保護中: [教会員用] 2019年11月 主日礼拝音声

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入門講座へどうぞ!

神様は、あなたをしておられます。 神様に招かれ、神様のことばを聞き、神様に生かされ、生きているのが嬉しいと感じるのが「入門講座」です。 洗礼を希望される方はもちろん、キリスト教のお話を聞いてみたい方、つらい気持ちを抱えて救いを求めている方、どなたでもお気軽に、いつからでもご参加ください。あなたのお越しを心からお待ちしています。

どなたでも、事前申込みがなくても大丈夫です。

講師:宮島牧人(原町田教会牧師)
日時:日曜日の礼拝後
費用:無料

What’s New!

★主日礼拝★
11月10日(日) 10:30 降誕前第7主日・子ども祝福式
聖書 創世記12章1〜9節
説教 「75歳からの旅に祝福」 宮島 牧人 牧師

★11月10日は、子どもの教会・9時礼拝はありません。
★10時半の主日礼拝においでください。

★11月3日 永眠者記念礼拝の日の写真を掲載しました。

★8月11日、9月8日の 主日礼拝メッセージ(テキスト)を掲載しました。

★10月27日 教会・幼稚園のバザーの写真を掲載しました。

★10月5日 教区音楽祭での聖歌隊賛美を掲載しました。

★9月15日 全体修養会の写真を掲載しました。

 

無料英語レッスンのご案内を掲載しています。

原町田幼稚園のまいにち 教会付属幼稚園の公式ブログです。

2019年11月3日 永眠者記念礼拝

毎年11月の第一日曜日には、先に天に召された教会の先輩がたを思い、永眠者記念礼拝を捧げます。
今年も、礼拝の中で184名の方のお名前を読み上げ、礼拝後には思い出を語りあうお茶の会、教会墓地に移動して墓前祈祷会をもちました。

保護中: 2019年8月12日(月) 太田聖書バプテスト教会見学 報告

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牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
日曜日の礼拝にもどうぞおいでください!お待ちしています。

2019年9月8日 人間復興の安息日

◆ルカによる福音書14章1〜6節
14:01 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
14:02 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
14:03 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
14:04 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
14:05 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
14:06 彼らは、これに対して答えることができなかった。

◆出エジプト記23章10〜13節
23:10 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。
23:11 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
23:12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
23:13 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。

◆詩編92:13〜16
92:13 神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。
92:14 主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。
92:15 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし
92:16 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。

ある日本の新聞記者がイスラエルに行った時、びっくりする体験をしました。金曜日の夜7時過ぎ、この記者は安息日の取材でテルアビブ近郊にあるシナゴーグを訪れましたら、強面(こわもて)の男性に呼び止められました。「おい、あんたら外国人だろ。ちょっとこっちに来てくれないか」。キッパと呼ばれる帽子をかぶったその男性は、記者たちを近くのアパートまで連れてきますと「エレベーターで5階まで先に上がって待っていてくれ」と言って、自分は階段を上り始めました。ドキドキしながら5階の薄暗い廊下で待っていますと、その男性が汗だくで階段を上ってきて、玄関先で配電盤を指さし、こう言ったのです。「すまないけど、そこのスイッチを入れ直してくれないか。部屋の漏電ブレーカーが落ちてしまったんだ」。言われた通りにしますと、暗闇に包まれていた部屋にパッと明かりがともり、中から女性たちの歓声が上がったのです。今でも厳格なユダヤ教の人たちは、金曜の日没から土曜の日没までの間を「安息日」と定め、一切の「労働」は禁じられ、39種類の禁止事項をかたくなに守っています。例えば、「耕す」「蒔く」「壊す」「書く」……。そして、代表例が「火をつける」。時代に合わせて「電気のつけたり消したりするのも火をつける行為にあたる」と解釈されたため、安息日には照明をつけることも、エレベーターの操作もやってはいけないこととなりました。さて、この記者は翌日、まだ安息日が続く土曜日の昼、ユダヤ教のラビのところに行って単刀直入に質問しました。「どうして、安息日に休むのですか?」そのラビはこう答えました。「もし、あなたがトヨタで車を買って調子が悪くなれば、GMや町の工場ではなく、やはりトヨタの整備工場に持っていくでしょう?人間を造りたもうた神が定めたのが安息日。ならば、その日に体と精神を休めるのが最善なのです」

イエス様はファリサイ派の人の家に食事に招かれていました。食事が終わり、くつろいでいる時、イエス様を招いたファリサイ派の人たちはイエス様の様子をうかがっていました。その日は14章1節にある通り、安息日でしたので、やっていいことと、やってはいけないことがはっきりしていました。病人を癒すことも仕事だからしてはいけない。それは神様からの掟、律法だからとファリサイ派や律法の先生たちは考え、それを実践していました。神様の掟を守ることは神様に従うことですから、正しいこと、良いことであり、その反対に掟を守らないのは、間違いであり、悪いことでした。でも、イエス様は言われます。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。そう言われてから、イエス様は病人の手を取って、病気を癒されました。そして言われます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

安息日について聖書はまず初めに創世記でこう伝えます。2章2〜3節「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。聖書によれば、わたしたち人間は神様にかたどって造られました。礼拝の招きの言葉にあった通りです。創世記1章27節。「神は御自分にかたどって人を想像された。男と女に創造された」。神様に似て造られたとありますから、それゆえにわたしたちも神様と同じように7日目には安息するのだと聖書は言うのです。安息日には、体や心を休息する、休ませるという意味もありますが、それ以上に安息日には、「自分は何者なのか」と自分自身を確認する意味があるのです。神様はわたしたち人間をご自分に似せた尊い存在として造られました。神様に似て愛すること、ゆるすこと、癒すことを完全ではないけど、できる存在としてです。

月曜日から土曜日までの1週間の生活の中で、人を憎み、あんなやつはいなくなればいいと心の中で思ってしまうことがあった。苦しんでいる人や悲しんでいる人がいても声をかけられずに通り過ぎてしまった。そういうわたしたちなのですが、「あなたは神の似姿、愛し、ゆるし、癒されるわたしに似て造られている」。その神様に似て造られた自分自身に復興するために神様は安息日を守るようにと言われているのです。

先ほど読みました出エジプト記の23章12節にも安息日の意味が明確に記されていました。12節にはこうあります。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。あなたが休んで元気になるためであるとは言わず、当時の社会で最も小さいもの、低い立場にあった女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためだというのです。軽んじられて当然、過酷な仕事を休みなしにやらされたとしても何も言えない立場にある家畜、またそういう人たちを元気にするためなのです。当時、牛やろばと並列して書かれている女奴隷はもの同然の扱いで、寄留者は人間以下という世界でしたから、休みを与えなさいという掟は当時の世界では驚くべき考え方でした。他のオリエント世界の宗教には見出されない掟です。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちを休ませ、大切に扱うことは何よりもそうしている自分自身の人間性を復興することなのです。見失いがちな隣人を愛し、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められているのです。

10の戒めである十戒にはこうあります。出エジプト記20章8〜11節をお読みします。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこなるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。神様は安息日を祝福し、聖別されました。聖別するというのは、これは神様のものであって、あなたたち人間には変えることできないものという意味があります。ここにも休む権利など考えつかない「男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」、あなたと同じように休ませなさいとあります。ここに安息日の本当の意味があります。しかしながら、時代を経るごとに安息日は祝福された日からだんだんと離れていき、次第に「なになにしてはいけない日」となっていきました。

安息日には癒してはいけない。それは仕事だから。病人を助けてはいけない。それも仕事だから。そのように安息日の形だけが継承されて、本当の意味はずいぶんと見失われていたようです。イエス様は安息日を「何々をしてはいけない」とか「しなければいけない」という義務の日から人間復興の日、救いの日へと生き返らせてくださいました。

キリスト教では、イエス様の復活を記念して週の初めの日である日曜日を霊的な安息の日、聖なる日として2000年来、礼拝をささげています。ですから、わたしたちにとっての安息日は、日曜日となります。でもイエス様がそうであったように安息日は仕事をしない、休息の日というよりも、むしろわたしたちを造られた創造主なる神様の方を向くことによって自分自身を復興する日です。人を愛することに遅く、ゆるすことも難しく、癒すことなどできないと思ってしまうわたしたちにイエス様は言われます。「そんなあなたたちでも自分の子どもが溺れていたら助けるだろう」。目を覚ましなさい、思い出しなさいと言われているのです。本当のあなたは人を愛し、人をゆるし、人を癒すことができるのです。「神様に似て造られている自分を見出しなさい。あなたたちが目を覚まして愛し、ゆるし、癒す本当の自分に気づくように、わたしは独り子イエスをあなたたちに与えた」。

日曜日は、救いの喜びの日です。イエス・キリストを信じるわたしたちは毎週日曜日に礼拝を捧げて、「神様、イエス様によってわたしたちの罪を赦し、今週1週間も支え、守ってくださり、ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げます。安息日は救いの日、すでにイエス様によって救われていることを再確認して、自信や力をなくし、衰えた自分を復興する日です。

イエス様は安息日以外の日も人を助け、癒し、愛しておられます。安息日だから反感を買うのを知りつつもその日だけ病気の人を癒したのではありません。安息日の本当の意味をわかって欲しくて、イエス様は何回も安息日にしてはいけないと言われていたことをしたのです。出エジプト記にある人間復興の安息日に立ち返って欲しいと願われていたのだと思うのです。安息日は牛やろばなどの家畜、また女奴隷の子どもや寄留者たちがゆっくり休んで回復すること、それは同時に雇っていた人たち自身の人間性を回復するためでもありました。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちの心も体も休ませ、彼らを大切に扱うことは何よりもそうしている人の人間性を復興することになるからです。

自分よりも弱い立場にある人がいますと威張りたくなり、反対に自分よりも強い立場にある人がいますと急に腰が低くなるのがわたしたちです。でもそのような自分は神様の似姿からは随分遠くに離れてしまっています。自分よりも弱い立場にある人たちを時に軽んじてしまうことのあるわたしたちにイエス様は「あなたは神に似て造られた人です。神は小さいもの、弱いものも同じように愛し、ゆるし、癒しています」と伝えています。失いがちになる隣人愛、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められています。これからも、愛し、ゆるし、癒す本当の自分自身に復興するため、神様に似て造られた自分を再確認するために主の日の礼拝に集ってまいりましょう。

2019年8月11日 ささやく小さな声の中に

◆列王記上19章1〜18節
19:01 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
19:02 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
19:03 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、
19:04 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
19:05 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
19:06 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
19:07 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
19:08 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
19:09 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

エリヤさんという人は、新約聖書にも何度か名前が挙げられる人物です。例えば、イエス様が山の上で真っ白な服に輝き始めた時、エリヤさんとモーセさんがそこに現れて、イエス様と語り始めたとあります。また、イエス様が十字架に架けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、そこにいた人が「そら、エリヤを呼んでいる」と言いました。「エリヤ」という名前が、彼の実際に生きた時代から800年以上経ったイエス様の時にまで覚えられていたのには理由があります。それはエリヤさんの最後の時と深く関係していまして、彼は地上で死んでお墓に葬られたのではなく、生きたまま「火の戦車」に乗って天に上げられたと聖書が伝えるからです(列王記下の2章)。そのため、後の時代になって神様の審判が下される前にエリヤさんが地上に戻ってくると信じられるようになりました。

さて、このエリヤさんですが、生きたまま天に上げられるほどの人ですから、よほど素晴らしいことをした人なのかと思うかもしれません。でも、聖書を読みますとそうではなくて、とても苦労の多い人でした。今日読みました聖書の出来事では、ユダヤの王アハブさんの妻イゼベルさんから命を狙われることになったとあります。イゼベルさんが信奉していたバアルの宗教の預言者たち450人がエリヤさんとイスラエルの人たちの手によって命を落としたからです。それは今日の箇所の前、列王記上18章に記されています。そのことに怒ったイザベルさんはエリヤさんに使者を送ってこのように言わせました。19章2節「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」。この言葉にエリヤさんは恐ろしくなってすぐにそこから逃げ、エニシダという木の下に来て座って言いました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」。主なる神様に従ってやってきたのに状況は悪くなるばかり。もう八方塞がり、どこに行けばいいのかわからない。死んだ方がいい。エリヤさんの心はあとちょっとでポキリと折れてしまう状態でした。

エリヤさんの苦労は、人間関係での苦労です。彼のように命を狙われるほどのことはありませんが、わたしたちも人間関係で苦労することがあります。相手に理解してもらえないこと。一方的に「悪いのはあなただ」と言われることなど、人との関係がうまくいかず、落ち込んでしまうことをわたしたちも経験します。ある時には「もう、十分です。わたしの命を取ってください」と思うほどの暗闇を経験するかもしれません。エリヤさんは神様に従って良いことをしたと思っていました。数年間、干ばつのためにカラカラに乾いて、農作物がほとんど取れないひどい飢饉に見舞われていたイスラエルの地に、バアルの預言者との戦いの後、ようやく恵みの雨が降りました。神様に従って預言者と戦った結果、与えられた待望の恵みの雨でしたから、アハブ王もわかってくれるだろう、そう期待していたエリヤさんでしたが、アハブ王は見事に彼の期待を裏切りました。時間とエネルギーと思いを込めて良いことだろうと取り組んで、「きっとわかってくれる」と期待していたのに、あっさりと反対のことをされてしまったのです。

エリヤさんはとにかく神様が言われたことを良いことだと信じて実行してきましたが、その結果、自分の命が狙われることになりました。神様を信じて生きてきたのに何も良いことがない。良いどころか悪くなっている。わたしたちもそう思うことがあるかもしれません。毎週礼拝に出席して、時間も力も献金も捧げてきたのにどうしてこうなってしまうのだろう。突然、重い病気になってしまう。人間関係がうまくいかない。どこに進めばいいのかわからない、八方塞がりになってしまうことがあります。エリヤさんは「もう十分です。わたしの命を取ってください」と願いました。すると神様は御使いを遣わせてエリヤさんに触れられ言われます。「起きて食べよ」。周りの人があなたのことをわかってくれなくても、わたしはあなたを決して見捨てない。神様は御使いを遣わし、「起きて食べなさい」と励ましてくださいます。

この原町田教会で長く礼拝生活を送り、また祈祷会にも出席している一人の姉妹が7月ごろから体調を崩され、何度か礼拝と祈祷会をお休みしていました。7月の最終週の祈祷会の時、彼女が出席してくれまして、一緒に祈りを合わせました。ここ数年ですが7月最後の祈祷会では8月が1ヶ月間お休みなので、一緒にお食事をしていまして、その姉妹オススメのシュウマイ弁当で食卓を囲みました。体調を崩されて病院にいかれた彼女は、その席で「自分は病気かもしれない。でも、自分はこれまで豊かな礼拝生活と祈祷会に出席できたことを本当に嬉しく思う」と話されました。また、健康でいられたことを当たり前のように考えていたことを傲慢だったと祈られました。健康でいられること、礼拝や祈祷会に出席できることがどれほどの恵みであるのか。当たり前のことではなく、限りある命の中で与えられているかけがえのない時間なんだとわたしは彼女のお話と祈りを聞いて思いました。淡々とご自分のことを話される彼女と出会って、わたしは神様を信じて生きることの強さというのでしょうか、困難な状況に直面してもただ神様を信じることができる恵みを思いました。彼女はしばらくほとんど食べることができず、水だけ飲んでおられたとのことで体重は5キロも減ってしまったと言っていました。今は少しずつ食べられるようになってきたとシュウマイ弁当に箸をつけていましたので少し安心しました。神様は彼女に、またお一人お一人に御使いを送ってくださり、「起きて食べよ。まだ、あなたにはやるべきことがある」と言われているのです。今日、礼拝に集うことのできたわたしたちは、この御言葉を心に刻みたいのです。「起きて食べよ」。神様がまだわたしたちを必要としてくださっている。これは礼拝を覚えながらも集うことのできない人たち、特に病気のゆえに集うことが難しい人たちにも告げられている御言葉です。どんな状況になっても神様がエリヤさんを立ち上がらせたように病床に伏す一人一人に「起きて食べよ。あなたにはやるべきことがある」と言われています。

神様は洞穴に隠れていたエリヤさんに「エリヤよ、ここで何をしているのか」と聞かれます。エリヤさんは答えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。エリヤさんはまだイゼベルさんのことが恐ろしくて洞穴に隠れていたのですが、主なる神様は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われます。ここでも主なる神様は「あなたはまだ生きるのです。あなたには果たすべき使命がある」と洞窟に引きこもる彼を外に出され、姿を現されます。はじめに激しい風が起こって、山を裂き、岩を砕きました。次に地震が起きました。その次に火が起こりました。しかし、いずれの中にも神様はおられません。そのあとに静かにささやく声が聞こえました。聖書は伝えます。神様は静かにささやく声の中におられる。神様は、激しい風の中、地震の中、火の中のように、大きな音、強い力、燃やしてしまうような熱さの中にはおられない。静かにささやく声、よーく耳を澄まさないと聞こえてこないほど小さく弱いものの中に神様はおられる。19章13節「それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。外套、コートで顔を覆うというのは、モーセさんもそうでしたが自分が神様の前に立つことを意味しています。小さな声、今にも消えそうな弱い声の中にこそ神様がおられるとエリヤさんは理解したのです。

この神様の姿は、十字架の上で殺されていったイエス様と重なります。パウロさんも言っていますが、十字架で死んでいくことは勝利ではなく敗北です、強さではなく弱さそのものです。その弱さの中に神様はご自分を現されたと聖書は伝えますから、わたしたちは静かにささやく小さな声の中におられる神様に心の耳を向けるのです。

病気や障がい、あるいは誰しもが経験する「老いていくこと」で感じる弱さもあります。できていたことができなくなっていく。少しずつですが、確実に弱くなっていく自分。もしできるのならその弱くなっていくスピードを遅くしたい。なんとかして弱くならずに生きていきたい。そう思って祈ります。「神様、どうか守ってください。健康でいられますように」。でも、神様は聖書を通して言われるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。弱さの中に本当の強さがある。弱さを自覚して初めて気づくことがあります。病気になって、体に弱さを覚えて初めて気づくこともあります。これまでは聞こえなかった小さな声。体が弱いからこそ他者を優しく思う気持ちになれる。自分の弱さを受け入れて、初めて見えてきた他者の中にある痛みや苦しみ。わたしたちが一緒に生きていく中で助けられ、支えられて「ありがたい」と思うのは自分が弱くなった時ですし、助けられた経験を持つ人は、今度は困った人がいたら、「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけることができます。聖書は言います。「目が手に向かって、『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

ささやくような小さな声の中に神様がおられますから、原町田教会のわたしたちは、ささやくような小さな声に心の耳を傾けます。エリヤさんはささやく声の中に神様がいることに気づいたことで、自分自身も小さく弱い者だけれども神様はそんなわたしも必要としてくださっている、その恵みに気づいたのではないのでしょうか。神様はささやく声で皆さんに言われています。「起きて、食べなさい。あなたにはまだやることがある」。

2019年10月27日 教会・幼稚園のバザー

10月27日、お天気にも恵まれてバザーをみんなで楽しむことができました。長い時間をかけてこの日に向けて一生懸命準備してくださった皆さま、おいでくださった皆さま、ありがとうございました。

 

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。