2018年7月8日 御言葉の上に立って見る

◆マルコによる福音書8章22〜26節
08:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
08:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
08:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
08:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
08:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

ちょっと昔の話のことですが、わたしはロビン・ウィリアムズという俳優が好きで彼の映画をよく見ました。ご存知の方もいると思いますが、DJ役の『グッドモーニングベトナム』、女装する中年男性役の『ミセス・ダウト』などの映画に出ていますが、その中でもわたしの印象に残っているのが『いまを生きる』という映画です。

伝統ある全寮制の高校にロビン・ウィリアムズが演じる英語教師キーティングが新しい先生としてやって来ます。校長先生の厳しい指導の下で縛られていた学生たちに、キーティング先生は「教科書なんか破り捨てろ」と言い放って、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさを教えようとします。ある日の授業でキーティング先生が突然机の上に靴のまま登って机の上に立って、「常に物事は別の視点で見なければならない! ほら、ここからは世界がまったく違って見えるだろ」と話し、生徒たちも机の上に立たせるのです。その変わった授業に生徒たちは最初、戸惑っていましたが、次第に刺激され、新鮮な考えや、規則や親の期待に縛られない自由な生き方に目覚めていきます。そんな中、ニールという青年がいまして彼は俳優を志して舞台に立つことを決心したのですが、彼の父親はそれに反対。でも、彼は父に内緒で役者の仕事に応募し、見事役者を演じる夢を叶えました。しかし、進学以外、進路を認めない厳しい父親に反抗することができず、悩んだ末に彼は自死してしまいます。そして、この事件がキーティング先生の責任とされて、学校を去ることになります。最後の場面で、キーティング先生が教室にあった荷物を取りに行って、そこを去ろうとしたとき、先生のことが大好きだった数人が机の上に立ち始め、「辞めなさい、そこから降りなさい」と他の先生に言われても降りずにじっと立っている。わたしは感動屋でして、この場面でだいたい涙を流します。すみません、これは映画を見た人にしかわからないかもしれません。

机の上に立って見ると、物事を違った角度から見ることができる。これはイエス様と出会って目が少しずつ開かれたという聖書に登場する人に似ています。イエス様と出会った盲人は目に唾をつけてもらって目が見えるようになりましたが、すぐにはっきり見えるようになりませんでした。はじめに「人が見えます。木のようです」と伝え、2回目に手を当ててもらって何でもはっきり見えるようになりました。イエス様と出会った人はそれまで見えていなかった物事がだんだんと見えてくるようになると聖書は伝えています。わたし宮島もイエス様と出会って、それまで見えていかなったものがだんだんと見えてくるという経験をしてきました。今日は、わたしがイエス様との出会いから目が開かれ、今まで見えていなかったことが見えるようになった経験をお話しいたします。

わたしが洗礼、バプテスマを受けてクリスチャンになりましたのが大学4年生22歳の時でした。その時からクリスチャンとして20数年間生きてきましたが、まさにこの目が開かれた人と同じように物事を見る見方が少しずつ変えられてきたと感じています。今日は2つのポイントからお話しさせていただきます。

まず一つ目ですが、ヨハネによる福音書15章16節でイエス様はこう言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。わたしが選んだのではなく、神様が選んだ。幼稚園の入園式で保護者の皆さんに向けて話すのですが、「みなさんは数ある幼稚園の中からこの原町田幼稚園をみなさんが選んだと思っているかもしれませんが、実はそうではありません。神様が皆さんを選んでこの原町田幼稚園に導いてくれたのです。これからの幼稚園生活を通して「わたしではなく、神様が選ばれた」という経験をしていってください」と話しています。これは幼稚園だけの話ではありません。わたしたちが自分で選んできたと思っていることが実は神様の選びであったということはわたしたちの人生の中にはたくさんあります。神様が選ばれたというのは、夫婦の関係でもそうですし、子どもが生まれることも、また、仕事や自分が今生活している環境も神様が選ばれてわたしたち一人一人をその場に置いてくださっている、そのように見るのです。夫と妻の関係のことで言えば、もし二人とも「わたしがこの人を選んだ」と思っていたとしたらどうでしょうか?自分がこの人を選んだと思っていますと相手が自分の意に反したこと、気に食わないことをしますと「自分はどうしてこんな人を選んだんだろう。もっといい人がいたかもしれないし、実際にもっといい人がいるかもしれない」と思ってしまうかもしれません。そのような考え方が発展しますと二人の関係がだんだんとギクシャクしたものになる恐れがあります。でも、神様がこの人を選んだという言葉の上に立ってみますと現実が違って見えてきます。相手が自分の意に反したことをしたとしても「神様がこの人を選んだのだからこのことにも何かの意味があるのだろう」と受け止めることもできますし、あるいは「神様が選んだのだから、仕方ない」とあきらめることもできます。あきらめると言っても互いに良い関係を保つためのあきらめです。生まれてきた子どものこともそうです。子どものことでいろいろとうまくいかないことがあって、「どうしてこんな子に育ってしまったんだろう」と思うかもしれませんが、そうではなく、神様がこの子をわたしたち夫婦のために選び、届けてくださったとの言葉の上に立つのです。そこに立ちますとうまくいかないことがあっても「神様、この子をくださってありがとうございます」と受け止めることができます。

「わたしが選んだのではなく、神様が選んだ」という言葉の上に立って物事をみる。教会にはそのような文化があります。わたしたちが置かれている学校、仕事、家庭、地域など様々な環境がありますが、時々自分が置かれている環境に不満を感じて、どうしてわたしはこんなことをしなければならないのかとやりきれない思いを持つかもしれません。でも、わたしではなく神様がここにわたしを置いてくださっているんだ。神様がわたしを選んでここに置かれているんだという言葉の上に立ってみますと違った景色がだんだんと見えてきます。「神様がわたしを選んでくださったのだから、きっとこれからうまくいくはずだし、今大変だと思っていたことから何かを学んで次に生かせるのかもしれない」。どのような状況に置かれたとしてもこれはわたしが選んだのではなくて、神様がわたしを必要としてわたしを選んでくださったんだと受け止める。その言葉の上に立って物事を見るように努力する。不満や不安ばかりが見えていたところに一筋の光が見えてくる。神様はわたしたちにそのような経験を与えてくださいます。

次に二つ目です。ヨハネによる福音書の11章でイエス様はこのように言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。クリスチャンとなり、また特に牧師となってからわたしは人の死に何度も出会ってきました。そして親しい人を天に送って悲しむ人たちにこのように伝えてきました。「死は終わりではありません。神様のところで新しく生きる命の始まりです」。わたしは自分で死を経験したわけではありませんから、証明することはできませんが、でも聖書が伝えることを「これは本当だ」と信じて伝えることはできます。そして死が終わりではなくて新しい命の始まりだと信じることで「死ぬこと」に対する不安や恐れはだんだんとなくなってくると思うのです。「死ぬのが怖い。自分がどうなるのかわからない。独りになってしまう」。そんな恐れが心の中に出て来るのも事実ですが、聖書の言葉、揺らぐことのない言葉の上に立って親しい人の死、それといつか必ず経験する自分の死を見つめるならば、恐れや不安はなくなっていきます。

わたしは何年か前に自分の父を天に送った時も悲しくて寂しい気持ちになりましたが、聖書の詩編23編の言葉に支えられました。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」。わたしの父は神様の家、天国に帰って行った、いつかまた天国で会うこともできる、そう思いますと心の中になんとも言えない安心が広がります。

4日前の水曜日にもこの原町田教会で荒谷さんという指揮者のお連れ合いの荒谷和子さんの葬儀が行われました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、自分の葬儀の時には讃美歌を歌って送って欲しいと言っていたので急遽、和子さんの娘さんの友人である牧師から「原町田教会を貸して欲しい」と言われてお貸ししました。その葬儀の中で読まれた聖書が詩編23編で、その牧師ははっきりと言いました。「和子さんは天国に帰って行かれ、今、神様と共にいる」。(間)死は終わりではなく、天国での新しい命の始まりだという言葉を信じて、その言葉の上に立って自分の死、親しい人の死をみるならば不安や恐れは少しずつ減っていきます。

どこに立って自分や人、物事を見るのでしょうか?日頃、あまり意識しないことかもしれませんが、これは大切なことだと思います。なぜなら、多くの場合無意識のうちに不安定な言葉を受け入れてその上に立ってしまうことがあるからです。自分が立つところがグラグラと揺れ動いていましたら、そこに立っている限り不安や恐れは消えません。けれども、決して変わらない土台、揺れ動くことのない方の変わらない言葉の上に立つならば、不安や恐れはなくなって行きます。変わることのない言葉がわたしたちを支えてくださっていると聖書は繰り返し伝えます。「恐れることはない。わたしがあなたと共にいる」。「わたしがあなたもあの人の罪も過ちも赦している」。「死は終わりではなく、新しい命の始まりです」。

揺れ動かない確固とした岩のような神様が、わたしたちと共にいて支えてくださいますし、神様の言葉という確固とした土台がありますから、その上に立って物事を見ることができる。これは何も難しいことではありません。この言葉は本当だと心から信じ続けるのです。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。