2020年12月1日 面倒くさい教会に

◆ローマの信徒への手紙11章13〜24節
11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
11:24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

先日、『日本一めんどくさい幼稚園』という本を読みました。武蔵野幼稚園の園長が書いた本でなかなか面白かったです。その幼稚園が大切にしていることが書かれているのですが、子どもの成長にとって良いことをわたしたち大人が根気よく行うのは、とてもめんどくさいこと。でも、「困難だと思っても挑戦できる」「最後までやり抜ける」、そのような力を子どもが身につけるために「目には見えない根っこを伸ばす」と信じて根気よく関わっていく。そのめんどくさいことをやり抜くことで子どももまた親も、幼稚園の先生も成長するとその本に書かれてありました。どうして「めんどくさい幼稚園」というネガティブなタイトルで本を出したのかと疑問に思うのですが「めんどくさい、でもそれを通してこそ成長がある」との信念があって、あえてそのタイトルにしたのだと思います。わたしたち教会も目には見えない神様は今も生きておられ、目には見えない神の国はすでに始まっていると信じて、根気よく宣教活動をしていますから、原町田教会もあえて「面倒くさい」を目指していきたいのです。どうして「面倒くさい教会」を目指すのかと言いますと、教会は人が集まって地縁・血縁を超えたキリストにある家族、助け合い祈り合う家族をつくるためにあるからです。人が定期的に集まるところには当然めんどくさいことが起こります。でも、そこにつながり続けて祈り合い、助け合っていく。それがキリストにある家族としての教会だからだと聖書が伝えるからです。

パウロさんは、ローマの信徒への手紙で、接ぎ木されるという比喩を使ってキリストの体なる教会につながることを伝えています。異邦人も救いの約束をもらっていたユダヤ人と同じように救われるのか?イエス・キリストとつながることができるのか?というユダヤ人からの問題提起がこの時代にはありました。神様は異邦人もユダヤ人も共に救う方だとパウロさんは信じていましたので彼は、麦やオリーブの木に例えてイエス・キリストにつながることに救いがあると伝え、すべての人がキリストにつながって救われる道があると言います。16節「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」。初穂も根っこもイエス様を例えていますから、そのイエス様とつながる練り粉全体も、枝も共に聖なるものとなります。そこには何人であるとかは問われることはありません。また、オリーブの木でも24節後半に「まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」とある通り、どんな人でもイエス様という木につながることができます。パウロさんはとにかくイエス様につながること、接ぎ木されることに希望をもっていました。接ぎ木されることはイエス様につながることですが、枝が自分でできることではなく、神様がしてくださることです。ですから、わたしたちがこの原町田教会につながっているのは、神様がしてくださったこと、わたしたちではなく神様が枝である一人一人を御手にとってこのブドウの木である原町田教会に接ぎ木してくださったと理解します。

わたしたちは教会に来始めた頃、あるいは長く通っていてもなお教会には自分の意思で来ていると思う部分もあると思います。自分でこの教会のここが良いからこの教会がいいと選んで来ている。だから、嫌なこと、めんどくさいことがあれば、いつでも教会を変えることができるし、自分にはその権利がある、そう思ったり、自分でこの教会に来ると決断したのだから、来ることも、来ないこともできる。そう思う自分がいると思います。しかし、聖書はわたしたちに「そうではない」と伝えます。あなたが自分の知識や判断で決定してこの教会につながったのではない。あなたという枝を枯れないようにと神様が大切にあなたを御手にとって、このぶどうの木である原町田教会に接ぎ木してくださったのです。接ぎ木された枝はすぐにつながるのではなく、その幹にしっかりとつながるためには時間が必要です。時間をかけてつながり、枝は木から栄養をもらって生きていきます。

わたしは静岡で農業の手伝いを1年間していた時がありまして、その時に接ぎ木をしたことがあります。オリーブの木ではありませんが、キウイフルーツの枝に接木をしました。キウイフルーツにはオスの木とメスの木がありまして、オスの木がどんどんと大きくなるのでオスの木にメスの木の枝を何箇所も接木をしました。もっと収穫できるようにするためです。接木は葉が落ちた後、活動を休んでいる冬の時期にしますので、その枝がうまく元の木に接木されたかどうか春にならないとわかりません。春になって接ぎ木した枝が伸びて葉を茂らせるとうまくいったことがわかります。わたしたちを接ぎ木して、キリストとつなげてくださるのは神様です。でもつながり続けることに関してはわたしたち自身が時間を献げるのです。キウイフルーツの枝が元の木にしっかりとつながるためには時間が必要だったのと同じように枝であるわたしたちがこのぶどうの木につながって栄養をもらい、葉を茂らせ、そして花を咲かせて実をつけるまでにはその木につながり続ける時間が必要なのです。

わたしたちは一本一本の枝なんだと思うのは大切なことです。なぜなら、枝がその木を支えているのではなく、木や根が一本一本の枝を支えているからです。18節「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。時々、わたしたちは自分たちの献金や奉仕が教会を支えていると思ってしまいますが、そうではなくキリストの体である教会がわたしたちを支えています。幹であるイエス・キリストが枝であるわたしたちに愛と恵みという養分をこの教会を通して与えて、わたしたちは今生かされています。この幹とつながれた枝がわたしたちだというシンボルを繰り返し思い出さなければなりません。

枝はみんな葉をつけ、太陽の光を求めて広がりますから、枝と枝とは適度な距離をもっています。また全ての枝は外に向かって広がっていますが、枝のもとをたどっていきますとみんな一つの幹につながっています。これがわたしたち教会の姿です。わたしたちは皆、枝が外に向かって伸びていくのと同じように、礼拝が終わったら神様から遣わされて週の6日間は外に出て行きます。外に出ていってそのままずっと外にいますと枝であるわたしたちは枯れてしまいますので週に一度は自分が何に繋がっているのか、わたしたちのルーツである神様、力と元気をいただくために自分がつながる幹、ぶどうの木に帰ってくるのです。このつながりがキリストの体である教会、わたしたちにとっての原町田教会です。教会は人と人とをつなぎ合わせるぶどうの木ですから、ここにつながっていない限り、枝であるわたしたちはいつか枯れてしまいます。

わたしたち枝は、他の枝とも協力して太陽の光を分け合っていかなければなりません。枝は幹からの栄養と太陽の光があってこそ成長するからです。時に嵐に遭遇し他の枝とぶつかったりして、この幹につながったことを後悔することもあるかもしれません。一つの枝が「わたしはあなたの隣にいたくない」と言い出すことも、また暗闇の中、台風のように強風が吹き荒れた時には枝が折れてしまうこともあるでしょう。ここにつながっていても何の得もないし、苦労が多いと思ってしまい、もう幹のことなんか忘れてとにかく外の方に伸びていればいいと思う枝も出てくるかもしれません。あるいは別の幹に移りたいと思うかもしれません。キリストのぶどうの木である教会は世界中にたくさんあり、ここ町田や相模原にもたくさんありますから、移った後時間をかけてしっかりつながれば大丈夫です。でも、教会とのつながりを自分で決められると思っているならば、それは改めるべきでしょう。22節にある通りです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです、もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」。枝であるわたしたちは接木されたものですが、同時に神様の慈しみにとどまるか、とどまらないかを選ぶこともできるのです。もちろん、神様はわたしたちがとどまることを願っていますが、強制的にとどまらせることはいたしません。あくまでもわたしたちの意思に任せられているのです。

病気をしたり、高齢になったためにしばらく教会に来ることが難しくなることがあります。あるいは人との関係でしばらく教会に来れなくなることもありますが、神様はすぐにその枝を切り取ってしまうことはありません。また、自分の意思でこの幹から離れますと出ていった人であっても、神様はその一本の枝を再び接木することはできます。23節「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」。

教会はエクレシアです。建物が教会ではなく、一人一人がイエス様の名前によって定期的に集まる集会がエクレシアなる教会です。様々な一人一人が集まるのが教会ですから、そこではすんなりいくこともあれば、面倒くさいことも起こります。でも神様によって接ぎ木されたのですからわたしたちはこの集まりに神様の思い、神様のご計画があるのだと信じます。神様が接ぎ木してくださったこの原町田教会というぶどうの木は、枝同士が困った時には家族のように助け合い、祈り合う。わたしたちの計画やわたしたちの思いを超えた神の国の計画がここに始まっているのです。原町田教会は、年齢の壁、人種の壁、文化の違い、価値観の違いなどを持ったいろいろな人が受け入れられ、大切にされる面倒くさい教会にすでになりつつありますが、これからもその道を歩んでいきます。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。