2019年8月11日 ささやく小さな声の中に

◆列王記上19章1〜18節
19:01 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
19:02 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
19:03 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、
19:04 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
19:05 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
19:06 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
19:07 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
19:08 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
19:09 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

エリヤさんという人は、新約聖書にも何度か名前が挙げられる人物です。例えば、イエス様が山の上で真っ白な服に輝き始めた時、エリヤさんとモーセさんがそこに現れて、イエス様と語り始めたとあります。また、イエス様が十字架に架けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、そこにいた人が「そら、エリヤを呼んでいる」と言いました。「エリヤ」という名前が、彼の実際に生きた時代から800年以上経ったイエス様の時にまで覚えられていたのには理由があります。それはエリヤさんの最後の時と深く関係していまして、彼は地上で死んでお墓に葬られたのではなく、生きたまま「火の戦車」に乗って天に上げられたと聖書が伝えるからです(列王記下の2章)。そのため、後の時代になって神様の審判が下される前にエリヤさんが地上に戻ってくると信じられるようになりました。

さて、このエリヤさんですが、生きたまま天に上げられるほどの人ですから、よほど素晴らしいことをした人なのかと思うかもしれません。でも、聖書を読みますとそうではなくて、とても苦労の多い人でした。今日読みました聖書の出来事では、ユダヤの王アハブさんの妻イゼベルさんから命を狙われることになったとあります。イゼベルさんが信奉していたバアルの宗教の預言者たち450人がエリヤさんとイスラエルの人たちの手によって命を落としたからです。それは今日の箇所の前、列王記上18章に記されています。そのことに怒ったイザベルさんはエリヤさんに使者を送ってこのように言わせました。19章2節「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」。この言葉にエリヤさんは恐ろしくなってすぐにそこから逃げ、エニシダという木の下に来て座って言いました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」。主なる神様に従ってやってきたのに状況は悪くなるばかり。もう八方塞がり、どこに行けばいいのかわからない。死んだ方がいい。エリヤさんの心はあとちょっとでポキリと折れてしまう状態でした。

エリヤさんの苦労は、人間関係での苦労です。彼のように命を狙われるほどのことはありませんが、わたしたちも人間関係で苦労することがあります。相手に理解してもらえないこと。一方的に「悪いのはあなただ」と言われることなど、人との関係がうまくいかず、落ち込んでしまうことをわたしたちも経験します。ある時には「もう、十分です。わたしの命を取ってください」と思うほどの暗闇を経験するかもしれません。エリヤさんは神様に従って良いことをしたと思っていました。数年間、干ばつのためにカラカラに乾いて、農作物がほとんど取れないひどい飢饉に見舞われていたイスラエルの地に、バアルの預言者との戦いの後、ようやく恵みの雨が降りました。神様に従って預言者と戦った結果、与えられた待望の恵みの雨でしたから、アハブ王もわかってくれるだろう、そう期待していたエリヤさんでしたが、アハブ王は見事に彼の期待を裏切りました。時間とエネルギーと思いを込めて良いことだろうと取り組んで、「きっとわかってくれる」と期待していたのに、あっさりと反対のことをされてしまったのです。

エリヤさんはとにかく神様が言われたことを良いことだと信じて実行してきましたが、その結果、自分の命が狙われることになりました。神様を信じて生きてきたのに何も良いことがない。良いどころか悪くなっている。わたしたちもそう思うことがあるかもしれません。毎週礼拝に出席して、時間も力も献金も捧げてきたのにどうしてこうなってしまうのだろう。突然、重い病気になってしまう。人間関係がうまくいかない。どこに進めばいいのかわからない、八方塞がりになってしまうことがあります。エリヤさんは「もう十分です。わたしの命を取ってください」と願いました。すると神様は御使いを遣わせてエリヤさんに触れられ言われます。「起きて食べよ」。周りの人があなたのことをわかってくれなくても、わたしはあなたを決して見捨てない。神様は御使いを遣わし、「起きて食べなさい」と励ましてくださいます。

この原町田教会で長く礼拝生活を送り、また祈祷会にも出席している一人の姉妹が7月ごろから体調を崩され、何度か礼拝と祈祷会をお休みしていました。7月の最終週の祈祷会の時、彼女が出席してくれまして、一緒に祈りを合わせました。ここ数年ですが7月最後の祈祷会では8月が1ヶ月間お休みなので、一緒にお食事をしていまして、その姉妹オススメのシュウマイ弁当で食卓を囲みました。体調を崩されて病院にいかれた彼女は、その席で「自分は病気かもしれない。でも、自分はこれまで豊かな礼拝生活と祈祷会に出席できたことを本当に嬉しく思う」と話されました。また、健康でいられたことを当たり前のように考えていたことを傲慢だったと祈られました。健康でいられること、礼拝や祈祷会に出席できることがどれほどの恵みであるのか。当たり前のことではなく、限りある命の中で与えられているかけがえのない時間なんだとわたしは彼女のお話と祈りを聞いて思いました。淡々とご自分のことを話される彼女と出会って、わたしは神様を信じて生きることの強さというのでしょうか、困難な状況に直面してもただ神様を信じることができる恵みを思いました。彼女はしばらくほとんど食べることができず、水だけ飲んでおられたとのことで体重は5キロも減ってしまったと言っていました。今は少しずつ食べられるようになってきたとシュウマイ弁当に箸をつけていましたので少し安心しました。神様は彼女に、またお一人お一人に御使いを送ってくださり、「起きて食べよ。まだ、あなたにはやるべきことがある」と言われているのです。今日、礼拝に集うことのできたわたしたちは、この御言葉を心に刻みたいのです。「起きて食べよ」。神様がまだわたしたちを必要としてくださっている。これは礼拝を覚えながらも集うことのできない人たち、特に病気のゆえに集うことが難しい人たちにも告げられている御言葉です。どんな状況になっても神様がエリヤさんを立ち上がらせたように病床に伏す一人一人に「起きて食べよ。あなたにはやるべきことがある」と言われています。

神様は洞穴に隠れていたエリヤさんに「エリヤよ、ここで何をしているのか」と聞かれます。エリヤさんは答えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。エリヤさんはまだイゼベルさんのことが恐ろしくて洞穴に隠れていたのですが、主なる神様は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われます。ここでも主なる神様は「あなたはまだ生きるのです。あなたには果たすべき使命がある」と洞窟に引きこもる彼を外に出され、姿を現されます。はじめに激しい風が起こって、山を裂き、岩を砕きました。次に地震が起きました。その次に火が起こりました。しかし、いずれの中にも神様はおられません。そのあとに静かにささやく声が聞こえました。聖書は伝えます。神様は静かにささやく声の中におられる。神様は、激しい風の中、地震の中、火の中のように、大きな音、強い力、燃やしてしまうような熱さの中にはおられない。静かにささやく声、よーく耳を澄まさないと聞こえてこないほど小さく弱いものの中に神様はおられる。19章13節「それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。外套、コートで顔を覆うというのは、モーセさんもそうでしたが自分が神様の前に立つことを意味しています。小さな声、今にも消えそうな弱い声の中にこそ神様がおられるとエリヤさんは理解したのです。

この神様の姿は、十字架の上で殺されていったイエス様と重なります。パウロさんも言っていますが、十字架で死んでいくことは勝利ではなく敗北です、強さではなく弱さそのものです。その弱さの中に神様はご自分を現されたと聖書は伝えますから、わたしたちは静かにささやく小さな声の中におられる神様に心の耳を向けるのです。

病気や障がい、あるいは誰しもが経験する「老いていくこと」で感じる弱さもあります。できていたことができなくなっていく。少しずつですが、確実に弱くなっていく自分。もしできるのならその弱くなっていくスピードを遅くしたい。なんとかして弱くならずに生きていきたい。そう思って祈ります。「神様、どうか守ってください。健康でいられますように」。でも、神様は聖書を通して言われるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。弱さの中に本当の強さがある。弱さを自覚して初めて気づくことがあります。病気になって、体に弱さを覚えて初めて気づくこともあります。これまでは聞こえなかった小さな声。体が弱いからこそ他者を優しく思う気持ちになれる。自分の弱さを受け入れて、初めて見えてきた他者の中にある痛みや苦しみ。わたしたちが一緒に生きていく中で助けられ、支えられて「ありがたい」と思うのは自分が弱くなった時ですし、助けられた経験を持つ人は、今度は困った人がいたら、「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけることができます。聖書は言います。「目が手に向かって、『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

ささやくような小さな声の中に神様がおられますから、原町田教会のわたしたちは、ささやくような小さな声に心の耳を傾けます。エリヤさんはささやく声の中に神様がいることに気づいたことで、自分自身も小さく弱い者だけれども神様はそんなわたしも必要としてくださっている、その恵みに気づいたのではないのでしょうか。神様はささやく声で皆さんに言われています。「起きて、食べなさい。あなたにはまだやることがある」。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。