2019年6月23日 「生きよ」と呼びかける神様 〜特別伝道礼拝〜

6月23日(日)10:30から、小友 聡 牧師をお迎えして特別伝道礼拝を捧げます。どなたでもどうぞお越しください。

 

 

小友 聡 牧師 プロフィール
1956年青森県生まれ。1986年東京神学大学卒業。
1999年ドイツ・ベーテル神学大学博士課程修了(神学博士)。
日本基督教団大宮教会伝道師、大曲教会牧師を務め、
1999年から神学教師として東京神学大学に着任し、現在、教授(旧約聖書学)。
また、中村教会牧師を兼務。

 

 

2019年5月26日 これほどの信仰はこの中で

◆ルカによる福音書7章1〜10節
07:01 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
07:02 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
07:03 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
07:04 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
07:05 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
07:06 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
07:07 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
07:08 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
07:09 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
07:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

◆詩編34:2〜11
34:02 どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
34:03 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
34:04 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
34:05 わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
34:06 主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。
34:07 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
34:08 主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
34:09 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
34:10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
34:11 若獅子は獲物がなくて飢えても 主に求める人には良いものの欠けることがない。

わたしはこれまで何度かこの箇所を読んで来ましたが、どうもストンと理解することができていませんでした。それはイエス様がどうしてこの百人隊長をここまで褒めたのかがわからなかったからです。イエス様は群衆の方を見て、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と百人隊長を褒めました。でも、百人隊長の何に対して「これほどの信仰」と言ったのかがどうもしっくりこなかったのです。イエス様が「信仰」というのですから、神様を信じる心となるはずですが、この百人隊長の伝言を伝えた友達は「神様を信じます」などとは一言も言っていません。イエス様のところに使いとして来た友達は、イエス様にこう言いました。7節の途中から「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。8節「わたしも権威ある下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、そのとおりにします」。この友人の言葉をある本ではこのように説明しています。兵隊という組織は上にある者の命令は確実に下に伝えられてそのとおりになるから、同じようにイエス様の言葉も確実にそのとおりになる。だから、ひと言おっしゃってくだされば僕はいやされる。そのことをイエス様はこれほどの信仰と褒めたと書いてありました。皆さんはこの説明で納得されますか?わたしはどうもしっくりこないのです。この上意下達、上の者だから下のものには確実に徹底されるというニュアンスにわたしはどうも納得ができないのです。イエス様の「ひと言」が、何か軍隊の上にいる人が下の人に命令して、それに従うような感じで降りてくる、そのイメージがどうも、わたしのイメージするイエス様とは違うからです。

百歩譲って、その考え方に立ってみて、もし部下ではなく百人隊長が病気になったとします。その時に隊長の部下がイエス様のところにやってきて、「隊長が病気です。どうか癒してください。ひと言おっしゃってくださればいいです。」と言ったらどうでしょうか。イエス様はなんとお答えになるのでしょうか?わたしは、この部下に向かってもイエス様は「立派な信仰だ」と褒めたと思うのです。でも、そこには上意下達はありません。下に立つ兵隊が上にいる隊長のことを「助けたいと思っているだけです。

それでは、どうしてイエス様が「これほどの信仰を見たことがない」とわざわざ群衆の方に振り向いて百人隊長を褒めたのでしょうか?わたしはその答えをここ原町田教会に来て、原町田教会の仲間たち、皆さんですよ。この教会の神の家族の中で過ごす中でわかったのです。見えていなかったこの御言葉の意味が見えるようになったとも言えます。イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と褒めたのは、上とか下とかに関係なく、その関係の中に確かな信頼関係があったからだと気づいたのです。

この原町田教会の仲間たち、神の家族の中には確かにお互いを信頼していこうという風が吹いています。最近、わたしがそれを特に感じましたのは、今月の上旬に天に召されたSさんを囲む仲間たちとの関わりでした。Sさんが入院されてから何人もの原町田教会の神の家族が彼女を訪れて時に賛美歌を歌い、一緒に祈り、また励ましの言葉をかけてきました。もちろんそこには彼女の人柄もあったと思いますが、でも、それは二次的なことで、何よりもそこには信頼関係に裏打ちされた神の家族への思いがあった、わたしはそう受け止めます。彼女は原町田教会の神の家族となってからすでに20数年が経っていますので、そのかけがえのない時間の中で礼拝を共に捧げ、一緒に食事をして、時には一緒に宿に泊まることもあった人が与えられました。時間をかけて神様の導きの中で築き上げられた信頼関係があったからこそ、彼女のために多くの祈りが捧げられてきたのです。それは今も同じです。この神の家族の中に今現在も療養している人、病院で先日手術を受けた人、ホームに入っている人のことをわたしたちは覚えて祈っています。実際に病院に行けなくても、実際にホームを訪ねることができなくても、この祈りの積み重ねがわたしたちを信頼し合う関係へ導いてくれるのです。

どうぞ、これからも他者のため、祈りを必要としている人のために祈ってください。わたしもつい先日、手術を受けた人のために祈りました。「神様、手術が無事に終わりますように。◯◯さんをどうぞお守りください」。このように人のために祈り、その人とその後に実際に会いますと「祈っていましたよ」と伝えることができます。伝えなくてもいいと思う人もいると思いますが、そのようにさりげなく伝えますとそこに信頼関係という目には見えない、でも確実にある主にあるつながりが太くなってきます。どうして信頼関係を築かなければいけないのですかと思うかもしれません。特にあの人のことは考えたくもない、あの人のことを祈ることなんかできるものか、と思うこともあるかもしれません。でも、イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と言われているのです。互いに信頼していくことがどれほど素晴らしいことか、とイエス様が言われているのですから、わたしたちは努力してあの人のことは考えたくもないという人から「行け」と言われてもすぐに「わたし行きますね」と言えるぐらいになる、そんな原町田教会の家族を目指したいのです。

「一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、そのとおりにする」のは、行けと言われた人が行けと言った人を信頼しているからです。これまで何度も「行け」と言われたところに行ったけど、無茶なところに行かされたことは一度もない。部下であるわたしのことをあの隊長はよく考えてくれているなと感じることが何度もあったのでしょう。また、「来い」と言われた人も同じようにあの隊長は自分のことだけを考えて「来い」と呼ばれたのではない、わたしのことをよく考えてくれていると感じたことがあったのでしょう。ですから、「行け」と言われたらその人を信頼してすぐに行く、「来い」と言われればその人を信頼していますからすぐに来る。イエス様はその言葉の中に秘められている信頼関係を見てとったのです。仲間をとことん信頼する。信頼関係が太くなるように仲間のために祈り続ける。信頼関係はすぐにできあがることではありませんから時間をかけて、またお互いに努力して築いていく。百人隊長と部下たちは毎食、食事を一緒にし、寝るときも一緒にして、家族のように生活をしていたはずですから、そのような信頼し合う関係を築きやすかったのかもしれません。わたしたちは週に1日だけ、こうして教会に集っているだけですから、そんなに簡単に信頼関係を築くことは難しいですと言う人もいるかもしれません。その通りです。だからこそ、この週に一度の礼拝を何よりも大切にして集いたいと思うのです。

以前、わたしは日曜日がくるのをなんとなく憂鬱に感じていた時期がありました。日曜日に説教をすることが喜びというよりも緊張という感覚です。間違ったことを言ってしまわないだろうか、福音を心から喜びをもって伝えることができるだろうか。そう思ってしまう。でも、原町田教会に来てからは、日曜日がくるのがとても楽しみに感じています。日曜日に朝、目覚めますと「神様、今日、教会に行けますことを本当にありがとうございます」と祈ります。福音を伝えることも嬉しいことですし、何よりも教会の仲間、神の家族に会えるということがどれだけ嬉しいことか。日曜日にみなさんに会えるのがわたしにとって何よりもの喜びとなっています。この礼拝に出るためにゆっくりと歩いて時間をかけて来られる人がいます。先日、わたしは礼拝の後、その人に会って「◯◯さんに会えて嬉しいです」と伝えました。毎週、毎週、当たり前のように会っていると思ってしまいがちなわたしたちですが、実は毎週、毎週、神様がわたしたちを生かし、守ってくださっているからこそこのように出会うことができています。礼拝を捧げることができるのは、神様の御業です。そのことをよく噛み締めて「今日も、お会いできて嬉しいです」とあの人に、あの人にも伝えましょう。そして、苦手なあの人がもし祈りを必要としているならば、苦手なあの人のためにも祈りましょう。この集いはわたしたちではなくて、神様が集めてくださったのですから、できないことはありません。イエス様がここにいてくださっていたら、そのように祈り合うわたしたちを見てこう言われるはずです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

異邦人だった百人隊長に向かってイエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。当時のユダヤの人たちにとっては驚くべき発言です。ユダヤ人だけに限られた信仰対象だった神様は、イエス様によってすべての人を元気にするための神様に広げられたのです。律法とか割礼とか、神殿での祭儀といった信仰の形にこだわっていた人たちは「これほどの信仰を見たことがない」との言葉に驚き、嫉妬し、怒ったかもしれません。でも、イエス様はそんなことは気にしません。「自分が来たのは苦しんでいる人を助けるため、信仰もそのためにある」と思われていたのでしょう。

わたしはイエス様が言われた「信仰」という言葉を狭く考え過ぎていました。信仰というのは、神様にだけ向けられる心だと思っていました。しかし、原町田教会での信頼関係を経験して、信仰というのは、人間が神様を信じるだけに限られたことではないんだ。わたしたちが互いに信頼しあうこと、その信頼関係があってこそ、神様を信じる心が育まれ、そのような信頼の中でわたしたちは元気にされていくんだと気づいたのです。イエス様は言われています。一番大切なことは、神様を愛すこと。同じく、自分を愛するように隣人を愛すること、それが何よりも大切。神様はできるだけ多くの人に元気になってもらおうと今もこの教会を用いておられます。体に病気があって元気をなくしている人、心に病気があって落ち込んでしまっている人を元気にするために神様はわたしたち教会をたててくださっています。病気の人、苦しみの中にある人のために祈ってまいりましょう。自分が苦しいときには神の家族に祈ってもらいましょう。そのような祈りあい、信仰するわたしたちにイエス様は言われます。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

2019年5月19日 神様が選んだ

◆申命記7章6〜8節
07:06 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
07:07 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
07:08 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

◆ヨハネによる福音書15章12〜17節
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

◆詩編119:9〜16
119:09 どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
119:10 心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。
119:11 わたしは仰せを心に納めています あなたに対して過ちを犯すことのないように。
119:12 主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。
119:13 あなたの口から与えられた裁きを わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。
119:14 どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように。
119:15 わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの道に目を注ぎます。
119:16 わたしはあなたの掟を楽しみとし 御言葉を決して忘れません。

先週は礼拝の後に、原町田教会の会堂と幼稚園舎を設計する建築設計士を選ぶ総会を行いました。二人の建築設計士から一人を投票で選ぶ方法をとったのですが、その結果をわたしたち一人一人はどのように受け止めているでしょうか?自分が投票した方が選ばれてよかったと思ったのでしょうか?それとも投票した方ではない人が選ばれて残念と思ったのでしょうか?わたしは、どのような結果であっても、自分たちが選んだと受け止めるのではなく、神様がこの建築設計士を選んだと受け止めたいと思っています。なぜなら、教会を建てるのはわたしたちではなく、神様が福音を一人でも多くの人に伝えるために行う神様の業だからです。今日の御言葉にもそのことが明確に記されてありました。ヨハネによる福音書15章16節の最初にこうあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。わたしたちはたびたび聖書とは違う方向に考えてしまうことがあります。数ある教会の中から、原町田教会がいいからここにしようと思ってこの教会を選んだと思ってしまうこと。本当はそうではありません。わたしたちが数ある教会から「この教会がいい」と選んだのではなく、神様がわたしたちを選んでこの原町田教会に導いてくださった。聖書はそう教えます。建築設計士のことも同じで、わたしたちが選んだのではなく、神様があの建築設計士を選んでくださった。それは神様がこの教会を通して福音を伝えるために選ばれたのです。わたしたちではなくて神様が選ばれたと受け止め、またこの会堂建築の働きはわたしたちではなく、神様がリードして行ってくださることだと一緒に信じていくことが何よりも大切だと神様は御言葉を通して伝えるのです。

神様は今も生きておられ、建築設計士を選び、またわたしたちをも選ばれます。この神様の選びには確かな目的があると聖書は伝えます。建築設計士の場合は、もちろん教会と幼稚園を設計するために選ばれたのですが、それ以上の目的があります。ヨハネによる福音書15章は2回も繰り返しその目的を伝えます。12節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。17節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。会堂や幼稚園を建てる目的は、互いに愛し合う集いのため、二人または三人がイエス様の名前によって集まり、互いに祈りあい、支え合う場所を建てるのです。とても立派な建物がここ原町田の地に建てられたとしても、もしそこに互いに愛し合う人が集わなかったらそれはもはや教会ではありません。イエス様は立派に建てられたエルサレム神殿に向かって「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきだ」と言われたのも当時のエルサレム神殿が愛し合うことを大切にしていなかったからでした。

今から500年ほど前のことですが、日本に初めて聖書が宣教師によって伝えられたとき、「愛」という聖書の言葉を宣教師たちは日本語にどうやって訳したらいいのか、とても苦労したと言われています。なぜなら、当時の日本語の「愛」という言葉は男女の愛を思わせるニュアンスが強かったからです。そこで宣教師たちは、「アガペー」という聖書の言葉を「愛」とは訳さずに「ご大切」としました。ヨハネ福音書の15章12節を当時の言葉で言いますとこうなります。「わたしがあなたがた一人一人を大切に思うように、あなたがたも互いに大切だと思い合いなさい」。わたしはこの「ご大切」という言葉が好きです。わたし自身、原町田教会に集って「あー、わたしはみなさんに大切にしてもらっているな」と感じるからです。2週間前の5月5日の礼拝が終わった後、その日がわたしの誕生日でしたので皆さんがわたしのために祈ってくれました。自分のために祈ってもらえるってこんなに嬉しいことなんだと感じまして、実はわたし涙をぽろっと流しました。その後も何人もの人から「おめでとうございます」と声をかけていただいて嬉しかったです。「愛されている」「ご大切にされている」と実感しました。イエス様が言われる「わたしがあなたがたを愛したように」と言う御言葉の意味がグッと心に迫ります。わたし自身が原町田教会の皆さんから愛されていますから、わたしもますます皆さんを大切にしたいと思った次第です。原町田教会に集う皆さんのこと、ますます好きになっています。

原町田教会をこれからも互いに「大切にされているなぁ」と感じることのできる集まりにしていきましょう。誕生日の祈りもとってもいいのですが、それ以外に自分は仲間として受け入れてもらっているなぁと感じられるように工夫をしてまいりましょう。イエス様が2回も「互いに大切にし合いなさい」と言われるのは、罪赦され、神様から愛されているわたしたちなのですが、簡単にイエス様から離れてしまうかもしれないからです。自分とは違う考え方や自分とは合わない人を大切にしたくない、そんな罪にわたしたちは簡単に取り込まれてしまうからです。「互いに大切にし合いなさい」との御言葉をいただき、わたしたちは改めてどのような時に「自分は大切にしてもらっているなぁ」と感じるのかを考えてみるのです。何か辛いことがあった時に信頼する仲間から祈ってもらう時もそうでしょう。困った時に時間をとって相談にのってくれるのもそうです。また、違った考え方を持つ人であってもこのように共に礼拝に集い、神様の方に向かって賛美歌を歌い、同じ方向から御言葉とパンと杯をいただく恵みを経験すること。それも互いに大切にし合うことです。同じ考え方の人や同じ年齢の人、同じ国の人が集うのではなく、違った考え方、違う感じ方、違う経験をしてきた人、違う年齢、違う国の人を神様が選んでここに集めてくださっている、その奇跡をわたしたちは毎週、経験しているのです。自分とは違う人たちが一緒の場所に集って「見よ、兄弟姉妹が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と賛美していること。違う者同士が、地縁、血縁を超えて家族となって一緒に力を合わせ神様のご用のため働いている。これは神様の選び、神様の御業としか言いようがありませんし、神様がこの集いを互いに大切にしあう仲間としてくださっているのです。

神様がわたしたちを大切にしてくださっていますから、わたしたちも互いに大切にしあう。それはこうやって集うことによってすでに実践しています。ただ、気をつけたいと思いますのは、新しくやってくる人たち、教会での生活が短い人にも「自分は大切にしてもらっている」と感じられるような原町田教会であり続けることです。すでに大切にされ、愛されているわたしたちはそのために工夫をし、新しい人たちを受け入れていきたいと思うのです。イエス様が16節の後半に言われていることはわたしたちへの応援メッセージなのです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。イエス様がわたしたちを自分たちの満足だけにとどまらずにそこから一歩進み出て、新しくこの集いにやって来る人たちにも「あなたと出会えたことがとても嬉しいです。神様が出会わせてくださった」とその人に伝えたい。

神様はあなたがたを選んで「互いに大切にしあう」という神様の御業を進めておられます。皆さんは毎週、当たり前のようにここに集っていると思っているかもしれませんが、当たり前ではありません。神様が選んで実を結ばせ、その実が残るようにと皆さんを用いてくださっています。わたしは毎週、皆さんとこうして集っていることに感動し、また、日曜日だけでなくこの集いから生まれる実りも経験していますので、それをぜひ伝えたいと思うのです。「互いに愛し合う、大切にし合う」福音の種は礼拝の中で蒔かれて、皆さんが出かけて行ってわたしたちが把握できないほどに、いろいろなところで実を結んでいますが、その中の一つに原町田幼稚園があります。先日、青年会の食事会を開いたのですが、そこにこの春に中学1年生になった人が5人も初めてきてくれました。5人ともみんな原町田幼稚園出身で、これまで子どもの教会の礼拝にも集い、夏のキャンプにも来てくれていた子どもたちです。その5人が中学生になって教会ですでにバプテスマを受けた何人かの大学生や高校生と一緒に、この間お好み焼きを食べました。ただただお好み焼きを食べてお話をして集っただけですが、わたしはここに教会があると強く思い、「神様、あなたがこの集いに青年たちを選び集めてくださって感謝します」と祈り、一人で感動していました。そうしましたら、先日、中学生になった男の子の母親が「先日は、ありがとうございました。とても楽しかったと言っていました」と話しかけてきましたので、わたしも嬉しくなって「中学1年生が大学生や高校生と一緒にご飯を食べるっていいでしょ」と言いますとその人は「そうですよね。なかなか経験できないですね」と。わたしは嬉しくなって「それが教会です」と言いました。

教会は互いに愛し合うこと、互いに大切にし合うことを経験し、それを生きるところです。ここに集う一人一人がお互いに大切にし合えるように工夫する、そのことにわたしたちは任命されています。神様がどうしてこんなわたしを任命されるのか、わたしにはそんな大した能力も力もないと思う人もいるかもしれませんが、神様は何か、特別なものを持っているから皆さんを選んだ訳ではありません。何かの基準を満たしていてふさわしいから選ばれたのでもありません。ただ、神様の愛と憐れみのゆえに神様は「あなたがたを選んだ」と言われるのです。申命記7章7〜8節「主は心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジブトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。

「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」です。神様が命を与えた全ての人、わたしたち全員を愛してくださっているからこそ、「互いに大切にし合いなさい」という一番大切な使命のために、神様がわたしたちを神の国の建設のために任命されたのです。神様は宣言されます。「わたしが命を与えたあなたがたは、見よ、それらはとても素晴らしい」。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたをいつも大切に思っている」。神様から数えきれないほどの大きな愛を頂いていますから、わたしたちも隣にいる人を、その人のことを好きでも嫌いでも大切にします。

保護中: [教会員用] 2019年6月 主日礼拝音声

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。