2020年2月16日 良くなりたいのです

聖書箇所 ◆ヨハネによる福音書5章1〜18節 ◆詩編 32編1〜7節

38年間も病気で苦しみ、ベトザタの池のすぐ横の回廊で横たわっている人がいました。イエス様はその人を見てこう言われました。「良くなりたいか」。なんとも味気ない言葉のように聞こえます。病気だったら誰でも1日でも早く良くなりたいと思うに決まっているからです。でも、実はこのイエス様の「良くなりたいか」という言葉の中には病気の人の立場を想像し思いはかる優しさが込められています。まず、イエス様はその人を見て「長い間病気であることを知って」とあります。その人の顔や手に刻まれたシワ、着ている服、うつろな目、ボロボロになった薄っぺらな布団などからイエス様はその人がかなり長い間病気でその回廊に横になっているとわかりました。その病気の人は身動きもできずそこに横たわっていましたから、人の情けにすがって長年物乞いをして生き延びてきました。

エルサレムの神殿にやってくる多くの人たちに「病気ですから助けてください」と物乞いしてきましたから、この人にとって病気であることは大事な商売道具でした。その商売道具である病気が治ってしまったら38年間も続けてきた物乞いができなくなります。この人が10代から病気になったとしたら、この時はすでに50歳ぐらいでしたから当時の感覚からしてもうすでに働き盛りを過ぎた年齢ですし、仕事を自分で探して働くことはとても大変なことです。イエス様はその立場を想像し思いはかって、それでも「良くなりたいか」と聞いたのです。

イエス様は神様だから病気の人のことをそこまで想像し思い計ることができたとも言えますが、わたしはそれだけではないと思います。イエス様は人としてご自分が育って来られた中で見てきたこと、経験したことを通して痛み、苦しみにある人たちのことを想像し、思いはかることを学んできたのだと思うのです。

イエス様はマルコによる福音書によれば地元で周りの人から「マリアの息子ではないか」と言われています。聖書の中ではほぼ100%近く、父親の名前の後に息子の名前が出てきますが、イエス様は「マリアの息子ではないか」と言われています。つまり父ヨセフさんは若いうちに亡くなって、シングルマザーとしてマリアさんに育てられたと理解することができます。シングルマザーの家庭は現代でも大変ですが、2000年前の当時ではそれこそ物乞いをしないと生活できないほどの大変さがあったと想像します。先ほどの讃美歌280番の1番にもありました。「貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめしこの人を見よ」。当時は現代のような社会保障は整っていませんし、男社会だった中で女性が働いて家族を養うことは到底できません。ですから長男だったイエス様はそれこそ10代の時から父親の仕事を継いで大工の仕事をしていたのでしょう。大工仕事と言っても日本の大工のように木を使って家を作るのではなく、2000年前のガリラヤでは底辺労働者たちの仕事であった石切り労働者だったと言う人もいます。石を切る仕事はあまりやりたくない重労働ですし、粉塵が飛んで肺の病気にもかかりやすい危険な仕事でもありました。中には若いうちに肺の病気になって亡くなる人もいたはずです。イエス様はそのような生活の中で、病気になってしまい仕事ができず物乞いをして生きる人たち、社会の底辺に押しやられながらもなんとか生き延びている人たちと出会い、その人たちの苦労話を聞き、祈ってきました。だからイエス様は病気の人が横たわっているのを見て、長い間病気であるのを想像し、思い計ることができたのです。

わたしはこれまで人の苦労や苦しみをわかることは難しい、相手の立場に立って相手のことを想像し、思い計ることも極めて難しい、と考えていました。でも先日、わたしは目からウロコのような言葉に出会いました。ある本の中にあった言葉ですが、イギリスの人と結婚された日本人女性が中学生の息子さんについて書いた本でして、イギリスには「シンパシー」と「エンパシー」という言葉をしっかりと使い分けているというのです。「シンパシー」はカワイイ、可哀そう、共鳴してぐっとくる、など自分で努力しなくても出てくる「感情」のことを言うのに対して、「エンパシー」は人のことを想像する「能力」だと言うのです。自分とは違う立ち位置の人に対して、その人がどうしてこう思うのだろうと想像する能力のことを「エンパシー」といい、シンパシーは感情のことで学ぶことは難しいのですが、エンパシーは知的作業ですから経験し、学ぶことができるというのです。その本の著者曰く、イギリスは日本に比べて「階級」が明確で、「上流階級」と言われる人たちから「底辺」と言われる人たちまで貧富の差が大きく、加えて人種や民族や宗教も様々で、差別や格差が広がっています。そんな社会だからこそ、相手の立場や気持ちを想像することが大切で、彼女の息子さんが通う学校でもエンパシー教育が行われている、つまり違う立場の人たちのことを想像し、思い計るための学びが行われているというのです。

わたしは大人なってから教会に26年間つながってきましたが、この間に実にいろいろな人と出会ってきました。教会は誰でもどんな人でも集うことができるところですから、生まれた国や地域が違う人たち、違った職業、異なる家庭環境、年齢の違いなどありとあらゆる人が集うことができます。以前にいたある教会で、何人かの人に地元の方言で主の祈りを発表してもらったことがあります。九州の言葉、関西の言葉、東北の言葉などそれぞれの方言で主の祈りを事前に訳してもらってきて愛餐会の時に発表してもらいました。原町田教会ではペンテコステの時にペルシャ語やインドの言葉などで聖書を読んでもらったこともありますね。教会には色々な人がいますし、それだけでなく特に教会には様々な重荷を負いながらも一生懸命に生きている人がこうして毎週日曜日に集っています。わたしたちはこの礼拝堂に集う自分とは違う人たちと出会い、その人たちの経験を聞くことができます。教会は違う立場の人たちのことを想像し、思い計るエンパシーの力を高める最適な場所の一つなのです。

イエス様が「良くなりたいか」と相手のことを想像し、思いはかった言葉をかけると病気の人はその優しさに心動かされて正直な思いを伝えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。今日の箇所の5章3節終わりに十字架のようなマークがあるのに気づきましたでしょうか?3節の途中から4節にかけて底本にない部分でして、212ページに今日のところで欠けた文章が載っていますので読みますね。(212ページの文書を読む)。水が動いた時に1番に池に入った人はその病気が癒されるのに、それができない、つまりこの38年間病気だった人は「良くなりたいか」と聞かれ、「良くなりたいのです」と答えたのです。その人の思いを受け止めたイエス様は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ、その人は癒されました。その後の出来事を読みますとイエス様とユダヤ人たちのこの人に対する関わり方が大きく違っていることに気づきます。ユダヤ人たちは安息日にしてはいけないことをしたと病気の人の苦労や痛みを想像し思いはかることではなく、ただ自分たちの正しさを突き通そうとします。この病気だった人への関わり方の違いを見て思うのは、わたしたちはここでのユダヤ人のように自分の正しさを優先するのでなく、イエス様のように人の痛みや苦しみを想像し、思いはかることを優先したいのです。

イエス様は神殿の境内でこの人にもう一度出会われ、こう言われます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。ここにもイエス様の相手の立場を想像し、思いはかる優しさがあります。この人は自分が罪を犯したからその罰として病気になったと周りからも言われ、また自分でも信じていました。ですから、イエス様はもうこの人にあのような苦しい経験をさせたくないとの思いから「もうあなたは十分に苦しんだのだから、もっと悪いことがあなたに起きないように罪を犯さないで生きていくんだよ」と励ましの言葉をかけたのです。

イエス様をわたしたちは救い主であり、神様であると信じていますが、同時に人としてどう生きるべきなのかを示すわたしたちの良きモデルでもあります。イエス様に憧れて、イエス様の真似をして生きていきたい。そのために神様は教会という素晴らしい学びの場、違う立場の人たちのことを思い計るエンパシーの力を高める場をわたしたちに与えてくださっています。いまこのように礼拝を捧げている時は皆、神様の方に心を向けて福音のメッセージを聞いていますが、礼拝が終わった後の食事の時間、第一、第三主日は食事がありますし、何かの他の集いがあるときには、ぜひ、原町田教会に集っているいろいろな人とお話をしてください。いろいろな経験談や苦労話を聞くことによって自分とは立場の違う人たちのことを想像し、思い計るエンパシー力を高めることができます。病気の人に向かって「起き上がりなさい」と言うことはできませんが、その人の置かれた状況に想いを馳せて、その人の話を「うん、うん」とうなずきながら「そうですね」と心を傾けて聴くことはできますし、そして何よりも病気があれば「1日も早く良くなりますように」と心から祈ることができます。それがどれほどその人にとって慰めになるか、支えになるか。誰でも病気になったら良くなりたいのです。イエス様がわたしたちのその気持ちをよくわかってくださっていますから、わたしたちもお互いに「良くなりますように」と相手の思いを受け止めつつ、心を込めて祈りましょう。イエス様がわたしたちのうちに働いて病気やその痛み、苦しみで折れかかった心と体を起き上がらせてくださいます。

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988