2015年9月6日 自分の十字架を背負う先には

◆ルカによる福音書14章25〜33節
25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎まないなら、わたしの弟子ではない」とイエス様は言われます。イエス様は、隣人を自分のように愛しなさいと言われているのに、どうして「家族を憎まなければ、弟子じゃない」なんて言うのか、矛盾していますよと言いたくなります。イエス様がここで何を言いたいのかわからない、家族を憎むなんて救いじゃなくて破壊ですよと感じられる人もいるかもしれません。反対に、家族の中にすでに、憎い人がいる。そんな人にとっては「そうか、憎んでいいんだ」という受け止め方もできてしまうかもしれません。でも、今日ここでイエス様が言われていることは、矛盾でも破壊でも憎むのを肯定するのでもなく、わたしたちにとっての救いであり、解放なんです。イエス様は、わたしたちがどれほど家族のことに捕われてしまっているかをご存知です。父、母、夫、妻、子供、兄弟姉妹のことでどれほどわたしたちが重荷を負っているのかを、イエス様はよーく知ってくださっています。

ある人は、母親の介護のために毎日のように1時間以上かかる実家まで何年間も通い続けていましたが、ようやく、最近になって老人ホームに入ることになり、通う必要がなくなりました。けれども、今度は「本当は自分の家で生活したかったのに、わたしが無理にホームに入れてしまった。お母さんに申し訳ない」という気持ちが湧いてくるのも事実です。父親や母親の老後の世話をすることは子どもの責任ですが、その責任をとにかく自分で何とかしようと抱え込んでしまうような時、イエス様は言われるのです。「それは違いますよ。あなたの母親も父親も、最終的にはわたしがしっかりと責任を取るから、委ねて良いこともあるのですよ」。あるいは、親のこと、夫や妻のこと、兄弟のことが赦せないという気持ちをもっている人もいるかもしれません。「親があの時、わたしに言ったことで、わたしはとても傷ついた。今でも根にもっている」というような話を聞いたことがあります。家族であっても心から信頼して話ができない。それもあの事があったから。その人にとって赦せない親は、いつまでも残る心の古傷のようで、時間が経てば経つほど安心した関係に戻る機会を見つけるのが難しくなります。

子どものこともそうですね。子どものことは親の責任だから、親として子どもをしっかりと育てなければならないと思っている人に、是非聞いてもらいたい証があります。信徒の友の9月号に載っていた素敵な証です。「ある教会の礼拝にYさんという1人の女子高生が出席しました。素直な感じの人で、すぐに教会の牧師と親しくなりました。その子の母親はすでに亡くなっていて、大学教授の父親と2人で暮らしていました。しばらくしてわかったのですが、彼女は心の病を抱えていました。ある日のこと、彼女が真顔で『先生、救われるためにはどうしたらいいのでしょうか』と聞いてきました。牧師が『主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます』と答えたところ、彼女は驚いたように『主イエスを信じたら自分だけでなく、父も救われるのですか。それはすばらしい』と瞳を輝かせて言いました。そして、彼女はその教会でバプテスマを受け、父親も一緒に礼拝に集うようになり、父親も受洗へと導かれたのです。父親があるとき、牧師にこう言いました。『心の病をもっているこの子に自分が光を与えなければと思っていましたが、信仰に目覚めたこの子が自分にとって光となりました』」。そんな証です。

自分がこの子のことを何とかしなければならない、この子の暗い心にわたしが光を与えなければ。親としてのしっかりとした責任感をもっていたのでしょう。この父親は、なにかしなければならないとの思いと実際に親としてできることはそれほどないという現実の間で苦悶していたようです。神様は、狭間に挟まって抜けられないこの父親をそこから解放してくださいました。

親にとって、子どもは「自分の子ども」です。「自分の子ども」を育てるのを人任せにはできない、親自身もそう思いますし、周りもそのように見ています。特に、子どもが病をかかえていたり、障がいをもっていたりしますと、親の自分がこの子を幸せにしなければいけないとより強く感じてしまうようです。でも、そう感じる親は気づいていないのです。障がいがあろうと、病を抱えていようと、神様は、すべての人を愛している。もし、その愛に気づくなら、その子はすでに救われているのだし、その子は幸せなのです。神様から見れば、すべての人は「神の子ども」です。幸せになること、愛されること、それらは神様にお任せすることですから、委ねていいのです。

「子どもを憎まないとわたしの弟子になれない」。それほど強烈に言わないと気づかない。それほどに子どもを自分のものと思い込んでしまう。でもイエス様は、あなたの子どもは、あなたのものではなくて神様のもので、神様が何とかしてくださるから大丈夫ですよと言われるのです。

イエス様は、文字通り家族を憎みなさいと言っているのではないということは、福音書を読んでいてもわかります。イエス様の弟子の場合、イエス様に弟子としてついて行った後、彼らは家族との縁を切り捨てたのでしょうか。気をつけて読みますと、そうではないことがわかります。例えば、ペトロさんの場合、漁師だった彼は網をおいてイエス様に従いましたが、その後に、自分の家に帰ってしゅうとめが熱を出しているのをイエス様に癒していただいています(マタイ8章)。ペトロさんは、イエス様に従いましたが、家族との縁を切ったわけではありませんでした。

家族は大事です。聖書には、「父と母を敬いなさい」とありますし、新約聖書にも親たちに「子どもを愛しなさい」とあります。夫と妻のこともいろいろ書いてあります。それほどに、家族関係は神様にとって大きな関心事なのだとわかります。家族のことを良く思っていても、反対に「あんな人、大っ嫌い」と悪く思っていたとしても、わたしたちの多くは、家族のことに心を奪われやすいものです。一緒に住んでいればいろいろな苦労があります。親子、兄弟、姉妹など血のつながりがあるもの同士もそうですし、妻と夫の関係も複雑でわかりづらい。ただ、確実なのは、家族がわたしたちの心に何らかの影響を与えていることです。腰をすえて考えてみれば、家族との関わりでわたしたちは喜んだり、笑ったり、心配したり、怒ったり、悲しんだりします。イエス様が、家族を憎まなければわたしの弟子ではないと言われたのは、家族の輪とか家族の絆、家族の束縛からわたしたちを解放するためです。イエス様は、あなたがあなたの家族を選んだのではなくて神様が選んだのですよと伝えるために、何よりも家族の中にあって神様を思い出させるために、あえて厳しい言葉を使われたのだとわたしは思います。

神様は、すべての人の本当の親ですから、家族のことで苦労するすべての人に言われます。「わたしは、変わることなくあなたを大切にする」。いろいろ家族のことで、悲しいこともあれば、思い悩むこともあったでしょうし、これからもあるでしょう。でも、大丈夫です。たとえ、みなさんの家族が教会に来ていなくても、神様が神の子どもとして一人ひとりを愛しているからです。原町田教会に集う皆さんは、家族一人ひとりの向こう側に神様の存在を見ることができますし、神様がこの人を家族として与えてくださったと受け止めることができます。それが、わたしたちの救いです。なぜなら、最終的には神様があなたの家族を引き受けてくださるからです。

イエス様は、今日の箇所で2回繰り返して、「腰をすえて」と言われています。腰をすえて、じっくり考えれば、あなたがたが今、置かれている状況、これからするべきことがわかるだろうというのです。同じように、わたしたちも腰をすえて自分の家族のことを振り返れば、見えてくるはずです。あなたの父親も母親もあなたが自分の努力や功績で勝ち取ったものじゃない。わたしはこんなお父さんとお母さんがほしいと生まれる前に計画して、その計画どおりに事が進んで、「おぎゃ」と生まれた時には、思った通りの父と母だった。そんなことはまずありません。どんな人でも、自分で親を選んだのではなく、与えられるのです。子どもも兄弟、姉妹、夫も妻もそうです。家族を思う時、楽しいこともあれば、思い出したくもない嫌なこともあるでしょう。でも、家族の向こう側にはその家族をあなたに与えられた神様がいます。イエス様、伝えたかったんじゃないですか。腰をすえて考えてみれば、あなたのことを心のから愛している本当の親である方が、血のつながった家族の向こう側に確かにいる。家族がどんな家族でも、あなたの夫、あなたの妻がどんな人であっても、腰をすえて考えれば、その人を与えたのは、神様だということ。ですから、イエス様は最後に言われるのです。33節「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。わたし風に言い換えれば、こうなります。「だから、同じようにあなたたちが持っているものはすべて神様のもの。あなたの子どもも父も母も、家族全部、更にあなたの命も神様のもの。そのように信じなさい。それがわたしの弟子」。

これは、救いの言葉です。解放の言葉です。皆さんは、誰からも支配されない自由を神様から頂いています。肉親である父や母には、また、子どもにも兄弟姉妹にも、また自分という人間にも皆さんは支配されることはありません。わたしたちを支配されるのは、神様だけです。それも力による支配でなく、愛と献身による支配です。

さて、もう1つ、イエス様の言葉を。「自分の十字架を背負ってついてきなさい」という言葉です。わたしは、こんな細い体をしているのですが、高校生の時にラグビー部に入って、体に無理をしたため、腰を悪くしました。腰痛さんとのお付き合いはそれ以来ずっと続いています。また、何年か前から、耳鳴りが始まりまして、かなり高い音がずーっと聞こえる耳鳴りさんとのお付き合いも続いています。わたしにとっての小さな十字架です。一時期は、治したいと思って病院に通いましたが、腰痛さんも耳鳴りさんもわたしのことをずいぶんと気に入ってくれたようで、なかなか別れてくれません。でもしばらくするうちに、一緒にやっていこう、「自分の十字架」として受け止めていこう、と思うようになりました。そう思うと気持ちがずいぶんと楽になりました。そう思うようになったのは、礼拝に続けて出ているからだと考えます。礼拝に出ますと、前にも後ろにも、横にも目には見えませんが、自分の十字架を背負った人たちがいます。礼拝に出ているだけではよくわかりませんが、話をしますと、自分の十字架の話をしてくれる人もいますでも、皆さん、体のこっちが痛かったり、家族のことが心配で心の中に痛みを抱えていたりします。礼拝に出ると自分の十字架を背負いながらも、顔を上げ、神様の方を向く仲間(家族)がいる。自分独りで十字架を背負って歩いているのではない。背負う十字架は同じじゃないけれど、同じように十字架を背負って歩いている人が確かにいる。皆さんは決して独りではありません。自分の十字架を背負って、皆さんの先をイエス様が進んで行かれ、それについて行く神の家族がいるのです。もし、自分独りで誰もいない道を十字架を背負って行きなさいと言われたら、それは苦しいです。独りで歩くこと、進むべき道を先導してくれる方がいないのは、とっても心配です。でも、イエス様は、たくさんの人に向かって言われました。「自分の十字架を背負ってついてきなさい」。

礼拝に出ますと、その礼拝に一緒に出ている人たちが何か、同じ方向に向かって進んでいるような気持ちになることがあります。特に自分の好きな讃美歌が歌われる時、ぐっとくることがあります。礼拝は、皆が自分の十字架を背負いながら、イエス様が進む方に向きなおすとき。礼拝に出て、自分が背負う十字架のことで「イエス様、助けてください」と祈るならば、イエス様は振り向いて駆け寄ってくださり、言うでしょう。「大丈夫です。わたしの十字架を見なさい。わたしも自分の十字架を負ってゆっくりだが歩いている。この十字架は苦しみでは終わらない。だから、あなたも十字架を背負いながら、わたしについてきなさい。そうすれば、神があなたを立ち上がらせてくださる。さあ、一緒に行こう!」十字架を背負ったイエス様は、ゴルゴタの丘で立ち止まりませんでした。その先には、確かにあれがあるのです。十字架の先です。何かわかりますか?十字架の先にあるもの、そう、復活があるのです。

イエス様について行くならば、わたしたちが背負っている重荷は、必ず恵みに変えられます。老いていくことも、病気であることも、家族のことも、すべては神様が与えられたものですから、その渦中にある時には恵みと受け止めるのは難しいかもしれませんが、イエス様について行くならば、重荷は主にあって確かな恵みとなります。イエス様が背負われた十字架が苦しみに終わらずに復活となったように、わたしたちが背負う十字架もじつは、すでに復活の栄光へと変えられているのです。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。