2015年11月1日 あなたは決して引き離されない

◆ローマの信徒への手紙8章31〜39節
31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36 「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

今日は、永眠者記念礼拝です。お久しぶりの方たちが今日は多く来てくださっています。嬉しいですね。わたしが嬉しいのもそうですが、わたしの他にも天国に先に行かれた皆さんの家族が、「お、久しぶりに教会に来たね。1年に1回かもしれないけど、嬉しい」と思っているんじゃないでしょうか。今は亡きあの人がこの教会のお墓にいるから、この日ぐらいは…と思って出席くださった方もいるかもしれませんが、皆さんが今、ここにいるのは「今日ぐらいは」と考えるよりもずっと前に皆さんをここに連れてきた誰かとすでにつながっていたからではありませんか?このつながっていると感じる、つながりを再確認するのが、神様の働きのように感じます。

皆さんも太いか細いかわかりませんし、まだ気づかないところもあるかもしれませんが、何かのつながりがあって今ここにいる。今日の場合は特に、先に神様のところへ帰っていかれた人たちとのつながりというか、天国にいるわたしたちの家族がいて、こうして礼拝を持つことができるのでしょう。

今年、2015年はわたしたちのこの教会家族の中から3人を天に送りました。Hさんを6月27日、Fさんを8月24日、Tさんを9月14日です。先日、Tさんの納骨式の時、家族の方が「お母さんは葬儀の時も納骨式にもたくさんの教会の人が来てくれて幸せだ」とお話しくださいました。本当にそうですね。葬儀に何人、納骨式に何人、人が来るかを競うわけではありませんが、一緒に礼拝に出席し、祈りに覚えてもらったり、その人のことを祈ったりした、まさにその人が神の家族だから葬儀に出席する。原町田教会号という船に一緒に乗っている仲間ですから、強い風が吹き荒れて船が大きく揺れている時も、船から逃げずに「必ず神様が守ってくださるから一緒に乗り越えよう」と声をかけ合った仲間でもある。苦しい時に涙を流しながら「お祈りしてください」と頼んだこともある仲間。声高らかに喜びの讃美を歌った仲間。一緒に神様が定めてくださった時を教会で過ごしてきたのですから、葬儀や納骨式に出席する。それが教会の葬儀なんですよね。

今日は、Fさんの妹さんは残念ながら欠席ですね。是非、今日は来てくださいねとお伝えしましたが、御用事があるとのこと。Fさんの葬儀のことで、わたし、申し訳なかったなぁと思うことがありました。それは、Fさん自身の希望で「葬儀は親族だけで」とあったので、わたしはその希望に沿って「では、親族だけで行ないましょう」と答えてしまったことです。葬儀は、Fさんの妹さんのKさんとそのお連れ合いさん、それと後見人の方の3人でした。わたしは正直、ちょっと淋しかったです。Fさんの好きだった讃美歌「主われを愛す」を教会の人たちと一緒に歌いたかったなぁと後になって思いました。葬儀を決めてしまってからでしたが、「どうして親族だけと言っても、教会員はみんな神の家族ですから、教会員にも出席してもらいましょう」と言えなかったのか、そう思いました。もちろん、葬儀にたくさん人が来たから天国に行った、人が少ないと難しいということはなく、Fさんは確かに天国に行かれて、天使のようになっていると信じます。でも、牧師として「教会で葬儀をする時は、教会につながる人たちにも呼びかける」と言うべきだったと反省しています。皆さんもできましたら、「親族だけでひっそりと」なんて言わないでくださいね。原町田教会では、式典委員会が「葬儀の備え」というものをつくって、教会員の皆さんに、葬儀の希望を書いて提出してくださいとお願いしていますが、150人くらいの教会員がいる中で、たぶん出してくれたのは3〜4人くらいですね。これから確実に皆さんは亡くなりますから、できれば葬儀の希望のところに「家族だけ」と書かないでください。わたしは「親族のみ」とか「家族だけ」と書いてあっても、血のつながった家族だけの葬儀にはしないで、教会家族、神の家族も一緒の葬儀にしますから。その心づもりでいてください。

わたしたち神の家族は、どんなことがあっても引き離されないつながりの中にすでに入れられていますから、こうして一緒に礼拝をしていますし、葬儀の礼拝でも決して引き離されることのないキリストの愛にこの人は捕われていたんだと思い起こします。身近な人を天に送ることは、自分の体の一部が引き裂かれるような気持ちになると言われます。わたしはそこまでの経験をしたことがありませんが、実際に家族を亡くした人から「胸がずきずき痛い」と言う人に会ったことがあります。それは、自分からその人が引き離されていくような感覚なのかもしれません。もっと、あんなことができたかもしれない。わたしのしたことがあの人の死を早めてしまった。どうしてわたしは、と自分を責めることもあります。

でも神様はあの人が死んでいったことで悲しみ苦しむ人に語りかけてくださいます。「死ぬことも、命も、どんなものもキリストによって示された神様の愛から、あなたを引き離すことはありません」。今、生きているわたしたちも、またすでに死んでいった人たちも同じように、キリストによって示された神様の愛から、引き離されることはないのです。ですから、神様を通して、すでに死んでいったあの人とここにいるわたしたちはつながっています。聖書にあります。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

Wさんの家族の方はいらしていますか?教会員ではありませんが、8月31日に天に召され、葬儀をここで行なった方です。たまたまここの幼稚園の卒業生の母親が葬儀社で働いていて、Wさんの息子さんが「父はクリスチャンだったが、長い間教会に行っていなかったけど、葬儀はキリスト教でしたい」と話されたので、じゃあ、原町田教会に聞いてみようということになったのです。これもつながりですね。初めは「火葬場近くの斎場で葬儀を」と言われたのですが、わたしは「どうぞ、教会で」とお伝えし、葬儀はこの礼拝堂で行うことになりました。教会で葬儀をしてわたしはそれなりに良かったなぁと思っていましたが、11月の「信徒の友」にこんな言葉が載っていました。加藤常昭牧師は教会とはまったく関係ない人の葬儀も引き受けてきたと言い、ただ一つ条件をつけていました。「あなたがたが望んだ通りの葬りにはならなかったとしても、望んだ以上の深い慰めを知ることができるだろうから、教会と牧師を信頼して、すべて任せてほしい」。そうして、教会員は、教会員でない人の葬儀にも出席してください、誰の葬儀であっても礼拝堂で行なう葬儀は教会の葬儀だから、家族だけの葬儀にはしないと言うのです。

ハッとしましたね。これまでわたしは教会員以外の人の葬儀には、「教会の人も出席してください。手伝ってください」とは言ってきませんでしたが、そうじゃないというのです。亡くなったその本人と直接関係はなくても、その人の葬儀はその人を愛された神様を礼拝することですから、教会員が出席する。わたし、思い立ったら実行するタイプの人ですので、これからそのようにお願いしよう、そう思いました。ぜんぜん知らない人であっても、神様はその死んでいった人を愛していましたし、その愛を通して、わたしたちはつながっている。葬儀で初めて会う人であれば、その時に新しく神様を通してつながるのです。

わたしの父の葬儀の時のことを思い出します。父は治らない病気にかかりながらも、わたしが仕えていた牛久教会の礼拝に母と一緒に出席していました。亡くなる前はしばらく入院していましたので、礼拝にはほとんど出ていませんでしたが、4年前のペンテコステの日、礼拝が終わった後に亡くなりました。父の葬儀を牛久教会で前任牧師と一緒にわたしも司式をしました。途中、何度か涙を流しながら、父のことを思い浮かべながら説教をしました。でも、わたしが葬儀で嬉しく感じたのは、長い間会っていなかったいとこが来てくれたり、何十年ぶりの人に会った人もいたのもそうですが、父とは面識がない人たちもその葬儀礼拝に出席してくれたことでした。茨城県内の牧師たち数人や幼稚園の父母も礼拝の初めから終わりまで出てくれたので、父は「あの人誰?」と天国で思っていたかもしれませんが、わたしは嬉しかった。

聖書はこう言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難(かんなん)か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」どんなものも、神様の愛からわたしたちを引き離すことはできません。むしろ、神様は人の死あるいは苦しみや危険を通して、わたしたちをキリストの愛と結びつけようとしているんじゃないでしょうか。人の死を通して、わたしたちは神様によって、つなぎ止められている。生きている者同士のつながりや生きているわたしたちが神様とつながっていると思うだけでなく、死んでいったあの人と生きているわたしもキリストの愛によってつなぎ止められている。

事実、わたしたちが今日、永眠者として覚えている人たちの死が、こうやってわたしたちと神様とを結びつけています。イエス様の死はこの原町田教会の人だけでなく、世界のすべての人と神様をつなげてくれるものでした。イエス様が死なれたのはすべての人を救うためであり、イエス様の復活によって神様とわたしたちの間に決して切れることのない太い絆が結ばれたのです。

わたしたちは、何かとつながっていることで安心します。想像してみてください。もし、皆さんがたった1人、無人島に置き去りにされて、そこで最後の時まで過ごしなさいと言われたとしたら。食料や住むところは十分にあるのですが、誰1人話をする人がいない。死ぬまでその状態。耐えられないでしょうね。もし、「手紙を毎月1通だけなら書いていい」と言われたら、生きる希望をその手紙にたくし、空き瓶に入った手紙の返事が来るのを心から待ち望むに違いありません。ただ、人とのつながりには必ず限界があります。たとえば、スマートフォンなどでいつもどこでもつながり続けることは、反対にそれがないと不安になってしまう「つながり依存症」になりかねません。また、人とのつながりは太くなったり、細くなったり、時にはなくなったりします。

けれども、決してなくならないつながりがあります。神様の愛からは、どんなものであってもわたしたちを引き離すことはできません。死や苦しみだけでなく、天使も命も、現在も未来もどんなものも引き離せない。神様の愛は、イエス様の死と復活によってすべての人に与えられました。ですから、わたしたちが忘れている時であっても、教会に来ていない時でも、神様の愛とわたしたちはつなぎとめられています。決して切れることのない、このつながりによって、わたしたちは安心します。生きている時も死んでからもわたしたちは神様の愛の中にいて、つながっているのです。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。