2019年7月28日 赦す者への召し

◆ルカによる福音書7章36~50節
07:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
07:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
07:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
07:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
07:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
07:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
07:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
07:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
07:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
07:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
07:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
07:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
07:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
07:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
07:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

◆詩編38:10~23
38:10 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり 嘆きもあなたには隠されていません。
38:11 心は動転し、力はわたしを見捨て 目の光もまた、去りました。
38:12 疫病にかかったわたしを 愛する者も友も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。
38:13 わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は 欺こう、破滅させよう、と決めて 一日中それを口にしています。
38:14 わたしの耳は聞こえないかのように 聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。
38:15 わたしは聞くことのできない者 口に抗議する力もない者となりました。
38:16 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ 御自身でわたしに答えてください。
38:17 わたしは願いました 「わたしの足がよろめくことのないように 彼らがそれを喜んで 尊大にふるまうことがないように」と。
38:18 わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり
38:19 わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています。
38:20 わたしの敵は強大になり わたしを憎む者らは偽りを重ね
38:21 善意に悪意をもってこたえます。わたしは彼らの幸いを願うのに 彼らは敵対するのです。
38:22 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。
38:23 わたしの救い、わたしの主よ すぐにわたしを助けてください。

「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。イエス様が罪ある女性に言われたことは、今日ここに集うわたしたちにも言われたことです。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。キリスト教の救いは、罪の赦しが宣言され、それを一人一人が心から信じることです。

聖書が伝える罪というものは、「的外れ」という意味で、神様という的を外して生きることですから、その意味ではわたしたち全員が罪を背負いながら生きていることになります。10日ほど前ですが、幼稚園の最後の日の礼拝で、ある先生が子どもたちに向かってこんな話をしました。「時々、みんなも意地悪してしまうことがありますよね。例えば『仲間に入れて!』という友だちがいても『やだよ』と言ってしまったり、電車のおもちゃでしばらく遊んでいた時に『それ貸して』という友だちがいても『まだ始めたばっかり』と意地悪を言ったりすること。わたしもそういう意地悪な気持ちがあるけど、みんなもあるよね」と聞きますと、何人もの子どもたちがうなずいていました。小さい子どもも自分が意地悪をしてしまうことがあるとわかる。ましてや、わたしたち大人は神様のことを忘れ、自分のことを第一とすることで、人にわざと嫌なことを言ったり、人をゆるせないと思ってしまう罪ある者です。今もなお、日々の生活の中で、悪いことを思ったり、人を支配したい、自分の思い通りにことを進めたいという罪がわたしたちの中にはあります。神様のことを第一として生きたいと思うのですが、それを継続して実行することは難しいのです。そんな罪あるわたしたちだからこそ、イエス様は無条件に「あなたの罪は赦された」となんども言ってくださいます。罪はすでに赦されています。わたしたちが何か尊いことをしたからでもなく、わたしたちが罪の償いを十分にしたからでもなく、ただイエス様の十字架と復活によって罪が赦されたのです。その神様の一方的な恵みを受けて、「わたしは赦されているんだ」と心から信じるところにわたしたちの救いがあります。

ある人は言いました。「最悪の病気と最悪の苦しみは、自分が必要とされないこと、愛されないこと、大切にされないこと」。神様からの赦しを受け止めて、そうだ、わたしは赦されているんだ。「神様、あなたはわたしを赦し、生かしてくださっています。感謝します」と祈るわたしたちは最悪の病気、最悪の苦しみに陥ることからいつも守られています。なぜなら、神様がわたしたちを赦し、それは神様がわたしたちを必要としているからであり、神様がわたしたちを愛しておられるからです。そのことをわたしたちは毎週の礼拝で確認することができるのです。

救いは一度きりの大きな出来事ではありません。大雨によって引き起こされた洪水に飲み込まれ、流されていくとき、自分の手をがっちりと握って、地面の上に引き上げられ、「あー救われた、助かった」というような思いを持つ決して忘れられない救いもあると思います。でもそのような経験だけが救いではなく、毎週礼拝に出ることで、最悪の病気と苦しみに陥ることから守られ続けることも救いなのです。

イエス様はファリサイ派のシモンさんの家で食事をしていました。この時、一人の女性がイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、足にキスをして香油を塗りました。これは本当ならばイエス様がその家の主人であるシモンさんから受けるべきしきたりでした。どの家でもお客に対しては家の主人が僕に命じて、客の足と手を水ですすぎ、主人と客人とが頰と頬とを寄せて親しく挨拶をしてから、客の髪の毛に香油を塗って敬意を表すのでした。シモンさんは意図的にかもしれませんが、イエス様にその挨拶をしませんでした。でも、一人の女性が心を込めてその挨拶をしたのです。イエス様は言われました。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ここにすでに赦され、神様から「あなたを必要」とされた者への召し、呼びかけがあります。罪赦され、愛されていると信じるわたしたちは、隣人の罪をゆるし、隣人を愛する者になるようにと召されているのです。

神様はご自分の国、愛と赦しに満ちた神の国を建設するために働き人を必要としています。ハローワークには出ていませんが、聖書には神の国建設のため求むと求人票が出ています。その求人票はこの世のものとは違っていまして、この世の求人票には、月給30万円でパソコンができて、朝の9時から5時まで働ける人などと条件が書いてあります。でも神様が出される求人情報欄にはこうあります。「あなたの罪は赦された。罪の赦しを心から信じ、神様があなたを必要としていること、隣人をゆるすためにあなたを必要としていることを信じてください」。求人票にはそれだけです。神様は罪赦された一人一人を神の国建設のために用いてくださいます。人をゆるすたびに神の国は着々と完成に向かいます。この罪深い女性は、「わたしに示した愛の大きさでわかる」とイエス様から言われた人ですから、神の国の土台、基礎を作るために木を切り、その根を抜いて切り開いたパイオニアの一人と言えるでしょう。

神様に赦されているわたしたちですが、人を赦すことは簡単なことではありません。特に毎日の生活を共にしている家族、近い関係の人ほど何かのことで一度「ゆるせない」と思ってしまいますとなかなかそのことをゆるすのが難しくなることがあります。その人のある行動だけがゆるせないと思っていましても、その行動だけをその人自身から分けて受け止めることが難しいのです。夫婦関係でも、親子関係でもあることがきっかけになって、ギクシャクしてしまい修復ができない状態にまでなってしまうこともあります。その人の存在そのものをゆるせないというわけではないのに、なぜかそのような雰囲気になってしまう。そこには明らかに的外れという罪があるのです。その中の一人でもいい。神様の方に向いてイエス様の声を聞いてそれを心から信じることができれば、その関係の中に救いが与えられます。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った」。自分自身が赦されていると気づき、そして今度は自分だけでなく、ゆるせないと思っていたあの人にもイエス様の福音が届けられていると信じるのです。あの人も神様に赦された人、神様に愛され、必要とされる人なんだとなんども祈って信じるのです。

それが人をゆるし、人を愛することです。こんなに罪深い自分を神様が赦してくださった。必要としてくださったと信じて感謝すること。神様の愛は自分だけでなく、あの人にも、すべての人にも届けられていると信じて、毎日心の中で言葉にして祈り続けるのです。それが人を愛することの始まりです。「神様、あなたの赦しに感謝します。あなたはわたしを今日も必要としてくださり、生かしてくださっています。あなたはあの人のことも赦しています。どうかあなたの赦しがあの人にも届いていると信じることができますように」。神様の赦しは何よりも先立って進んでいます。わたしたちが何かをするよりも先に神様がわたしたちを赦して下さっているのです。

キリスト教のシンボルは十字架です。十字架はわたしたち全ての人に向かって「あなたの罪は赦された」とこれまでも、そしてこれからも罪の赦しを宣言します。十字架を見るたびにぜひ、「あなたの罪は赦された」というイエス様の御言葉を思い出してください。教会の外にも中にもある十字架を見たとき、だれかの胸にネックレスとしてかけられた小さな十字架を見たときでもいい。すべての十字架はこの自分に向かって、同時に、すべての人に向かって宣言します。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

毎週の礼拝の中で一緒に声を合わせて祈る「主の祈り」の中でわたしたちはこう祈ります。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。少し前の入門講座の時ですが、長く信仰生活を送られてきた人も参加してくれまして、その人が正直にご自分の苦しみ、疑問を話してくれました。それは主の祈りの中でこの罪の赦しの順番が今でも納得できないと言うのです。神様がわたしたちをゆるしてくださるのだから、わたしたちも他の人の罪をゆるしますという順番だったら、わかるのだがどうして先にわたしたちがゆるすと祈るのか、理解できないのです。その気持ちはよくわかります。神様ではなく、人間のゆるしの業が先行していることへの違和感であり、人を簡単にはゆるせないわたしたちの苦しみがあるからです。だから、この祈りに違和感を感じ、疑問に思うのです。でもイエス様はあえてわたしたちに挑戦されるのです。人をゆるすことが苦しい、だからそこに意味があるのだと。

イエス様は何人もの人たちに「あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様の赦しにはご自分が十字架の上で引き裂かれ、苦しむ痛みが伴いました。人を赦すことには痛みが伴うのです。実はその痛みと苦しみを感じることを通してはじめて、苦しまれながら御子を十字架につけた神様の赦しが少しずつですが、わかってくるのではないでしょうか?赦された者だから赦すだけにとどまらずに、人をゆるすことで自分の心も破れていくのです。

今も罪あるわたしたちですが、神様は「人をゆるす者として生きていきなさい。それこそがもっとも尊く、また健やかでわたしが願う生き方です」と言ってくださいます。「あなたをゆるします」と言えなくてもいい。「あなたの罪は赦された」との御言葉がゆるせないと思うあの人にも届いていると信じるのです。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。