2018年11月11日 約束を信じて一歩

◆創世記18章1〜15節
18:01 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:02 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:03 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
18:04 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:05 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
18:06 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
18:07 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
18:08 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
18:09 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、
18:10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。
18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。
18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

◆ローマの信徒への手紙9:8〜9
09:08 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
09:09 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。

◆詩編105:1〜11
105:01 主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。
105:02 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい 驚くべき御業をことごとく歌え。
105:03 聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き
105:04 主を、主の御力を尋ね求め 常に御顔を求めよ。
105:05 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を 主の口から出る裁きを心に留めよ。
105:06 主の僕アブラハムの子孫よ ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。
105:07 主はわたしたちの神 主の裁きは全地に及ぶ。
105:08 主はとこしえに契約を御心に留められる 千代に及ぼすように命じられた御言葉を
105:09 アブラハムと結ばれた契約 イサクに対する誓いを。
105:10 主はそれをヤコブに対する掟とし イスラエルへのとこしえの契約として立て  
105:11 宣言された 「わたしはあなたにカナンの地を 嗣業として継がせよう」と。

今から40年近く前の1979年に子門真人さんがある曲をレコードで売り出しました。この曲ですが、ご存知ですか?「アブラハムには7人の子、一人はのっぽであとはチビ。みんななかよく暮らしてる。さあ踊りましょう。みぎー手」。教会やYMCAのキャンプ、幼稚園や保育園でも歌われている曲です。元はアメリカの童話だと言われていますが、日本では、「およげ!たいやきくん」で有名な子門真人さんがこの曲をレコードに出してから知られるようになりました。この歌ではアブラハムには7人の子とあるので、そうだろうと思ってしまうのですが、聖書をよくよく読みますとアブラハムには、まず最初に女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエル、次にサラとの間に生まれたイサク、そしてサラが天に召された後にめとったケトラとの間に生まれた6人がいます。足し算しますと8人となりますので、正確に歌うと「アブラハムには8人の子」となります。ま、歌のことはいったん脇におくとしまして、8人ですからアブラハムにはとにかくたくさん子どもが与えられたことは確かです。

そのアブラハムが75歳の時です。突然、神様は次のような約束を彼に伝えました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。神様が初めてアブラハムに言ったのがこの約束の言葉でした。でも、その時まで子どもを持たなかった彼に子どもがすぐ与えられることはありませんでした。何年か経った後、神様は再びこのように約束の言葉を伝えました。「恐れるな、アブラムよ。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。最初の約束からすでに何年も経っていましたから、アブラハムは神様に問いかけます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。あなたはわたしに子どもを与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」。すると神様は言われます。「その者があなたの跡を継ぐのでなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」。そして神様は彼を外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。東京の夜のような空ではなく、満天の星がきらめく電気も何もない真っ暗な時代の星空ですから、その数は数え切れないほどでした。

今日の創世記18章では、アブラハムはすでに99歳となり、女奴隷ハガルから生まれた初めての子どもイシュマエルは13歳になっていました。でも、神様は人間の側の常識や知識などにとらわれることなく、約束を果たすためにアブラハムのところに使いの者を送られます。3人の人がアブラハムのところにきて、神様の約束を再び伝えます。18章10節「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」。この言葉を聞いたサラは笑いました。彼女は心で「そんなことは無理に決まっている。神様は20年以上も前からそう言っているけれども何も変わっていない」と思ったのでしょう。彼女の思いに多くの人は「そうだ、そうだ」と思うはずです。それがわたしたち人間の側の常識だからです。すると主なる神様は言われます。13節「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのか。主に不可能なことがあろうか」。

サラが笑ったように、わたしたちも時に自分の常識や知識から物事を見て、「そんなこと無理でしょう」と思ってしまうこともあります。信仰の父と呼ばれるアブラハムもそうでした。「そんなの無理」と笑ったのは実は彼女だけでなくアブラハムも18章の前のところで同じように「100歳の男に子どもが生まれるだろうか」と言って笑っています。信じて待ち続けていたけれども何も起こらない。実現するどころか、神様の約束とは違うようになっている。自分の目から見るとそのように見えてしまう。それがわたしたちの限られた視野なのでしょう。わたしたちの見える範囲は自分が経験したこと、あるいは知っている範囲ですし、時間で言えば長くても2、30年ぐらいの視野しかもつことができないのかもしれません。でも、神様が見える範囲は全然違います。時間で言えば1000年、あるいはもっと長い範囲で見ることができます。詩編90編にある通りです。「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。また、知識や知恵に関しても神様はわたしたちをはるかに超えています。わたしたちが科学的な研究によって得た知識にしてもまだまだこの宇宙のほんの少しだけしかわかっていないのですから、宇宙を造られた神様と比べようがありません。そのことを忘れて自分の理解できる範囲のことしか信じない。自分の許容範囲を超えることを信じることにわたしたちは時に恐れを感じるのかもしれません。

しかし、神様はわたしたちが「そんなの無理」と笑っても、理解できなくても、わたしたちが信じられないと思っても、約束されたことを必ず果たされます。アブラハムもサラも神様の約束を聞いて笑い、「あなたは確かに笑った」と少し厳しく指摘されましたが、神様はその約束を確かに果たされました。21章の1節にはこうあります。「主は、約束された通りサラを顧み(少し飛ばして)彼女は身ごもり、男の子を産んだ」。

どうして、わたしたちは素直に約束の言葉を信じられないのでしょうか?たぶん、それはわたしたち自身が約束を守ることが難しいからなのかもしれません。わたしは大学生の時ですが、フィリピンのネグロス島に行きまして、ある NGO団体の施設に1ヶ月ほど滞在してボランティアをしました。農業の研修などで来ていた地元の青年たちと一緒にマングローブの木を植えたり、豚の世話をしたり、寝泊りも一緒でしたのでとても仲良くなりました。最後の別れの日に仲良くなった人から「また来てね。約束だよ」と言われまして、わたしは「Yes また必ず来るよ」と答えました。でも、その約束は20年以上経った今でも果たせていません。「必ずそうするよ」と言ったことを時に守ることができない自分ですから、人が言った約束も素直に信じられないのかもしれません。

でも、幸いなことにわたしたちが信じられなくても、たとえ「そんなこと無理」と思って笑ったとしても、神様は約束したことを変更することなく果たしてくださいます。主なる神様は、わたしたちを愛し、すべての人のまことの生みの親ですし、その親なる神様がすでに果たしてくださった約束が聖書の中にたくさん載っています。アブラハムとサラへの約束以外にも、ヨセフをエジプトに送ってヤコブたち家族を助けるとの夢によって知らせた約束、モーセに伝えたエジプトからイスラエルの人たちを助け出す約束などなど、たくさんあります。それに加えて、今も進行中の約束やこれから果たされる約束もあります。それらの約束は、今を生きるわたしたちに神様が伝えている言葉です。例えば、ノアを通しての約束「水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」。ヤコブを通しての約束。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」。イザヤ書にはこうあります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直してすきとし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。イエス様が天に昇られる前に言われた約束の言葉はこうです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。終わりの日にはこうなるよとヨハネの黙示録で神様は約束の言葉を伝えます。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。わたしたち人間の常識を超えた約束をすでに何度も果たされてきた神様ですから、これらの約束も神様は必ずいつか果たされます。信じられないと思う時もあります。わたしたちの知識もまた心もグラグラと揺れ動くものですから、時にサラのように笑ってしまうこともありますが、神様は必ず約束を果たされます。だから、その約束を信じて生きていくところに希望があるのです。神様が伝える約束は時に常識を超えていると思ってしまうかもしれません。でもそれを信じて一歩、足を前に踏み出す先に道は開かれていくのです。アブラハムもサラも笑いましたが、その後、約束の言葉を信じて一歩踏み出しました。そうでなければ、子どもは産まれてこなかったでしょう。

わたしたちは毎週、礼拝の中で「神様を信じます」と声に出して言っています。使徒信条の中で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と声を合わせて一緒に信仰を告白しています。神様を信じるというのは、神様がいるとか、神様がいないとかそういう次元ではなく、神様がわたしたちに約束されているその言葉は必ずそうなると信じて一歩前に踏み出すことなのです。

ローマの信徒への手紙の9章8節にはこうあります。「すなわち、肉による子どもが神の子どもなのではなく、約束に従って生まれる子どもが、子孫とみなされるのです」。わたしたちは皆、それぞれに肉による親がいて、その親から生まれてきますが、子どもは親を選べません。でも、聖書が伝えるのは、すべての人は約束に従って生まれる神の子どもだということです。神様がアブラハムに最初に言われた約束は、「あなたによってすべての人が祝福に入る」でした。その約束は、わたしたちの罪をすべて赦してくださったイエス・キリストによって果たされました。すべての人は神の子どもとして今も祝福されています。これは神様の約束の言葉ですから、わたしたちは「イエス様によって、神様がこのわたしを含めたすべての人を祝福されている」と信じます。

今日は子ども祝福式ですから特に0〜7歳の子どもを覚えて神様の祝福を心から祈ります。でも、神様は70歳を超えた人も90歳を超えた人もすべての人を「あなたはわたしのかわいい子どもたち」と祝福しておられます。「そんなこと無理ですよ」と思って笑ってしまうこともあるわたしたちであっても、神様は「わたしが伝えた約束を信じて生きていきなさい。そうすれば、希望は決してなくならない」と言われていますから、神様の約束を信じてわたしたちは一歩前に踏み出します。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。