2019年10月6日 恩寵に応える

◆ルカによる福音書16章1〜8節
16:01 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
16:02 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16:03 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16:04 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16:05 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16:06 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16:07 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16:08 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

◆詩編49:14〜20
49:14 これが自分の力に頼る者の道 自分の口の言葉に満足する者の行く末。
49:15 陰府に置かれた羊の群れ 死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き 誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
49:16 しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。
49:17 人に富が増し、その家に名誉が加わるときも あなたは恐れることはない。
49:18 死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。
49:19 命のある間に、その魂が祝福され 幸福を人がたたえても
49:20 彼は父祖の列に帰り 永遠に光を見ることはない。

このたとえ話を読みますと、この管理人のように抜け目なく嘘をついて人のお金を勝手に使ってもいいんだよとイエス様が言っているように読めてしまいます。8節で「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」とあるからです。ある本には、このたとえをどのように理解したらいいのか、全然わからないのでこれまで多くの牧師や神父はこのたとえを避けてきたとありました。ただ、少しだけ当時の時代背景を学んでみますとイエス様の思いがおぼろげに見えてきます。イエス様が生きていた時代の人々はどんな生活でどんな苦労をしていたのかということです。それともう一つこのたとえを読み解く鍵があります。それは管理人ではなく、主人に注目すると言うことです。管理人がしたこと以上に主人がどう対応しているのかを見るのです。それは管理人という人間ではなく、たとえの中で寛大な心を持って立ち振る舞う神様である主に心を向けることになるからです。

まず時代背景ですが、イエス様が生きてきたガリラヤ地方に暮らす人たちの多くは何らかの借金を抱えて暮らす農民たちでした。麦を作ったり、オリーブオイルを作る農家の人たちは村の中で互いに助け合いながら暮らしていましたが、地主さんに年貢を納めなければならず、不作が続いたりしますと年貢を納めることができず、負債を負うことになりました。負債にはいつまでに返さなければいけないという期限もあり、また利子もありましたから簡単には減りません。合わせて神殿やローマに納める税金などもあって、農民たちの生活は楽なものではありませんでした。まさに「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり、ぢっと手を見る」です。そのような重荷を背負いながら生きる人たちを思いながらイエス様はこのたとえを話されました。このたとえを律法学者たちが聞いたとしたら「どうして主人は管理人のやり方をほめたのか?」と疑問に思ったはずです。しかし、負債に苦しむ人たちがこれを聞いたらあたかも自分たちの借金が減ったかのように大いに喜んだはずです。自分たちの苦しみをわかって助けてくれる人がいるんだと勇気をもらったはずです。

たとえの中で負債を減らしてもらった人を見て実際に借金で苦しむ人は、「もうダメだと思っていたけど、借金が減るかもしれない」と生きていく希望を持ったと想像できます。油50バトスも小麦20コロスもおよそ当時の農場労働者1年半分の給料となりますから、わたしたちの感覚に置き換えれば300〜500万円ぐらいでしょうか。たとえには描かれていませんが想像しますと、借金を減らしてもらったのでこの二人は嬉しさのあまりすぐに家族や隣近所に走ってこのことを伝えます。「『油百バトス』の借りがあったけど、今日管理人のところに行ったら50バトスにしてもらった。あの管理人の主人はなんて心の優しい人なんだ」。負債を負っていた二人の知らせは、すぐさま村中の人たちに知れ渡りました。「二人の借金を減らしてくれたのだから、わたしたちの負債も減らしてくれるに違いない。素晴らしい主人だ。これで希望を持って生きられるぞ。やったー」。二人の家ではいつもよりも少しおかずが増えた食事が出て、この主人に対して感謝の気持ちと喜びを家族で味わおうとしていました。すると夕暮れ時になって村のあちこちから料理を乗せたお皿を持った村人たちが集まってきます。「どうやって借金を減らしてもらったのですか?」「わたしはどうすればいいのですか?」など二人から聞こう!と思ってやってきたのです。テーブルには乗り切れないほどの豊かな食卓になりましたので、油を50バトス減らしてもらった人は小麦を減らしてもらった人を家に招いて一緒に食べてワインを飲んでお祝いすることになりました。

さて、次に主人に心を向けてみたいと思います。管理人が無駄遣いしているとの告げ口があった時、この主人は彼に「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せるわけにはいかない」と伝えました。もう任せられないと言っていますから管理人をクビにしたわけですが、でも会計の報告を出しなさいと言って主人は彼にチャンスを与えています。つまり管理人の手にはまだ会計簿や証文があって、それをまとめて報告する時間が与えられたのです。普通に考えれば自分のお金を勝手に使っているとわかった時点で、主人は管理人を牢屋に入れることもできましたがそうしませんでした。主人は管理人が無断で自分のお金を使ったことを理由に彼と彼の家族を奴隷として売り飛ばし、そのお金で損失した分の穴埋めにすることもできましたが、それもしませんでした。主人は管理人が無駄遣いしても罰を与えず、また生きる希望と生きるすべを奪うことなく、本人にどうすればいいのかと考える時間を与えてくれたのです。このたとえでの主人はまさに過ちを犯してしまうわたしたちにすぐ罰を与えず忍耐し、生きる道を備えてくださる神様だと理解できます。

では、時間が与えられた管理人はその一方的な恵みにどのように応えたのでしょうか。彼は負債を負っている人たちの借りを減らすことにしました。4節を読みますと「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と言っていますから、自分のためにしたことではないかと読めてしまいます。しかし、負債を減らすことで彼は実際に困っている人たちを助けました。それも農場労働者1年半分の給料に匹敵する額を免除したのですから、減らしてもらった方は家族の命を救ってくれたと受け止められるほどでした。管理人は書き直した証文と変更した帳簿をまとめて、主人のところに行き、「これが会計の報告です」と言ってそれらを主人に提出しました。わたしたちはどうしても管理人の方に目も心も向いてしまうのですが、管理人のやり方の大前提となる主人の関わりに注目することが大切です。主人は負債を減らした管理人をここでどう扱うのか、大きく分けて2つありました。一つ目の選択肢は、管理人を褒めるのではなく、村の当局に行って、この負債の減額はわたしの許可なしでされたこと、また管理人はすでに解雇されているので、減額する権限はないこと、従って減額前の油100バトスと小麦100コロスはいずれもしっかりと全部返すべきだと説明して、この管理人を牢屋に入れてしまうのです。ただ、そうしますと主人は村人から「あの主人は嘘つきで、欲張りだ」と言われ、たった今、村人たちが集まって主人の優しさと寛大さを祝い、感謝する集まりが抗議集会になってしまうでしょう。主人はそんなことを望んではいません。主人は管理人が提出した会計報告を見て8節にある通り、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」のです。ここにも主人の心の大きさが現れています。負債を減らすことなど、わたしたちにはなかなかできない寛大な心は神様の心そのものです。

負債を減らした管理人は自分が頂いた恩寵、一方的な赦しに対して、負債を減らして苦しんでいる人を助ける形で応えました。自分が奴隷として売られても、また家族も一緒に売り飛ばされてもおかしくない状況で「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言って会計簿や負債の証文の管理という猶予を与えてくださった、その恵みへ応答です。イエス様は8節で「この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめ」ました。主人から頂いた大きな恵み、その恩寵を苦しんでいる人たちを助ける方法で応える、それが神様の御心ですと伝えているのです。

わたしたちも管理人のように時間を無駄に使ってしまったり、人の思いを受け止めきれずに失望させてしまうことがあります。でも、神様はじっと耐えて、そんなわたしたちに時間の猶予を、まだ生きる道を与えてくださいます。その神様の恩寵に気づいて、それぞれの生き方でその恩寵に応えたいと思うのです。

神様からの恩寵はすべての人にすでに届いています。恩寵というのは、わたしたちが優れているとか、わたしたち人間が魅力があるとか、何か良いことをしたから与えられる報酬でもご褒美でもありません。神様から一方的に与えられる恵み、それが恩寵です。恩寵、別な言い方では恩恵とも言いますが、それはいつどんな形でもたらされるのかを予測するのは難しいものです。ですから、わたしたちは日々、神様に感謝の祈りをささげて心を開き、まだ気づいていない恵みを受け止めたいのです。

10日ほど前の祈祷会である人がこんな証をしてくれました。「今朝の新聞に認知症学会の会長の長谷川和夫さんのことが載っていまして、90歳の長谷川さん自身が認知症になって、でも『認知症は恩寵です』と言っていたのでみなさんに紹介したいと思いました」。新聞にはこうありました。「物忘れがひどくなってね。自分のなかの『確かさ』があやふやになって、朝起きて少し時間がたつと、今が昼か、間もなく夕ご飯なのか、はっきりしなくなる。外にでかければ、ふと『あれ、自分はいまどのへんにいるのかな』と思ったり。そんな感じです」。それに続けてこう書かれてありました。「僕は心臓の病気もあるから、本当に死を考えたら不安でいっぱいだよね。神様は、その不安を和らげるために、わたしを認知症にしてくれているんじゃないか。ならば、神の手に任せようと」。祈祷会の時にこの記事を紹介してくれた人は自分自身のことをこのように話しました。「わたしの耳もだいぶ遠くなってきましたし、目も白内障が少しあって見えにくくなっていますが、これらも全部神様からの恩寵として受け止めたいと思ってます」。わたしは「あなたのその証によってたくさんの人が励まされますので、皆さんの前で証をしてもらいたいです」と話しましたがご遠慮されましたので、こうして紹介させていただきました。皆さんにもこのような証をしていっていただきたい。それこそ、神様の恩寵に応えることになるからです。

普通、認知症になること、自分の体が弱っていくことはできるだけ避けたいし、なってしまったら隠したいと思うものです。でも、それを神様からいただいた恩寵、恵みだと言える。老いていく中で困難にぶつかっている、認知症で苦しんでいる当事者やその家族にはその証しは大きな励ましとなるのです。

今日は、世界聖餐日です。パンと杯という恩寵をわたしたちはいただいていますし、何よりもイエス様がわたしたちの中に生きておられますから、その恩寵に応えて、わたしたちは「神様を信じて生きる喜び」を証しするのです。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。