べ物はありますか」と言ったとしたらびっくりですよね。「そんなにお腹空いているの?」と心配になってしまいます。イエス様、この時相当お腹が空いていたのかと思ってしまいますが、よくよく聖書を読むとそうでないとわかります。イエス様は一晩中漁をしてぜんぜんとれなかった彼らのことを思ってこの一言を言われました。「きっとお腹ペコペコで力も出ないし、何も獲れなくて自信をなくしているだろう。まず、とれたての美味しい魚を食べさせてやろう。そしたら元気も出るだろう」。そう思って、「何か食べ物はあるか」と聞かれたのです。

イエス様が十字架で処刑された後、エルサレムからガリラヤに帰ってきた弟子たちは、ぼーとしていたんでしょう。「イエス様がいなくなってしまった。自分たちは何をしていけばいいのかわからない」。でも、なにもしないでブラブラしているだけじゃだめだとペトロさんが思い、「わたしは漁に行く」と言うと他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言って漁に出ます。でも一晩中網を打っても何もとれない。するとそこにイエス様が現れて「舟の右に網を打ちなさい」と言われる。聖書では右側は神様の側と言われているので、イエス様は弟子たちに魚の取り方を教えたのでなく、「神様の方を向いて進んでいきなさい」と言われたのでしょう。「神様を信じていけば大丈夫。わたしがいろんな人と一緒に食べてきたあの食卓を思い出しなさい」。

イエス様はガリラヤでもベタニアでもエルサレムでも、分け隔てなくいろいろな人とテーブルを囲んで食事をしてきました。誰とでも一緒に食べる。分け隔てなく食卓を囲む、そこに神の国が現れている。それを伝えたかったのだと思います。イエス様は実によくいろいろな人たちと食卓を囲んでいます。ユダヤの人たちに嫌われていた徴税人、男と一緒にテーブルにつけないはずの女性たち、病気の人たち、またそのような人たちとは絶対に同席しない律法学者やファリサイ派の人たちとも食事をしました。律法学者やファリサイ派の人たちから見れば、汚れた人たち、罪人と言われて一緒に食卓を囲むなど考えられない人たちとイエス様はテーブルを囲み、パンを分かち合いました。イエス様は言いたかったのでしょう。神の国がそこに現れている。弟子たちにその食卓を思い出させようと「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言って、自らパンと魚を手にとって彼らに与えたのです。

先日のイースター礼拝の後の愛餐会。良かったですね。新しく原町田教会の家族に加わったお二人を迎え入れて、一緒にワイワイと神様から頂いた物を食べる。皆さんは、教会のどこが好きですか?と聞かれて何と答えますか。わたしはまず、一緒に美味しい物を食べるところが好きと答えます。これまでいくつかの教会に通ってきましたが、どこの教会でもお祝いの時には必ず愛餐会で食べ物を一緒に食べるんです。「神の家族」というのは、頭の中でこういうもんなんだと理解する以上に、一緒に食べ物を食べてこそ、礼拝に集う他人同士が家族になっていくような気がします。

教会は食べることを大事にしてきました。今でこそ、聖餐式と愛餐会は別々になっていますが、長い間、教会ではそれぞれが持ち寄った食べ物を神様にささげて、その食べ物を皆で分け合って聖餐と愛餐会を一緒に守ってきました。だから、原町田教会でも礼拝でパンを食べ、杯を飲み、その後、愛餐会で一緒に食卓を囲みます。

昨年からですか。原町田教会ではワンコイン献金というのを始めました。愛餐会は持ち寄りで食卓を囲んでいますが、持ち寄りが難しい人でも気兼ねなく一緒に食べましょうとワンコイン献金を始めました。いいですね。わたしたちは、神様が親で、イエス様をお兄さんとした家族ですから、一緒に食卓を囲みます。「参加したいけど、こんなわたしがそこにいてもいいのかしら」と感じる、そのような心の壁をできるだけなくす努力をします。なぜならイエス様が全ての人を聖餐と愛餐会に「さあ、来て、食事をしなさい」と招いておられるからです。

聖餐式の時、パンと杯を頂きますが、あれは神様からの救いへの招きです。わたしが高校生の時でしたが、両親に連れられて、川崎の戸手伝道所の礼拝に出席したことがあります。昨年の特別伝道礼拝にここに来ていただいた関田寛雄牧師が牧会されていた伝道所です。礼拝の説教に続いて聖餐式がありました。牧師が聖書を読み、祈り、パンが配られました。わたしは深く考えることなく、自然にパンを取ってパクリと食べました。続く杯もゴクリと飲みました。礼拝が終わった後、父から「お前、パン食べただろう?」と言われ「え!」と答えました。「まだ洗礼を受けていないのにパンを取ってるから、びっくりしたけど、止められなかったな」と父と母は笑っていました。もし、あの時「だめじゃないか。謝ってきなさい」と言われていたら、わたしは教会嫌いになっていたかもしれません。神様の招きって不思議です。その後、洗礼を受けるまでパンと杯を頂くことはありませんでしたが、今思えば、神様はあの時「来て、食事をしなさい」とわたしを招いて下さっていたように感じます。

聖餐の食卓は、救いの食卓です。聖餐の時、「これは、わたしたちのために割かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられた」と牧師が皆さんに言います。その「あなたのために主が命を捨てられた」と言った時の「あなた」の中には、自分だけでなく主が招かれているすべての人が入っています。あなたの好きな人も、嫌いな人も「あなたのために」の中に入っています。「あなたのこと嫌いだから一緒に食べない」なんてその食卓では言えない。神様がこの食卓にその人も招いているからです。あなたの好きな人も、嫌いな人も何度も繰り返し一緒にパンを食べ、杯を飲むんです。イエス様が「さあ、来て、食事をしなさい。意見があわなかったり、議論しても解決できないこともある。イライラして『あんなやつと顔も合わせたくない』と思うこともある。でも、まずはここに来て、一緒に食事をしなさい。わたしが準備したから、いらっしゃい」と招かれます。

わたしが大学生の時、通っていた教会では毎週、礼拝後にうどんの食事があって、一人暮らしをしていたわたしにとって格安のうどんを何よりも楽しみにして礼拝に通っていました。日曜日の朝はゆっくり起きて、何も食べずに教会に行っていましたので、11時ぐらいになるとお腹がすいてきます。お腹がすいてきますと鼻がよくなりますから、厨房の方からうどんのスープのダシの効いた良いにおいがすると礼拝説教以上にそっちの方が楽しみになります。礼拝が終わってさすがに走って行くのは恥ずかしいので、少し早歩きで厨房横のホールに行きまして、うどんを頂きます。いつもわたしはおかわりをしていました。その教会の60周年記念の礼拝で説教をしてほしいと呼ばれた時にも、このうどんの話をしました。その時にはさすがに説教以上に、とは言いませんでしたが、それでも教会には礼拝と同じぐらいにうどんを楽しみにきていましたと話しましたら、礼拝が終わった後、1人のご婦人がぱっとわたしのところに来て「うどんのことを話してくれて本当に嬉しかった。長い間、うどんを作ってきて、人手が足りなかったりして、続けるのが難しくて、大変なときがあったけど、うどんを楽しみにしていたと聞いて、嬉しかった」と話してくれました。

わたしは大学4年生のときでしたが、その教会でバプテスマを受けました。通っていた時には気づいていませんでしたが、教会に受け入れられていたなぁと思います。家族のように「あなたがいつ帰ってきても食事は準備するよ。来て食べなさい」というような雰囲気で受け入れてもらっていました。すごく居心地が良かったので、60周年記念の礼拝説教で「うどんがおいしかった」なんて言えてしまう。教会は家族、どんな人であっても「お帰りなさい」と受け入れて、「来てください。食事をしましょう」と言って一緒に食べる家族なんです。

皆さんの家族の中でも「あんた、ただ食べに帰って来るだけじゃない」と思うような人、いませんか?わたし自身もそういう時がありました。親とも姉とも話しはしたくないけど、腹は確実に減りますから、食べるために家族と一緒に食事の席につきますし、食べるために家に必ず帰ります。一緒に食べることは、その人を受け入れることです。聖書の時代、敵対していた者同士がこれからは仲良くやっていこうと仲直りするとき、まず何をするかというと、一緒に食卓を囲むんです。旧約聖書を読むとそういう場面が出てきます。同じものを一緒に食べる。相手を信頼してなかったら、目の前に出された食べ物を口にすることはできません。毒がもられていないかと疑って口に入れられません。だから、一緒に食べることで「わたしはあなたを仲間として受け入れます」となる。

聖餐式でパンを食べ、杯を傾け、愛餐会や家庭集会、何かの機会に集って、「神様、ありがとうございます」と祈って一緒に食べる。そうするとそこに集った人たちが家族となっていくんです。神の家族になるために神様は聖餐と愛餐、「食べる時」を与えてくださったのです。イエス様が一晩中、漁をしてへとへとになった弟子たちに「魚を何匹かもってきなさい。さあ、朝の食事をしなさい」と言われ、イエス様ご自身がパンと魚を手に取って弟子たちに与えられたのも、みんな、神の家族だから。

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988