2019年1月20日 御言葉は今日実現した

◆ルカによる福音書4章16〜30節
04:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
04:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
04:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
04:19 主の恵みの年を告げるためである。」
04:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
04:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
04:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
04:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
04:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
04:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
04:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
04:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
04:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
04:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
04:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

◆詩編111:1〜10
111:01 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる 正しい人々の集い、会衆の中で。
111:02 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
111:03 主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。
111:04 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
111:05 主を畏れる人に糧を与え 契約をとこしえに御心に留め
111:06 御業の力を御自分の民に示し 諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
111:07 御手の業はまことの裁き 主の命令はすべて真実
111:08 世々限りなく堅固にまことをもって、まっすぐに行われる。
111:09 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

イエス様が小さい頃から大人になるまで暮らしていましたガリラヤ地方のナザレは、ある聖書学者によれば人口500人ほどの村であったと言われています。500人と言いますとこの原町田教会が150人ほどの教会員数ですから、この教会が3つほどのイメージです。そのような小さな村でイエス様は大工仕事をする父ヨセフと母マリア、また兄弟たちと一緒に生活してきました。イエス様は幼少期をどのように過ごしたのか、福音書はあまり語っておりません。なぜなら、福音書の中心はイエス様の十字架と復活だからです。しかしながら、イエス様ご自身が聖書の御言葉をどう理解し、どんな経験をされて、生きてこられたのかを幸いなことにわたしたちは福音書を通して知ることができます。また、それ以上に幸いなことは、聖書が語る御言葉を、現代のわたしたちも経験することができるのです。すでにわたしたちは預言者イザヤが語った御言葉が実現したことを経験しています。イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この御言葉は、2000年前のベツレヘムで確かに実現しましたし、わたしたちも先月ですが、この御言葉の実現をクリスマスとしてお祝いしました。クリスマスにインマヌエルなるイエス様がお生まれになった。それゆえにイエス様が今もわたしたちと共にいてくださり一人一人を支えてくださっているのです。まさに御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現したということです。

これは2000年前のことだけではなく、2019年を生きるわたしたち一人一人が経験することでもあります。イエス様は言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とのイザヤ書61章1〜2節の御言葉が2019年のわたしたちの経験としても実現しているのです。

御言葉が今日、実現しているんだということをわたしたちが経験するためには、まず何よりもイエス様を信頼することが大切です。ナザレの会堂にいた人たちはイエス様の口から出る恵み深い言葉を聞いて驚いたのですが、イエス様の言葉を信じて「アーメン、それは本当です」と言わずに、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。イエス様が「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言ったのですから、ナザレでも捕らわれている人が解放され、見えない人の視力の回復と圧迫されている人の自由がすでに実現していたのですが、会堂にいた人たちはそれを信じることができなかったのです。なぜならば、彼らは御言葉に培われた経験ではなく、人の言葉に培われた経験からイエス様を見てしまったからです。人の言葉から見ればイエス様はどこにでもいるような大工職人ヨセフの息子となりますから、会堂で人に教えるような立場ではありません。「あいつはあのヨセフの子ではないか」と見てしまうのです。しかし、御言葉に培われた経験からイエス様を見ますと違って見えてきます。

わたしたちもこのナザレの会堂にいた人たちのように人の言葉からいろいろと影響を受けています。知らず知らずのうちに、御言葉でなくて人の言葉で物事を解釈してしまうことがあるのです。例えば、何か悪いことがあった時に人の言葉はこう言います。「あなたが何か良くないことをしたからそうなったのでしょう」。わたしたちが事故を起こした時、受験やテストに落ちたとき、災害にあった時、病気になった時、自分自身でも「日頃の行いが悪かったんだ。だからこうなってしまったんだ」と何の疑問もなく思ってしまう。反対に良いことがあると「日頃の行いがいいからだね」と人の言葉は伝えます。しかし、御言葉はそのようには語りません。事故を起こしても、テストに落ちて落ち込んでいても御言葉は、「そのことを通してすら、神様は栄光をあらわそうとされている」と伝えます。災害にあっても、病気になっても御言葉は「あなたが悪いことをしたからそうなったのではなく、あなたの家族が罪を犯したからでもなく、神の業があなたに現れるためだ」というのです。御言葉に培われた経験があれば、自分自身や他の人が経験していることをそのように解釈できるのです。

わたしたちが生きる現代は特に「経済が成長すること」が何にも増して良いことだと伝えます。ですから、そのような「人の言葉」の影響を受けて知らず知らずの内にわたしたちは損得勘定で物事の判断をしてしまうことがあります。損得勘定という人の言葉を御言葉よりも大切にしてしまうのです。「あの人と付き合ったら自分がどれだけ良い経験ができるだろうか?自分にとって学ぶことがあるだろうか?」と思ってしまうのです。教会の礼拝に来ることも「今日の礼拝で自分はどれだけ学ぶことができただろうか?」と考えて、あまり学ぶことがないから止めておこうとなる。自分がどれだけ損するのか、または得するのか?自分の中からすぐに取り出せるものさしが、「損得勘定ものさし」になってしまう恐れがあります。御言葉を信じて今日を生きるわたしたちは、その損得勘定ではなく「御言葉ものさし」を常備しておきたいのです。人との関わりでは、「あの人のことをわたしは祈ったことがあるだろうか?」と立ち止まって考える。礼拝に出て「自分は御言葉によって作りかえられているだろうか?」「神様がわたしをあるがまま受け入れてくださっている、赦してくださっていることに感謝できているだろうか?」と考えるのです。「御言葉ものさし」をすぐに取り出せるようにしていれば、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とのイエス様の御言葉に「アーメン」と答えられるようになっていくのだと信じます。

とは言いましても、人の言葉は繰り返し語り続けます。今や科学(サイエンス)こそが人類を救う鍵だから、バイオテクノロジーを使ってヒトゲノムや脳の研究が進められていまして、難病と呼ばれる治すのが難しい病気も近い将来には治療できると言われています。とにかく21世紀になって科学技術はものすごいスピードで進んでいます。科学こそ人類を救う鍵だからわたしたちはそこにエネルギーを注ぐべきだと人の言葉は伝えますが、その進む先には未知なる世界が広がっています。例えば、人が望めば科学の力によって生まれてくる子どもを自分の理想通りにデザインすることができる、いわゆるデザイナーズベイビーが生まれてくる可能性があります。実際にアメリカなどではすでに精子バンクというものがあって、女性が自分で望む男性の精子をインターネットで検索して、購入して人工受精して妊娠、出産しています。髪の毛の色、目の色、優秀な大学を出た人、病気のことなども調べるのでしょう。科学こそ人類を救う鍵だという人の言葉には注意しなければなりません。なぜなら御言葉はこう言うからです。命あるものはすべて創造主なる神様が造られたもの。それらは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。わたしたちが望んでいないようなことが起きたとしても、望んでいないような人と関わることになったとしても、その人も神から出た大切な命だと御言葉は語るのです。

さて、ナザレの会堂にいた人たちはイエス様を崖から突き落とそうとしました。それは彼らがイエス様の御言葉を勘違いしていたからだと思います。イエス様は「あなたたちに救いはない」と彼らに言われてはいません。イエス様は「すでに救いの御言葉は実現した」、「あなたたちはすでに解放され、視力も回復し、自由となった」と救いを宣言しているのですが、会堂にいた人たちはそれを信じて受け入れなかったのです。そこですでに実現している救いを彼らの目を開いて見せるために、イエス様は旧約聖書の2つの出来事を伝えました。それが列王記のエリヤとエリシャが同胞のユダヤ人ではなく、異邦人を助けた出来事です。イエス様はあえて外国人の2人を例として取り上げていますが、この2人に共通していることは苦しい状況にあっても伝えられた御言葉を信じて、それを行ったことです。サレプタのやもめは自分と息子の分しか残っていなかった小麦粉を使いきってパンをエリヤにあげました。壺の粉は尽きることがないと言った神様の御言葉を信じたからです。ナアマンは3度ヨルダン川に浸かりなさいと伝えたエリシャの御言葉を信じて恥を忍んで浸かりました。御言葉は実現するんだと信じて、自分自身とまわりを見るのです。そうすれば、主イエス様がすでにわたしたちを様々な囚われから解放してくださっているのが見えてきます。

捕らわれている人の解放も目の見えない人の視力の回復も、圧迫からの自由もナザレの人たちだけに与えられた特権ではなく、すべての人に与えられる恵みだとイエス様は伝えます。しかも、救いに預かるはずもないと思われていた異邦人であるサレプタのやもめとシリア人ナアマンが共に神様からの助けを頂いたというのです。これは「人の言葉」によって人を分け隔てて見てしまいがちなわたしたちに対するイエス様からのメッセージです。

イエス様によってすべての人はすでに救われています。すでに赦しは宣言され、主の恵みの年は始まりました。その御言葉を通してわたしたちは繰り返し自分自身を見るのです。こんなわたしは救いに価するのかとか、このわたしが愛され、赦されるなんてありえない、と勝手に決めつけてしまうことはないでしょうか?それは人の言葉で自分を見ているためです。御言葉は言います。「あなたはすでに捕らわれから解放されている。御言葉によってあなたの視力は回復し、自分自身を神様に愛された神の子として見ていいのです。それが圧迫からの解放であり、あなたは主にあって自由なのです」。イエス様を通して、聖書の御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現しています。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。