2018年9月16日 生きていることが素晴らしい ー大いなる肯定―

◆マルコによる福音書14章12〜25節
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

◆詩編96編1〜9節
96:01 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
96:02 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
96:03 国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。
96:04 大いなる主、大いに賛美される主 神々を超えて、最も畏るべき方。
96:05 諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ
96:06 御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。
96:07 諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。
96:08 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り
96:09 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。

今日の御言葉で気になるのは、やはりユダという存在ではないでしょうか。イエス様はこの食事の席でこのように言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしているものが、わたしを裏切ろうとしている」と言われ、続けてこう言われました。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。イエス様はユダについて言われているのですが、この言葉はあまりにもひどいなぁ、どうしてイエス様はこんなことを言うのかなぁと思ってしまう。この一言はそんな言葉です。この言葉は一見、イエス様がユダの命を否定しているようにも見えてきます。しかし、今日の箇所全体を読みますとイエス様はご自分のすぐ近くにいるユダを否定するわけでもなく、排除するでもなく、ユダも含めたすべての人のためにご自分の命をかけて大切なことを伝えようとしているのが見えてきます。

この食事の席にはユダがいました。イエス様がパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えた時も、杯を飲んで「これは多くの人のために流されるわたしの血である」とイエス様が言われた時もユダはそこにいてパンを食べ、杯から飲みました。ヨハネ福音書ではイエス様に裏切りを予告された後、ユダはすぐにそこから出て行ったとありますから、他の福音書でもユダは裏切りの予告の後にすぐ退席したと思うかもしれません。でも、マルコによる福音書が最も古い福音書ですし、もし退席したならそのように書いてあるはずなのですが、今日読んだところにも、マタイやルカ福音書にもユダが食事の席から立ち去ったとは書いてありません。ですから、イエス様は「これはわたしの体である」と言って手で裂いたパンも「これは多くの人のために流されるわたしの血である」と言って渡した杯もユダは受け取ったのです。もし、ユダがこの席にいなかったとしたらイエス様が命をかけて伝えたことが限定されてしまいます。しかし、イエス様はそこにいたみんなが杯から飲んだ後に「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」と言われました。ここからイエス様が自らの命を多くの人の罪のために献げられたと解釈されるようになりました。なぜなら、彼らは過越の食事をしていたからです。本当ならば罪を犯した人がその償いのために罰を受けなければならないのですが、その罰はその人の前を過越していき、イエス様ご自身がその罪すべてを小羊のように負ってくださったのです。イエス様が言われる「多くの人のために」というのは、すべての人のためにと言い換えても良いと思います。なぜなら、聖書は、繰り返し神様はこの世にいるすべての人を救うために御子イエス様をお送りくださったと伝えているからです。例えば、招詞で読まれましたヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。すべての人の命は神様が与えられたものですから、その中でこの人はダメで、この人は救われると神様が選別することはありえません。この世界、この世を愛されたというのですから、神様はこの世にいるすべての人を愛され、すべての人の救いのためにイエス様の命を過越の小羊のように犠牲とされたのです。

「すべての人のため」ですから、そこにはイエス様を裏切ったユダも含まれていますし、「わたしなど選ばれるはずはない」と思っている人もすべて含まれています。そこが神様からの大いなる肯定です。「自分はダメだ」と思う人であっても、「こんなわたしなんかゆるされるはずはない」と言う人も、「どうしてあんな人がゆるされるのか」と思ってしまう人でも、神様は「あなたは赦されている。だからあなたは今のあなたで大丈夫」とすべてを包み込む大きな肯定をくださっています。それがこの食卓で手渡される霊なる食べ物です。

すべての人のための「大いなる肯定」を伝えたイエス様ですから、ユダに言ったあの言葉は彼を否定する意味はないと理解します。私訳で聖書を出しています本田哲郎神父はこの言葉を次のように訳しています。「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」。イエス様はユダを否定するのではなく、ユダの気持ちを思いやり、ユダ自身がそのように言っているだろうという表現で訳しています。イエス様はユダの痛みを代弁する言葉を語ったのです。旧約聖書でも自分の生まれた日を呪う言葉が出て来ます。家族のほとんどを失い、財産のほとんどを失って暗い暗い闇の中に放り込まれたヨブはこう言いました。ヨブ記3章3節。「わたしの生まれた日は消えうせよ」、周りの人のほとんどから反対され、迫害されて苦しんだ預言者エレミヤはこう言いました。エレミヤ書20章14節「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない」。また、コヘレトの言葉にも虐げられた人たちへの配慮ある言葉があります。4章1〜3節「見よ虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ」。ヨブもエレミヤも本人が自分に対して「自分の耐え難い苦しみ」を言い表わす一種の慣用句としての表現であり、またコヘレトの言葉はイエス様の言葉にとても似ていて、相手の苦しみを自分のことのように感じるがゆえの表現なのです。イエス様は、自分が生まれて来たことを呪ってしまうほどのユダの痛みを受け止めて、「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」と彼の苦しみを代弁しているのです。それがこのイエス様の言葉の意味です。

イエス様と一緒に囲む食卓は、否定ではなく、肯定の雰囲気で満ちています。「あなたはこれまでもそうだったし、これからもいろいろと大変なことがある。後悔することもあるし、あれはダメだったと思うこともある。でも、今のあなたは確かに生きていて、わたしと一緒に食卓を囲んでいるから大丈夫。取りなさい。これはわたしの体です」。

これはイエス様が伝える神様の赦しです。この赦しはすべての人を肯定する福音の言葉です。

先日、新聞を読んでいましたら9月は小学生や中学生など若い子どもたちが自分の命を絶つのが多い時期だとありました。学校に行きたくない、でも行かなければならないと葛藤する中で八方塞がりになって自らの命を絶つ道を選んでしまう。何年間も日本では自死する人が年間3万人を超えていましたが、数年前から3万人以下になりました。けれども若い年代の数は減るどころか増えています。その新聞ではそのことを憂いて特集が組まれて若い人たちへのメッセージが書かれてありました。その中の一人、お笑い芸人の山田ルイ53世さんは、自身が中学2年生の時の登校中に大便を漏らしてしまい、それがきっかけになって学校に行けなくなり6年間引きこもり生活をしました。その彼がこう言っていました。「引きこもりが自分の糧になったという人もいます。人生の全てに何かしらの意味があって、あの期間も無駄じゃなかったと。それはそれでいいけど、『結局、意味がないと、生きてはだめってこと?』とも思う。無駄や後悔を許さず、意味や意義を求める生き方って、けっこうしんどい」。

わたしはこの記事を読んでいて、アウシュビッツ収容所を生き延びて『夜と霧』を書いた精神科医師のフランクルの次のような言葉を思い出しました。このような言葉です。「生きる意味についての問いを180度、方向転換すること。わたしたちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何かを期待しているかが問題なのだ。もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきだ」。彼は、わたしたちが何を人生に期待するのか、生きることの意味を自分で何だろうと考えるのではなく、命そのもの、人生そのものがあなたの命、生きる意味に問いかけている、そのことに気づきなさいと言うのです。つまり、命そのものがあなたの生き方を肯定していると言うのです。そう、生きていること自体において、あなたには意味がある、命あること自体、あなたには意味があると言うのです。

わたしたちは生きている限り周りから「自分らしくいるのがいい」とか「目的を持って生きなさい」とか、「あなたは何を生きがいにしていますか」とかいろいろな声を聞きます。それによって時に心が揺れて、本当にこんな自分でいいのだろうかと痛みを感じることがあります。わたしが生きている意味ってなんだろうか。いつでもわたしは自分らしくこんな目的や「こんな生きがいを持って生きています」なんて言えるだろうか。自分に無理をして背伸びして心や体に負担をかけたり、反対に必要以上に自分を小さく卑下して見せたりすることもあるかもしれません。でも、イエス様はそのように揺れ動くわたしたちに、変わることのない神様の言葉を伝えてくださいます。「取りなさい。これはあなたのためのわたしの体です。これを食べて元気を出しなさい。あなたは今日も精一杯生きていく」。

イエス様は食卓でパンを手に取って神様を讃美し、杯を取って神様に感謝しました。それは何も特別なことではなく、いつもの食事でしていたことでした。わたしたちの毎日の平凡な生活の中にも神様は「大いなる肯定」をいくつも散りばめられています。食前の感謝の祈り、日曜日の礼拝での讃美の祈り、それらの平凡な生活を通して神様はわたしたちに「あなたと今日もこうして出会えてわたしは嬉しい。あなたが生きていること、それが素晴らしい」、そう伝えておられます。

ご自分を裏切ろうとしているユダと、またご自分を置き去りにして逃げて行こうとする弟子たちと共に、イエス様はパンと杯を手にしていつもと変わらない賛美といつもと同じ感謝を唱えて食卓を囲みました。どんな状況でも、日常と変わらずに食卓で感謝と讃美の祈りを捧げること。私たちも日常と変わらないところで神様からの大いなる肯定を聞きとります。「パンを取りなさい。あなたが生きていることをわたしは喜ぶ」。

神様から肯定の言葉をいただいているわたしたちは日常生活の中でイエス様と同じように隣人に肯定の言葉を伝えていきます。「あなたに出会えて嬉しい。食事を一緒にできて嬉しいです」。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。