2018年5月13日 永遠の輪の中に入れられて

◆ヨハネによる福音書17章1〜13節
17:01 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:02 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:03 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:04 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:05 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:06 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:07 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:08 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:09 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

イエス様の祈りは神様への信頼で満ちています。神様を「あなた」と呼び、ご自分を「わたし」と言うようにとても親しく語りかけています。ただ、イエス様が弟子たちにこのように祈りなさいと教えられた「主の祈り」とはずいぶん違っています。マタイ福音書で、イエス様は「あなたたちが祈るときは、くどくどと長くする必要はない。言葉数が多ければ聞き入れられると思っているがそれは違う。神様はあなたたちが願う前から必要なものをご存知だから、シンプルに祈りなさい」と言われています。でも、ここでのイエス様の祈りは長くて、同じようなことを繰り返し祈っています。イエス様が「こうしなさい」とわたしたちに言っていることとご自分でしていることが違っていると思うかもしれませんが、ヨハネ福音書17章の祈りは、「主の祈り」のような日々の祈りとは大きく違っています。18章以降のことを見ても、また祈りの中にもあるとおり、この祈りはご自分の死を目の前にしたイエス様の最後の祈り、遺言の祈りなのです。ですから、どうしても長くなりますし、最後にこれだけは祈っておきたいとの強いイエス様の思いが込められています。祈りの初めに「父よ、時が来ました」と言われ、13節では「今、わたしはみもとに参ります」とご自分の地上での命が終わる時が来たと告げられます。

「もうすぐ、あなたは召されます。あなたは何日かしたら死んで神様のところに帰っていきます」と神様のみ使いがやって来て、突然そのように告げられたとしたらどうでしょうか。残された時間は少ない。わたしたちは何をするでしょうか。そんなの嘘だ、信じられないと言って拒否するでしょうか。それとも、静かにその時を待つのでしょうか。「もうすぐ、あなたは召される」。そのように告げられた後、わたしたちは何を思うのでしょうか。自分がこれまでしてきたことを思って感謝するのでしょうか。それとも後悔するのでしょうか。地上での人生は終わってしまう。もっとやりたかったことがあったのに。明日、そうなることが何年か前にわかっていれば、こんな無駄なことをしてこなかったのに。もっと前にわかっていればもっとましな人生を生きてこれたはずなのに。

イエス様が自分の死を目の前にしてしたこと。それは祈りでありました。この祈りにはイエス様の最後の願い、心からの思いが現れています。1節「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。1〜5節までの祈りのキーワードは栄光です。これからイエス様の死と復活を通して神様が現される栄光をすべての人に与えてくださいと繰り返し願っています。実は、イエス様はすでにその言葉と行動を通して神様の栄光を現していました。4節に「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とある通りです。しかし、まだ、すべての人に永遠の命が与えられるとの素晴らしい知らせを多くの人がまだ知っていないので、イエス様は「栄光を与えてください」と再度願うのです。モーセが杖を高々と上げて海を二つに割るような輝かしいことは、もちろん神様の栄光の現れですが、そのようなことだけではなく、もっと単純で、もっと身近なことです。それは、神様がわたしたちを造られたから、神様はわたしたちのことを大切にし、最後の最後まで守ってくださること、それを自分のこととして知り、信じることです。イエス様はそのことをこう言っています。3節「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。神様がイエス様を送ってくださり、その命を与えてくださったほどにすべての人を愛している、その変わることのない愛を自分のこととして知り、信じること。それが永遠の命であり、神様の栄光が現れることです。

わたしたちは、日頃のほとんどの時間、死ぬことについて考えることはありません。死ぬことを考えるのは良くないこと、そんな雰囲気もありますから、死のことをあえて話さないようにしている節もあります。年齢を重ねていきまして80歳、90歳、100歳となりますと若い頃と比べて、時々ですが自分の死を思うことはあるかもしれません。それでもできれば、あまり考えたくないというのが正直な気持ちだと思います。けれども今日、イエス様は、ご自分の死と真剣に向き合い、ご自分の命をかけて、わたしたちのために祈っておられます。「肉体的な死を恐れるのではなく、魂の死に気をつけられますように」とわたしたちのために祈っておられるのです。最終的な肉体の死よりも、むしろ今の自分、毎日の自分が誰かから必要とされているのか、何かの求めに応えられているのかという魂のレベルでの生死の方が差し迫った課題だからです。それはもちろんご高齢の方だけでなく、どの世代の人にとっても重要なことです。「自分は本当に必要とされているのか」、「自分が生きていることに価値はあるのか」、そのような魂からの問いかけです。

イエス様はその問いに明確に答えてくださいます。6節「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」。神様が造られたものすべてはイエス様のものとなりました。ですから、わたしたちはこのように信じるのです。「わたしの命はわたしのものではなくて神様のもの、イエス様のものです」。これが永遠の命です。7節で「わたしに与えてくださったものみな、あなたからのものである」とあり、9節でも「彼らはあなたのもの」とイエス様が言われています。すべての人、人間だけでなく命あるすべてのものは神様のものであり、イエス様のものですから、わたしたちは神様とイエス様とつながっています。神様がこのわたしに命を与えてくださっているのだから、神様がわたしの命の所有者であり、その所有者がそれを必要ないと思えばすぐにでも捨ててしまうはず。でも今もこうして生きているのだから、神様がこう言われるのです。「今もあなたは誰かのために生きているし、あなたがいるからあの人も喜んでいるし、何よりもわたしがあなたを喜んでいる。わたしがあなたを必要としている」。

イエス様は死と復活を経て永遠に生きておられます。その永遠なるイエス様と自分はつながっている。わたしたちはそう信じていいのですが、ヨハネ福音書17章を読んでみてわたしは改めて目が開かれた思いをしました。それは、「永遠の命は、個人的なものではない」ということです。個人的にイエス様を信じて、個人的にイエス様とつながっていると感じること以上に、イエス様と神様との親しい関係の中に神様に愛された人たちと一緒に入れられている、そのことに気づく、それが永遠の命だということです。10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました」。わたしたちすべての人は神様のものでもあり、イエス様のものでもあり、その切っても切れない輪の中にもうすでに入れられている。何よりも嬉しいことは、どれほど小さい者であっても、どれほど年老いた者であっても、祈りすらままならない者であっても、イエス様がその人たちを神様とつながる輪の中、永遠のサークルの中に入れられているということ。そのつながりは永遠ですから、わたしたちが生きている今もそして肉体的に死んだ後にもそのつながりから切り離されることはありません。イエス様はその大きな安心感、わたしは神様とつながっているから大丈夫と信じていました。だから、自分の死を前にしてもこのように語ることができるのです。13節後半「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるためです」。

教会の礼拝に出ていまして、賛美歌や祈りを一緒にするときに集った人たちとつながっている、一体感というのでしょうか、そのような気持ちを感じることがあります。それはそこにいるみんなが同じ思いになったとか、みんなが互いに愛し合うようになったと軽々しく言うことではなく、むしろ、苦手な人、嫌いな人もいる。けれども自分の心がその人のことから離れて神様に向かって祈り、賛美する時があり、ここに集められた一人一人の心が人への思いから神様に向かって「アーメン」と祈る。神様に向かって「ハレルヤ」と賛美する。それはもはや人間の力でも人間の業でもありません。神様がイエス様との輪の中にわたしたちを入れてくださっている、それをわたしたちが実感できた瞬間なのだと思います。それはわたしの個人的な感覚かもしれません。でも、それはイエス様が繰り返し「一つになるため」と言われていることだと信じますし、それが、わたしたちの目指すところであることは確かです。神様とイエス様と聖霊とが手を携えたその輪の中に入れられている、そのようなイメージです。

時々、祈ることすら難しくなってしまうことがあります。聖書を読んでも心に響かない。礼拝に出ても牧師の説教が心に響かない時もあります。そのような時のためにイエス様は、御名を現してくださいました。神様のお名前です。11節「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。イエス様は御名によって人々を守られ、これからもすべての人を御名によって守ってくださいます。

わたしたちは神様の御名前を知っています。神様のお名前は「わたしはある、あなたと共にある」(出エジプト記)であり、「インマヌエル」「主我らと共にある」。ヨハネ福音書によれば、イエス様は良い羊飼い、命のパン、まことのぶどうの木、世の光です。どれもわたしたちにとって身近な名前です。どの名前を聞いてもイメージが浮かんできます。良い羊飼い、命のパン、ぶどうの木、光。そしてイエス様。どのお名前でもいい。永遠の輪の中に入れていただいていますから、祈れないときにはただ御名を呼べばいい。「イエス様」と心の中で呼びかければいいのです。

イエス様の願いはすべての人が一つになることです。神様がすべての人を愛しているという真理をすべての人が知って、信じること、それが一つになるということです。わたしはなんのためにここに生まれ、何のために死んでいくのか。わたしたちは永遠の命を受けるために生まれ、永遠の命を生きるために死んでいきます。2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。イエス様はすべての人に永遠の命を与えることができますし、十字架の死と復活によって神様の栄光は、父と子と聖霊という永遠の輪の中に現れました。ですから、わたしたちは素直にイエス様の思いを受け入れます。「わたしたちはすでに永遠の輪の中に入れられている」。イエス様のこの喜び、わたしはすでに永遠の輪の中に入れられている。その喜びがすべての人の内に満ちあふれますように。祈りましょう。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。