入門講座へどうぞ!

神様は、あなたをしておられます。 神様に招かれ、神様のことばを聞き、神様に生かされ、生きているのが嬉しいと感じるのが「入門講座」です。 洗礼を希望される方はもちろん、キリスト教のお話を聞いてみたい方、つらい気持ちを抱えて救いを求めている方、どなたでもお気軽に、いつからでもご参加ください。あなたのお越しを心からお待ちしています。

どなたでも、事前申込みがなくても大丈夫です。

講師:宮島牧人(原町田教会牧師)
日時:日曜日の礼拝後
費用:無料

What’s New!

★主日礼拝★   
5月19日(日)  10:30 復活節第5主日
聖書 申命記7章6〜8節 ヨハネによる福音書15章12〜17節
説教 「神様が選んだ」 宮島牧人牧師

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6月11日の安積力也先生講演会ご案内を掲載しました。

★4月14日、21日の  主日礼拝メッセージ(テキスト)を掲載しました。

5月5日のお昼ごはんの写真を掲載しました。
4月21日の子どもの教会・イースターの写真を掲載しました。

3月24日のジュニア聖歌隊讃美「クレド」の音声と歌詞を掲載しました。

無料英語レッスンのご案内を掲載しています。

原町田幼稚園のまいにち 教会付属幼稚園の公式ブログです。

牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
日曜日の礼拝にもどうぞおいでください!お待ちしています。

4月21日 あなたの涙はぬぐいとられる

◆ヨハネ福音書20章11〜18節
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

◆詩編30:2〜6節
30:02 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく わたしを引き上げてくださいました。
30:03 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。
30:04 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。
30:05 主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:06 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

皆さん、イースターおめでとうございます。イースターという素晴らしい日をこうして皆さんと一緒にお祝いできますことに感謝します。この集まりはわたしたち一人一人の意思によってできた集まりではありません。「今日は、イースターだから礼拝に行こう」と思って来たのだから、自分の意思によって集まったと思うかもしれませんが、そうではありません。この集いは神様が集めてくださったものです。復活日は神様がイエス様を死から起こされた日だからです。神様が今日、こうやって一人一人を原町田教会に集わせてくださったのですから、わたしたちはこの出会いに心から感謝したいと思うのです。隣に座っている人、前と後ろに座っている人を見てください。この人は「いつもと同じあの人」ではなくて、神様が復活日の今日、自分と出会うために集めてくださったあの人です。あの人は毎週のように会っている同じ人とは思わないで、むしろ今年も一緒にあの人と復活日をお祝いすることができるのだから、「あなたと出会えて、今年もこうしてイースターを一緒にお祝いできてとっても嬉しい」と心から感謝いたしましょう。なぜなら、イースターはどんな悲しみであっても、どんな苦しみであっても喜びへと変えられる日、流れている涙がぬぐい去られる日だからです。

マグダラのマリアさんは、墓の外に立って泣いていました。イエス様の遺体が墓からなくなっていたからです。彼女は確かにイエス様が十字架の上で死なれたことを見ていました。同じようにその遺体が墓に納められたのも彼女はその場にいて見ていました。ですから、イエス様が死んでしまったことで心の中に大きな穴がぽっかりと開いてしまったような寂しさを感じていたでしょうし、油を塗りに来たのにイエス様の遺体がなくなってしまったことで途方に暮れて泣いていたのです。遺体がない、遺体が見つからないというのは辛いことです。これは経験した人でないとわからないことかもしれませんが、東日本大震災の時に起きた津波によってたくさんの人の遺体が見つからなかったことで悲しみがより深くなったことをわたしたちは知りました。死んだ人を間近に見て、その遺体としばしの時を過ごし、そして遺体を棺に納め、葬儀をして火葬する。わたしが牧師となってこれまで何度も葬儀をしてきまして思いますのは、人が召されてからまず、遺体を前にして祈り、家族の方との日程などの打ち合わせ、納棺式、自宅からの出棺式、葬儀、火葬の前の式、骨を骨壷に入れる前の祈り、お墓に納骨する式など、一つ一つのこれらの「喪の作業」と呼ばれるプロセスが死を受け止めるにはとても大切だということです。そのような喪の作業があるからこそ「神様、あなたの御手にお委ねします」とその人の命を手渡すことができ、死の現実をなんとか受け止められるようになっていきます。でも、遺体がなくなってしまいますと油を塗ることも喪の作業もできません。

大切な人を亡くし、遺体もなくなってしまい、涙を流して途方にくれる人を神様はそのまま放っておかれません。神様は悲しむ人を決して一人にされることなく、涙を流すマリアさんにまず初めに天使が話しかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。彼女は答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。天使に続いて涙を流す彼女にイエス様が声をかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。まさかこの人がイエス様だとは思いもしませんから、マリアさんは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、引き取ります」。深く悲しんでいる時のわたしたちはなかなか人の励ましや慰めの言葉を受け入れられないことがあります。彼女もそうでした。そこでイエス様は彼女の心に届くように「マリア」と声をかけられます。この人はイエス様だと気づいてマリアさんはよほど嬉しくなったのでしょう。もうイエス様を放さない。そんな思いで彼女はイエス様にしがみつきましたが、イエス様は彼女を立ち上がらせる言葉をくださいます。「わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。

わたし宮島は、8年ほど前になりますが、自分の父親を天に送ったときの葬儀でたくさん涙を流しました。父の葬儀はわたしが牧会をしていました茨城県の牛久教会で行いまして、当然、わたしが牧師としてその葬儀を司式いたしました。説教の時はなんとか堪えられたのですが、父の好きだった讃美歌を歌う時には涙を流し、また葬儀の後半の思い出を話す時になっても、小学生の頃一緒にヨットに乗って海に行ったことや一緒に釣りをしたことなど元気でいた父を思い出し、もうあのように楽しく過ごすことができないと思い、天に召される前の10年近く、父は病気で動けなくなっていて、自分は弱っていく父に何もできなかったという思いもあり、たくさん泣きました。でも、その時、その葬儀には教会員はもちろん、特に連絡を入れていなかったのですが、幼稚園の保護者の方たちや同じ地区の牧師仲間たちも数人駆けつけてくれまして、嬉しかったことを覚えています。そして何よりも、わたし自身が父と十分に心通わせる時間が取れていなかったという悔いが残る中でも、父はまことの親である神様のところに帰って行ったと信じられること。神様が父の手をとって「起きなさい。新しい朝だよ」と立ち上がらせてくださり、新しい命を神様のもとで生きていると信じることによってわたしは深い慰めを得ました。イエス様が死から起こされ立ちあがったからこそ、わたしたちは死は終わりではなく、新しい命の始まりだと信じることができます。復活を信じることができるわたしたちは本当に幸いです。
 
さて、イエス様の「マリア」との言葉で立ち直ったマグダラのマリアさんに、今度は使命、ミッションが与えられました。「弟子たちのところへ行って、こう言いなさい」と進むべき道が示されたのです。彼女は弟子たちのところに行って福音を伝えました。「わたしは主を見ました」。この彼女の一言が復活を信じる教会の始まりとなりました。死は終わりではなく、新しい命の始まりだと伝えるこの福音は「わたしは主を見ました」と告げたマグダラのマリアさんから始まり、彼女のこの一言が多くの人を慰め励ます教会の礎となりました。彼女はどこにでもいる普通の人で、いくつもの病気を抱えて苦しんでいましたがイエス様と出会い、病を癒されたことがきっかけとなりイエス様に従ってエルサレムまで来ていました。そして神様は悩みを抱える普通の女性マリアさんをイエス様の復活の証人として用いられたのです。同じようにイエス様と出会って救われた原町田教会のわたしたちを神様は復活の証し人として用いてくださいます。

イエス様は「わたしの父であり、あなたがたの父である方のところに上る」と言われました。イエス様が死んだ後、死から起こされて父なる神様のところに上っていかれたように、わたしたちも同じように神様のところに上ります。イエス様が「あなた方の父である方のところ」と言われているからです。ヨハネ福音書14章2節でイエス様はこう言っていました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。死は終わりではなく、神様のところで生きる命の始まりです。この世の旅路を終えた後、その旅路が長いとか短いとか、良し悪しに関係なくイエス様は必ずわたしたちを迎えに来てくださり、父なる神様の家に連れて行ってくださるのです。

ある人が「クリスチャンにならないと天国には行けないのですよね。わたしはクリスチャンになったのですが、わたしの前に亡くなった父や母は仏教徒でしたから、地獄にいるのですか?」と聞きました。その人にわたしたちはなんと答えるのでしょうか?「そうです。クリスチャンにならないと地獄に行くのですよ」と答えるのでしょうか。でも、想像してみてください。皆さんが大好きだった家族がただ洗礼を受けなかったからという理由で地獄にいて苦しむ様子を天国から見ている皆さんは幸せですか?大切な人が苦しむのを見ているところはどう考えても天国とは言えません。イエス様は人が苦しむのを見るようなところに皆さんを迎えることはなさらないはずです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」との御言葉は分け隔てなく、すべての人に伝えられたものです。あなたがたすべての人は、この世の旅路を終えた後には親である神様のところに上るのです。

これこそ、福音、喜びの知らせです。マグダラのマリアさんが「わたしは主を見ました」と告げたのと同じように、わたしたちも「わたしは復活を信じます。死は終わりではなく、新しい命の始まりです」と近くの人に伝えていくのです。親しい人の死を経験し、涙を流す人にわたしたちはマグダラのマリアさんが弟子たちに告げたように伝えます。

この世の旅路を終える時は誰にでも必ずやってきます。だからこそ、「あなたと出会えて、今年もこうしてイースターを一緒にお祝いできて嬉しい」と心から思うことができます。あなたと一緒に主の復活を祝う今という時がどれほど尊いのか。同時にこの世でのお別れが来た時でも「死は終わりではない。復活の主イエス様がわたしを迎えに来てくれて主の家に迎え入れてくれる」と信じることができるのです。

4月14日 わたしと一緒に楽園にいる

◆ルカ福音書23章32〜49節
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

◆詩編22:2〜12
22:02 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:03 わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:04 だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方。
22:05 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。
22:06 助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:07 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:08 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。
22:09 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

アートバイブルという本がありまして、2003年に1冊目が発行され、その5年後には2冊目が発行されています。聖書の御言葉とその御言葉を絵画で表現した作品がたくさん載せられていて、見るのがとても楽しい本です。わたしは毎週の週報の表紙の絵を選ぶ時によくこの本を参考にしています。アートバイブルを見ていまして面白いのは、一つの御言葉に対して絵が一つだけでなく、いくつかの違った画家の絵が載せられていまして、それを見比べていますと一つの御言葉をどう受け止めるのか、人によって違いがあることに気づかされます。この本の中で特に一つのテーマでたくさんの違った絵を紹介しているものがあるのですが、皆さん、なんのテーマだと思いますか?それはやっぱりイエス様が十字架につけられた絵です。今回、イエス様が十字架に架けられている絵をゆっくり見て気づいたのですが、この本で紹介されている絵のほとんどは、イエス様お一人が十字架に架けられているものでした。イエス様がお一人で十字架に架けられている絵の多くは両手を広げ、手に釘を打たれたイエス様が絵の全体を占めています。ただ、今日の御言葉が伝えますのは、イエス様は一人ではなく、一緒に二人の犯罪人が十字架につけられたとあります。23章32節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった」。続く33節「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」。イエス様は二人の犯罪人と一緒に十字架につけられたのですが、そのことを描いた絵もいくつかありまして、今日の週報に載せたレンブラントの絵はその一つです。

聖書を読んでいる時ですが、わたしたちは「もし、この聖書の時代に自分がここにいたとしたら、自分はここに登場する誰と似ているだろう?」と思いながら読むことがあります。今日の出来事、イエス様が十字架に架けられている出来事の中で、もし、自分がここにいたとしたらどの人と自分は重なるところが多いだろうかと想像するのです。そこに立って見ていた民衆に自分を重ねるでしょうか?「他人を救ったのだ。もし神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがいい」と嘲笑った議員、あるいは「お前もユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言った兵士たちでしょうか。あるいは49節に登場している「遠くに立って見ていた婦人たち」でしょうか?それとも二人の犯罪人でしょうか?多くの人は35節「民衆は立って見つめていた」とある民衆の立場に自分は近いと感じるのではないでしょうか?わたし自身も長らくそう思っていました。もし、自分がここにいたら何もできずにただそこに立っていたか、あるいは周りに合わせて「十字架につけろ」と叫び、イエス様が死なれた後には感動して、48節にある通り「胸を打ちながら帰って行った」群衆の一人だろう、その場に「何もしていないで」立ち尽くす群衆の一人と思っていました。

しかし、「何もしていない」で見ていることも実は人を苦しめることになる。「何もしないで」その場に傍観者としていることも実は罪を犯しているということにわたしは先日、ある短い文書を読んで知らされました。その文章を読んでわたしは頭をガツンと殴られるような衝撃を受けて「あ、自分は民衆ではなくて、イエス様の後ろで十字架につけられた罪人の一人なんだ」と気づいたのです。

34歳になる和田さんという作家が先日、新聞にこんな投稿をしていました。和田さんは自分が中学生の時、自分はいじめの加害者だという意識をつい最近まで持っていませんでした。それは久しぶりに再会した中学のクラスメートの一言「あの時は自殺してもおかしくなかった」と言われるまでは、自分といじめは関係ないと思っていたというのです。「自殺してもおかしくなかった」と言ったクラスメートの彼女はそこまで追い詰められていたのかと和田さんはそれを聞いて驚き、同時に自分自身が当事者意識をまったく持っていなかったことにも驚いたと言うのです。なぜなら、和田さんは実際に「何もしていなかった」からです。中学の3年間、彼女へのいじめは、「されたらイヤなこと」をすべて詰め込まれたゴミ箱のようでした。叩かれ、ばい菌と呼ばれ、机を廊下に出されていましたが、和田さんはそれを「何もしないでただ見ていました。叩くことに加わらず、でも助けもせずに少し居心地悪くしながらも多くのクラスメートと同じように何もせず見ていました」。その態度が、彼女に「自殺を考えさせるほどの苦しみ」を与えていたのです。和田さんはその後にこう書いています。「仮に彼女が自殺してもわたしには罰は下らない。教育委員会や警察がわたしを調べても、本当に『何もしていない』のだから。だからのうのうと生き、彼女の苦しみを知らずに大人になった。善人とは何か。波風立てず問題を起こさず、静かに生きている善人たちが、虚構を作っている。わたしもその一人だ」。そして最後の和田さんの一文を読んで、わたしは「十字架につけられているイエス様を見ている民衆に自分を重ねていたが本当はそれだけではなかった」と思ったのです。和田さんはこう言います。「差別やいじめは悪人から始まるものだろうか。テロリストは犯罪ばかりする家族から生まれるだろうか。案外、善人のつくる静かな平和から、それらは醸成されるかもしれないということを、わたしたちは今日も黙殺し、あるいは知らないまま生きている」。イエス様の十字架を傍観者として見ているだろうと想像するわたしは今も「何もしていない」という過ちを犯している罪人なのです。「何もしていない」から、わたしには罪はないと思って、イエス様が十字架に架けられているのを正面から見ているのではない。本当は、十字架に架けられたイエス様を斜め後ろから、しかも自分も十字架につけられた状態で見ているのがこのわたしなのだと気づいたのです。

苦しむ人がいてもわたしは「何もしていない」から、加害者ではない、自分は何も悪くないと思いたい。でも、苦しむその人たちを助けようとしないことは加害者とあまり変わらないことなのです。

この後に歌います讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」では、イエス様が十字架につけられたとき、主が釘で打たれたとき、主がやりで刺されたとき、あなたもそこにいたのかと問いかけます。今日の御言葉からこの歌に付け足すならば、議員や兵士がイエス様をあざ笑ったとき、イエス様が大声で「父よ、わたしの霊をあなたの手に委ねます」と言って息を引き取られたとき、あなたもそこにいたのかとなります。そうです。わたしたちはそこにいました。群衆として、ときには兵士として、また婦人として、「本当に、この人は正しい人だった」と言う百人隊長としてそこにいました。ただ、忘れてはならないのは、わたしたちは「何もしていない」という罪によって刑罰を受けるべく犯罪人の一人としてもそこにいて、自分の十字架を背負いながらイエス様が十字架に架けられているのを後ろから見ているのです。

犯罪人の一人はイエス様に兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。イエス様はそれには何もお答えになりません。しかし、もう一人の言葉にイエス様は答えられています。もう一人はこう言いました。40節「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。続けて「イエスよ、あなたの御国に御出でになるときには、わたしを思い出してください」。わたしたちもこの犯罪人のように「わたしは罪人です」と告白し、イエス様に話しかけたいのです。「わたしたちは十字架を背負っています。でも、イエス様、あなたは何も悪いことをしていないのにわたしたちの罪のゆえに十字架に架けられ、苦しまれている。イエス様、どうかあなたが神の国に行かれるときにはわたしのことも覚えていてください」。この犯罪人の一人はわたしたち自身であり、わたしたちの良き模範です。イエス様は罪人であるわたしたちに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。何も悪いことをしていない方が十字架に架けられることによって神の国がそれまでは開かれていなかった犯罪人にも開かれたのです。明らかにわたしたちの罪のため、イエス様はわたしたちのために苦しんでくださっている。そう信じて「わたしは御国に行けないと思うけど、イエス様に思い出してもらえるだけで本望です」と心から思う時、イエス様の声が聞こえてくるのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

これが福音の御言葉です。わたしたちの多くはこの犯罪人のように自分の十字架を背負いながら日々生活をしています。わたしたちが背負う十字架は、「何もしない」罪だけでなく、体や心の病気であったり、人間関係から生まれる重荷もそうですし、歳を重ねて老いていくことで、できないことが増えていくことも十字架の一つです。そのようにわたしたちは自分の十字架を背負いながら、すぐ目の前に十字架に架けられたイエス様を見て、「イエスよ、わたしを思い出してください」と言うことができます。この苦しみをイエス様が覚えていてくださると確信するだけでも心は軽くなるのですが、イエス様はそれをはるかに超えた福音を今日与えてくださいました。イエス様は、わたしたちにはっきりと言われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。どんな重荷を背負っていても、「何もしていない」という過ちを日々犯す罪人であっても、あなたたちは今日、イエス様と一緒に楽園にいるのです。イエス様は正しい人のためではなく犯罪人のために死なれました。良い人のためではなく、悪い人のためにイエス様は命を捨てられ、血を流されたのです。あなたのために主イエス様が命を捨てられ、あなたのために主イエス様が血を流されたのです。あなたたちを罪から救うために、あなたたちに命を与えるためにイエス様は死なれたのです。

時々、心の深いところで「わたしは本当に救われるのだろうか?」「こんな罪深いわたしが天国に入れるのだろうか?」と不安を感じることがあります。でも、それは人の心の思いであって、神様の御心ではありません。イエス様は、十字架を背負いながら歩くすべての人に神様の御心をはっきりと宣言されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

保護中: [教会員用] 2019年5月 主日礼拝音声

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2019年6月11日 安積力也先生講演会

6月11日火曜日に、安積力也先生をお招きしてお話しを伺います。ぜひおいでください。

主催:原町田幼稚園 問い合わせ042-722-2454まで。

託児について:2歳児以上の託児は無料です、ただし先着8名まで。6月7日までにお申し込みください。

講師メッセージ:今、この国の子どもたち(中・高・大学生を含めて)が、異様に「素直」で、上から言われることに「従順」になっています。そして、みんな、生きるのが辛そう。国全体の自殺者は減ったのに、若者の自死率は高止まりのままです。私たち大人も、「早く、目に見える成果を!」の声にあおられて、みんな「待てなく」なった。じっとわが子を「聴けなく」なった。いったい何が起こっているのでしょう。いったい私たち親や保育者に、今、何が問われているのでしょう。少し立ち止まって、「私」を見つめ直してみませんか。

 

講師プロフィール:1944年宇都宮生まれ。吉祥寺育ち。国際基督教大学(ICU)卒(教育学修士)。4つのキリスト教学校−敬和学園高等学校<新潟>教頭・日本聾唖学校<町田>校長・恵泉女学園中高<世田谷>校長・キリスト教独立学園高校<山形県小国町>校長−の現場を生きて、2015年、満70歳を機に現役を引退。2男1女の父。町田市在住。著書『教育の力−「教育基本法」改定下で、なおも貫き得るもの』岩波ブックレットNo.715など。

 

 

 

 

 

2019年5月5日 お昼ごはん

5月5日のお昼は、具がたーーーっぷりの皿うどんでした。お腹いっぱい、いただきました。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。