2019年4月14日 わたしと一緒に楽園にいる

◆ルカ福音書23章32〜49節
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

◆詩編22:2〜12
22:02 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:03 わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:04 だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方。
22:05 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。
22:06 助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:07 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:08 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。
22:09 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

アートバイブルという本がありまして、2003年に1冊目が発行され、その5年後には2冊目が発行されています。聖書の御言葉とその御言葉を絵画で表現した作品がたくさん載せられていて、見るのがとても楽しい本です。わたしは毎週の週報の表紙の絵を選ぶ時によくこの本を参考にしています。アートバイブルを見ていまして面白いのは、一つの御言葉に対して絵が一つだけでなく、いくつかの違った画家の絵が載せられていまして、それを見比べていますと一つの御言葉をどう受け止めるのか、人によって違いがあることに気づかされます。この本の中で特に一つのテーマでたくさんの違った絵を紹介しているものがあるのですが、皆さん、なんのテーマだと思いますか?それはやっぱりイエス様が十字架につけられた絵です。今回、イエス様が十字架に架けられている絵をゆっくり見て気づいたのですが、この本で紹介されている絵のほとんどは、イエス様お一人が十字架に架けられているものでした。イエス様がお一人で十字架に架けられている絵の多くは両手を広げ、手に釘を打たれたイエス様が絵の全体を占めています。ただ、今日の御言葉が伝えますのは、イエス様は一人ではなく、一緒に二人の犯罪人が十字架につけられたとあります。23章32節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった」。続く33節「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」。イエス様は二人の犯罪人と一緒に十字架につけられたのですが、そのことを描いた絵もいくつかありまして、今日の週報に載せたレンブラントの絵はその一つです。

聖書を読んでいる時ですが、わたしたちは「もし、この聖書の時代に自分がここにいたとしたら、自分はここに登場する誰と似ているだろう?」と思いながら読むことがあります。今日の出来事、イエス様が十字架に架けられている出来事の中で、もし、自分がここにいたとしたらどの人と自分は重なるところが多いだろうかと想像するのです。そこに立って見ていた民衆に自分を重ねるでしょうか?「他人を救ったのだ。もし神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがいい」と嘲笑った議員、あるいは「お前もユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言った兵士たちでしょうか。あるいは49節に登場している「遠くに立って見ていた婦人たち」でしょうか?それとも二人の犯罪人でしょうか?多くの人は35節「民衆は立って見つめていた」とある民衆の立場に自分は近いと感じるのではないでしょうか?わたし自身も長らくそう思っていました。もし、自分がここにいたら何もできずにただそこに立っていたか、あるいは周りに合わせて「十字架につけろ」と叫び、イエス様が死なれた後には感動して、48節にある通り「胸を打ちながら帰って行った」群衆の一人だろう、その場に「何もしていないで」立ち尽くす群衆の一人と思っていました。

しかし、「何もしていない」で見ていることも実は人を苦しめることになる。「何もしないで」その場に傍観者としていることも実は罪を犯しているということにわたしは先日、ある短い文書を読んで知らされました。その文章を読んでわたしは頭をガツンと殴られるような衝撃を受けて「あ、自分は民衆ではなくて、イエス様の後ろで十字架につけられた罪人の一人なんだ」と気づいたのです。

34歳になる和田さんという作家が先日、新聞にこんな投稿をしていました。和田さんは自分が中学生の時、自分はいじめの加害者だという意識をつい最近まで持っていませんでした。それは久しぶりに再会した中学のクラスメートの一言「あの時は自殺してもおかしくなかった」と言われるまでは、自分といじめは関係ないと思っていたというのです。「自殺してもおかしくなかった」と言ったクラスメートの彼女はそこまで追い詰められていたのかと和田さんはそれを聞いて驚き、同時に自分自身が当事者意識をまったく持っていなかったことにも驚いたと言うのです。なぜなら、和田さんは実際に「何もしていなかった」からです。中学の3年間、彼女へのいじめは、「されたらイヤなこと」をすべて詰め込まれたゴミ箱のようでした。叩かれ、ばい菌と呼ばれ、机を廊下に出されていましたが、和田さんはそれを「何もしないでただ見ていました。叩くことに加わらず、でも助けもせずに少し居心地悪くしながらも多くのクラスメートと同じように何もせず見ていました」。その態度が、彼女に「自殺を考えさせるほどの苦しみ」を与えていたのです。和田さんはその後にこう書いています。「仮に彼女が自殺してもわたしには罰は下らない。教育委員会や警察がわたしを調べても、本当に『何もしていない』のだから。だからのうのうと生き、彼女の苦しみを知らずに大人になった。善人とは何か。波風立てず問題を起こさず、静かに生きている善人たちが、虚構を作っている。わたしもその一人だ」。そして最後の和田さんの一文を読んで、わたしは「十字架につけられているイエス様を見ている民衆に自分を重ねていたが本当はそれだけではなかった」と思ったのです。和田さんはこう言います。「差別やいじめは悪人から始まるものだろうか。テロリストは犯罪ばかりする家族から生まれるだろうか。案外、善人のつくる静かな平和から、それらは醸成されるかもしれないということを、わたしたちは今日も黙殺し、あるいは知らないまま生きている」。イエス様の十字架を傍観者として見ているだろうと想像するわたしは今も「何もしていない」という過ちを犯している罪人なのです。「何もしていない」から、わたしには罪はないと思って、イエス様が十字架に架けられているのを正面から見ているのではない。本当は、十字架に架けられたイエス様を斜め後ろから、しかも自分も十字架につけられた状態で見ているのがこのわたしなのだと気づいたのです。

苦しむ人がいてもわたしは「何もしていない」から、加害者ではない、自分は何も悪くないと思いたい。でも、苦しむその人たちを助けようとしないことは加害者とあまり変わらないことなのです。

この後に歌います讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」では、イエス様が十字架につけられたとき、主が釘で打たれたとき、主がやりで刺されたとき、あなたもそこにいたのかと問いかけます。今日の御言葉からこの歌に付け足すならば、議員や兵士がイエス様をあざ笑ったとき、イエス様が大声で「父よ、わたしの霊をあなたの手に委ねます」と言って息を引き取られたとき、あなたもそこにいたのかとなります。そうです。わたしたちはそこにいました。群衆として、ときには兵士として、また婦人として、「本当に、この人は正しい人だった」と言う百人隊長としてそこにいました。ただ、忘れてはならないのは、わたしたちは「何もしていない」という罪によって刑罰を受けるべく犯罪人の一人としてもそこにいて、自分の十字架を背負いながらイエス様が十字架に架けられているのを後ろから見ているのです。

犯罪人の一人はイエス様に兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。イエス様はそれには何もお答えになりません。しかし、もう一人の言葉にイエス様は答えられています。もう一人はこう言いました。40節「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。続けて「イエスよ、あなたの御国に御出でになるときには、わたしを思い出してください」。わたしたちもこの犯罪人のように「わたしは罪人です」と告白し、イエス様に話しかけたいのです。「わたしたちは十字架を背負っています。でも、イエス様、あなたは何も悪いことをしていないのにわたしたちの罪のゆえに十字架に架けられ、苦しまれている。イエス様、どうかあなたが神の国に行かれるときにはわたしのことも覚えていてください」。この犯罪人の一人はわたしたち自身であり、わたしたちの良き模範です。イエス様は罪人であるわたしたちに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。何も悪いことをしていない方が十字架に架けられることによって神の国がそれまでは開かれていなかった犯罪人にも開かれたのです。明らかにわたしたちの罪のため、イエス様はわたしたちのために苦しんでくださっている。そう信じて「わたしは御国に行けないと思うけど、イエス様に思い出してもらえるだけで本望です」と心から思う時、イエス様の声が聞こえてくるのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

これが福音の御言葉です。わたしたちの多くはこの犯罪人のように自分の十字架を背負いながら日々生活をしています。わたしたちが背負う十字架は、「何もしない」罪だけでなく、体や心の病気であったり、人間関係から生まれる重荷もそうですし、歳を重ねて老いていくことで、できないことが増えていくことも十字架の一つです。そのようにわたしたちは自分の十字架を背負いながら、すぐ目の前に十字架に架けられたイエス様を見て、「イエスよ、わたしを思い出してください」と言うことができます。この苦しみをイエス様が覚えていてくださると確信するだけでも心は軽くなるのですが、イエス様はそれをはるかに超えた福音を今日与えてくださいました。イエス様は、わたしたちにはっきりと言われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。どんな重荷を背負っていても、「何もしていない」という過ちを日々犯す罪人であっても、あなたたちは今日、イエス様と一緒に楽園にいるのです。イエス様は正しい人のためではなく犯罪人のために死なれました。良い人のためではなく、悪い人のためにイエス様は命を捨てられ、血を流されたのです。あなたのために主イエス様が命を捨てられ、あなたのために主イエス様が血を流されたのです。あなたたちを罪から救うために、あなたたちに命を与えるためにイエス様は死なれたのです。

時々、心の深いところで「わたしは本当に救われるのだろうか?」「こんな罪深いわたしが天国に入れるのだろうか?」と不安を感じることがあります。でも、それは人の心の思いであって、神様の御心ではありません。イエス様は、十字架を背負いながら歩くすべての人に神様の御心をはっきりと宣言されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。