2015年11月15日 命のパンである

◆ヨハネによる福音書6章26〜35節
26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33 
神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34 
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 

 食べることは好きですか?「わたしはあんまりね」という人や、「健康のためにいいものを食べるようにしています」という人もいるでしょう。「若いときは食べることが楽しかったけど、歳をとってからは食が細くなってね」、そういう人もいると思います。今日の聖書は、小さい子どもたちにも、わたしのような中年にも、高齢の人にも、食べ物に興味がある人もない人にも、すべての人に与えられるすばらしい食べ物があると言われたイエス様の言葉です。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。

 わたしは、見た目が細いので、あんまり食べないんだろうと思われることがありますが、こう見えても食べ物に関しては結構がめついです。小学生の頃ですが、晩ご飯で盛りつけられたお皿が5個テーブルに並びます。父と母の分、姉2人とわたしの分。わたしはまず、自分のお皿を見て、次に姉2人の量を見ます。それで自分のお皿の量が少ないと、パッと多いと思ったお皿と替えたり、母に向かって「もっと入れて」と言ったりしました。自分の分が多ければ、安心して、「お代わりある?」と聞くような痩せの大食いでした。最近は前のようにがつがつと食べなくなりましたが、今度は妻に向かって「これ、どこで取れたもの?」とか「これ、化学調味料入ってるね」などと聞くようになりました。やっぱり、大人になっても目の前のことに心奪われてしまうようです。

 イエス様は、「朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われます。なかなか難しいことのように思ってしまいます。永遠の命に至る食べ物のために働くなんて、見当もつきません。でも、イエス様はすでにわたしたちすべての人にその食べ物をくださっています。自分の力では手に入れることができなくても、イエス様の命のおかげで頂くことができるようになったのです。

 創世記ではアダムとエバが「善悪の知識の木」の実を食べたことで、エデンの園から追い出されるのですが、神様はその時、追い出す訳をこう言いました。「人は我々の1人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。

 神様は人を「極めて良いもの」として造られましたが、人は「わたしは神様を頼りにしなくても良いこと悪いことぐらい分かる」という気持ちで善悪を知る木の実を食べてしまいました。わたしたちもアダムとエバと同じように神様なしに善悪を知りたいと思ってしまいます。それがわたしたち人の罪ではないでしょうか。自分で良いことと悪いことぐらいはわかっているつもりで、神様から離れていくわたしたち。その先には滅びしかないのにそっちに向かってしまうわたしたちを滅びから救い出すために、神様は御子イエスを送ってくださいました。そして、神様の大切な自分の子、愛する自分の御子イエス様をまるでパンが割かれるように十字架の上にささげた。神様も、イエス様もどれだけ苦しかったのか。想像もできないほどの痛みによって、すべての人を救う命が差し出されたのです。

 これが、イエス様が言われる命のパンです。神様はあなたのために、あなたを救うために自分の愛するたった一人の子を与えられた。救いは、すでに現されています。「神様はイエス様によってわたしを救ってくださった」というその実感、頭の中だけでなく、むしろゾゾゾッと寒気がするような感動、ドキッとする喜び、魂が震えるような感覚を忘れないために、イエス様は「わたしが命のパンです。この命のパンを食べなさい」と言ってくださる。そのことを忘れないために聖餐式があります。牧師は聖餐式の時、パンを手にとって言います。「これはわたしたちのために割かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう」。

 聖餐のパンもそうですし、礼拝で語られる聖書の言葉も、ぜんぶイエス様の体、命のパンです。ということは、礼拝に出ている人はみんなイエス様を頂いていることになります。イエス様の体を何度も頂いていますと、自分でも気づかぬうちにイエス様がわたしたちの中に生きるようになり、神様の業を行なうようになるんです。

 先日、ある女性の方から電話がありました。「今、歩いて茨城県の水戸から町田に来ていて、昨日の朝から何も食べていないので、何か食べる物をいただけないでしょうか?」というので、事情を聞いたところ、このような話をされました。その方はパニック障害をもっていて、北九州で生活保護を受けていたのですが、夫が仕事を得て水戸の社宅に移りました。でも、それがうまくいかず、合わせてその障害の発作になった時に社宅のものを壊してしまい、一文無しになってしまいました。そして、唯一頼れる女性の姉が滋賀県にいるので水戸から歩いて行くことにし、ようやく町田についたというのです。「どれくらい歩いたのですか?」と聞くと、「2週間くらいかな。もう、曜日も覚えていないですね」「この靴もぼろぼろですよ」と男の人が穴のあいた靴底を見せてくれました。2人は公園で野宿をしながら、スマホの地図を頼りに歩いて来たのです。ある時はパン屋に行って、パンの耳をもらったとのこと。わたしはお弁当をコンビニで買って、祈祷室で食べてもらいました。ちょうどその時、教会の人が何人かいたので、「知恵を拝借」と相談し、結論として電車代を差しあげることになりました。実はその日の朝のわたしのお財布には500円玉1つしか入っていなかったのですが、ちょうどその日、桜美林中学の収穫感謝礼拝に説教に行ったので、そのお礼のお金があったのです。きっとそのお金は神様がその人のために用意されたのだとピピッと感じたわたしは、電車代は自分が出すと言いました。すると何人かの人が「これ少ないけど」とさっとお金を足してくださいました。目的の駅までの運賃を調べたところ、実際わたしが出したお金だけでは足りなかったのです。持つべきものは教会の仲間。とっても嬉しかったです。2人にお金を渡した時にわたしははっきり言いました。「これはわたしからでなく、神様からですから、どうぞ、神様に感謝してくださいね。滋賀に行ったら、是非、教会に行くといいですよ」。次の日の夕方、その女性から無事に着いたという電話がありました。「助けて頂いて、ありがとうございました」というその方にわたしは「お祈りしていますね」と声をかけました。

 神様の業を行なうことは神がお遣わしになった者を信じることです。イエス様はマタイ福音書で「お腹を空かした人を見て食べ物を差し上げたのは、わたしにしてくれたことです」と言われました。教会はイエス様の体ですから、お腹を空かした人がくれば、イエス様がしたようにする。コンビニに行ってお弁当を買う。それを1人でするのではなく、イエス様の体につながる仲間と一緒にする。神様は神の業を行なうためにイエス様の体であるわたしたち教会をたててくださったのですね。

 桜美林中学の収穫感謝礼拝もすてきでした。中学生約460人が荊冠堂チャペルに集って、たくさんのお米が献げられました。チャプレンの人が教えてくれましたが、子どもたちの中から選ばれた奉仕委員が各クラスを回って「お米を献げてください。寿地区の路上生活をしている人たちの炊き出しに使います」と2週間ほど言い続けてきたそうで、その成果がたくさんのお米となったのです。わたしも聞いていたので持っていきましたが、1人で献げる量は少なくても、おおぜいで献げれば1人では抱えきれないほどの量となります。チャプレンの人に「子どもたちがお米を寿まで持っていくのですか?」と聞きましたら、「そこまでできたら良いのですが、今は送っています」とのこと。できれば子どもたちには自分たちで届けてもらいたいなぁと思います。寿地区センターに行って、そこに積まれた食料とそれが実際にどれだけ役立てられているのかを見て、感じてほしいからです。

 寿地区センターは、イエス様を信じることで成り立っています。イエス様は言われていますね。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。日本風に訳せば、「わたしは命の米である」。イエス様がいますから、一日に1食しか食べていないような人たちのために桜美林の中学生たちがお米を集める。イエス様を信じてますから、飢えている人がなくなるようにとわたしたちは祈ります。

 祈りは力です。皆さんは、時々心の中で「そんな祈りをしても現実は何も変わらない」なんて思ったことはありませんか?わたしもありますよ。「世界で飢えている人がいます。どうか、食べ物が分かち合われますように」と祈りますが、祈っても祈っても変わらないと感じることがある。でも、祈っているからこそ、目の前にお腹を空かした人が現れたら、何とかしてあげることができるのです。昨年だったでしょうか、日曜日の礼拝前に1人の男の人がやって来て、「ここ数日、ほとんど食べていないので、何か食べ物をください」というのですが、礼拝前でわたしは対応することができず、教会の人にお願いしました。後から聞くと、その人は台所に行ってパッとおにぎりを作って、その男の人にあげたそうです。嬉しかったですね。これこそ日頃の祈りがあったから。祈っているからこそ、とっさの時に行動できる。祈っていなかったら、パッとおにぎりを作るのは難しいように思います。

 ただ、そうは言っても、わたしたちは今日の聖書でイエス様に向かってトンチンカンな質問をしている人たちにも似ています。すでにイエス様という命のパン、つまり朽ちることのない永遠の命に至る食べ物を知らされているのに「信じることができるようにしるしを行なってください」と言ってしまう。イエス様の十字架による赦しというすばらしい福音が与えられているのに未だに「神の業を行なうために何をしたらいいですか」と的外れなことを思ってしまう。それでもいいんです。すでに神様は皆さんの体を通して、神の業を行なっていますから。皆さんはすでにイエス様の言葉を頂き、「わたしの命のパン」を頂いているのですから、お腹を空かした人がいたら何とかしてあげようとする。おにぎりも作る。中学生はお米を集める。それはすべて神様の業です。皆さんが生きているというよりも、すでにイエス様が皆さんの中に生きて、働いている。そう言うしかありませんね。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。