2018年8月26日 最も大いなるものは愛

◆コリントの信徒への手紙一13章1〜13節
13:01 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 
13:02 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:03 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 
13:04 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 
13:05 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 
13:06 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:07 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 
13:08 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 
13:09 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

◆マルコによる福音書12章28〜34節
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

◆詩編62編2〜13節
62:02 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
62:03 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
62:04 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり人を倒れる壁、崩れる石垣とし
62:05 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして口先で祝福し、腹の底で呪う。
62:06 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:07 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:08わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:09民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ
62:10人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
62:11暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
62:12ひとつのことを神は語り
ふたつのことをわたしは聞いた
力は神のものであり
62:13慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と
ひとりひとりに、その業に従って
あなたは人間に報いをお与えになる、と。

わたしはこれまでいくつかの外国に行く機会がありましたが、外国に行ったらほぼ必ずすることがありまして、それはその土地の言葉で「あなたのこと、大好きです」をその土地の人に聞いて、覚えることです。初めて行ったフィリピンでもすぐに聞いて覚えました。タガログ語で「マハールキタ」。インドに行った時にも聞きまして、旅をしていて会う人、会う人に「わたしはインドの言葉ヒンズー語を知っている。それは『マエアプセピアルカルタホ』」と言うとそこにいた人たちの多くは「ワハハ」と言って笑顔になりました。その言葉を言った相手はほぼ男の人でしたが。まだ行ったことのない国の「I love you」もいくつか知っています。ドイツ語では「イッヒリーベデッヒ」、フランス語で「ジュティーム」。「そういうのは言葉ではなく行動で」と思う人もいるかもしれませんが、わたしはどちらかと言うと主に家族に対して言う方だと思います。聖書にありますように、わたしたちが「あなたのことを大好きです」と言うことができるのは、神様がまずわたしたちを愛してくださったから。ヨハネの手紙一4章19節「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」。

「キリスト教を一言で言ったら何と言いますか?」と聞かれましたら、なんと答えますでしょうか?いろいろな言葉で言い表すことが出来ると思いますが、キリスト教を一言で言うなら、それは「愛」「キリスト教は愛の宗教」と言うことができると思います。ただ日本語で「愛」と一言で言いましても、聖書には実にその「愛」を言い表す元々の言葉はいくつもありまして、招詞で読んでいただいたホセア書6章6節「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。この中の愛と日本語に訳された元々のヘブル語は「へセド」で、他の聖書では「誠実」とか「慈しみ」と訳すことができる言葉です。また、今日の御言葉のコリントの信徒への手紙とマタイ福音書の「愛」はぜんぶ「アガペー」という言葉です。その他にも日本語で「愛」と訳される聖書の中の「愛」はたくさんあります。どうして日本語の「愛」が聖書にはたくさんの言葉で表されているのでしょうか?わたしが思うに、それはきっと神様の愛は人間の言葉では言い表すにはあまりにも大きく、広く、高く、豊かだということに行き着きます。

コリントの信徒への手紙13章を読んでいましても、神様が、どれほど罪深く汚いところを持ったわたしたち人間を愛しているのかが見えてきます。4節〜7節をお読みします。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。愛となっているところを「神様」と変えて読んでみますと愛は神様から出たものなんだとわかります。「神様は忍耐強い。神様は情け深い。ねたまない。神様は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。神様がわたしたちのことを忍耐強く耐え、忍んでいてくださる。神様はわたしたちのことをわたしたちの身になって考えてくださる情深い方です。神様はわたしたちが犯す罪や命を傷つけてしまうこと、取り返しのつかない過ちであっても、じっと耐え忍んでくださり、わたしたちを信じ、「わたしがあなたと一緒にいるから大丈夫」とわたしたちに望みをかけてくださっています。神様が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」のは、どんなわたしたちであっても、神の子どもとして愛してくださっているからです。神様は愛そのものだと聖書は伝えます。

先月の終わりのことですが、わたしは以前、信徒としてつながっていました岩手県の奥中山教会に行ってきまして、りっちゃんという双子の姉妹の妹さんで62年間のこの地上での歩みを終えた友人の葬儀に出てきました。神学校に行く前に信徒として5年間、わたしの信仰を豊かにしてくれた教会の仲間として、一緒に賛美をする集まりをしたり、教会を通してつながってきた大切な人でしたので、妻に相談して日曜日の礼拝後、新幹線に飛び乗って行ってきました。葬儀に出席できて良かったなぁと思います。わたしはこの葬儀に出て、涙を流しましたが、でも悲しいというよりもなんだか心があたたかくなり、また、お姉さんのむっちゃんや親戚の人などがりっちゃんとの思い出を話してくれまして、それが面白くて何度も笑って、わたしだけでなく集った人たちの笑顔をなんども見るような2日間を過ごしてきました。葬儀に出席して心が温かくなるって、なんだか不思議ですが、いま思いますとそこには神様の愛が詰まっていて、わたしはその愛を感じてきたんだろうと思うのです。

りっちゃんの双子の姉であるむっちゃんが「むっちゃんから皆さんへ」という文章を葬儀の時に配りまして、それを読みますとりっちゃんの歩みが神様の愛の中にあり、また、その神様の愛が今もわたしたちを赦し、忍び、信じ、望んでおられると感じることが出来ると思いますので、一部分を読ませていただきます。「神様は体の弱い、でもいつも明るく親しみやすいりっちゃんをわたしたち家族に与えてくださり、その成長と苦難を通して、みんなが愛し合い結び合うことの大切さを教えてくれました。5歳で東京女子医大で最初の心臓手術。小学校中学校は毎日母の背に乗って登校、8年間寝たきりの生活、東大病院、岩手医大、聖路加病院などで大手術が繰り返されました。週3日の肝臓透析が始まり、一日500ccの水分制限、次第に体力もなくなり転倒と骨折、そして車椅子生活となりました。どんな苦しみにもめげないりっちゃんの周りにはその都度、人が集まりたくさんの人が繋がっていきました。2歳までしか生きられないと言われたりっちゃんが起こした奇跡です。そして、7月26日朝、家族全員に手を握られ感謝の言葉を聞きながら静かに心臓の鼓動が止まっていきました。安らかな最期でした。『りっちゃん、ありがとう!たくさんの愛をありがとう!たくさんの出会いをありがとう』これはわたしだけの言葉でなく出会ったみんなの声です。人生に幕引きなんかないような気がします。だって、りっちゃんが作ってくれた仲間がいて、家族がいるのですから。りっちゃんが作ってくれた奇跡はこれからも続きます。『こんなに愛し合う仲間が増えたよ!』。天国にいる妹へこんなお土産話ができる日まで歩んでまいります」。

教会につながっていますとこのような奇跡、神様の愛が引き起こす奇跡を経験すると思います。体に辛い病気を抱えても神様の愛である教会のつながりに支えられて苦しみに忍耐することができる。愛は忍耐強い。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

りっちゃんの葬儀に出て思いましたのは、神様の愛はわたしたちが価値あるものとしてこの世から教えられている知識、お金、科学、山を動かすほどの力などを通して現れるのではなくて、りっちゃん自身がそうであったように病気などの弱さや困難さ、そしてその病気や困難さをめげずに笑い飛ばすユーモアを通す事によってはっきりと現れる、そんな思いを持ちました。今日の御言葉でもこう伝えています。8節「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」。知識は一部分、それはよくわかるのですが、予言も一部分と言われると少しどきっとします。それは神様から預かっている御言葉であってもわたしたちが語る限りにおいては完全ではなく、この世の中が伝える知識と同じ一部分だということです。わたしたち教会が永遠なる命を信じ、死んだ後の復活を信じるのは、それを知識や聖書の御言葉で知っているからではないのです。神様の愛によって耐え忍んでいただいているわたしたちが互いに忍び耐えることによって永遠の命、命の復活を信じることができるのです。

わたしの知り合いに「愛を一言で言えば何になりますか?」とききましたら、その人は「愛は赦しだ」と答えてくれまして、言った本人は忘れているかもしれませんが、わたしは良く覚えています。神様の愛は忍耐強い。情深い。すべてを忍び、すべてに耐える。神様がわたしたちをご自分の子どもとして忍耐強く赦してくださっているのです。それはまるで1〜2歳ぐらいの赤ちゃんを見守る親のようです。そのぐらいの子は歩き始めて階段を見るとすぐにのぼりたがります。小さい子どもが階段を1〜2段登りますと親はその子を少し登ったところで捕まえては下ろす。でもその子はまた同じことをする。親は忍耐強くその子に付き合います。小さい子どもは同じことを何度も繰り返しますが、大抵の親はある程度、その子の繰り返しに付き合いますが、だいたいキリのいいところで「今日はおしまい」と切り上げます。でも神様の堪忍袋はわたしたちよりも大きくて広くて深くて高いのですから、わたしたちが過ちを犯し、何度も何度も失敗してもぐっと耐え忍んでくださいます。

その神様の愛、すべてを忍び、すべてに耐える神様の愛の極め付けがあのイエス様の十字架と復活です。神様がどれほどわたしたちのことを忍耐されているのか。わたしたちが今尚裏切り、傷つけあっているのをどれほど耐え忍んでおられるのか。でも、その神様の忍耐に気づかずにいる多くの人間に神様は声を大にして言われました。「いい加減に気づいてくれ。怖がらなくても、恐れなくもいい。わたしはあなたたちを独り子イエスを愛するように愛している。わたしはイエスの命をささげるほどにあなたたちを愛している」。

この神様の愛は天地創造の時からずーと今に至るまで、そしてこれからも滅びることなく永遠に残ります。なぜなら、その愛はイエス・キリストの十字架と死、そして死からの復活によって示されましたから決して滅びることはないのです。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛」だからです。わたしたちはその神様の愛によって結びつけられています。だからわたしたちはこの教会と、そしてわたしたち自身の間に脈々と流れ続ける神様の愛を何よりも大切にします。神は愛です。イエス・キリストは愛です。わたしたちは愛であるキリストの体にしっかりと結びつけられていますから永遠です。死すらも恐れるものではありません。神様が「りっちゃん、永遠の朝が明けましたよ。起きなさい」と言って彼女の手をとって引き上げてくださるのと同じように、神様はわたしたち一人一人の手をとって死から引き上げてくださると信じ、希望をもってその日まで与えられた命を地上で生きていきます。いつか、死ぬ時がきます。でも、死ですらもわたしたちをイエス様によって示された神様の愛から引き離すことはできません。

神様の愛を頂いているわたしたちにイエス様は愛の生き方を教えてくださいました。愛を頂くだけでなく、愛を生きる者になりなさいと言われます。マルコによる福音書12章30節「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。31節「隣人を自分のように愛しなさい」。

愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢しないで、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、真実を喜ぶ。全部でなくてもいい。この中から1つでもこの愛を実践してまいりましょう。神様が今もわたしたちのことを愛して、耐え忍んでくださっていますから。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。