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2019年12月15日 心と心を向かわせる方を待つ

◆マラキ書3章19〜24節
03:19 見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
03:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように 躍り出て跳び回る。
03:21 わたしが備えているその日に あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
03:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため ホレブで掟と定めを命じておいた。
03:23 見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
03:24 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。

以前、わたしは「神様の堪忍袋」というタイトルで説教をしたことがありますが、神様の堪忍袋はわたしたち人間が想像することのできないほど、この宇宙の端から端以上の大きさを持っている。そんな内容でした。今日のマラキ書を読んでいても神様の堪忍袋は大きくて、神様はわたしたちの過ち、罪にどれほどまで耐えてくださっているのか、その計り知れない大きさを感じます。

マラキ書の最後の言葉、旧約聖書の最後の御言葉になりますが3章23〜24節にはこうあります。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことのないように」。神様の堪忍袋はついにいっぱいになって、はち切れてしまって、あなたたち人間を破滅させると思う前に、神様自らが恐るべき主の日が来ないようにと預言者エリヤを遣わすと言われるのです。その預言者は、神様の御心を子どもであるわたしたちに向けさせ、同じように子どもであるわたしたち一人一人の心を父である神様に向けさせます。旧約聖書の最後の言葉が破滅で終わらず、救いの言葉で終わっています。ここに集う多くの皆さんはお気づきだと思いますが、堪忍袋がはち切れる前に神様とわたしたちとの間に立って父と子の心を向き合わせるこの預言者こそ、クリスマスに降誕されるあの方に他なりません。

マラキ書を読みますと改めてイエス様は全ての人の救い主であると気づかされます。19節では、「高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」とあります。これは20節との対比なのですが、20節では「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て飛び跳ねる」とあります。簡単に言いますと悪いことをしている人はその日には焼き尽くされるけれども、神様を畏れ敬っている人たちは救われる。その日には、悪は亡び、善は生き残るとなります。でも、その恐るべき主の日が来る前に神様は預言者を遣わしてくださり、地を撃つことのないように、すべての人を救ってくださるのです。

「でも、神様」と思うのがわたしたちです。そんなに我慢して、忍耐されて待ってばかりいたら、この世の中、この世界は良くなるどころか、どんどんと悪くなってしまいますよ。いっそのこと、悪を行う人たちを燃え上がらせて、彼らの根も枝も残さないようにしてくれませんか、と思うのです。なぜなら、今も昔もわたしたちの世界では、悪事をする人たちがいい目を見て、真面目に働く人たちが苦労する、そんなやりきれないことがずっと続いていると思うからです。15節「むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行なっても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」。税金を真面目に支払って生活している一般の人たちのことなど気にもせず、その税金を自分のために使って桜を楽しく見ている人たちがいますし、その税金を使って国を守るという名目の下、何千億円という戦闘機やミサイル施設をある国の友だちからどんどんと買っている人がいます。もっと福祉や教育に当てがうべき税金の使い道を自分の都合のために使う人たちです。他にも多額な税金の支払いを避けるための工作をして巨額な利益を上げている人たちもいます。高慢な人たちは自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいいと言いながら悪事を行って栄えているように見えます。ともするとわたしたちはそのような悪い人たちがいなくなった方が世の中は良くなると思うかもしれません。マラキ書3章18節で「そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」とあり、続く19節で高慢で悪を行う人たちを燃え上がらせ、燃やし尽くしてしまうと言われます。なんだか、ハリウッド映画を見ているようでスカッとします。真面目で正直な主人公は、最初弱くて悪い奴らにやられてばかりいるのですが、最終的には仲間を得て、悪者をやっつけてハッピーエンド。15節から21節までを読みますとそんな気がします。21節にはこうあります。「わたしが備えているその日にあなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる」。万軍の主は、神様に逆らう者たちを燃やし尽くして灰にしてしまい、神様を信じ、神様に仕えてきた人たちの足の下に置かれます。

そのようにスッキリいってほしい、そうなってほしいと期待しないと言ったら嘘になるでしょう。それはニュースなどを見たり聞いたりして、「あの人は本当にひどい。あれは悪いことだ」と自分が思うのと同時に自分はあれほど高慢でもなければ、悪いことはしてないから大丈夫だろうと心で思う自分がいるからです。つまり、マラキ書を読んでいる自分はあくまでも神様に仕える者の側、牛舎の子牛のように躍り出て飛び回る側にいて、高慢で悪を行う側にはいないと思っています。

2019年がもう少しで終わろうとしています。今年を振り返って見ますと、わたし自身のことですが表面的な部分では、教会の牧師として祈り、幼稚園でも働き、一家庭の父としても歩んできましたが、でも、深いところでは多くの場面で自分のことを優先してきたように思います。自分の中にも高慢な思い、楽をして儲けたらいいよと悪魔の誘惑の声が聞こえてくることがあります。今年を振り返りながら、自分は善であり、自分は高慢で悪を行う者ではないとは言いきれないなぁと思うのです。ご一緒に交読しました詩編にある祈りは、2019年を終えるわたしの祈りでもあります。19編13節「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。あなたの僕をおごりから引き離し、支配されないようにしてください」。

わたしは先ほど、桜を見ることで多額の税金を使うことなどを例に挙げて、「高慢な人たちは自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいいと言いながら悪事を行って栄えている」と話しました。もちろん、そのような社会の悪を批判します。ただ、人が悪なのではありません。悪は人の中に入ってきて、人を高慢にさせ、人に悪いことを行わせます。わたしたちも「自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいい」と思って悪事を行って栄えようとする悪の誘惑に気をつけなければなりません。

もう一つ思うことがありまして、それはわたしが一人でいる時に感じる孤独感というのでしょうか。自分は何のために存在しているのだろうかと思う時があり、その孤独感をどうにか無くそう、埋めようとしてきた自分もいました。それは結局自分の心が自分のことばかりに向いてしまって寂しさを感じるのです。心が神様と隣人に向いていないのです。

アドベントの時に、クリスマスの喜びを前にして悪の誘惑に負けてしまうことや孤独感なんか、言わなくてもいいじゃないですかと思うかもしれません。でもわたしたちは自分の中に入ってこようとする悪の声、悪の力を見るべきだと思うのです。そして時にその悪に負けそうになって、「自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいい」と思う自分がいたことにも目を向けるべきなのです。また孤独を感じ寂しくて自分のことばかりを優先してしまう自分もいた。そんな自分から目を背けない時に初めて23〜24節の御言葉が福音として浮かび上がってくるのです。もう一度お読みします。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことのないように」。主なる神様が言われるのです。「あなたは一人ではない。わたしの心はあなたに向いているし、あなたも心を自分のことばかり考えていないでわたしに向けなさい。そうすれば、悪の誘惑に負けず、孤独を感じて寂しい気持ちも少なくなる」。

万軍の主という何か強そうで、戦われるような印象の神様はここにはおられません。神様は、悪を行う者がすべてわらのように燃やし尽くされる恐るべき主の日が来る前に、いやそのような日が来ることのないようにと預言者を遣わしてくださいます。ここにはエリヤとありますが、クリスマスを前にしたわたしたちにとってこの預言者はイエス様です。イエス様は24節にある通り、壊れかけていた親と子どもの関係を修復してくださいます。親と子どもが心を向け合って、親は子どもがいてこそ、自分は親であることが嬉しくなるし、子どもは親がいなければ生きていけない。お互いに助け合い、祈りあって一緒にご飯を食べて生活していかなければ生きていけない。そのように心と心が向き合った関係を通してこそ、わたしたちは悪の声に打ち勝つことができますし、孤独で寂しくて、いじけるような自分からも解放されるのです。
イエス様は「父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことのないように」してくださいます。新約聖書につながっていく旧約聖書の最後の御言葉には、悪い人が滅びるとか、良い人が生き残るとか、そんな単純な二元論的な救いの世界ではなく、すべての人の救いが御言葉を預かる預言者イエス様によってもたらされると伝えます。

最後にご一緒に交読しました詩編19編の御言葉を祈りの言葉としてお読みます。15節「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように、主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」。

2020年12月1日 面倒くさい教会に

◆ローマの信徒への手紙11章13〜24節
11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
11:24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

先日、『日本一めんどくさい幼稚園』という本を読みました。武蔵野幼稚園の園長が書いた本でなかなか面白かったです。その幼稚園が大切にしていることが書かれているのですが、子どもの成長にとって良いことをわたしたち大人が根気よく行うのは、とてもめんどくさいこと。でも、「困難だと思っても挑戦できる」「最後までやり抜ける」、そのような力を子どもが身につけるために「目には見えない根っこを伸ばす」と信じて根気よく関わっていく。そのめんどくさいことをやり抜くことで子どももまた親も、幼稚園の先生も成長するとその本に書かれてありました。どうして「めんどくさい幼稚園」というネガティブなタイトルで本を出したのかと疑問に思うのですが「めんどくさい、でもそれを通してこそ成長がある」との信念があって、あえてそのタイトルにしたのだと思います。わたしたち教会も目には見えない神様は今も生きておられ、目には見えない神の国はすでに始まっていると信じて、根気よく宣教活動をしていますから、原町田教会もあえて「面倒くさい」を目指していきたいのです。どうして「面倒くさい教会」を目指すのかと言いますと、教会は人が集まって地縁・血縁を超えたキリストにある家族、助け合い祈り合う家族をつくるためにあるからです。人が定期的に集まるところには当然めんどくさいことが起こります。でも、そこにつながり続けて祈り合い、助け合っていく。それがキリストにある家族としての教会だからだと聖書が伝えるからです。

パウロさんは、ローマの信徒への手紙で、接ぎ木されるという比喩を使ってキリストの体なる教会につながることを伝えています。異邦人も救いの約束をもらっていたユダヤ人と同じように救われるのか?イエス・キリストとつながることができるのか?というユダヤ人からの問題提起がこの時代にはありました。神様は異邦人もユダヤ人も共に救う方だとパウロさんは信じていましたので彼は、麦やオリーブの木に例えてイエス・キリストにつながることに救いがあると伝え、すべての人がキリストにつながって救われる道があると言います。16節「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」。初穂も根っこもイエス様を例えていますから、そのイエス様とつながる練り粉全体も、枝も共に聖なるものとなります。そこには何人であるとかは問われることはありません。また、オリーブの木でも24節後半に「まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」とある通り、どんな人でもイエス様という木につながることができます。パウロさんはとにかくイエス様につながること、接ぎ木されることに希望をもっていました。接ぎ木されることはイエス様につながることですが、枝が自分でできることではなく、神様がしてくださることです。ですから、わたしたちがこの原町田教会につながっているのは、神様がしてくださったこと、わたしたちではなく神様が枝である一人一人を御手にとってこのブドウの木である原町田教会に接ぎ木してくださったと理解します。

わたしたちは教会に来始めた頃、あるいは長く通っていてもなお教会には自分の意思で来ていると思う部分もあると思います。自分でこの教会のここが良いからこの教会がいいと選んで来ている。だから、嫌なこと、めんどくさいことがあれば、いつでも教会を変えることができるし、自分にはその権利がある、そう思ったり、自分でこの教会に来ると決断したのだから、来ることも、来ないこともできる。そう思う自分がいると思います。しかし、聖書はわたしたちに「そうではない」と伝えます。あなたが自分の知識や判断で決定してこの教会につながったのではない。あなたという枝を枯れないようにと神様が大切にあなたを御手にとって、このぶどうの木である原町田教会に接ぎ木してくださったのです。接ぎ木された枝はすぐにつながるのではなく、その幹にしっかりとつながるためには時間が必要です。時間をかけてつながり、枝は木から栄養をもらって生きていきます。

わたしは静岡で農業の手伝いを1年間していた時がありまして、その時に接ぎ木をしたことがあります。オリーブの木ではありませんが、キウイフルーツの枝に接木をしました。キウイフルーツにはオスの木とメスの木がありまして、オスの木がどんどんと大きくなるのでオスの木にメスの木の枝を何箇所も接木をしました。もっと収穫できるようにするためです。接木は葉が落ちた後、活動を休んでいる冬の時期にしますので、その枝がうまく元の木に接木されたかどうか春にならないとわかりません。春になって接ぎ木した枝が伸びて葉を茂らせるとうまくいったことがわかります。わたしたちを接ぎ木して、キリストとつなげてくださるのは神様です。でもつながり続けることに関してはわたしたち自身が時間を献げるのです。キウイフルーツの枝が元の木にしっかりとつながるためには時間が必要だったのと同じように枝であるわたしたちがこのぶどうの木につながって栄養をもらい、葉を茂らせ、そして花を咲かせて実をつけるまでにはその木につながり続ける時間が必要なのです。

わたしたちは一本一本の枝なんだと思うのは大切なことです。なぜなら、枝がその木を支えているのではなく、木や根が一本一本の枝を支えているからです。18節「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。時々、わたしたちは自分たちの献金や奉仕が教会を支えていると思ってしまいますが、そうではなくキリストの体である教会がわたしたちを支えています。幹であるイエス・キリストが枝であるわたしたちに愛と恵みという養分をこの教会を通して与えて、わたしたちは今生かされています。この幹とつながれた枝がわたしたちだというシンボルを繰り返し思い出さなければなりません。

枝はみんな葉をつけ、太陽の光を求めて広がりますから、枝と枝とは適度な距離をもっています。また全ての枝は外に向かって広がっていますが、枝のもとをたどっていきますとみんな一つの幹につながっています。これがわたしたち教会の姿です。わたしたちは皆、枝が外に向かって伸びていくのと同じように、礼拝が終わったら神様から遣わされて週の6日間は外に出て行きます。外に出ていってそのままずっと外にいますと枝であるわたしたちは枯れてしまいますので週に一度は自分が何に繋がっているのか、わたしたちのルーツである神様、力と元気をいただくために自分がつながる幹、ぶどうの木に帰ってくるのです。このつながりがキリストの体である教会、わたしたちにとっての原町田教会です。教会は人と人とをつなぎ合わせるぶどうの木ですから、ここにつながっていない限り、枝であるわたしたちはいつか枯れてしまいます。

わたしたち枝は、他の枝とも協力して太陽の光を分け合っていかなければなりません。枝は幹からの栄養と太陽の光があってこそ成長するからです。時に嵐に遭遇し他の枝とぶつかったりして、この幹につながったことを後悔することもあるかもしれません。一つの枝が「わたしはあなたの隣にいたくない」と言い出すことも、また暗闇の中、台風のように強風が吹き荒れた時には枝が折れてしまうこともあるでしょう。ここにつながっていても何の得もないし、苦労が多いと思ってしまい、もう幹のことなんか忘れてとにかく外の方に伸びていればいいと思う枝も出てくるかもしれません。あるいは別の幹に移りたいと思うかもしれません。キリストのぶどうの木である教会は世界中にたくさんあり、ここ町田や相模原にもたくさんありますから、移った後時間をかけてしっかりつながれば大丈夫です。でも、教会とのつながりを自分で決められると思っているならば、それは改めるべきでしょう。22節にある通りです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです、もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」。枝であるわたしたちは接木されたものですが、同時に神様の慈しみにとどまるか、とどまらないかを選ぶこともできるのです。もちろん、神様はわたしたちがとどまることを願っていますが、強制的にとどまらせることはいたしません。あくまでもわたしたちの意思に任せられているのです。

病気をしたり、高齢になったためにしばらく教会に来ることが難しくなることがあります。あるいは人との関係でしばらく教会に来れなくなることもありますが、神様はすぐにその枝を切り取ってしまうことはありません。また、自分の意思でこの幹から離れますと出ていった人であっても、神様はその一本の枝を再び接木することはできます。23節「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」。

教会はエクレシアです。建物が教会ではなく、一人一人がイエス様の名前によって定期的に集まる集会がエクレシアなる教会です。様々な一人一人が集まるのが教会ですから、そこではすんなりいくこともあれば、面倒くさいことも起こります。でも神様によって接ぎ木されたのですからわたしたちはこの集まりに神様の思い、神様のご計画があるのだと信じます。神様が接ぎ木してくださったこの原町田教会というぶどうの木は、枝同士が困った時には家族のように助け合い、祈り合う。わたしたちの計画やわたしたちの思いを超えた神の国の計画がここに始まっているのです。原町田教会は、年齢の壁、人種の壁、文化の違い、価値観の違いなどを持ったいろいろな人が受け入れられ、大切にされる面倒くさい教会にすでになりつつありますが、これからもその道を歩んでいきます。

2020年1月の写真

早いもので1月ももう第三週になりました。

今年もジュニア聖歌隊は元気に練習しています。2月のチャーチコンサートに向けて一生懸命です。どうぞ聴きにいらしてくださいね。
そして第三週のランチ、カレーライスも絶好調!あなたのおいでをお待ちしています。

保護中: [教会員用] 2020年1月 主日礼拝音声

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保護中: 2019年12月〜2020年1月 証し

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。