洗礼を受けようと思った理由

生きる意味が見出せず、何故生きていなくてはならないのだろう、と感じていました。「善く生きよう」としても、自分の不完全さに絶望するばかりです。更には、善悪とは何であるのかも、よく分からなくなり、全てが相対するだけで何一つ絶対というものが無くなっていました。完全に迷い、虚しさの中で「それでも愛だけは無駄ではない」と何処かで信じ、「愛だけは間違わない」というかすかな希望を持って、必要に駆られる様にして真実を求めました。その時、私の心は真暗でした。魂が渇いて、枯れているように感じ、自分の存在の無意味性に押されて、自分のことすら愛する気になれませんでした。

心の中で、二つの両端にひっぱられる様にして、惰性によって「人のいう幸せ」を持ち、自分をごまかして生きたい、という思いと、それに耐えられないから真実を知りたい、という思いの間で手さぐりで手にしたのが聖書だった、ということになると思います。

真実に出会った時、私は一度死刑になり、イエス様の命の中に生まれ変る必要がありました。既に死んでいた命を与えられたのですから、これからは「私の」人生ではありません。洗礼は、そのことの証しでした。

光の中で自分の姿を見ることは、辛いことでもありましたが、目をそらすことなく、新しい命の中に生きていきたいと思います。

(20代・女性)

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。