2019年11月3日 知識ではなく愛を

聖書箇所 ◆創世記3章1~15節 ◆詩編51:3~11

先月のことですが、韓国に行って聖書の学びのための会議に出席してきました。アジア太平洋地域17カ国から150人ほどがその会議に出ていまして、その中にネパールから来ていた牧師さんがいました。その牧師は流暢に英語を話し、またユーモアもあり、話が上手でみるからに頭がいい人、頭のキレる人でした。その人は大勢の人がいる前で、原稿もメモも見ないで、しかも自分の国の言葉ではない英語で緊張する様子もなく話していたので、すごいなぁと思って聞いていました。わたしはこれまで何回か、冷や汗を流す怖い夢を見たことがあるのですが、夢の中でわたしは日曜日の朝、説教をする講壇に立ちます。そして手元を見ましたら、あるはずの説教の原稿がないのです。もう、頭の中が真っ白。どうしようと思った瞬間にパッと目が覚めたという夢です。「あ、夢でよかった」と思いました。そんなわたしですから、原稿もメモも持たないで人前に立って1時間も話し続けて、しかもその話が面白い、そんな頭のいい人に出会うと感心し、羨ましく思うのです。

頭のいい人、賢い人は良い学校に入れますし、その後の人生も良い給料をもらい、良いところに住んで人生うまくいくと多くの人は信じていると思います。ですから、頭が良い人しか入れないような高校や大学を卒業しましたと言う人に出会いますと「あ、この人は頭がいいんだ」と自動的に思いますし、大人であればさぞかし良い仕事をしているのだろうと思うのです。でも「頭がいい」人、「賢い」人はそれだけですごいと思ってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか?頭がいいこと、賢いことを聖書はなんとわたしたちに伝えているのでしょうか?創世記3章で神様が造られたものの中で最も賢い生き物が登場します。聖書を全く読まない状態で「神様が造られたものの中で一番賢い生き物はなんだ?」という問題が出たら、たくさんの人は「人間」と答えると思います。けれども聖書は「最も賢いのは蛇であった」と伝えます。そしてその賢さを使って蛇は人をだまし、そそのかして神様から「食べたら必ず死んでしまう」と言われていた善悪の知識の木の実を食べさせようとしました。蛇は女にこう言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」。賢いこと、頭がいいことを聖書は諸手を挙げて良いこととして捉えていません。蛇が神様の御心に沿って賢いのなら、神様が食べてはいけないと言った木の実を食べるよう、人をそそのかすことはしなかったはずです。でも、聖書は、賢くなるとそのように人に嘘をついたり、人を騙したりするようになると伝えるのです。

善悪を知る木の実を食べてしまった2人は賢くなって、頭が良くなって良い仕事について、良い人生を過ごしたとは聖書は語りません。3章7節「2人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、2人はいちじくの葉をつづりあわせ、腰を覆うものとした」。賢くなる、頭が良くなると自分が嫌だと思う部分を隠したくなるのです。善悪を知りますと自分の中にある良いところもわかるのですが、その反対の嫌なところ、悪くて汚い部分も見てしまい恥ずかしくなってそこを隠すようになる。とても示唆に富んだメッセージです。

でも「どうして」と疑問を感じるかもしれません。どうして善悪の知識の木の実を食べることを神様は良しとされなかったのだろうかと疑問に思う人は多いのではないでしょうか?なぜなら、わたしたちは生きていく上で善いことと悪いことの区別ができてこそ社会の中で生活ができると思っているからです。原町田幼稚園でも善いことと悪いことをはっきりと伝えています。人を叩いてはいけない。使ったものはもとのところに戻す。誰かを傷つけたら「ごめんなさい」と言う。食事の前には手を洗う。このように善いことと悪いことを子どもに伝え、うまくできたら「よくできたね」と褒めます。それらを日々実践することで子どもたちは社会の中で共に生きていく上でのルールやマナーを体得していきます。ですから、善いことと悪いことを知ることは必要なことなのですが、どうして神様はそれを禁止していたのかと疑問に思うのです。しかし、善いことや悪いことは決して変わらないものではないこともわたしたちは知っています。良いことと悪いことは変わりうるのです。以前これは善いことだと思って実践していたのですが後になってそれはあまり良いとは言いにくくなったことはいくつもあります。例えば、わたしが子どもの頃、転んで擦り傷をした時にはいつも消毒液をつけていましたが、最近ではまず傷口を水でよく洗うことが何よりも大切で消毒液はつけない方がいいと言われています。時間が経つことで良いことと悪いことが変わりますし、場所が変われば善悪の基準が違うこともあります。わたしたちが知っている善悪の知識というのは流動的であり、相対的でもあり、何よりもそのことによって時に、人と人がぶつかり合い、裁き合い、理解し合えない関係になってしまう恐れがあります。善悪の理解が違うために人同士が争い合う悲劇も繰り返し起きています。善悪を知る木から実をとって食べてしまったわたしたち人間は、そのような難しさを抱えることになったのです。

善悪を知る木の実を食べた後の2人の神様とのやりとりを見ますとそれがよくわかります。神様はまずアダムさんを「どこにいるのか」と呼ばれました。彼は「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。それまでは裸であってもなんの恐れも恥じらいも感じなかった彼でしたが、善悪の知識を知って恐ろしくなったのです。そして彼らのこの後の態度がわたしたちとそっくりなので驚きます。神様が「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と聞きますとアダムさんは「申し訳ありません。食べてはいけないという木から食べてしまいました」と素直に謝っていれば良かったのですが、そうしないでこう言いました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。わたしが食べたのは、女のせいでもあり、神様あなたにも責任がありますと言ったのです。女も同じように自分の過ちを蛇のせいにしました。ここにわたしたち一人一人の姿があります。善悪の知識を得ることで神様から離れていくわたしたちの姿です。神様なしでも生きていけると言って神様から離れていくところにわたしたちの死があります。

聖書はわたしたち、人間の良いところだけでなく、嘘をつき、自分の失敗を人のせいにするような汚いところを創世記の最初から見せてくれています。ただ汚れた心を持ち神様から離れて行こうとするわたしたちを神様は見捨てることはありません。今日は読みませんでしたが、神様はエデンの園から彼らを追い出す時に2人に皮の衣を作って着せられています。それ以上に神様はわたしたち人間の思いをはるかに超えた形で死からの救いを与えてくださいました。なんの条件も、なんの償いも請求しないでイエス様をお送りくださってわたしたち全ての人に救いを与えてくださったのです。イエス様によってわたしたち全ての人は神様との関係が回復し、祈ることもできるようになりました。死からの復活。嬉しい知らせです。

また嬉しいことに聖書では数カ所を除いて、ほとんど「頭を良くしなさい」「賢くなりなさい」とは伝えていません。例外としてはイエス様が弟子たちに「蛇のように賢く鳩のように素直になりなさい」と言われたことがあります。しかし、今日の御言葉にあるように、むしろ賢くなることに対して聖書は懐疑的ですし、頭を良くするよりも神様を信じること、人と人とが互いに愛し合い、赦し合いながら生きていくことを何よりも大切だと伝えています。例えば、こういう言葉があります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(コリント一8:1)。賢くなること、頭が良いこと自体を聖書は否定しているわけではありませんが、頭が良いことを何のために用いて行くのか、蛇のように人を騙すことではなく、人と人とが互いに助け合うことに知恵と知識を用いたいのです。わたしたちは何のために勉強し、何のために聖書を学ぶのでしょうか?自分の知識を増やすため、自分が賢くなるためでしょうか。そうではありません。わたしたちは、イエス様のようにゆるし合い、仕え合う社会を作るために学びます。自分が間違いを犯してしまったら人のせいにするのではなく素直に謝ることができるように、反対に人が自分に間違いを犯してもゆるすことができるようにとわたしたちは日々学ぶのです。ゆるしあえる共同体をつくるためにです。わたしには最終的な善悪の判断はできないのですが、でも神様、できるだけあなたの御心に近い判断をさせてくださいと神様と人の前に謙虚でありたい。

 今日は、永眠者記念礼拝です。先に天に帰って行かれた人たちを覚えるとき、今日は特にその人たちの賢さや頭の良さよりもその一人一人に注がれていた神様の愛を思い出しましょう。先ほど読み上げられた永眠者の一人一人が神様の愛によって支えられて来たことを感謝したいと思うのです。

2019年10月6日 恩寵に応える

聖書箇所 ◆ルカによる福音書16章1〜8節 ◆詩編49:14〜20

このたとえ話を読みますと、この管理人のように抜け目なく嘘をついて人のお金を勝手に使ってもいいんだよとイエス様が言っているように読めてしまいます。8節で「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」とあるからです。ある本には、このたとえをどのように理解したらいいのか、全然わからないのでこれまで多くの牧師や神父はこのたとえを避けてきたとありました。ただ、少しだけ当時の時代背景を学んでみますとイエス様の思いがおぼろげに見えてきます。イエス様が生きていた時代の人々はどんな生活でどんな苦労をしていたのかということです。それともう一つこのたとえを読み解く鍵があります。それは管理人ではなく、主人に注目すると言うことです。管理人がしたこと以上に主人がどう対応しているのかを見るのです。それは管理人という人間ではなく、たとえの中で寛大な心を持って立ち振る舞う神様である主に心を向けることになるからです。

まず時代背景ですが、イエス様が生きてきたガリラヤ地方に暮らす人たちの多くは何らかの借金を抱えて暮らす農民たちでした。麦を作ったり、オリーブオイルを作る農家の人たちは村の中で互いに助け合いながら暮らしていましたが、地主さんに年貢を納めなければならず、不作が続いたりしますと年貢を納めることができず、負債を負うことになりました。負債にはいつまでに返さなければいけないという期限もあり、また利子もありましたから簡単には減りません。合わせて神殿やローマに納める税金などもあって、農民たちの生活は楽なものではありませんでした。まさに「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり、ぢっと手を見る」です。そのような重荷を背負いながら生きる人たちを思いながらイエス様はこのたとえを話されました。このたとえを律法学者たちが聞いたとしたら「どうして主人は管理人のやり方をほめたのか?」と疑問に思ったはずです。しかし、負債に苦しむ人たちがこれを聞いたらあたかも自分たちの借金が減ったかのように大いに喜んだはずです。自分たちの苦しみをわかって助けてくれる人がいるんだと勇気をもらったはずです。

たとえの中で負債を減らしてもらった人を見て実際に借金で苦しむ人は、「もうダメだと思っていたけど、借金が減るかもしれない」と生きていく希望を持ったと想像できます。油50バトスも小麦20コロスもおよそ当時の農場労働者1年半分の給料となりますから、わたしたちの感覚に置き換えれば300〜500万円ぐらいでしょうか。たとえには描かれていませんが想像しますと、借金を減らしてもらったのでこの二人は嬉しさのあまりすぐに家族や隣近所に走ってこのことを伝えます。「『油百バトス』の借りがあったけど、今日管理人のところに行ったら50バトスにしてもらった。あの管理人の主人はなんて心の優しい人なんだ」。負債を負っていた二人の知らせは、すぐさま村中の人たちに知れ渡りました。「二人の借金を減らしてくれたのだから、わたしたちの負債も減らしてくれるに違いない。素晴らしい主人だ。これで希望を持って生きられるぞ。やったー」。二人の家ではいつもよりも少しおかずが増えた食事が出て、この主人に対して感謝の気持ちと喜びを家族で味わおうとしていました。すると夕暮れ時になって村のあちこちから料理を乗せたお皿を持った村人たちが集まってきます。「どうやって借金を減らしてもらったのですか?」「わたしはどうすればいいのですか?」など二人から聞こう!と思ってやってきたのです。テーブルには乗り切れないほどの豊かな食卓になりましたので、油を50バトス減らしてもらった人は小麦を減らしてもらった人を家に招いて一緒に食べてワインを飲んでお祝いすることになりました。

さて、次に主人に心を向けてみたいと思います。管理人が無駄遣いしているとの告げ口があった時、この主人は彼に「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せるわけにはいかない」と伝えました。もう任せられないと言っていますから管理人をクビにしたわけですが、でも会計の報告を出しなさいと言って主人は彼にチャンスを与えています。つまり管理人の手にはまだ会計簿や証文があって、それをまとめて報告する時間が与えられたのです。普通に考えれば自分のお金を勝手に使っているとわかった時点で、主人は管理人を牢屋に入れることもできましたがそうしませんでした。主人は管理人が無断で自分のお金を使ったことを理由に彼と彼の家族を奴隷として売り飛ばし、そのお金で損失した分の穴埋めにすることもできましたが、それもしませんでした。主人は管理人が無駄遣いしても罰を与えず、また生きる希望と生きるすべを奪うことなく、本人にどうすればいいのかと考える時間を与えてくれたのです。このたとえでの主人はまさに過ちを犯してしまうわたしたちにすぐ罰を与えず忍耐し、生きる道を備えてくださる神様だと理解できます。

では、時間が与えられた管理人はその一方的な恵みにどのように応えたのでしょうか。彼は負債を負っている人たちの借りを減らすことにしました。4節を読みますと「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と言っていますから、自分のためにしたことではないかと読めてしまいます。しかし、負債を減らすことで彼は実際に困っている人たちを助けました。それも農場労働者1年半分の給料に匹敵する額を免除したのですから、減らしてもらった方は家族の命を救ってくれたと受け止められるほどでした。管理人は書き直した証文と変更した帳簿をまとめて、主人のところに行き、「これが会計の報告です」と言ってそれらを主人に提出しました。わたしたちはどうしても管理人の方に目も心も向いてしまうのですが、管理人のやり方の大前提となる主人の関わりに注目することが大切です。主人は負債を減らした管理人をここでどう扱うのか、大きく分けて2つありました。一つ目の選択肢は、管理人を褒めるのではなく、村の当局に行って、この負債の減額はわたしの許可なしでされたこと、また管理人はすでに解雇されているので、減額する権限はないこと、従って減額前の油100バトスと小麦100コロスはいずれもしっかりと全部返すべきだと説明して、この管理人を牢屋に入れてしまうのです。ただ、そうしますと主人は村人から「あの主人は嘘つきで、欲張りだ」と言われ、たった今、村人たちが集まって主人の優しさと寛大さを祝い、感謝する集まりが抗議集会になってしまうでしょう。主人はそんなことを望んではいません。主人は管理人が提出した会計報告を見て8節にある通り、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」のです。ここにも主人の心の大きさが現れています。負債を減らすことなど、わたしたちにはなかなかできない寛大な心は神様の心そのものです。

負債を減らした管理人は自分が頂いた恩寵、一方的な赦しに対して、負債を減らして苦しんでいる人を助ける形で応えました。自分が奴隷として売られても、また家族も一緒に売り飛ばされてもおかしくない状況で「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言って会計簿や負債の証文の管理という猶予を与えてくださった、その恵みへ応答です。イエス様は8節で「この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめ」ました。主人から頂いた大きな恵み、その恩寵を苦しんでいる人たちを助ける方法で応える、それが神様の御心ですと伝えているのです。

わたしたちも管理人のように時間を無駄に使ってしまったり、人の思いを受け止めきれずに失望させてしまうことがあります。でも、神様はじっと耐えて、そんなわたしたちに時間の猶予を、まだ生きる道を与えてくださいます。その神様の恩寵に気づいて、それぞれの生き方でその恩寵に応えたいと思うのです。

神様からの恩寵はすべての人にすでに届いています。恩寵というのは、わたしたちが優れているとか、わたしたち人間が魅力があるとか、何か良いことをしたから与えられる報酬でもご褒美でもありません。神様から一方的に与えられる恵み、それが恩寵です。恩寵、別な言い方では恩恵とも言いますが、それはいつどんな形でもたらされるのかを予測するのは難しいものです。ですから、わたしたちは日々、神様に感謝の祈りをささげて心を開き、まだ気づいていない恵みを受け止めたいのです。

10日ほど前の祈祷会である人がこんな証をしてくれました。「今朝の新聞に認知症学会の会長の長谷川和夫さんのことが載っていまして、90歳の長谷川さん自身が認知症になって、でも『認知症は恩寵です』と言っていたのでみなさんに紹介したいと思いました」。新聞にはこうありました。「物忘れがひどくなってね。自分のなかの『確かさ』があやふやになって、朝起きて少し時間がたつと、今が昼か、間もなく夕ご飯なのか、はっきりしなくなる。外にでかければ、ふと『あれ、自分はいまどのへんにいるのかな』と思ったり。そんな感じです」。それに続けてこう書かれてありました。「僕は心臓の病気もあるから、本当に死を考えたら不安でいっぱいだよね。神様は、その不安を和らげるために、わたしを認知症にしてくれているんじゃないか。ならば、神の手に任せようと」。祈祷会の時にこの記事を紹介してくれた人は自分自身のことをこのように話しました。「わたしの耳もだいぶ遠くなってきましたし、目も白内障が少しあって見えにくくなっていますが、これらも全部神様からの恩寵として受け止めたいと思ってます」。わたしは「あなたのその証によってたくさんの人が励まされますので、皆さんの前で証をしてもらいたいです」と話しましたがご遠慮されましたので、こうして紹介させていただきました。皆さんにもこのような証をしていっていただきたい。それこそ、神様の恩寵に応えることになるからです。

普通、認知症になること、自分の体が弱っていくことはできるだけ避けたいし、なってしまったら隠したいと思うものです。でも、それを神様からいただいた恩寵、恵みだと言える。老いていく中で困難にぶつかっている、認知症で苦しんでいる当事者やその家族にはその証しは大きな励ましとなるのです。

今日は、世界聖餐日です。パンと杯という恩寵をわたしたちはいただいていますし、何よりもイエス様がわたしたちの中に生きておられますから、その恩寵に応えて、わたしたちは「神様を信じて生きる喜び」を証しするのです。

2019年11月10日 子ども祝福式

この日は、7歳、5歳、3歳のお子さんの成長を祝い、主の導きを祈る子ども祝福式を行いました。

保護中: [教会員用] 2019年11月 主日礼拝音声

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2019年11月3日 永眠者記念礼拝・墓前祈祷会

毎年11月の第一日曜日には、先に天に召された教会の先輩がたを思い、永眠者記念礼拝を捧げます。
今年も、礼拝の中で184名の方のお名前を読み上げ、礼拝後には思い出を語りあうお茶の会、教会墓地に移動して墓前祈祷会をもちました。


《墓前祈祷会で捧げられた祈り》
天地の創り主なる神様 み名をあがめ讃美いたします。
今日は100年にも及ぶ原町田教会の永眠者を記念して、ご遺族の方々と共に礼拝を捧げることができましたことを心から感謝いたします。
そして今、この墓地に葬られた方々を想いつつ共に祈りを捧げる時が与えられました。
残されたものもだんだんに歳を重ねてゆくことを思いますが、今日の礼拝の中で184名もの兄弟姉妹の名が読み上げられました。
それぞれの方のありし日の姿や、共に過ごした時が思い出され、花岡牧師をはじめ多くの教会の先達のお働きに想いを馳せました。
天にある者、地にある者が、主によって一つにつながっている平安を思うことができました。感謝いたします。
神様、今この世界では、さまざまな国や人が共存することができない垣根をたくさん作り、分断し、神のみ旨を思わず、その不信仰に気づかず、その中で苦しみ悲しむ多くの人間が生きています。
また、大自然の災害によって大変に辛い日々を強いられている方々もたくさんいらっしゃいます。
どうぞ、すべてが神にあって一つのもの、と思い起こし、それによって平安と励ましが与えられますようにと心よりお祈りいたします。
原町田教会が今、望みと祈りをもって取り組もうとしている街道と幼稚園の建て替えも、私たちの願いがみ旨にかない、神様の栄光をあらわす伝道の場となれますように。
教会につながる一人一人を強め、支え、導いてください。
今日の日を感謝して、これらの祈り、主イエスキリストのみ名を通して祈ります。
アーメン

保護中: 2019年8月12日(月) 太田聖書バプテスト教会見学 報告

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2019年9月8日 人間復興の安息日

聖書箇所 ◆ルカによる福音書14章1〜6節 ◆出エジプト記23章10〜13節 ◆詩編92:13〜16

ある日本の新聞記者がイスラエルに行った時、びっくりする体験をしました。金曜日の夜7時過ぎ、この記者は安息日の取材でテルアビブ近郊にあるシナゴーグを訪れましたら、強面(こわもて)の男性に呼び止められました。「おい、あんたら外国人だろ。ちょっとこっちに来てくれないか」。キッパと呼ばれる帽子をかぶったその男性は、記者たちを近くのアパートまで連れてきますと「エレベーターで5階まで先に上がって待っていてくれ」と言って、自分は階段を上り始めました。ドキドキしながら5階の薄暗い廊下で待っていますと、その男性が汗だくで階段を上ってきて、玄関先で配電盤を指さし、こう言ったのです。「すまないけど、そこのスイッチを入れ直してくれないか。部屋の漏電ブレーカーが落ちてしまったんだ」。言われた通りにしますと、暗闇に包まれていた部屋にパッと明かりがともり、中から女性たちの歓声が上がったのです。今でも厳格なユダヤ教の人たちは、金曜の日没から土曜の日没までの間を「安息日」と定め、一切の「労働」は禁じられ、39種類の禁止事項をかたくなに守っています。例えば、「耕す」「蒔く」「壊す」「書く」……。そして、代表例が「火をつける」。時代に合わせて「電気のつけたり消したりするのも火をつける行為にあたる」と解釈されたため、安息日には照明をつけることも、エレベーターの操作もやってはいけないこととなりました。さて、この記者は翌日、まだ安息日が続く土曜日の昼、ユダヤ教のラビのところに行って単刀直入に質問しました。「どうして、安息日に休むのですか?」そのラビはこう答えました。「もし、あなたがトヨタで車を買って調子が悪くなれば、GMや町の工場ではなく、やはりトヨタの整備工場に持っていくでしょう?人間を造りたもうた神が定めたのが安息日。ならば、その日に体と精神を休めるのが最善なのです」

イエス様はファリサイ派の人の家に食事に招かれていました。食事が終わり、くつろいでいる時、イエス様を招いたファリサイ派の人たちはイエス様の様子をうかがっていました。その日は14章1節にある通り、安息日でしたので、やっていいことと、やってはいけないことがはっきりしていました。病人を癒すことも仕事だからしてはいけない。それは神様からの掟、律法だからとファリサイ派や律法の先生たちは考え、それを実践していました。神様の掟を守ることは神様に従うことですから、正しいこと、良いことであり、その反対に掟を守らないのは、間違いであり、悪いことでした。でも、イエス様は言われます。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。そう言われてから、イエス様は病人の手を取って、病気を癒されました。そして言われます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

安息日について聖書はまず初めに創世記でこう伝えます。2章2〜3節「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。聖書によれば、わたしたち人間は神様にかたどって造られました。礼拝の招きの言葉にあった通りです。創世記1章27節。「神は御自分にかたどって人を想像された。男と女に創造された」。神様に似て造られたとありますから、それゆえにわたしたちも神様と同じように7日目には安息するのだと聖書は言うのです。安息日には、体や心を休息する、休ませるという意味もありますが、それ以上に安息日には、「自分は何者なのか」と自分自身を確認する意味があるのです。神様はわたしたち人間をご自分に似せた尊い存在として造られました。神様に似て愛すること、ゆるすこと、癒すことを完全ではないけど、できる存在としてです。

月曜日から土曜日までの1週間の生活の中で、人を憎み、あんなやつはいなくなればいいと心の中で思ってしまうことがあった。苦しんでいる人や悲しんでいる人がいても声をかけられずに通り過ぎてしまった。そういうわたしたちなのですが、「あなたは神の似姿、愛し、ゆるし、癒されるわたしに似て造られている」。その神様に似て造られた自分自身に復興するために神様は安息日を守るようにと言われているのです。

先ほど読みました出エジプト記の23章12節にも安息日の意味が明確に記されていました。12節にはこうあります。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。あなたが休んで元気になるためであるとは言わず、当時の社会で最も小さいもの、低い立場にあった女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためだというのです。軽んじられて当然、過酷な仕事を休みなしにやらされたとしても何も言えない立場にある家畜、またそういう人たちを元気にするためなのです。当時、牛やろばと並列して書かれている女奴隷はもの同然の扱いで、寄留者は人間以下という世界でしたから、休みを与えなさいという掟は当時の世界では驚くべき考え方でした。他のオリエント世界の宗教には見出されない掟です。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちを休ませ、大切に扱うことは何よりもそうしている自分自身の人間性を復興することなのです。見失いがちな隣人を愛し、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められているのです。

10の戒めである十戒にはこうあります。出エジプト記20章8〜11節をお読みします。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこなるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。神様は安息日を祝福し、聖別されました。聖別するというのは、これは神様のものであって、あなたたち人間には変えることできないものという意味があります。ここにも休む権利など考えつかない「男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」、あなたと同じように休ませなさいとあります。ここに安息日の本当の意味があります。しかしながら、時代を経るごとに安息日は祝福された日からだんだんと離れていき、次第に「なになにしてはいけない日」となっていきました。

安息日には癒してはいけない。それは仕事だから。病人を助けてはいけない。それも仕事だから。そのように安息日の形だけが継承されて、本当の意味はずいぶんと見失われていたようです。イエス様は安息日を「何々をしてはいけない」とか「しなければいけない」という義務の日から人間復興の日、救いの日へと生き返らせてくださいました。

キリスト教では、イエス様の復活を記念して週の初めの日である日曜日を霊的な安息の日、聖なる日として2000年来、礼拝をささげています。ですから、わたしたちにとっての安息日は、日曜日となります。でもイエス様がそうであったように安息日は仕事をしない、休息の日というよりも、むしろわたしたちを造られた創造主なる神様の方を向くことによって自分自身を復興する日です。人を愛することに遅く、ゆるすことも難しく、癒すことなどできないと思ってしまうわたしたちにイエス様は言われます。「そんなあなたたちでも自分の子どもが溺れていたら助けるだろう」。目を覚ましなさい、思い出しなさいと言われているのです。本当のあなたは人を愛し、人をゆるし、人を癒すことができるのです。「神様に似て造られている自分を見出しなさい。あなたたちが目を覚まして愛し、ゆるし、癒す本当の自分に気づくように、わたしは独り子イエスをあなたたちに与えた」。

日曜日は、救いの喜びの日です。イエス・キリストを信じるわたしたちは毎週日曜日に礼拝を捧げて、「神様、イエス様によってわたしたちの罪を赦し、今週1週間も支え、守ってくださり、ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げます。安息日は救いの日、すでにイエス様によって救われていることを再確認して、自信や力をなくし、衰えた自分を復興する日です。

イエス様は安息日以外の日も人を助け、癒し、愛しておられます。安息日だから反感を買うのを知りつつもその日だけ病気の人を癒したのではありません。安息日の本当の意味をわかって欲しくて、イエス様は何回も安息日にしてはいけないと言われていたことをしたのです。出エジプト記にある人間復興の安息日に立ち返って欲しいと願われていたのだと思うのです。安息日は牛やろばなどの家畜、また女奴隷の子どもや寄留者たちがゆっくり休んで回復すること、それは同時に雇っていた人たち自身の人間性を回復するためでもありました。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちの心も体も休ませ、彼らを大切に扱うことは何よりもそうしている人の人間性を復興することになるからです。

自分よりも弱い立場にある人がいますと威張りたくなり、反対に自分よりも強い立場にある人がいますと急に腰が低くなるのがわたしたちです。でもそのような自分は神様の似姿からは随分遠くに離れてしまっています。自分よりも弱い立場にある人たちを時に軽んじてしまうことのあるわたしたちにイエス様は「あなたは神に似て造られた人です。神は小さいもの、弱いものも同じように愛し、ゆるし、癒しています」と伝えています。失いがちになる隣人愛、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められています。これからも、愛し、ゆるし、癒す本当の自分自身に復興するため、神様に似て造られた自分を再確認するために主の日の礼拝に集ってまいりましょう。

2019年8月11日 ささやく小さな声の中に

聖書箇所 ◆列王記上19章1〜18節

エリヤさんという人は、新約聖書にも何度か名前が挙げられる人物です。例えば、イエス様が山の上で真っ白な服に輝き始めた時、エリヤさんとモーセさんがそこに現れて、イエス様と語り始めたとあります。また、イエス様が十字架に架けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、そこにいた人が「そら、エリヤを呼んでいる」と言いました。「エリヤ」という名前が、彼の実際に生きた時代から800年以上経ったイエス様の時にまで覚えられていたのには理由があります。それはエリヤさんの最後の時と深く関係していまして、彼は地上で死んでお墓に葬られたのではなく、生きたまま「火の戦車」に乗って天に上げられたと聖書が伝えるからです(列王記下の2章)。そのため、後の時代になって神様の審判が下される前にエリヤさんが地上に戻ってくると信じられるようになりました。

さて、このエリヤさんですが、生きたまま天に上げられるほどの人ですから、よほど素晴らしいことをした人なのかと思うかもしれません。でも、聖書を読みますとそうではなくて、とても苦労の多い人でした。今日読みました聖書の出来事では、ユダヤの王アハブさんの妻イゼベルさんから命を狙われることになったとあります。イゼベルさんが信奉していたバアルの宗教の預言者たち450人がエリヤさんとイスラエルの人たちの手によって命を落としたからです。それは今日の箇所の前、列王記上18章に記されています。そのことに怒ったイザベルさんはエリヤさんに使者を送ってこのように言わせました。19章2節「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」。この言葉にエリヤさんは恐ろしくなってすぐにそこから逃げ、エニシダという木の下に来て座って言いました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」。主なる神様に従ってやってきたのに状況は悪くなるばかり。もう八方塞がり、どこに行けばいいのかわからない。死んだ方がいい。エリヤさんの心はあとちょっとでポキリと折れてしまう状態でした。

エリヤさんの苦労は、人間関係での苦労です。彼のように命を狙われるほどのことはありませんが、わたしたちも人間関係で苦労することがあります。相手に理解してもらえないこと。一方的に「悪いのはあなただ」と言われることなど、人との関係がうまくいかず、落ち込んでしまうことをわたしたちも経験します。ある時には「もう、十分です。わたしの命を取ってください」と思うほどの暗闇を経験するかもしれません。エリヤさんは神様に従って良いことをしたと思っていました。数年間、干ばつのためにカラカラに乾いて、農作物がほとんど取れないひどい飢饉に見舞われていたイスラエルの地に、バアルの預言者との戦いの後、ようやく恵みの雨が降りました。神様に従って預言者と戦った結果、与えられた待望の恵みの雨でしたから、アハブ王もわかってくれるだろう、そう期待していたエリヤさんでしたが、アハブ王は見事に彼の期待を裏切りました。時間とエネルギーと思いを込めて良いことだろうと取り組んで、「きっとわかってくれる」と期待していたのに、あっさりと反対のことをされてしまったのです。

エリヤさんはとにかく神様が言われたことを良いことだと信じて実行してきましたが、その結果、自分の命が狙われることになりました。神様を信じて生きてきたのに何も良いことがない。良いどころか悪くなっている。わたしたちもそう思うことがあるかもしれません。毎週礼拝に出席して、時間も力も献金も捧げてきたのにどうしてこうなってしまうのだろう。突然、重い病気になってしまう。人間関係がうまくいかない。どこに進めばいいのかわからない、八方塞がりになってしまうことがあります。エリヤさんは「もう十分です。わたしの命を取ってください」と願いました。すると神様は御使いを遣わせてエリヤさんに触れられ言われます。「起きて食べよ」。周りの人があなたのことをわかってくれなくても、わたしはあなたを決して見捨てない。神様は御使いを遣わし、「起きて食べなさい」と励ましてくださいます。

この原町田教会で長く礼拝生活を送り、また祈祷会にも出席している一人の姉妹が7月ごろから体調を崩され、何度か礼拝と祈祷会をお休みしていました。7月の最終週の祈祷会の時、彼女が出席してくれまして、一緒に祈りを合わせました。ここ数年ですが7月最後の祈祷会では8月が1ヶ月間お休みなので、一緒にお食事をしていまして、その姉妹オススメのシュウマイ弁当で食卓を囲みました。体調を崩されて病院にいかれた彼女は、その席で「自分は病気かもしれない。でも、自分はこれまで豊かな礼拝生活と祈祷会に出席できたことを本当に嬉しく思う」と話されました。また、健康でいられたことを当たり前のように考えていたことを傲慢だったと祈られました。健康でいられること、礼拝や祈祷会に出席できることがどれほどの恵みであるのか。当たり前のことではなく、限りある命の中で与えられているかけがえのない時間なんだとわたしは彼女のお話と祈りを聞いて思いました。淡々とご自分のことを話される彼女と出会って、わたしは神様を信じて生きることの強さというのでしょうか、困難な状況に直面してもただ神様を信じることができる恵みを思いました。彼女はしばらくほとんど食べることができず、水だけ飲んでおられたとのことで体重は5キロも減ってしまったと言っていました。今は少しずつ食べられるようになってきたとシュウマイ弁当に箸をつけていましたので少し安心しました。神様は彼女に、またお一人お一人に御使いを送ってくださり、「起きて食べよ。まだ、あなたにはやるべきことがある」と言われているのです。今日、礼拝に集うことのできたわたしたちは、この御言葉を心に刻みたいのです。「起きて食べよ」。神様がまだわたしたちを必要としてくださっている。これは礼拝を覚えながらも集うことのできない人たち、特に病気のゆえに集うことが難しい人たちにも告げられている御言葉です。どんな状況になっても神様がエリヤさんを立ち上がらせたように病床に伏す一人一人に「起きて食べよ。あなたにはやるべきことがある」と言われています。

神様は洞穴に隠れていたエリヤさんに「エリヤよ、ここで何をしているのか」と聞かれます。エリヤさんは答えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。エリヤさんはまだイゼベルさんのことが恐ろしくて洞穴に隠れていたのですが、主なる神様は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われます。ここでも主なる神様は「あなたはまだ生きるのです。あなたには果たすべき使命がある」と洞窟に引きこもる彼を外に出され、姿を現されます。はじめに激しい風が起こって、山を裂き、岩を砕きました。次に地震が起きました。その次に火が起こりました。しかし、いずれの中にも神様はおられません。そのあとに静かにささやく声が聞こえました。聖書は伝えます。神様は静かにささやく声の中におられる。神様は、激しい風の中、地震の中、火の中のように、大きな音、強い力、燃やしてしまうような熱さの中にはおられない。静かにささやく声、よーく耳を澄まさないと聞こえてこないほど小さく弱いものの中に神様はおられる。19章13節「それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。外套、コートで顔を覆うというのは、モーセさんもそうでしたが自分が神様の前に立つことを意味しています。小さな声、今にも消えそうな弱い声の中にこそ神様がおられるとエリヤさんは理解したのです。

この神様の姿は、十字架の上で殺されていったイエス様と重なります。パウロさんも言っていますが、十字架で死んでいくことは勝利ではなく敗北です、強さではなく弱さそのものです。その弱さの中に神様はご自分を現されたと聖書は伝えますから、わたしたちは静かにささやく小さな声の中におられる神様に心の耳を向けるのです。

病気や障がい、あるいは誰しもが経験する「老いていくこと」で感じる弱さもあります。できていたことができなくなっていく。少しずつですが、確実に弱くなっていく自分。もしできるのならその弱くなっていくスピードを遅くしたい。なんとかして弱くならずに生きていきたい。そう思って祈ります。「神様、どうか守ってください。健康でいられますように」。でも、神様は聖書を通して言われるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。弱さの中に本当の強さがある。弱さを自覚して初めて気づくことがあります。病気になって、体に弱さを覚えて初めて気づくこともあります。これまでは聞こえなかった小さな声。体が弱いからこそ他者を優しく思う気持ちになれる。自分の弱さを受け入れて、初めて見えてきた他者の中にある痛みや苦しみ。わたしたちが一緒に生きていく中で助けられ、支えられて「ありがたい」と思うのは自分が弱くなった時ですし、助けられた経験を持つ人は、今度は困った人がいたら、「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけることができます。聖書は言います。「目が手に向かって、『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

ささやくような小さな声の中に神様がおられますから、原町田教会のわたしたちは、ささやくような小さな声に心の耳を傾けます。エリヤさんはささやく声の中に神様がいることに気づいたことで、自分自身も小さく弱い者だけれども神様はそんなわたしも必要としてくださっている、その恵みに気づいたのではないのでしょうか。神様はささやく声で皆さんに言われています。「起きて、食べなさい。あなたにはまだやることがある」。

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(042-723-0207  宮島牧人 まで)

【子ども】毎月第四土曜日10:00〜11:30(お菓子と工作代 500円)
【おとな】毎月第一・第三日曜日9:00〜10:00(無料)

2019年10月27日 教会・幼稚園のバザー

10月27日、お天気にも恵まれてバザーをみんなで楽しむことができました。長い時間をかけてこの日に向けて一生懸命準備してくださった皆さま、おいでくださった皆さま、ありがとうございました。

 

   

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988