2019年11月3日 知識ではなく愛を

聖書箇所 ◆創世記3章1~15節 ◆詩編51:3~11

先月のことですが、韓国に行って聖書の学びのための会議に出席してきました。アジア太平洋地域17カ国から150人ほどがその会議に出ていまして、その中にネパールから来ていた牧師さんがいました。その牧師は流暢に英語を話し、またユーモアもあり、話が上手でみるからに頭がいい人、頭のキレる人でした。その人は大勢の人がいる前で、原稿もメモも見ないで、しかも自分の国の言葉ではない英語で緊張する様子もなく話していたので、すごいなぁと思って聞いていました。わたしはこれまで何回か、冷や汗を流す怖い夢を見たことがあるのですが、夢の中でわたしは日曜日の朝、説教をする講壇に立ちます。そして手元を見ましたら、あるはずの説教の原稿がないのです。もう、頭の中が真っ白。どうしようと思った瞬間にパッと目が覚めたという夢です。「あ、夢でよかった」と思いました。そんなわたしですから、原稿もメモも持たないで人前に立って1時間も話し続けて、しかもその話が面白い、そんな頭のいい人に出会うと感心し、羨ましく思うのです。

頭のいい人、賢い人は良い学校に入れますし、その後の人生も良い給料をもらい、良いところに住んで人生うまくいくと多くの人は信じていると思います。ですから、頭が良い人しか入れないような高校や大学を卒業しましたと言う人に出会いますと「あ、この人は頭がいいんだ」と自動的に思いますし、大人であればさぞかし良い仕事をしているのだろうと思うのです。でも「頭がいい」人、「賢い」人はそれだけですごいと思ってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか?頭がいいこと、賢いことを聖書はなんとわたしたちに伝えているのでしょうか?創世記3章で神様が造られたものの中で最も賢い生き物が登場します。聖書を全く読まない状態で「神様が造られたものの中で一番賢い生き物はなんだ?」という問題が出たら、たくさんの人は「人間」と答えると思います。けれども聖書は「最も賢いのは蛇であった」と伝えます。そしてその賢さを使って蛇は人をだまし、そそのかして神様から「食べたら必ず死んでしまう」と言われていた善悪の知識の木の実を食べさせようとしました。蛇は女にこう言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」。賢いこと、頭がいいことを聖書は諸手を挙げて良いこととして捉えていません。蛇が神様の御心に沿って賢いのなら、神様が食べてはいけないと言った木の実を食べるよう、人をそそのかすことはしなかったはずです。でも、聖書は、賢くなるとそのように人に嘘をついたり、人を騙したりするようになると伝えるのです。

善悪を知る木の実を食べてしまった2人は賢くなって、頭が良くなって良い仕事について、良い人生を過ごしたとは聖書は語りません。3章7節「2人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、2人はいちじくの葉をつづりあわせ、腰を覆うものとした」。賢くなる、頭が良くなると自分が嫌だと思う部分を隠したくなるのです。善悪を知りますと自分の中にある良いところもわかるのですが、その反対の嫌なところ、悪くて汚い部分も見てしまい恥ずかしくなってそこを隠すようになる。とても示唆に富んだメッセージです。

でも「どうして」と疑問を感じるかもしれません。どうして善悪の知識の木の実を食べることを神様は良しとされなかったのだろうかと疑問に思う人は多いのではないでしょうか?なぜなら、わたしたちは生きていく上で善いことと悪いことの区別ができてこそ社会の中で生活ができると思っているからです。原町田幼稚園でも善いことと悪いことをはっきりと伝えています。人を叩いてはいけない。使ったものはもとのところに戻す。誰かを傷つけたら「ごめんなさい」と言う。食事の前には手を洗う。このように善いことと悪いことを子どもに伝え、うまくできたら「よくできたね」と褒めます。それらを日々実践することで子どもたちは社会の中で共に生きていく上でのルールやマナーを体得していきます。ですから、善いことと悪いことを知ることは必要なことなのですが、どうして神様はそれを禁止していたのかと疑問に思うのです。しかし、善いことや悪いことは決して変わらないものではないこともわたしたちは知っています。良いことと悪いことは変わりうるのです。以前これは善いことだと思って実践していたのですが後になってそれはあまり良いとは言いにくくなったことはいくつもあります。例えば、わたしが子どもの頃、転んで擦り傷をした時にはいつも消毒液をつけていましたが、最近ではまず傷口を水でよく洗うことが何よりも大切で消毒液はつけない方がいいと言われています。時間が経つことで良いことと悪いことが変わりますし、場所が変われば善悪の基準が違うこともあります。わたしたちが知っている善悪の知識というのは流動的であり、相対的でもあり、何よりもそのことによって時に、人と人がぶつかり合い、裁き合い、理解し合えない関係になってしまう恐れがあります。善悪の理解が違うために人同士が争い合う悲劇も繰り返し起きています。善悪を知る木から実をとって食べてしまったわたしたち人間は、そのような難しさを抱えることになったのです。

善悪を知る木の実を食べた後の2人の神様とのやりとりを見ますとそれがよくわかります。神様はまずアダムさんを「どこにいるのか」と呼ばれました。彼は「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。それまでは裸であってもなんの恐れも恥じらいも感じなかった彼でしたが、善悪の知識を知って恐ろしくなったのです。そして彼らのこの後の態度がわたしたちとそっくりなので驚きます。神様が「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と聞きますとアダムさんは「申し訳ありません。食べてはいけないという木から食べてしまいました」と素直に謝っていれば良かったのですが、そうしないでこう言いました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。わたしが食べたのは、女のせいでもあり、神様あなたにも責任がありますと言ったのです。女も同じように自分の過ちを蛇のせいにしました。ここにわたしたち一人一人の姿があります。善悪の知識を得ることで神様から離れていくわたしたちの姿です。神様なしでも生きていけると言って神様から離れていくところにわたしたちの死があります。

聖書はわたしたち、人間の良いところだけでなく、嘘をつき、自分の失敗を人のせいにするような汚いところを創世記の最初から見せてくれています。ただ汚れた心を持ち神様から離れて行こうとするわたしたちを神様は見捨てることはありません。今日は読みませんでしたが、神様はエデンの園から彼らを追い出す時に2人に皮の衣を作って着せられています。それ以上に神様はわたしたち人間の思いをはるかに超えた形で死からの救いを与えてくださいました。なんの条件も、なんの償いも請求しないでイエス様をお送りくださってわたしたち全ての人に救いを与えてくださったのです。イエス様によってわたしたち全ての人は神様との関係が回復し、祈ることもできるようになりました。死からの復活。嬉しい知らせです。

また嬉しいことに聖書では数カ所を除いて、ほとんど「頭を良くしなさい」「賢くなりなさい」とは伝えていません。例外としてはイエス様が弟子たちに「蛇のように賢く鳩のように素直になりなさい」と言われたことがあります。しかし、今日の御言葉にあるように、むしろ賢くなることに対して聖書は懐疑的ですし、頭を良くするよりも神様を信じること、人と人とが互いに愛し合い、赦し合いながら生きていくことを何よりも大切だと伝えています。例えば、こういう言葉があります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(コリント一8:1)。賢くなること、頭が良いこと自体を聖書は否定しているわけではありませんが、頭が良いことを何のために用いて行くのか、蛇のように人を騙すことではなく、人と人とが互いに助け合うことに知恵と知識を用いたいのです。わたしたちは何のために勉強し、何のために聖書を学ぶのでしょうか?自分の知識を増やすため、自分が賢くなるためでしょうか。そうではありません。わたしたちは、イエス様のようにゆるし合い、仕え合う社会を作るために学びます。自分が間違いを犯してしまったら人のせいにするのではなく素直に謝ることができるように、反対に人が自分に間違いを犯してもゆるすことができるようにとわたしたちは日々学ぶのです。ゆるしあえる共同体をつくるためにです。わたしには最終的な善悪の判断はできないのですが、でも神様、できるだけあなたの御心に近い判断をさせてくださいと神様と人の前に謙虚でありたい。

 今日は、永眠者記念礼拝です。先に天に帰って行かれた人たちを覚えるとき、今日は特にその人たちの賢さや頭の良さよりもその一人一人に注がれていた神様の愛を思い出しましょう。先ほど読み上げられた永眠者の一人一人が神様の愛によって支えられて来たことを感謝したいと思うのです。

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988