2019年9月8日 人間復興の安息日

◆ルカによる福音書14章1〜6節
14:01 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
14:02 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
14:03 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
14:04 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
14:05 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
14:06 彼らは、これに対して答えることができなかった。

◆出エジプト記23章10〜13節
23:10 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。
23:11 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
23:12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
23:13 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。

◆詩編92:13〜16
92:13 神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。
92:14 主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。
92:15 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし
92:16 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。

ある日本の新聞記者がイスラエルに行った時、びっくりする体験をしました。金曜日の夜7時過ぎ、この記者は安息日の取材でテルアビブ近郊にあるシナゴーグを訪れましたら、強面(こわもて)の男性に呼び止められました。「おい、あんたら外国人だろ。ちょっとこっちに来てくれないか」。キッパと呼ばれる帽子をかぶったその男性は、記者たちを近くのアパートまで連れてきますと「エレベーターで5階まで先に上がって待っていてくれ」と言って、自分は階段を上り始めました。ドキドキしながら5階の薄暗い廊下で待っていますと、その男性が汗だくで階段を上ってきて、玄関先で配電盤を指さし、こう言ったのです。「すまないけど、そこのスイッチを入れ直してくれないか。部屋の漏電ブレーカーが落ちてしまったんだ」。言われた通りにしますと、暗闇に包まれていた部屋にパッと明かりがともり、中から女性たちの歓声が上がったのです。今でも厳格なユダヤ教の人たちは、金曜の日没から土曜の日没までの間を「安息日」と定め、一切の「労働」は禁じられ、39種類の禁止事項をかたくなに守っています。例えば、「耕す」「蒔く」「壊す」「書く」……。そして、代表例が「火をつける」。時代に合わせて「電気のつけたり消したりするのも火をつける行為にあたる」と解釈されたため、安息日には照明をつけることも、エレベーターの操作もやってはいけないこととなりました。さて、この記者は翌日、まだ安息日が続く土曜日の昼、ユダヤ教のラビのところに行って単刀直入に質問しました。「どうして、安息日に休むのですか?」そのラビはこう答えました。「もし、あなたがトヨタで車を買って調子が悪くなれば、GMや町の工場ではなく、やはりトヨタの整備工場に持っていくでしょう?人間を造りたもうた神が定めたのが安息日。ならば、その日に体と精神を休めるのが最善なのです」

イエス様はファリサイ派の人の家に食事に招かれていました。食事が終わり、くつろいでいる時、イエス様を招いたファリサイ派の人たちはイエス様の様子をうかがっていました。その日は14章1節にある通り、安息日でしたので、やっていいことと、やってはいけないことがはっきりしていました。病人を癒すことも仕事だからしてはいけない。それは神様からの掟、律法だからとファリサイ派や律法の先生たちは考え、それを実践していました。神様の掟を守ることは神様に従うことですから、正しいこと、良いことであり、その反対に掟を守らないのは、間違いであり、悪いことでした。でも、イエス様は言われます。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。そう言われてから、イエス様は病人の手を取って、病気を癒されました。そして言われます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

安息日について聖書はまず初めに創世記でこう伝えます。2章2〜3節「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。聖書によれば、わたしたち人間は神様にかたどって造られました。礼拝の招きの言葉にあった通りです。創世記1章27節。「神は御自分にかたどって人を想像された。男と女に創造された」。神様に似て造られたとありますから、それゆえにわたしたちも神様と同じように7日目には安息するのだと聖書は言うのです。安息日には、体や心を休息する、休ませるという意味もありますが、それ以上に安息日には、「自分は何者なのか」と自分自身を確認する意味があるのです。神様はわたしたち人間をご自分に似せた尊い存在として造られました。神様に似て愛すること、ゆるすこと、癒すことを完全ではないけど、できる存在としてです。

月曜日から土曜日までの1週間の生活の中で、人を憎み、あんなやつはいなくなればいいと心の中で思ってしまうことがあった。苦しんでいる人や悲しんでいる人がいても声をかけられずに通り過ぎてしまった。そういうわたしたちなのですが、「あなたは神の似姿、愛し、ゆるし、癒されるわたしに似て造られている」。その神様に似て造られた自分自身に復興するために神様は安息日を守るようにと言われているのです。

先ほど読みました出エジプト記の23章12節にも安息日の意味が明確に記されていました。12節にはこうあります。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。あなたが休んで元気になるためであるとは言わず、当時の社会で最も小さいもの、低い立場にあった女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためだというのです。軽んじられて当然、過酷な仕事を休みなしにやらされたとしても何も言えない立場にある家畜、またそういう人たちを元気にするためなのです。当時、牛やろばと並列して書かれている女奴隷はもの同然の扱いで、寄留者は人間以下という世界でしたから、休みを与えなさいという掟は当時の世界では驚くべき考え方でした。他のオリエント世界の宗教には見出されない掟です。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちを休ませ、大切に扱うことは何よりもそうしている自分自身の人間性を復興することなのです。見失いがちな隣人を愛し、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められているのです。

10の戒めである十戒にはこうあります。出エジプト記20章8〜11節をお読みします。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこなるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。神様は安息日を祝福し、聖別されました。聖別するというのは、これは神様のものであって、あなたたち人間には変えることできないものという意味があります。ここにも休む権利など考えつかない「男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」、あなたと同じように休ませなさいとあります。ここに安息日の本当の意味があります。しかしながら、時代を経るごとに安息日は祝福された日からだんだんと離れていき、次第に「なになにしてはいけない日」となっていきました。

安息日には癒してはいけない。それは仕事だから。病人を助けてはいけない。それも仕事だから。そのように安息日の形だけが継承されて、本当の意味はずいぶんと見失われていたようです。イエス様は安息日を「何々をしてはいけない」とか「しなければいけない」という義務の日から人間復興の日、救いの日へと生き返らせてくださいました。

キリスト教では、イエス様の復活を記念して週の初めの日である日曜日を霊的な安息の日、聖なる日として2000年来、礼拝をささげています。ですから、わたしたちにとっての安息日は、日曜日となります。でもイエス様がそうであったように安息日は仕事をしない、休息の日というよりも、むしろわたしたちを造られた創造主なる神様の方を向くことによって自分自身を復興する日です。人を愛することに遅く、ゆるすことも難しく、癒すことなどできないと思ってしまうわたしたちにイエス様は言われます。「そんなあなたたちでも自分の子どもが溺れていたら助けるだろう」。目を覚ましなさい、思い出しなさいと言われているのです。本当のあなたは人を愛し、人をゆるし、人を癒すことができるのです。「神様に似て造られている自分を見出しなさい。あなたたちが目を覚まして愛し、ゆるし、癒す本当の自分に気づくように、わたしは独り子イエスをあなたたちに与えた」。

日曜日は、救いの喜びの日です。イエス・キリストを信じるわたしたちは毎週日曜日に礼拝を捧げて、「神様、イエス様によってわたしたちの罪を赦し、今週1週間も支え、守ってくださり、ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げます。安息日は救いの日、すでにイエス様によって救われていることを再確認して、自信や力をなくし、衰えた自分を復興する日です。

イエス様は安息日以外の日も人を助け、癒し、愛しておられます。安息日だから反感を買うのを知りつつもその日だけ病気の人を癒したのではありません。安息日の本当の意味をわかって欲しくて、イエス様は何回も安息日にしてはいけないと言われていたことをしたのです。出エジプト記にある人間復興の安息日に立ち返って欲しいと願われていたのだと思うのです。安息日は牛やろばなどの家畜、また女奴隷の子どもや寄留者たちがゆっくり休んで回復すること、それは同時に雇っていた人たち自身の人間性を回復するためでもありました。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちの心も体も休ませ、彼らを大切に扱うことは何よりもそうしている人の人間性を復興することになるからです。

自分よりも弱い立場にある人がいますと威張りたくなり、反対に自分よりも強い立場にある人がいますと急に腰が低くなるのがわたしたちです。でもそのような自分は神様の似姿からは随分遠くに離れてしまっています。自分よりも弱い立場にある人たちを時に軽んじてしまうことのあるわたしたちにイエス様は「あなたは神に似て造られた人です。神は小さいもの、弱いものも同じように愛し、ゆるし、癒しています」と伝えています。失いがちになる隣人愛、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められています。これからも、愛し、ゆるし、癒す本当の自分自身に復興するため、神様に似て造られた自分を再確認するために主の日の礼拝に集ってまいりましょう。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。