2020年1月26日 カナでの栄光はこれからも

聖書箇所 ◆ヨハネによる福音書2章1〜11節 ◆詩編19:2〜7

年末年始にかけて、母と姉が住んでいる長野県に行ってきました。そこでいろいろな話をした中で、母が病気になって入院をした時の話になりました。それはわたしが町田に来る前に住んでいました茨城県牛久にいた時のことです。母は難病の父の介護を中心に生活をしていて、忙しくしているわたしに配慮してほとんどのことを自分でやっていましたが、ある日、父をショートステイで預かってもらったと言いながら、体調が悪いのでちょっとだけ休ませて、明日になったら病院に行くからと牧師館に来ました。「いいよ。どうぞ」とその牧師館は部屋がたくさんありましたから泊まってもらい、翌日近くのクリニックに行きましたら、風邪が悪化して膿がノドの周りに溜まっていて、すぐに手術をしないと危ないと言われ、急遽大きな病院に連れて行くことになり、その後無事手術を終えてしばらくしてから退院となりました。先日、長野で母にあった時、そのことを「あの時は助けてもらってありがとね」と言うのです。わたしは「当然」と心に思いながらも母を助けることができてわたし自身嬉しかったと感じました。わたしは当然と言いましたが、それだけわたし自身が生まれたから大人になるまでたくさん母に助けてもらいましたから「当然」と思いますよね。

今日の聖書でもイエス様が母マリアさんからの願い事にしっかりと応えられています。母マリアさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。きっと息子イエスならなんとかしてくれるんじゃないかと信頼して助けを求めたのです。自分のことを信頼して「助けてほしい」と家族から言ってもらえるのは幸せなことです。なぜなら、あんな奴に頼んでも何もしてくれないし、できるわけがないと思われているのは、そう思われるだけでなく日々の生活の中でお互いに何も頼まれず、しまいには挨拶すらなくなってしまうかもしれないからです。もちろん頼まれても何でもできるわけではありません。でも、困った時に「これがなくなってしまったけど、どうしましょう?」と相談されるのは「できる・できない」に関わらず一緒に考え、一緒に悩んでくれると信頼されている証拠です。母マリアさんはイエス様を信頼していましたし、イエス様もそれに応えたいと思われていました。ですから、「わたしの時はまだ来ていません」と言われても「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使いたちに言えたのです。イエス様が「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言ったのが気になる人もいるかもしれません。わたしの場合ですが高校生の頃、なぜだかわかりませんが母親に対してイライラしていた時がありました。「俺となんの関係もないだろう」というような気持ち、反抗期というのでしょうか。そんな気持ちを持ったことがありますのでこのイエス様の言葉もそのような肉親同士の難しさを表している。そのように受け止めることもできます。

イエス様は母マリアさんから「ぶどう酒がなくなりました」と信頼に裏打ちされたヘルプコールを受け止めて「水瓶に水をいっぱい入れなさい」と召使いたちに伝え、水がかめの縁まで満ちた後、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われました。その水は美味しいぶどう酒に変わり、その婚礼の宴は途中で途切れることなく続いたのです。

先日、幼稚園で興味深いこんな話を聞きましたのでご紹介します。それは子どもたちが幸せだなと思う幸福度の調査でわかったことなのですが、次の3つのことが大切とのこと。1つは、子ども自身が人を助けたり、手伝うことができること。2つめは、子ども自身が困った時には安心して「助けて」と言える人がいること。3つ目は、子どもの母親が困った時には「助けて」と安心して言える人が身近にいること。その話を聞いて「それは聖書が言う通りだなぁ」と思いました。「人が一人でいるのは良くない。助ける者を造ろう」と神様は言われてアダムから肋骨をとって助ける者としてのエバを創造されたことが創世記にあります。神様はわたしたち人間を助け合って生きる者として造られました。

カナの婚礼での母マリアさんとイエス様との信頼関係、またイエス様と召使いたちとの信頼関係を見ていますと神様の「助ける者を造ろう」との願いがそこに実現していることに気付かされます。「これがなくなりましたので助けてください」と言う母に応えようとする息子イエス様。イエス様の「水をいっぱい入れなさい」と言われた言葉を信頼した召使いたち。彼らはこの水がめが飲むためではなく、律法に従って清めのために使う水だと知っていました。ですから「どうして清めのかめに婚礼の最中に水を入れるのだろう?」と疑問を感じたかもしれませんし、ましてや清めのための水をくんで婚礼の世話役に持って行くなんてできるわけがない。世話役に「どうしてこんな水を持ってきたんだ!」と怒鳴られて、給料を減らされてしまうかもしれない。そのようなリスクもありましたが、召使いたちはイエス様を信頼して、また自分たちを信頼してくれるイエス様に応えたいとの思いもあって水をくんで運んで行きました。母を助けたり、婚礼の手伝いもできたイエス様は幸せを感じ、イエス様の手伝いをした召使いたちも幸せ、息子を信頼して助けてと言えた母マリアさんも嬉しかったことでしょう。それぞれが自分の手柄を自慢することもありませんでした。世話役はぶどう酒がどこから来たのか知らなかったとある通りです。

わたし自身も細々ですが外国人の方たちのお手伝いをしていまして、特に長崎や東京、茨城などの入管に収容されている人を仮放免という制度を使って外に出られるように手伝いをしています。ここ2年間ほどは入管から仮放免が許可されることが少なくなってきていて、面会に行く時に『ごめんね。また不許可でした』と伝えなければならないことが増えていますし、わたしが支援している人が強制的に帰国させられることもあります。それでも時には長く収容された人が外に出られることになり涙を流しながら「宮島さん、ありがとう」と言ってくれることもあり、この働きをして良かったなと感じます。先ほど挙げた3つのことは子どもだけでなくわたしたち大人にも共通していると思います。誰か、他の人を助けたり手伝って「ありがとう」と言ってもらい、自分が困ったときには近くに「ちょっと困っていてね」と言える人がいて、一緒に生活する人が「大変なときでもわたしのことを覚えて祈ってくれる人がいて感謝だな」と言える。イエス様と母マリアさん、召使いたちが互いに助け合って婚礼は祝福されました。聖書はそのことを11節にある「栄光」という言葉で表現します。栄光と聞きますと何か素晴らしく輝かしいことのように思ってしまいがちですが、そうではありません。困った時には「手伝って」と言える信頼する人がいて、「いいよ」とその声に応えて「手伝ってくれてありがとう」と言われて嬉しく思う。助け、助けられ、感謝し、感謝される。そんな人との関わり合いをここでは栄光が現されたと伝えているのです。

先日、わたしが牧師になる前の4年間、神学生として牧師館をお借りしてそこに住みこみ、いろいろと助けてもらいました横浜本牧教会に行ってきました。そこの教会員の人で家族ぐるみでつながっている人が天に召されて前夜式に出席してきました。吉澤のぶひろさんという人ですが、わたしたちは親しみを込めて「おっちゃん」と呼んでいまして、そのおっちゃんがガンという病気で76年間の地上での歩みを終えて、天に帰って行かれました。おっちゃんは50歳の時に洗礼を受けてキリスト者になり、その直後にガンを患い、それから20数年間ガンと闘いながら生きてこれらました。おっちゃんのお連れ合いは食べるもの、飲み水などに気を配り、できるだけのことをしてきました。そんな中、おっちゃんは「僕はね、病気になって良かったと思うよ。病気のおかげで神様をもっと信じられるようになったからね」と葬儀説教で牧師は話しました。また遺族の挨拶をした息子さんも「わたしが父と同じ病気になったら『病気になって良かったよ』なんてわたしには言えないでしょうから、父を尊敬しています」と言いました。自分のことを思い、苦しい時には駆けつけてくれる人がいる。おっちゃんの葬儀に出てわかったのですが、先月の暮れから体調を崩されて自宅で療養していたおっちゃんのところには教会の人を始め、つながりのある人たちが何人も何度も訪れていました。わたしも今月の7日に横浜本牧教会の牧師から「吉澤さんは今週いっぱいかもしれない」との電話を受けていましたので、次の日の8日に自宅まで行ってベッドで少し苦しそうに息をするおっちゃんの横で詩編23編を読み祈ってきました。

わたしが横浜本牧教会にいた時には、おっちゃんとお連れ合いのはるさんにわたしたち家族は助けてもらいました。横浜本牧の牧師館に引っ越した2002年の3月下旬、妻のお腹はもうすぐ出産を迎える時でした。7月に初めての赤ちゃんを産み、初めての子育てでしたが肝心の夫であるわたしは朝8時から夜12時まで毎日出かけていて、土日も勉強と教会奉仕で子育ての手伝いはほとんどできませんでした。2004年の2月には下の娘も生まれて妻はとても大変でした。そんな時に妻によく「家においで。一緒にご飯でも食べましょう」と声をかけてくれたのがおっちゃんとお連れ合いでした。教会の神の家族ってすごいなぁと思います。この原町田教会でも、他の教会でも同じように困った時には「助けて、手伝って」と声をかけることができ、また寂しそうにしている人がいたら「一緒にご飯でも食べよう」と声をかける仲間がいる。ちょっとした手伝い、助けをして「ありがとう。助かったよ」と言われて嬉しい気持ちになる。ヨハネ福音書が伝える栄光がここ原町田教会に現されているのです。

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988