2019年2月24日 苦しみにあってもあきらめない

◆ルカによる福音書5章12〜26節
05:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
05:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
05:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
05:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
05:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
05:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
05:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
05:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
05:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
05:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
05:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
05:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
05:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
05:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
05:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

◆詩編103:1〜13
103:01 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。
103:02 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
103:03 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し
103:04 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
103:05 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。
103:06 主はすべて虐げられている人のために 恵みの御業と裁きを行われる。
103:07 主は御自分の道をモーセに 御業をイスラエルの子らに示された。
103:08 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。
103:09 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。
103:10 主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。
103:11 天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
103:12 東が西から遠い程 わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
103:13 父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

 

わたしは毎朝、短い時間ですが聖書を読んで祈っています。教会や幼稚園の皆さん、特に痛み苦しみの中にある人を覚えて祈ります。そのあと、朝ごはんの前にも家族揃って「神様、今日も一人一人が元気に朝を迎えられましたことを感謝します。今日も心と体の健康を支えてください」と祈ります。その後、幼稚園に来て8時30分から始まる朝礼の時にも職員と一緒に祈っていまして、園では職員が順番に祈ります。「神様、子ども達、その家族、また職員一人一人の心と体の健康をお守りください」。わたしたちの祈りの多くは、自分の健康、身近な人の健康を願う祈りだと思いますが、今の季節、祈っていましても風邪を引いてしまうこともあります。そんな時は、「神様がいつもあなたは頑張っているから、少しはお休みしていいのですよ」と休ませてくれたと受け止めるようにしています。誰でも風邪ぐらい引きますし、実際に疲れている時ほど風邪を引きやすいのですから、風邪を引いたときくらいは堂々と「やすみます」と言ってゆっくりできます。でも、病気は病気でも重いもの、なかなか治らない、あるいはずっと治らない病気になった場合はどうでしょうか?「神様が与えてくれた休養期間だ」とは簡単には思えませんから、心から治してほしいとただ心から願い、祈ります。わたしたちの「健康をお守りください」との日々の祈りは、そのような重い病気からお守りくださいとの願いだと言えます。今日の聖書に登場する2人の人物はその祈りを繰り返し祈ってきた重い病気を患った人たちでした。

最初の人は全身に重い皮膚病を患っていました。当時、このような病気にかかった人は、家族から引き離され、街中に住むことが許されず、人に近寄ることもできませんでした。もし、その病いの人が誰か知らない人に近づいた時には「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければならないと定められていました(レビ記や民数記にその定めが書かれています)。でも、この人はイエス様の噂を聞きつけて、何としてもイエス様にお会いしたいと思って、本当は来てはいけないところにやって来て、決死の覚悟で、人に見つからないように待ち伏せしていました。そしてイエス様を見つけたら、さっとそこから飛び出し、目の前にひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くおできになります」と願ったのです。その人がこれまでどんな思いでいたのか、イエス様はその思いと祈りをしっかりと受け止められ、「汚れた者です」と自分で言わなければならないその人にイエス様は手を伸ばし、肩に手を乗せ、ただれた顔や腕に触れ、そしてその人の手をぎゅっと握って言われたのでしょう。「よろしい、清くなれ」。

同じように全身が麻痺して動くことのできない中風の人とその友人たちも決死の覚悟でイエス様に近づいていきます。ちょっとでも間違えたら、屋根が崩れて自分たちも落ちてしまうかもしれません。でも彼らは屋根に上って瓦をはがし、病人を乗せて床ごとイエス様の前につり降ろしました。

この病いの2人とその友人たちは治らないと思ってしまうほどの重い病気になっても生きることを諦めていません。必死に祈り、願い、イエス様に近づいて行きます。その思いを受け止めてイエス様も危険を顧みずに全力で病いを治そうとされています。病気の人も、イエス様も諦めていません。

医学、医療がずいぶんと良くなった現代でも難病と呼ばれて、治すことのできない病気はまだまだあります。わたしの父も難病でしたし、原町田教会の中にも、また幼稚園の家族の中にもそのような病いを負っている人がいます。わたしはその病の中にある人やその家族を前にした時、何を話したら良いのか、どんな言葉で話しかけたらいいのか、迷うことがあります。でも、今日の御言葉が迷うわたしにあきらめず祈りなさいと勇気をくれました。2000年も前のイエス様の時代でしたら、重い皮膚病や中風を患えば、その病気はその人または近い人の罪や過ちに対する神様からの罰と思われていましたから、人間の力では何もできないと諦めるのが普通だったと想像します。しかし、彼らは生きることを決して諦めず、祈り続けていました。そうでなければイエス様に近づくこともしなかったでしょう。イエス様も彼らと同じように生きることを諦めていません。わたしたちも重い病気の人を覚えて祈り続けます。生きることをあきらめずに難病になっても、癌になったとしても、復活され今も共におられるイエス様が触れてくださる、支えてくださると信じ、祈り続けます。

先ほど歌いました讃美歌533「どんなときでも」を開いていただきたいのですが、左上に作詞者の名前「高橋順子」とありまして、その右横に1959年から1967年とあります。59年から67年まで生きたということですから、順子さんは7歳で天に召されたとなります。ご存知の方も多いと思いますが、彼女は福島県の新町(しんまち)教会の教会学校に通っていましたが、幼稚園の時に、重い病気(骨のガン)にかかりました。いろいろと治療してきましたが、治らない中、今度は足にガンが移ったので、片足を切り落とさなければならないと医者に言われました。想像することすら辛いことです。でも、教会学校の先生をしていた人が順子さんの病院に来て、順子さんのお母さんと一緒に「大丈夫、イエス様が一緒にいてくださるから、大丈夫だよ。お祈りしようね」と励ましてくれました。十字架につけられて苦しんで死んでいったイエス様は、その後に復活されて、今も一緒にいてくださると順子さんは教会で聞いていましたし、そのことを信じる教会の人がここに来て祈ってくれる。足を切断する手術を受ける4日前に、順子さんは1つの詩を書きました。それがこの讃美歌の詩です。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの愛をしんじて。どんなときでも、どんなときでも、しあわせをのぞみ、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの愛があるから」。彼女の病気そのものは治りませんでした。けれども彼女の信仰、イエス様の愛を信じていれば、どんなときでも苦しみに負けずに、くじけないで生きていける。その信じる想いは確かに生き続けています。重い皮膚病の人も同じでした。この人もあきらめずに、くじけずにイエス様のところに向かっていきました。中風を患っている人とその友人たちもあきらめずに屋根に登って瓦を外してイエス様のところに行きました。

わたしたちも同じようにあきらめずに祈り続けます。病気そのものが治らなかったとしても高橋順子さんの信仰、皮膚病の人や中風の人とその友人たちの信仰は今も歌や御言葉を通して生き続けていますように、わたしたちの信仰も復活のイエス様に繋がれて生き続けると信じます。今、まさにここに集う原町田教会の家族の中にも重い病気を患いながらも主にある希望を失わずに生きている人たちがいます。病いを患って、時にくじけそうになりながらも「イエス様の愛があるから」と歌うのです。その人たちの生きる姿そのものが、今日の御言葉の現代版なのではないでしょうか。病気を抱えながらもイエス様に会うためにゆっくり歩きながら、普通の人の2〜3倍の時間をかけて礼拝に集う人は、イエス様に友人たちの助けをかりて会いに来たあの中風の人に似ています。

先ほど、招詞で読まれましたコリントの信徒への手紙一の10章11節にはこうあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられなかったようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださいます」。

10日ほど前のことですが18歳の水泳選手、池江璃花子(いけえりかこ)さんは自分が白血病と診断されたことを公にし、それがニュースとなりました。彼女のところにはたくさんの人たちから、温かい励ましの言葉が届き、それに対して彼女は、ツイッターでこのように答えました。「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。いまは、完治を目指し、焦らず、周りの方々に支えて頂きながら戦っていきたいと思います」。彼女のコメントを読んですぐにわたしは、これは、コリントの御言葉だとわかりましたが、皆さんもそうじゃないですか?御言葉は今も生きて、重い病気を患った人など困難にぶつかった人たちを支えています。
わたしもこのコリントの御言葉が好きなのですが、「逃れの道をも備えていてくださる」という箇所を苦しいことがあっても必ずそこから逃げられる道、そこから離れて遠くを通っていくような違う道が与えられるのだと理解していました。しかし、先日読んだあるコラムにはこうありました。「逃れの道とは迂回路ではなく、出口が本当の意味であり、試練を避けて別の道を行くのではなく、その真っ只中を通り抜けた先に与えられる出口。神様が寄り添ってくださるから、どんな試練をも通り抜けて、希望の出口まで達することができる」。

重い皮膚病を患っている人も中風の人も、また高橋順子さん、池江さん、ここに集うわたしたち1人ひとりも試練や苦しみを通る中でこそ、イエス様と出会うことができるのだと思うのです。痛みや苦しみの中にあってもイエス様が寄り添ってくださっている。治ることのない病気、なかなか終わらない苦しみの真っ只中を通って、わたしたちはイエス様に出会います。たとえ病になっても、治るかどうかわからない病気であっても、イエス様を信じる心はなくなりません。なくなるどころか強められていきます。「わたしはあなたが耐えられない試練は与えない」との御言葉によって神様はわたしたちに寄り添い続けておられます。イエス様を信じる信仰は永遠なるイエス様としっかりとつながっていますから決してなくなることはありません。イエス様はわたしたちの手に触れてくださり、わたしたちの祈りを受け止めて言われます。「あなたの罪は赦されている。起き上がって、自分の家に帰りなさい」。わたしたちは「神を賛美しながら家に帰って行った」中風の人と同じように、わたしたちの中で今も生きて働かれる神様の御業をこれからも賛美してまいります。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。