2018年10月7日 一緒に福音宣教

◆使徒言行録5章27〜42節
05:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
05:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
05:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
05:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
05:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
05:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
05:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
05:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
05:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
05:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
05:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
05:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
05:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
05:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
05:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
05:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

◆詩編37編30〜40節
37:30 主に従う人は、口に知恵の言葉があり その舌は正義を語る。
37:31 神の教えを心に抱き よろめくことなく歩む。
37:32 主に逆らう者は待ち構えて 主に従う人を殺そうとする。
37:33 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ 罪に定められることをお許しにならない。
37:34 主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて 地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
37:35 主に逆らう者が横暴を極め 野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た。
37:36 しかし、時がたてば彼は消えうせ 探しても、見いだすことはできないであろう。
37:37 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。
37:38 背く者はことごとく滅ぼされ 主に逆らう者の未来は断たれる。
37:39 主に従う人の救いは主のもとから来る 災いがふりかかるとき 砦となってくださる方のもとから。
37:40 主は彼を助け、逃れさせてくださる 主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

使徒言行録5章に出ていますペトロは、イエス様のことを3度も「知らない」と言って自分の身に危険が降りかかることを恐れた人でした。またペトロと一緒にいる使徒たちは皆、つい2ヶ月ほど前にイエス様を置き去りにして逃げていった人たちです。でも彼らは、イエス様を捕まえてピラトに引き渡したあの大祭司から「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と言われても堂々と次のように答えました。29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。それに続けて「こんなこと大祭司たちに言ったらイエス様と同じように殺されるかもしれない」と思うようなことをペトロや使徒たちは堂々と言うのです。30〜32節「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。この言葉を聞いた人たちは、激しく怒ったとあります。33節「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」。しかし、そこに民衆から尊敬されていた律法の教師ガマリエルが立って落ち着いた感じで言いました。38節「そこで、今申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」。

ペトロなど使徒たちは、イエス様によって始められた救いの御業は神様が始められたことなのだと確信していました。だから、堂々と大祭司を前にして「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言えたのです。彼ら使徒たちはみんな以前から強い信仰を持っていたわけではなく、皆、自分の力ではイエス様に従いきれなかった弱さや欠けをもった人たちです。でも「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く言えたのは、彼らが聖書をいっぱい勉強したからでもなく、たくさん修行したからでもなく、ただ、神様の力がそこに働いていたからですし、神様が主となってわたしたちと一緒に働いていてくださると信じていたからです。それともう一つ。彼らはイエス様を裏切ったという辛い経験をしていましたが、イエス様はそれをなんの償いもなく赦してくださった。そんなわたしたちだけれども福音宣教のために遣わしてくださった。その神様の愛を経験していたのです。イエス様に従うことができなかった弱さを持った使徒たちが、教会をスタートしていることにわたしは正直ホッと安心しますし、それと同時に神様はそんな彼らを福音宣教という御業のために用いてくださることにわたしは勇気をもらいます。福音宣教というのは、人間主導で行うことではなく、神様がわたしたち人間を用いて行う神様の御業なのだと聖書は伝えているのです。

使徒言行録は駅伝に例えるならば、聖霊の「ヨーイ、ドン」との掛け声によって、福音宣教の使命を受けた教会が走り始めたスタート地点です。山あり谷ありのコースで福音という名前のタスキを手渡して走り続ける教会を神様が先導し、神様がこのレースの総監督ですから、必ずゴールすることができます。スタート地点から走り始めたわたしたち教会は、2000年経った今も走り続けていますから、これは律法の教師ガマリエルが言っている通りです。「あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。原町田教会もその福音という名前のタスキを手渡されて、他の教会と一緒に走り続けています。普通、駅伝は他のチームよりもより早く走ろうとしますが、神様主導の駅伝はより早く走るのではなく、一人でも多くの人に福音という名のタスキを渡すことを目的としていますから、一緒に走る他の教会とも協力して走るのが特徴です。

今日は世界聖餐日であると同時に「世界宣教の日」でもあります。宣教と聞いて、誰がそれをするのか。福音を宣べ伝えるのはもちろんわたしたち教会であり、福音を手渡されているわたしたちだからこそ、福音を伝えることができる、そのように考えます。でも今日の御言葉にも関係していますが覚えておきたいことがあります。それは「神の宣教」、ラテン語で「ミッシオ・デイ」という考えです。キリスト教会の歴史の中で長くヨーロッパの教会は、「救いは教会から世界に及ぶ」と考えていました。その考え方から教会は、まだキリスト教が伝わっていない国々にどんどん宣教師を派遣しました。でも、そのような教会の宣教の業が当時のヨーロッパ各国の植民地主義に利用され、キリスト教を伝えていくことと同時に植民地支配に加担してしまったという負の歴史があります。そのことを反省し戦後になってからですが、WCC(世界教会協議会)は、「救いは教会から」だけでなく、「神様は教会に先立って、この世界で働いており、教会はその神様の働きを共に担い、この世に仕える群れである」と考え方を改めたのです。神様は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっています。だから教会は神様と一緒に福音宣教をしていく。これが「神の宣教」という考えです。

神様がわたしたちよりも先立って世界宣教を進めていると聞いて、ではどうして未だに世界では暴力がなくならず、また貧富の差があって、一部の人がものすごいお金持ちになり、反対にその日の食べるものにも苦労する貧しい人がまだいるのかと疑問も感じます。また、悪いことをする人が栄えていくようにも思えてしまいます。先ほど読みました詩編にもありました。37編35節「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た」。神様の言うことを聞かないで自分さえ良ければいいと思う人たちが勢いを増しているように見えるのです。ただ詩編では36節「しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても見いだすことはできないであろう」とありますから、悪いことをした人はみんな滅びて、良いことをした人が最終的には幸せになると思いたいわたしたちでもあります。しかし、この詩編はわたしたち人間の側からの思いを神様に祈り願う言葉ですから、そこにはおのずと限界があります。悪は滅び、主を信じる者だけが生き残るというのは神様の本当の御心ではありません。なぜなら、神様の前に立って見れば誰でもどんな人でも大なり小なり悪に心を動かされる罪人だからです。だからこそ、神様はわたしたち人間があの人は悪い人だとか、あの人は良い人だと勝手に判断するのを超えて、命与えられたすべての人を救うためにイエス様を送ってくださったのです。31節で神様はイエス様をご自分の右に上げられたというのはそのことを言っているのです。

使徒信条でも、イエス様は復活した後「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と言っています。イエス様は神様の右側にある椅子に今もどしりと座っている、そうイメージする人もいるかもしれません。でもこれはイエス様のいる場所を伝えているのではありません。イエス様が神様の右に上げられたというのは、イエス様が神様と同じようにわたしたちのいるところ、どこにでも共にいる神様の力を得て、今もわたしたちに「あなたは神様に愛された神の子ですから、あなたは独りではありません。だからわたしを信じて生きなさい」と福音を伝えている。「神の右に座したまえり」というのは、イエス様が神様と同じ普遍の存在だと伝えているのです。イエス様はまさに神様と同じ力を持つ救い主キリストであり、すべての人の救い主になられて今も生きて、わたしたちに先立って働いておられるのです。

教会につながる一人一人はこの事実の証人、あかしびと、イエス・キリストについての福音のタスキを手渡す素晴らしい使命を持っています。わたしたちに何か人にうまく伝える能力があるからでもなければ、長く教会に集っていれば福音を理解して伝えるのがうまくなるとか、聖書を勉強しなければできないとか、わたしたちの側の課題は二の次三の次で、まず何よりもこの計画やこの行動は神様から出たものであり、そのために神様が教会をたてられ、毎週日曜日の礼拝で福音が告げ知らされ、それが2000年も続けられている。これが人間から出たものではなく、神様から出たものであることは確かな事実です。

神様はわたしたちに福音を宣べ伝えるという喜びの働きを託されていますが、神様はわたしたちの働きを遠い天で椅子にどしんと座って眺めているわけではないのです。わたしたちに先立って神様ご自身が宣教されているのですから、福音のタスキをなんとか手渡そうと苦労しているわたしたちの走りをすぐ近くで見ていてくださり、時に「こっちの方に行けばいいよ」とわたしたちのところまで戻ってきて導いてくれる。そう思いますとホッとすると同時に力が湧いてきます。

わたしたちにできることは小さく、多くはありませんが、「神の宣教」の考え方からすれば、神様がわたしたちに先立ってわたしたちの小さな業をも福音宣教のために用いてくださっていると信じることができます。そこで特に大切にしたいのは、ただイエス様のことを知識や情報として伝えるのではなく、コリントの信徒への手紙に「愛がなければわたしに何の益もない。愛は決して滅びない」とありますから、愛をもって伝えることです。どれほどの知識があっても、どれほどの大事業を成し遂げたとしても、そこに愛がなければそれらは必ず消えてなくなります。わたしたちが取り組む福音宣教の活動でも愛がなければ、ガマリエル曰く「それは神から出たものではないので自滅する」でしょう。でも、小さな働きであってもそこに愛があれば、その行いを神様が支えてくださるのです。たとえ寝たきりで「生産性がないと思われても」その人が口で描く絵や祈りの言葉で一人でも力づけられるなら、それは小さいけれど愛の業です。80歳、90歳となって自分は「ご迷惑ばかりかけて申し訳ない」と思う人であっても教会の掲示板に説教題を書く奉仕をして、その掲示板を見た人が礼拝に集うようになるならば、それは小さいけれど愛の業です。わたしたちにできること、わたしたちが行うことは本当に小さなことなのですが、でもそこに愛があるならば、私たちに先立って働かれる神様がその働きを必ず助けてくださいます。この後に歌う讃美歌にある通りです。「小さな花をカゴに入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、暗い胸も晴れるでしょう。愛の業は小さくても神の御手が働いて悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう」。

福音宣教はわたしたち自身の生き方だと思うのです。神様がこんなわたしだけれども福音のタスキをくださっているのだから、わたしはあの人に神様の愛を手渡そう。わたしたちに先立っておられる神様がいるのだから、小さなわたしを用いてくださいと祈りながら「これを差し上げます」とタスキを渡す。後は神様の御手にお委ねすればいいのです。それは人間から出たものではなく、神から出たものですから、決して無駄になることも無くなることもありません。自分で伝えることが難しければ、「教会へどうぞお越しください」と心を込めてお招きすればいい。後は先立って働かれる神様の御手にお任せする。

わたしたちが今、手にしている福音のタスキは、使徒たちの時から2000年の間に綿綿と手渡され続けてきたものです。このタスキを手渡すわたしたち原町田教会の福音宣教の計画と行動は、人間から出たものではなく、神様から出たものですから、たとえ「イエスという名前を話してはいけない」と言われても、わたしたちは愛と勇気を持って福音を告げ知らせてまいります。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。