2019年5月26日 これほどの信仰はこの中で

◆ルカによる福音書7章1〜10節
07:01 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
07:02 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
07:03 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
07:04 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
07:05 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
07:06 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
07:07 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
07:08 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
07:09 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
07:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

◆詩編34:2〜11
34:02 どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
34:03 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
34:04 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
34:05 わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
34:06 主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。
34:07 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
34:08 主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
34:09 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
34:10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
34:11 若獅子は獲物がなくて飢えても 主に求める人には良いものの欠けることがない。

わたしはこれまで何度かこの箇所を読んで来ましたが、どうもストンと理解することができていませんでした。それはイエス様がどうしてこの百人隊長をここまで褒めたのかがわからなかったからです。イエス様は群衆の方を見て、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と百人隊長を褒めました。でも、百人隊長の何に対して「これほどの信仰」と言ったのかがどうもしっくりこなかったのです。イエス様が「信仰」というのですから、神様を信じる心となるはずですが、この百人隊長の伝言を伝えた友達は「神様を信じます」などとは一言も言っていません。イエス様のところに使いとして来た友達は、イエス様にこう言いました。7節の途中から「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。8節「わたしも権威ある下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、そのとおりにします」。この友人の言葉をある本ではこのように説明しています。兵隊という組織は上にある者の命令は確実に下に伝えられてそのとおりになるから、同じようにイエス様の言葉も確実にそのとおりになる。だから、ひと言おっしゃってくだされば僕はいやされる。そのことをイエス様はこれほどの信仰と褒めたと書いてありました。皆さんはこの説明で納得されますか?わたしはどうもしっくりこないのです。この上意下達、上の者だから下のものには確実に徹底されるというニュアンスにわたしはどうも納得ができないのです。イエス様の「ひと言」が、何か軍隊の上にいる人が下の人に命令して、それに従うような感じで降りてくる、そのイメージがどうも、わたしのイメージするイエス様とは違うからです。

百歩譲って、その考え方に立ってみて、もし部下ではなく百人隊長が病気になったとします。その時に隊長の部下がイエス様のところにやってきて、「隊長が病気です。どうか癒してください。ひと言おっしゃってくださればいいです。」と言ったらどうでしょうか。イエス様はなんとお答えになるのでしょうか?わたしは、この部下に向かってもイエス様は「立派な信仰だ」と褒めたと思うのです。でも、そこには上意下達はありません。下に立つ兵隊が上にいる隊長のことを「助けたいと思っているだけです。

それでは、どうしてイエス様が「これほどの信仰を見たことがない」とわざわざ群衆の方に振り向いて百人隊長を褒めたのでしょうか?わたしはその答えをここ原町田教会に来て、原町田教会の仲間たち、皆さんですよ。この教会の神の家族の中で過ごす中でわかったのです。見えていなかったこの御言葉の意味が見えるようになったとも言えます。イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と褒めたのは、上とか下とかに関係なく、その関係の中に確かな信頼関係があったからだと気づいたのです。

この原町田教会の仲間たち、神の家族の中には確かにお互いを信頼していこうという風が吹いています。最近、わたしがそれを特に感じましたのは、今月の上旬に天に召されたSさんを囲む仲間たちとの関わりでした。Sさんが入院されてから何人もの原町田教会の神の家族が彼女を訪れて時に賛美歌を歌い、一緒に祈り、また励ましの言葉をかけてきました。もちろんそこには彼女の人柄もあったと思いますが、でも、それは二次的なことで、何よりもそこには信頼関係に裏打ちされた神の家族への思いがあった、わたしはそう受け止めます。彼女は原町田教会の神の家族となってからすでに20数年が経っていますので、そのかけがえのない時間の中で礼拝を共に捧げ、一緒に食事をして、時には一緒に宿に泊まることもあった人が与えられました。時間をかけて神様の導きの中で築き上げられた信頼関係があったからこそ、彼女のために多くの祈りが捧げられてきたのです。それは今も同じです。この神の家族の中に今現在も療養している人、病院で先日手術を受けた人、ホームに入っている人のことをわたしたちは覚えて祈っています。実際に病院に行けなくても、実際にホームを訪ねることができなくても、この祈りの積み重ねがわたしたちを信頼し合う関係へ導いてくれるのです。

どうぞ、これからも他者のため、祈りを必要としている人のために祈ってください。わたしもつい先日、手術を受けた人のために祈りました。「神様、手術が無事に終わりますように。◯◯さんをどうぞお守りください」。このように人のために祈り、その人とその後に実際に会いますと「祈っていましたよ」と伝えることができます。伝えなくてもいいと思う人もいると思いますが、そのようにさりげなく伝えますとそこに信頼関係という目には見えない、でも確実にある主にあるつながりが太くなってきます。どうして信頼関係を築かなければいけないのですかと思うかもしれません。特にあの人のことは考えたくもない、あの人のことを祈ることなんかできるものか、と思うこともあるかもしれません。でも、イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と言われているのです。互いに信頼していくことがどれほど素晴らしいことか、とイエス様が言われているのですから、わたしたちは努力してあの人のことは考えたくもないという人から「行け」と言われてもすぐに「わたし行きますね」と言えるぐらいになる、そんな原町田教会の家族を目指したいのです。

「一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、そのとおりにする」のは、行けと言われた人が行けと言った人を信頼しているからです。これまで何度も「行け」と言われたところに行ったけど、無茶なところに行かされたことは一度もない。部下であるわたしのことをあの隊長はよく考えてくれているなと感じることが何度もあったのでしょう。また、「来い」と言われた人も同じようにあの隊長は自分のことだけを考えて「来い」と呼ばれたのではない、わたしのことをよく考えてくれていると感じたことがあったのでしょう。ですから、「行け」と言われたらその人を信頼してすぐに行く、「来い」と言われればその人を信頼していますからすぐに来る。イエス様はその言葉の中に秘められている信頼関係を見てとったのです。仲間をとことん信頼する。信頼関係が太くなるように仲間のために祈り続ける。信頼関係はすぐにできあがることではありませんから時間をかけて、またお互いに努力して築いていく。百人隊長と部下たちは毎食、食事を一緒にし、寝るときも一緒にして、家族のように生活をしていたはずですから、そのような信頼し合う関係を築きやすかったのかもしれません。わたしたちは週に1日だけ、こうして教会に集っているだけですから、そんなに簡単に信頼関係を築くことは難しいですと言う人もいるかもしれません。その通りです。だからこそ、この週に一度の礼拝を何よりも大切にして集いたいと思うのです。

以前、わたしは日曜日がくるのをなんとなく憂鬱に感じていた時期がありました。日曜日に説教をすることが喜びというよりも緊張という感覚です。間違ったことを言ってしまわないだろうか、福音を心から喜びをもって伝えることができるだろうか。そう思ってしまう。でも、原町田教会に来てからは、日曜日がくるのがとても楽しみに感じています。日曜日に朝、目覚めますと「神様、今日、教会に行けますことを本当にありがとうございます」と祈ります。福音を伝えることも嬉しいことですし、何よりも教会の仲間、神の家族に会えるということがどれだけ嬉しいことか。日曜日にみなさんに会えるのがわたしにとって何よりもの喜びとなっています。この礼拝に出るためにゆっくりと歩いて時間をかけて来られる人がいます。先日、わたしは礼拝の後、その人に会って「◯◯さんに会えて嬉しいです」と伝えました。毎週、毎週、当たり前のように会っていると思ってしまいがちなわたしたちですが、実は毎週、毎週、神様がわたしたちを生かし、守ってくださっているからこそこのように出会うことができています。礼拝を捧げることができるのは、神様の御業です。そのことをよく噛み締めて「今日も、お会いできて嬉しいです」とあの人に、あの人にも伝えましょう。そして、苦手なあの人がもし祈りを必要としているならば、苦手なあの人のためにも祈りましょう。この集いはわたしたちではなくて、神様が集めてくださったのですから、できないことはありません。イエス様がここにいてくださっていたら、そのように祈り合うわたしたちを見てこう言われるはずです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

異邦人だった百人隊長に向かってイエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。当時のユダヤの人たちにとっては驚くべき発言です。ユダヤ人だけに限られた信仰対象だった神様は、イエス様によってすべての人を元気にするための神様に広げられたのです。律法とか割礼とか、神殿での祭儀といった信仰の形にこだわっていた人たちは「これほどの信仰を見たことがない」との言葉に驚き、嫉妬し、怒ったかもしれません。でも、イエス様はそんなことは気にしません。「自分が来たのは苦しんでいる人を助けるため、信仰もそのためにある」と思われていたのでしょう。

わたしはイエス様が言われた「信仰」という言葉を狭く考え過ぎていました。信仰というのは、神様にだけ向けられる心だと思っていました。しかし、原町田教会での信頼関係を経験して、信仰というのは、人間が神様を信じるだけに限られたことではないんだ。わたしたちが互いに信頼しあうこと、その信頼関係があってこそ、神様を信じる心が育まれ、そのような信頼の中でわたしたちは元気にされていくんだと気づいたのです。イエス様は言われています。一番大切なことは、神様を愛すこと。同じく、自分を愛するように隣人を愛すること、それが何よりも大切。神様はできるだけ多くの人に元気になってもらおうと今もこの教会を用いておられます。体に病気があって元気をなくしている人、心に病気があって落ち込んでしまっている人を元気にするために神様はわたしたち教会をたててくださっています。病気の人、苦しみの中にある人のために祈ってまいりましょう。自分が苦しいときには神の家族に祈ってもらいましょう。そのような祈りあい、信仰するわたしたちにイエス様は言われます。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。