保護中: 2019年8月12日(月) 太田聖書バプテスト教会見学 写真

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2019年8月4日 ラハブの系譜

◆ヨシュア記2章1〜14節
02:01 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
02:02 ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、
02:03 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
02:04 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
02:05 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
02:06 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
02:07 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
02:08 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、
02:09 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。
02:10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
02:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
02:12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。
02:13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
02:14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」

◆詩編97:7〜12
97:07 すべて、偶像に仕える者むなしい 神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。
97:08 シオンは聞いて喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る 主よ、あなたの裁きのゆえに。
97:09 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。
97:10 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 神に逆らう者の手から助け出してくださる。
97:11 神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。
97:12 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。

今日は、平和聖日です。この平和聖日の礼拝に、どうして戦いだらけのヨシュア記が読まれるのかと、疑問を感じる人もいるかもしれません。このヨシュア記にはエジプトを脱出したイスラエルの人たちがモーセの後継者であるヨシュアに率いられ、約束の地であるカナンの土地を戦いながら、ある意味では侵略するような形で奪い取っていく出来事が記されています。それは神様がアブラハム、イサク、ヤコブそしてモーセに約束したことでした。ヨシュア記1章の初めにその約束が記されてあります。1章1〜3節を読む。約束の地に入っていくのだから、戦いがあってもやむをえないとイスラエルの側からみれば言えるかもしれません。でも、侵入され、土地や命を奪われる側からみれば、神様の約束であっても納得できません。そのような戦いだらけのヨシュア記ですが、今日の2章には平和のメッセージがはっきりと示されていました。死からの救い、滅びからの救いが一人の女性によって成し遂げられたのです。

モーセの後継者であるヨシュアがついにヨルダン川を渡って約束の地に入っていきます。40年間荒野をさまよい続けた後での「ついに」です。彼らがまず初めに攻め込むと決めた場所は、世界最古の町の一つと言われるエリコという町で、ヨシュアは攻め込む前に二人の斥候、スパイを送り出します。その二人が隠れた場所が城壁の中にあった遊女ラハブの家でした。彼女は遊女ですから、自分の体を売り物としていました。彼女がそうしなければ生きていけない状態、つまりそうせざるをえなかったのか、それともそうではないのか、聖書は何も語っていませんのでわかりません。しかし、どの社会でも自分の性を売り物にしている人は世間から嫌な目で見られる傾向にあります。決して好ましい働きではありませんから、エリコの街で母親が子どもと歩いていて、たまたまラハブを見かけたなら親はこう言うでしょう。「あんな人になってはいけないよ。汚いことをする人だから」。イエス様の時代でも律法学者などは娼婦たちのことを明らかに罪人であり、神の国に入ることができないトップランナーだと蔑んでいました。しかし、その遊女ラハブが決断して行った、命がけのアクションが数え切れないほどの多くの人の命を死から救うことになるのです。

彼女はエリコの街に攻めてくるであろう敵のスパイをかくまいました。エリコの王はラハブのところに人を遣わして「家に入り込んだ者を引き渡せ」と迫りましたが、彼女は「その人たちはもう出て行きました」と嘘をついて二人を守ります。これは命がけのことです。もし、スパイの二人が見つかって捕らえられてしまったら、二人はもちろん彼女も裏切り者として確実に命を失うことになります。でも、ラハブは機転をきかせて二人を屋上の亜麻の束の中に隠し追っ手から守りました。彼女は出エジプトの出来事を人伝えに聞いて、直感的に確信したのです。ここエリコにも神様がいる。でも、本当にすべての人を救うのは、この方だと。10〜11節を読みます。「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心はくじけ、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません」。そして彼女は言うのです。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

当時、それぞれの民族は自分たちの神様を信じていました。それぞれの民族、その土地土地には神様がいて、戦争で負ければその神様が負けたことになりますから、その民族の神様もいなくなります。エリコにも当然、彼らが信じる神様がいましたから、ラハブの家族や親族のほとんどはその神様につながっていました。収穫のお祭りに参加したり、結婚式や葬儀など冠婚葬祭もその神様に捧げていました。何代にもわたってその神様の宗教に繋がってきていましたし、エリコのほとんどの人は、自分たちの神様こそが本物で絶対だと信じていました。でも、彼女はエジプトから小さな民族であるイスラエルを救った神様こそが全ての人を救う方だと気づき確信したのです。だから彼女は命がけでスパイの二人に頼みます。13節「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。当時の宗教観であれば、敵の神様に自分の家族の救いを求めることなどできることではありませんでした。でも、彼女の鋭い気づきと勇気ある決断が多くの人を死から救ったのです。

わたしたちにもこのラハブのように自分とつながる家族がいて、その中には教会に来たことのない人たちがたくさんいると思います。自分の親戚、いとこ、親の親戚、そのように家族とのつながりを広げて見ていきますと、彼らに連なるすべての者たちは実にたくさんになります。わたしたちはそのたくさんの人にとってのラハブになりたいのです。その人たちの命がすぐにエリコの人たちのように危険な状態になるわけではありません。でも、どの時代であっても気づかないうちに、わたしたちを少しずつ縛り付けていく原理主義という罠にとらわれてしまい、そこから逃れられなくなる人も出てくるからです。原理主義というのは、これさえあれば大丈夫。これを信じていれば他のことは必要ないという考え方です。お金原理主義があります。お金さえあれば幸せになれる、健康が守られる。そう伝えます。科学原理主義もそうです。科学技術によってどれほど寿命が伸び、生活は豊かになり、今では宇宙にまで人間を飛ばし、遺伝子を操作することで治らない病気もなくなる。人間にできないことはないとまでいう勢いが科学原理主義にはあります。宗教の中にも原理主義があります。キリスト教原理主義もその一つです。キリスト教でなければ救われない。他の宗教は全部うそ。あなたの家族もキリスト教にならなければ滅びますと伝えます。

ラハブはこの原理主義から自由でした。彼女はエリコの人たちが信じている神様ではなく、葦の海を干上がらせた上は天、下は地に至るまでの神様を信じて、この方こそまことの神様だと自分と家族とそれに連なるすべての者たちの命を委ねました。彼女は自分たちが信じる神様だけが絶対だという原理主義から自由だったのです。それと同時に天と地の全ての命を創造された普遍主義の神様こそ、わたしたちを死から救ってくださる方だと見抜きました。原理主義ではなく、普遍主義を嗅ぎ取るこのセンスというのでしょうか。嗅覚というのでしょうか。彼女にはそれがあります。わたしたちもそのセンスを身につけたいのです。この神様を信じなければ滅びますと原理主義者のようにではなく、この神様はすべての人を救う方だから、わたしも、わたしの家族親族、それに連なるすべての者たちを委ねる。わたしたちも彼女のように祈るのです。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。なぜなら、「神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

神様になんか頼まなくても自分の力でなんとかやれる。実際、神様なんて信じなくてもお金さえあれば幸せになる。そのような原理主義的な声が聞こえてきます。それは命の神様からすべての人を引き離す死への誘いです。ラハブは言いました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。天から地に至るまですべては神様によってつくられ、神様によって保たれ、支えられているのですから、その主なる神様から離れていくことは死んでいくこと、滅んでいくこと。彼女はそのことに気づいていたのです。

神などいない。神は死んだと言われた20世紀は、ある意味では科学原理主義が力をつけて、資本主義というお金原理主義がたくさんの人を惹きつけた時代だと言えます。ただ、同時にたくさんの人の命が戦争によって奪われた時代でもあります。21世紀に入って19年が過ぎましたが、わたしたちはラハブに倣って決断し、祈り願いたいのです。科学でもなく、お金でもない。本当にすべての者を生かし、わたしたちの命を救うのは、天と地を創造され御子イエス様の十字架と復活によってすべての人を救う神様だと、原理主義的ではなく、普遍主義的に信じるのです。

ラハブはマタイによる福音書の最初に出てくる系図によりますとダビデ王のひいひいお婆さんに当たります。ダビデ王のおじいさんのおばあさん、ルツの夫となったボアズのお母さんになります。ボアズが外国人のルツと結婚することにしたのもラハブお母さんの影響もあったと想像できます。マタイによる福音書の系図から見ますとこのラハブからダビデ王、そしてそのずっと後にイエス様がお生まれになったことがわかります。アブラハムから始まってダビデ王を通り、イエス様に至るこの系図の中にラハブの名前があること。原理主義的にある特定の人たちだけを救うのではなく、普遍的にすべての人を救う主イエス・キリストは彼女を含んだ系譜から生まれてくるのです。

ラハブはわたしたちと同じ弱さや欠けをもった一人の女性です。仕事も決して社会から評価されるようなものではありませんでした。世間からは冷たい目で見られていましたし、家族からも、家族に連なるいろいろな人からも嫌なことを言われていたことでしょう。しかし、彼女はできるだけ多くの人を死から救ってもらいたいと願いました。命の源である神様は必ずそうしてくださると彼女は信じたのです。だからこそ、勇気をもってエリコの王の命令に反して二人のスパイをかくまったのです。

礼拝の初めに読まれました招きのことば、ヨハネによる福音書3章16〜17節にはこうありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の御心は続く17節にこうはっきりと伝えられています。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。御子イエス様によって一人でも多くの人が救われること、それが神様の願いです。

ラハブは願いました。わたしたちも彼女のように願います。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。主にある平和を心から願うわたしたちは、特定の人だけが救われる原理主義ではなく、すべての人が死から救われる普遍主義の道を歩んだラハブの系譜を継いでいきます。

2019年7月28日 赦す者への召し

◆ルカによる福音書7章36~50節
07:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
07:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
07:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
07:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
07:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
07:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
07:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
07:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
07:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
07:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
07:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
07:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
07:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
07:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
07:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

◆詩編38:10~23
38:10 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり 嘆きもあなたには隠されていません。
38:11 心は動転し、力はわたしを見捨て 目の光もまた、去りました。
38:12 疫病にかかったわたしを 愛する者も友も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。
38:13 わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は 欺こう、破滅させよう、と決めて 一日中それを口にしています。
38:14 わたしの耳は聞こえないかのように 聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。
38:15 わたしは聞くことのできない者 口に抗議する力もない者となりました。
38:16 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ 御自身でわたしに答えてください。
38:17 わたしは願いました 「わたしの足がよろめくことのないように 彼らがそれを喜んで 尊大にふるまうことがないように」と。
38:18 わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり
38:19 わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています。
38:20 わたしの敵は強大になり わたしを憎む者らは偽りを重ね
38:21 善意に悪意をもってこたえます。わたしは彼らの幸いを願うのに 彼らは敵対するのです。
38:22 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。
38:23 わたしの救い、わたしの主よ すぐにわたしを助けてください。

「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。イエス様が罪ある女性に言われたことは、今日ここに集うわたしたちにも言われたことです。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。キリスト教の救いは、罪の赦しが宣言され、それを一人一人が心から信じることです。

聖書が伝える罪というものは、「的外れ」という意味で、神様という的を外して生きることですから、その意味ではわたしたち全員が罪を背負いながら生きていることになります。10日ほど前ですが、幼稚園の最後の日の礼拝で、ある先生が子どもたちに向かってこんな話をしました。「時々、みんなも意地悪してしまうことがありますよね。例えば『仲間に入れて!』という友だちがいても『やだよ』と言ってしまったり、電車のおもちゃでしばらく遊んでいた時に『それ貸して』という友だちがいても『まだ始めたばっかり』と意地悪を言ったりすること。わたしもそういう意地悪な気持ちがあるけど、みんなもあるよね」と聞きますと、何人もの子どもたちがうなずいていました。小さい子どもも自分が意地悪をしてしまうことがあるとわかる。ましてや、わたしたち大人は神様のことを忘れ、自分のことを第一とすることで、人にわざと嫌なことを言ったり、人をゆるせないと思ってしまう罪ある者です。今もなお、日々の生活の中で、悪いことを思ったり、人を支配したい、自分の思い通りにことを進めたいという罪がわたしたちの中にはあります。神様のことを第一として生きたいと思うのですが、それを継続して実行することは難しいのです。そんな罪あるわたしたちだからこそ、イエス様は無条件に「あなたの罪は赦された」となんども言ってくださいます。罪はすでに赦されています。わたしたちが何か尊いことをしたからでもなく、わたしたちが罪の償いを十分にしたからでもなく、ただイエス様の十字架と復活によって罪が赦されたのです。その神様の一方的な恵みを受けて、「わたしは赦されているんだ」と心から信じるところにわたしたちの救いがあります。

ある人は言いました。「最悪の病気と最悪の苦しみは、自分が必要とされないこと、愛されないこと、大切にされないこと」。神様からの赦しを受け止めて、そうだ、わたしは赦されているんだ。「神様、あなたはわたしを赦し、生かしてくださっています。感謝します」と祈るわたしたちは最悪の病気、最悪の苦しみに陥ることからいつも守られています。なぜなら、神様がわたしたちを赦し、それは神様がわたしたちを必要としているからであり、神様がわたしたちを愛しておられるからです。そのことをわたしたちは毎週の礼拝で確認することができるのです。

救いは一度きりの大きな出来事ではありません。大雨によって引き起こされた洪水に飲み込まれ、流されていくとき、自分の手をがっちりと握って、地面の上に引き上げられ、「あー救われた、助かった」というような思いを持つ決して忘れられない救いもあると思います。でもそのような経験だけが救いではなく、毎週礼拝に出ることで、最悪の病気と苦しみに陥ることから守られ続けることも救いなのです。

イエス様はファリサイ派のシモンさんの家で食事をしていました。この時、一人の女性がイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、足にキスをして香油を塗りました。これは本当ならばイエス様がその家の主人であるシモンさんから受けるべきしきたりでした。どの家でもお客に対しては家の主人が僕に命じて、客の足と手を水ですすぎ、主人と客人とが頰と頬とを寄せて親しく挨拶をしてから、客の髪の毛に香油を塗って敬意を表すのでした。シモンさんは意図的にかもしれませんが、イエス様にその挨拶をしませんでした。でも、一人の女性が心を込めてその挨拶をしたのです。イエス様は言われました。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ここにすでに赦され、神様から「あなたを必要」とされた者への召し、呼びかけがあります。罪赦され、愛されていると信じるわたしたちは、隣人の罪をゆるし、隣人を愛する者になるようにと召されているのです。

神様はご自分の国、愛と赦しに満ちた神の国を建設するために働き人を必要としています。ハローワークには出ていませんが、聖書には神の国建設のため求むと求人票が出ています。その求人票はこの世のものとは違っていまして、この世の求人票には、月給30万円でパソコンができて、朝の9時から5時まで働ける人などと条件が書いてあります。でも神様が出される求人情報欄にはこうあります。「あなたの罪は赦された。罪の赦しを心から信じ、神様があなたを必要としていること、隣人をゆるすためにあなたを必要としていることを信じてください」。求人票にはそれだけです。神様は罪赦された一人一人を神の国建設のために用いてくださいます。人をゆるすたびに神の国は着々と完成に向かいます。この罪深い女性は、「わたしに示した愛の大きさでわかる」とイエス様から言われた人ですから、神の国の土台、基礎を作るために木を切り、その根を抜いて切り開いたパイオニアの一人と言えるでしょう。

神様に赦されているわたしたちですが、人を赦すことは簡単なことではありません。特に毎日の生活を共にしている家族、近い関係の人ほど何かのことで一度「ゆるせない」と思ってしまいますとなかなかそのことをゆるすのが難しくなることがあります。その人のある行動だけがゆるせないと思っていましても、その行動だけをその人自身から分けて受け止めることが難しいのです。夫婦関係でも、親子関係でもあることがきっかけになって、ギクシャクしてしまい修復ができない状態にまでなってしまうこともあります。その人の存在そのものをゆるせないというわけではないのに、なぜかそのような雰囲気になってしまう。そこには明らかに的外れという罪があるのです。その中の一人でもいい。神様の方に向いてイエス様の声を聞いてそれを心から信じることができれば、その関係の中に救いが与えられます。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った」。自分自身が赦されていると気づき、そして今度は自分だけでなく、ゆるせないと思っていたあの人にもイエス様の福音が届けられていると信じるのです。あの人も神様に赦された人、神様に愛され、必要とされる人なんだとなんども祈って信じるのです。

それが人をゆるし、人を愛することです。こんなに罪深い自分を神様が赦してくださった。必要としてくださったと信じて感謝すること。神様の愛は自分だけでなく、あの人にも、すべての人にも届けられていると信じて、毎日心の中で言葉にして祈り続けるのです。それが人を愛することの始まりです。「神様、あなたの赦しに感謝します。あなたはわたしを今日も必要としてくださり、生かしてくださっています。あなたはあの人のことも赦しています。どうかあなたの赦しがあの人にも届いていると信じることができますように」。神様の赦しは何よりも先立って進んでいます。わたしたちが何かをするよりも先に神様がわたしたちを赦して下さっているのです。

キリスト教のシンボルは十字架です。十字架はわたしたち全ての人に向かって「あなたの罪は赦された」とこれまでも、そしてこれからも罪の赦しを宣言します。十字架を見るたびにぜひ、「あなたの罪は赦された」というイエス様の御言葉を思い出してください。教会の外にも中にもある十字架を見たとき、だれかの胸にネックレスとしてかけられた小さな十字架を見たときでもいい。すべての十字架はこの自分に向かって、同時に、すべての人に向かって宣言します。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

毎週の礼拝の中で一緒に声を合わせて祈る「主の祈り」の中でわたしたちはこう祈ります。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。少し前の入門講座の時ですが、長く信仰生活を送られてきた人も参加してくれまして、その人が正直にご自分の苦しみ、疑問を話してくれました。それは主の祈りの中でこの罪の赦しの順番が今でも納得できないと言うのです。神様がわたしたちをゆるしてくださるのだから、わたしたちも他の人の罪をゆるしますという順番だったら、わかるのだがどうして先にわたしたちがゆるすと祈るのか、理解できないのです。その気持ちはよくわかります。神様ではなく、人間のゆるしの業が先行していることへの違和感であり、人を簡単にはゆるせないわたしたちの苦しみがあるからです。だから、この祈りに違和感を感じ、疑問に思うのです。でもイエス様はあえてわたしたちに挑戦されるのです。人をゆるすことが苦しい、だからそこに意味があるのだと。

イエス様は何人もの人たちに「あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様の赦しにはご自分が十字架の上で引き裂かれ、苦しむ痛みが伴いました。人を赦すことには痛みが伴うのです。実はその痛みと苦しみを感じることを通してはじめて、苦しまれながら御子を十字架につけた神様の赦しが少しずつですが、わかってくるのではないでしょうか?赦された者だから赦すだけにとどまらずに、人をゆるすことで自分の心も破れていくのです。

今も罪あるわたしたちですが、神様は「人をゆるす者として生きていきなさい。それこそがもっとも尊く、また健やかでわたしが願う生き方です」と言ってくださいます。「あなたをゆるします」と言えなくてもいい。「あなたの罪は赦された」との御言葉がゆるせないと思うあの人にも届いていると信じるのです。

2019年8月18日 子どもの教会・かき氷(おまけ)

毎年お世話になっているかき氷機、通称キョロちゃんを動画でお届けします!

キョロちゃん

2019年8月18日 子どもの教会・夏休み恒例かき氷

8月18日の子どもの教会では、礼拝後に夏休み恒例のかき氷をしました!夏休み中の中学生・高校生がたくさん来てくれました。暑い夏休み、みんな部活や勉強、頑張ってね!

 

2019年6月16日 天に名が記されること我嬉し

◆ルカによる福音書10章17〜20節
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

◆詩編8:2〜10
08:02 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
08:03 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。
08:04 あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
08:05 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。
08:06 神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ
08:07 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。
08:08 羊も牛も、野の獣も
08:09 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
08:10 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。

みなさんは、買い物をしますと貯まっていくポイントカードを何枚ぐらい持っていますか?わたしは20枚ぐらい持っていると思います。買い物をしますと必ずと言っていいほどに「ポイントカードはありますか?」と聞かれますし、「いや、ありません」と答えますと「無料ですぐに作れますが・・・」と勧められます。なんだかポイントカードを持っていないと損をしているような気になりますから、以前はそう言われますと「はい、作ります」と言って作っていました。でも、財布の中がどんどんポイントカードで膨らんで、レジに並んでいる時に財布の中から何枚もあるカードから探し出すのに苦労して結局見つからない、そんなことが何度かありまして、もっぱら最近は「ポイントカードはいりません」と答えるようにしています。買い物以外にも携帯電話でもポイント、ガスや電気を使ってもポイント、世の中がポイントだらけになっていて、いつの間にかポイントを貯めることに自分の時間や労力をたくさん使って、わたしたちがポイントを使うのではなく、ポイントがわたしたちを使うようになってしまうかもしれません。実際にポイントがわたしたちを使う、そんなことが起きつつあります。その一つに「信用スコア」というものがありまして、中国やアメリカでは自分や他の人の信用度をスコア、点数で表すシステムがすでに始まっています。信用スコアというアプリがありまして、クレジットカードの支払いが滞っていないか、どのような資格を持っているか、学歴、職歴や仕事の実績、またSNSをよく利用しているかなどをAIが計算して人に点数、ポイントをつけていく、その人を評価できるようにするシステムです。その点数から「この人は信用できる人なのか、どうか」と判断するというのです。

イエス様はポイントや点数に振り回されそうになっているわたしたちに今日、福音の言葉をくださいました。それが20節後半の御言葉です。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。

イエス様のところに72人の人たちが喜んで帰って来ました。彼らはイエス様によって近くの町や村に福音を伝えるために遣わされた弟子たちでした。10章の1節にこうあります。「その後、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。72人は2人1組のチームとなって、遣わされた町や村に入って行き、病気の人がいたらその体に触れて福音を伝えて来ました。「あなたの罪は赦されています。あなたはすでに救われています。神の国はすぐ近くにあります」。72人の彼らが一旦その働きを終えてイエス様のところに報告に来たのが今日のところです。17節「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。彼らは自分たちがしたこと、悪霊を追い出して苦しむ人を助けることができたこと、それが嬉しくて、イエス様も喜んでくれるだろう、わたしたちのことを褒めてくれるに違いない。そう思っていましたから彼らはイエス様が「よくやった。100点満点だ。でもまだ苦しんでいる人たちがいるからこれからも頑張っていこう」、そんな返事を期待していたと思います。でも、イエス様は言われました。20節「しかし、悪霊があなたがたに服従したからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。

18節でイエス様は言われました。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」。これは神様がすでにサタンに勝利されてしたということです。天にある土俵から神様はサタンを寄り切り、突き落としてすでに軍配は上がっているのをわたしは見たと言うのです。19節「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」。すでに神様はサタンに打ち勝たれているのだから、この地上でも悪に打ち勝つ力をいただいているわたしイエスがあなたがたにその力を授けたから、勇気を出して福音を伝えなさいと言うのです。福音を伝える働きは大切です。イエス様は72人に間違った思い込みをしてしまっている人たちを解放するために福音を託しました。例えば、心や体に病を負った人たちの多くは「こんな病気になったのは、神様が悪魔に負けてしまったからだ」、「自分はもう救われない」、「もう生きていてもなんの意味もない」と思い込んでいました。72人は二人ずつに別れてその人たちのところに行き、その人たちの苦しみの声をしっかり聴いて、その彼らの思いを「そんなことはないよ」と否定することなく、「辛かったですね。苦しかったですね」としっかりと受け止め、そしてその後に力強くイエス様のお名前を使って福音を宣言したのです。「イエス様は言われました。あなたはすでに赦されています。神様は悪魔に打ち勝たれましたから、あなたを縛りつけるものはもはや何もありません」。それを聞いた人たちの多くは目からウロコが落ちる経験をしたはずです。真っ暗闇にいてもう前に進めないと思っていたところに一筋の光が差し込んできて、進むべき道が見える。救いの経験です。イエス様はそのように福音によって苦しむ人たちを救う72人の働きを喜んだと思います。でも、イエス様は知っていました。もし、彼らが自分の働きだけで自分を支えていくならば、いつか必ず倒れてしまう。だから、こう言われたのです。20節「しかし、悪霊があなたがたに服従したからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。素敵な御言葉です。わたしたちの名前が天に、神様のところにしっかりと書き記されている。天に書き記されているのですから、それは決して消えることはありません。

18〜20節のイエス様の言葉を宮島なりに言い換えますとこうなります。「神様はすでに悪の力に打ち勝たれていて、その勝利を伝えるあなたたちの働きはとても大切だ。でも、自分の働きがうまくいったからと言ってそれだけを喜んではいけない。あなたたちが何かできたから喜ぶ以上に、たとえあなたたちがうまくできなかったとしても、どんなあなたたちであってもいつも覚えていてくださる方がいる、むしろ、そのことを喜びなさい」。

わたしたちは、何か問題なく、つつがなく物事を進めているときは特に気をつけなければならないことがあります。自分の働き、成果、結果だけがわたしたちを価値あるものとしているのではないということです。何かうまくできるから、あなたは良い人だということでもなく、何か良い成績、ポイントをたくさん集めたからあなたは価値ある人間だということでもない。もちろん、わたしたちは働くことを大切にしますし、働くことによって得られた成果や結果はわたしたちに大きな喜びを与えてくれます。でもそれだけに依って立つと危険なのです。イエス様は言われます。「むしろ、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさい」。ここにわたしたち誰しもが依って立つべき岩があります。神様がこのわたしのことを忘れることなく、見捨てることなく、自らの手のひらにわたしの名前を刻み込むほどに覚えていてくださる。イザヤ書49章15節の終わりから16節にもこうあります。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」。

先日読んだ本にとてもわかりやすい例えが載っていましたので紹介いたします。それは2つのパーティーのことです。一つは合格祝いのパーティー。もう一つは誕生日パーティーです。合格祝いパーティーはその人の努力が結果を結んで、それを家族などが「おめでとう」と言ってお祝いします。その人の行い(to do)が評価されるパーティーで、祝ってもらったその人は成功したことを記憶して、次も頑張って行こうと力づけられます。もう一つのは誕生日パーティーです。これはその人が生まれてきたこと、その人が生きていることを家族や友だちが祝い、「あなたに会えてよかった、あなたがいてくれることが嬉しい」と喜びを分かち合います。その人が存在していること(to be)を感謝します。どちらのパーティーもわたしたちには大切です。どんなに努力して結果を出したとしても1度もお祝いをしてもらえなかったら、その人はやる気をなくしてしまうかもしれません。でも、合格パーティーのような成功体験だけしか祝ってもらえなかったとしたらどうでしょうか?つまりあなたがいてくれることが嬉しいという存在を感謝することがなく、努力することだけを求められていたら、勉強ができるから価値がある、お金を儲けるから価値がある、◯◯ができるからあなたはいい人だ。そんな風に条件付きでしか認められなかったとしたら、きっとその人は燃え尽きてしまいます。期待されている結果を出せない限り、わたしは自分のことを喜んでもらえない、失敗するたびに「もっとがんばらなければダメだ」「失敗する自分はダメだ」と思ってしまい、ついには壊れてしまうのです。ですから、わたしたちには定期的に誕生日パーティーのような存在(to be)を認めてもらう時が必要なのです。結果を出しても出せなくても節目ごとに「あなたに会えてよかった。あなたが生きていることが嬉しい」と伝える、あなたの存在を無条件で喜ぶ祝いの時が必要なのです。イエス様が「むしろ、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われているのはそのことなのです。

詩編8編にもイエス様が伝える同じ福音の言葉がありました。8編の4〜5節をお読みします。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間とは何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。天地、宇宙を造られた偉大なる神様が、ポイントや点数に右往左往してしまうわたしたちにも関わらず、しっかりと覚えていてくださっています。どこで生まれたとか、どんな家族なのか、学校はどこを出たとか、どんな仕事をしているとか、仕事の実績はどうかなどということでポイントを上げたり、下げたりしてしまうわたしたちにも関わらず、神様は今も、そしてこれからも顧みてくださるのです。

神様はできるとかできないとかに関係なく、わたしたちのことを心配し、気にしておられます。わたしたちが歩くのに遅れてしまったら立ち止まって振り返ってくださり、時には戻ってきて手を差し伸べてくださいます。「さあ、一緒に行こう。わたしが共にいるから大丈夫」と言ってくださいますから、わたしたちは毎週、礼拝でそのことを喜び、祝うのです。礼拝は、わたしたちすべての人の名前が天に書き記されていることを喜び祝う時です。「天に名が記されること我嬉し」

保護中: [教会員用] 2019年8月 主日礼拝音声

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2019年8月3日 ワークキャンプ

猛暑日が続きます、みなさまの健康が守られますように!

暑い中でしたが恒例のワークキャンプが行われました。伸びに伸びたブドウの蔓の刈り込み、幼稚園の子どもたちが遊び尽くすアスレチックやウッドデッキのペンキ塗り、植木の散髪、普段は手の届かない礼拝堂の横や裏に生えた雑草取りに、汗を流しました。

 

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。