2019年8月4日 ラハブの系譜

◆ヨシュア記2章1〜14節
02:01 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
02:02 ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、
02:03 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
02:04 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
02:05 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
02:06 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
02:07 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
02:08 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、
02:09 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。
02:10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
02:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
02:12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。
02:13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
02:14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」

◆詩編97:7〜12
97:07 すべて、偶像に仕える者むなしい 神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。
97:08 シオンは聞いて喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る 主よ、あなたの裁きのゆえに。
97:09 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。
97:10 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 神に逆らう者の手から助け出してくださる。
97:11 神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。
97:12 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。

今日は、平和聖日です。この平和聖日の礼拝に、どうして戦いだらけのヨシュア記が読まれるのかと、疑問を感じる人もいるかもしれません。このヨシュア記にはエジプトを脱出したイスラエルの人たちがモーセの後継者であるヨシュアに率いられ、約束の地であるカナンの土地を戦いながら、ある意味では侵略するような形で奪い取っていく出来事が記されています。それは神様がアブラハム、イサク、ヤコブそしてモーセに約束したことでした。ヨシュア記1章の初めにその約束が記されてあります。1章1〜3節を読む。約束の地に入っていくのだから、戦いがあってもやむをえないとイスラエルの側からみれば言えるかもしれません。でも、侵入され、土地や命を奪われる側からみれば、神様の約束であっても納得できません。そのような戦いだらけのヨシュア記ですが、今日の2章には平和のメッセージがはっきりと示されていました。死からの救い、滅びからの救いが一人の女性によって成し遂げられたのです。

モーセの後継者であるヨシュアがついにヨルダン川を渡って約束の地に入っていきます。40年間荒野をさまよい続けた後での「ついに」です。彼らがまず初めに攻め込むと決めた場所は、世界最古の町の一つと言われるエリコという町で、ヨシュアは攻め込む前に二人の斥候、スパイを送り出します。その二人が隠れた場所が城壁の中にあった遊女ラハブの家でした。彼女は遊女ですから、自分の体を売り物としていました。彼女がそうしなければ生きていけない状態、つまりそうせざるをえなかったのか、それともそうではないのか、聖書は何も語っていませんのでわかりません。しかし、どの社会でも自分の性を売り物にしている人は世間から嫌な目で見られる傾向にあります。決して好ましい働きではありませんから、エリコの街で母親が子どもと歩いていて、たまたまラハブを見かけたなら親はこう言うでしょう。「あんな人になってはいけないよ。汚いことをする人だから」。イエス様の時代でも律法学者などは娼婦たちのことを明らかに罪人であり、神の国に入ることができないトップランナーだと蔑んでいました。しかし、その遊女ラハブが決断して行った、命がけのアクションが数え切れないほどの多くの人の命を死から救うことになるのです。

彼女はエリコの街に攻めてくるであろう敵のスパイをかくまいました。エリコの王はラハブのところに人を遣わして「家に入り込んだ者を引き渡せ」と迫りましたが、彼女は「その人たちはもう出て行きました」と嘘をついて二人を守ります。これは命がけのことです。もし、スパイの二人が見つかって捕らえられてしまったら、二人はもちろん彼女も裏切り者として確実に命を失うことになります。でも、ラハブは機転をきかせて二人を屋上の亜麻の束の中に隠し追っ手から守りました。彼女は出エジプトの出来事を人伝えに聞いて、直感的に確信したのです。ここエリコにも神様がいる。でも、本当にすべての人を救うのは、この方だと。10〜11節を読みます。「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心はくじけ、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません」。そして彼女は言うのです。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

当時、それぞれの民族は自分たちの神様を信じていました。それぞれの民族、その土地土地には神様がいて、戦争で負ければその神様が負けたことになりますから、その民族の神様もいなくなります。エリコにも当然、彼らが信じる神様がいましたから、ラハブの家族や親族のほとんどはその神様につながっていました。収穫のお祭りに参加したり、結婚式や葬儀など冠婚葬祭もその神様に捧げていました。何代にもわたってその神様の宗教に繋がってきていましたし、エリコのほとんどの人は、自分たちの神様こそが本物で絶対だと信じていました。でも、彼女はエジプトから小さな民族であるイスラエルを救った神様こそが全ての人を救う方だと気づき確信したのです。だから彼女は命がけでスパイの二人に頼みます。13節「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。当時の宗教観であれば、敵の神様に自分の家族の救いを求めることなどできることではありませんでした。でも、彼女の鋭い気づきと勇気ある決断が多くの人を死から救ったのです。

わたしたちにもこのラハブのように自分とつながる家族がいて、その中には教会に来たことのない人たちがたくさんいると思います。自分の親戚、いとこ、親の親戚、そのように家族とのつながりを広げて見ていきますと、彼らに連なるすべての者たちは実にたくさんになります。わたしたちはそのたくさんの人にとってのラハブになりたいのです。その人たちの命がすぐにエリコの人たちのように危険な状態になるわけではありません。でも、どの時代であっても気づかないうちに、わたしたちを少しずつ縛り付けていく原理主義という罠にとらわれてしまい、そこから逃れられなくなる人も出てくるからです。原理主義というのは、これさえあれば大丈夫。これを信じていれば他のことは必要ないという考え方です。お金原理主義があります。お金さえあれば幸せになれる、健康が守られる。そう伝えます。科学原理主義もそうです。科学技術によってどれほど寿命が伸び、生活は豊かになり、今では宇宙にまで人間を飛ばし、遺伝子を操作することで治らない病気もなくなる。人間にできないことはないとまでいう勢いが科学原理主義にはあります。宗教の中にも原理主義があります。キリスト教原理主義もその一つです。キリスト教でなければ救われない。他の宗教は全部うそ。あなたの家族もキリスト教にならなければ滅びますと伝えます。

ラハブはこの原理主義から自由でした。彼女はエリコの人たちが信じている神様ではなく、葦の海を干上がらせた上は天、下は地に至るまでの神様を信じて、この方こそまことの神様だと自分と家族とそれに連なるすべての者たちの命を委ねました。彼女は自分たちが信じる神様だけが絶対だという原理主義から自由だったのです。それと同時に天と地の全ての命を創造された普遍主義の神様こそ、わたしたちを死から救ってくださる方だと見抜きました。原理主義ではなく、普遍主義を嗅ぎ取るこのセンスというのでしょうか。嗅覚というのでしょうか。彼女にはそれがあります。わたしたちもそのセンスを身につけたいのです。この神様を信じなければ滅びますと原理主義者のようにではなく、この神様はすべての人を救う方だから、わたしも、わたしの家族親族、それに連なるすべての者たちを委ねる。わたしたちも彼女のように祈るのです。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。なぜなら、「神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

神様になんか頼まなくても自分の力でなんとかやれる。実際、神様なんて信じなくてもお金さえあれば幸せになる。そのような原理主義的な声が聞こえてきます。それは命の神様からすべての人を引き離す死への誘いです。ラハブは言いました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。天から地に至るまですべては神様によってつくられ、神様によって保たれ、支えられているのですから、その主なる神様から離れていくことは死んでいくこと、滅んでいくこと。彼女はそのことに気づいていたのです。

神などいない。神は死んだと言われた20世紀は、ある意味では科学原理主義が力をつけて、資本主義というお金原理主義がたくさんの人を惹きつけた時代だと言えます。ただ、同時にたくさんの人の命が戦争によって奪われた時代でもあります。21世紀に入って19年が過ぎましたが、わたしたちはラハブに倣って決断し、祈り願いたいのです。科学でもなく、お金でもない。本当にすべての者を生かし、わたしたちの命を救うのは、天と地を創造され御子イエス様の十字架と復活によってすべての人を救う神様だと、原理主義的ではなく、普遍主義的に信じるのです。

ラハブはマタイによる福音書の最初に出てくる系図によりますとダビデ王のひいひいお婆さんに当たります。ダビデ王のおじいさんのおばあさん、ルツの夫となったボアズのお母さんになります。ボアズが外国人のルツと結婚することにしたのもラハブお母さんの影響もあったと想像できます。マタイによる福音書の系図から見ますとこのラハブからダビデ王、そしてそのずっと後にイエス様がお生まれになったことがわかります。アブラハムから始まってダビデ王を通り、イエス様に至るこの系図の中にラハブの名前があること。原理主義的にある特定の人たちだけを救うのではなく、普遍的にすべての人を救う主イエス・キリストは彼女を含んだ系譜から生まれてくるのです。

ラハブはわたしたちと同じ弱さや欠けをもった一人の女性です。仕事も決して社会から評価されるようなものではありませんでした。世間からは冷たい目で見られていましたし、家族からも、家族に連なるいろいろな人からも嫌なことを言われていたことでしょう。しかし、彼女はできるだけ多くの人を死から救ってもらいたいと願いました。命の源である神様は必ずそうしてくださると彼女は信じたのです。だからこそ、勇気をもってエリコの王の命令に反して二人のスパイをかくまったのです。

礼拝の初めに読まれました招きのことば、ヨハネによる福音書3章16〜17節にはこうありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の御心は続く17節にこうはっきりと伝えられています。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。御子イエス様によって一人でも多くの人が救われること、それが神様の願いです。

ラハブは願いました。わたしたちも彼女のように願います。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。主にある平和を心から願うわたしたちは、特定の人だけが救われる原理主義ではなく、すべての人が死から救われる普遍主義の道を歩んだラハブの系譜を継いでいきます。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。