2019年3月24日 ジュニア聖歌隊讃美『クレド』

成長祝福式が行われた3月24日の礼拝で、ジュニア聖歌隊が『クレド 弱いものの信仰宣言』歌いました。

 

写真をクリックすると、礼拝での讃美の歌声をお聴きいただけます。

 

 

クレド(弱いものの信仰宣言)

原詩:ある兵士の祈り
曲:Sr.Teresia/古木涼子(イエスのカリタス修道女会)

成功を収めるために 神に力を願ったのに 弱くなってしまった。
謙遜を学ぶように。

偉大なことをするために 神に健康願ったのに 病気になってしまった。
神の心に適うように。

わたしの願いは何一つかなえられなかったけど
希望した全てのことを わたしは受けた。

幸せになるために 神に富を願ったのに 貧しくなってしまった。
生きる厳しさ知るように。

弱いひとを助けるために 神に権威を願ったのに 無力になってしまった。
神に頼ることを学ぶように。

神はわたしに必要なこと 何もかも知っておられる。
希望した全てのことを わたしは受けた。

ひとに尊敬されるために 神に手柄を願ったのに ただ失敗に終わった。
思いあがらないように。

聖なるひとになるために 神に徳を願ったのに 罪の醜さに泣いた。
神の愛の深さ 悟るように。

わたしの姿は変わらない。
弱く何もできないけれど 喜びに満ちあふれて わたしは歌う。

2019年3月3日 わたしはあなたと共にいる

◆イザヤ書41章8〜16節
41:08 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
41:09 わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
41:10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。
41:11 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆 恥を受け、辱められ 争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。
41:12 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず 戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。
41:13 わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
41:14 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。
41:15 見よ、わたしはあなたを打穀機とする 新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。
41:16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ 嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り イスラエルの聖なる神によって誇る。

◆詩編46:2〜12
46:02 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:03 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
46:04 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
46:05 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
46:06 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:07 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:08 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
46:09 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

ここにいるほとんどの人は、自分用の聖書を少なくとも1冊は持っていると思います。いつでもどこでも読もうと思えば、聖書を読むことができますし、実にいろいろな翻訳の聖書も読むことができます。原町田教会の中でもすでに買われた人がいると思いますが、つい先日には、31年ぶりの翻訳聖書『聖書協会共同訳聖書』が出ました。長い教会の歴史の中でこれほど聖書が身近になった時代はないと言っても大げさではありません。ただ、そこで問われますのは、わたしたちの聖書を読む姿勢です。わたしたちは神様の御言葉としての聖書を読むときにどのような思いで読んでいるでしょうか?聖書の知識をもっと蓄えるために読むのでしょうか?それとも神様からの救いを求めて読むのでしょうか?どちらも間違いではないと思います。

ある人がとってもいいことを言っています。聖書は「わたし」と語る神様が、読者である一人一人の「あなた」にあてて書かれた手紙の束、ラブレターだと言うのです。わたしたちの郵便ポストには毎日のようにいくつもの商品案内の手紙、あるいは以前に買い物をして住所を教えたお店からキャンペーンや何%オフと書かれたハガキなどが届きます。それは不特定多数の人にあてられた印刷された文字です。パッと見てほとんどはリサイクル用のゴミ箱に投げ入れられます。でも、最近は減ってきていると思いますが、自分の手で書かれたハガキや手紙がわたし宛に送られてきますと嬉しくなります。聖書は不特定多数の人にあてて印刷された神様を説明する文章ではなく、神様がすべてのあなた個人に宛てて書かれた神様直筆のラブレターだと言うのです。神様がこのわたしに書いてくださっているんだ、そのような思いをもって読みますと聖書に書かれた御言葉がグッとわたしたちに迫ってまいります。

イザヤ書41章9節「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」。神様があなたに言われるのです。すべての命を創造されている永遠なる神様が、とにかく多くの人に伝えようとするのでなく、一人一人のことを思いながら「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と言われているのです。それもわたしたちがその言葉の豊かさに気づいていない時からずっと繰り返し「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる」と伝え続けておられます。

3月になりました。卒業シーズンです。原町田幼稚園の卒業式も今月の15日に行われます。幼稚園では毎年、卒業していく子どもたち一人一人に宛てて担任からの手書きメッセージや他の先生たちから短いメッセージが印刷された「神様に守られて」という冊子をお渡ししています。わたしは毎年のように「たんぽぽのみんなに出会えてとっても嬉しかった。大好きだよ」と言うような言葉を送っています。卒業式だけでなくて、誕生会のときに送る一人一人へのメッセージでも「あなたと出会えて嬉しい。大好きだよ」と書いています。わたし自身が神様から愛の言葉をなんども頂いていますから、同じように子どもたちに愛の言葉を子どもたちがわかる言葉で伝え続けています。先日、年長の女の子がわたしのところにやって来て、いきなり「宮島先生、結婚して」と言うのです。真面目に「わたしはすでに結婚しているからできないよ」なんて言わずに「わたしも◯◯ちゃんのこと大好きだから、結婚したいよ」と答えますと「今すぐにして」と言うので、わたしはひざまずいて「◯◯ちゃん、結婚してください」と言いました。その子はとっても嬉しそうでしたし、わたしも心がほっこりしました。

身近な人にこそ、日頃から愛の言葉を何気なく伝えられるといいなぁと思います。何か特別な時だけでなく普通に「あなたが先週いなくて寂しかった」とか、「この間はあなたがいてくれたから本当に助かりました。ありがとう」。恥ずかしくて言えないと思うかもしれませんが、神様がわたしたちに繰り返しラブレターなる聖書を通して「わたしはあなたを愛している」と言っているのですから、わたしたちもいつも近くにいる人に伝え続けたいのです。愛の言葉は聞いた人にとって命のパンとしてその人を元気にするからです。

神様は毎日わたしたちに愛の言葉を伝えています。イザヤ書41章10節「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」。聖書を一人で読む時には、これは神様がわたしに書いてくださったラブレターなんだと思いながら読んでいただきたいのですが、今日のように礼拝の中で説教として聞く時には、神様が説教者を通してあなたに言われていると受け止めていただきたいのです。神様が宮島を通して今、あなたに言われているのです。「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける」。

この神様の御言葉は紀元前6世紀ごろにイザヤさんを通してバビロンの地に連れて行かれ、故郷に戻ることを願っていたイスラエルの人たちに向けて伝えられた愛の言葉です。イスラエルの人たちは異国の地に無理やり連れてこられて何十年もそこにいましたから、「もう、わたしたちはダメだ。バビロン人たちからは『虫けら』と呼ばれているし、実際にわたしたちは虫けらだよ」と言っていたのかもしれません。わたしたちも思い描いている通りに物事が進まず、失敗ばかりしていますと「自分はダメだ。何の役にもたっていない。わたしなんていてもいなくても同じ」と自分を見下してしまいがちです。神様はそのようにいじけるわたしたちのことをよく知っていますから、何度も愛の言葉をかけてくださいます。14節「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける」。

神様はこのラブレターに書いた言葉を本当の出来事として実行されました。この後、イスラエルの人たちはバビロンから解放され、故郷に戻ることができました。紀元前538年ごろと言われています。愛の言葉はイスラエルの人たちだけに伝えられたのではありません。その後500年以上経って神様はすべての人を助けてくださいました。それがイエス・キリストによる救いです。

今年の1月1日から、わたしはヘンリ・ナウエンさんが書いた『今日のパン、明日の糧』という黙想の本を毎朝読んで、お祈りをしています。先日、その本に慰めについてこのようなことが書かれてありましたので、紹介させてください。慰めという言葉を英語で言いますと、consolationとなります。この慰めという言葉は2つのラテン語がくっついてできておりましてConとSolusという言葉です。Conは「共に」「一緒に」で、Solusは一人の人という言葉ですから、慰めるは「人と共にいる」こととなる、とありました。

神様からの愛の言葉をなんどもなんども繰り返し読んで、聞いていますと心に深い慰めを感じるのは、神様がどこか遠いところにおられる方ではなく、とても近く、わたしの横に、前に後ろに、時には下にいてくださるからなんだと改めて思いました。神様は今日も「わたしはあなたを固くとらえている」、「わたしの救いの右の手であなたを支える」と言われます。神様がその御手でもってわたしを支えてくれているのですから大丈夫とわたしたちは信じるのです。「わたしはあなたと共にいる」。この慰めの愛の言葉が目に見えるキリストの体として、そうです、このエクレシア、この原町田教会の集まりとなってこれまでも、また今もそしてこれからもあなたを助け、支えます。

招詞でコリントの信徒への手紙が読まれまして、そこにはこうありました。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。もちろん、これは人間の力では難しいことです。痛み、悲しみの中にある人を前にした時、ほとんどの人はどんな言葉を言ったらいいのか、迷います。家族を失った人、重い病気を患った人、自死することを考えている人、生きる意味を見失った人。その人たちは心の底から慰めを求めていますが、わたしたちはオロオロしてしまうことがあります。でも、慰めるというのはその人の悲しみや苦しみを減らすのではなく、ただその人のそばにいて「わたしには何もできませんが、しばらく一緒にいることはできます」と言うこと。それこそ神様が教会を用いてわたしたちを慰めてくださっていることですし、勉強しなければできないことではありません。その人とお茶を飲み、お話しを聞いてしばしの時を一緒に過ごせばいいのです。

先ほどのご一緒に読みました詩編46編には、イザヤ書を通して語られる神様に向かって、わたしたちが応える言葉が記されていました。神様がまず言われます。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」。このラブレターにわたしたちはこう応えます。詩編46編2節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。 続く3〜4節「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも」「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」。この神様への返事の手紙は、一人一人が神様に宛てて書いているというよりも、教会のみんなで書いているイメージですね。先ほど一緒に声を合わせて詩編を読んだのもしっくりきます。神様が「わたしの救いの右の手であなたを支える」と言われたのに対して、わたしたちは応えます。8節と12節「万軍の主はわたしたちと共にいます」。だから、わたしたちは恐れません。思いもよらない状況に直面してもわたしたちは恐れません。なぜなら、「わたしはあなたを支え、助け、決して見捨てない」と言われる神様がわたしたちとどんな時でも一緒にいてくださるからです。

死から復活されたイエス様の親であり、わたしたちの親である神様は返事をするわたしたちに再度言われます。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」。

2019年2月24日 苦しみにあってもあきらめない

◆ルカによる福音書5章12〜26節
05:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
05:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
05:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
05:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
05:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
05:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
05:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
05:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
05:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
05:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
05:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
05:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
05:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
05:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
05:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

◆詩編103:1〜13
103:01 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。
103:02 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
103:03 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し
103:04 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
103:05 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。
103:06 主はすべて虐げられている人のために 恵みの御業と裁きを行われる。
103:07 主は御自分の道をモーセに 御業をイスラエルの子らに示された。
103:08 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。
103:09 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。
103:10 主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。
103:11 天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
103:12 東が西から遠い程 わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
103:13 父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

 

わたしは毎朝、短い時間ですが聖書を読んで祈っています。教会や幼稚園の皆さん、特に痛み苦しみの中にある人を覚えて祈ります。そのあと、朝ごはんの前にも家族揃って「神様、今日も一人一人が元気に朝を迎えられましたことを感謝します。今日も心と体の健康を支えてください」と祈ります。その後、幼稚園に来て8時30分から始まる朝礼の時にも職員と一緒に祈っていまして、園では職員が順番に祈ります。「神様、子ども達、その家族、また職員一人一人の心と体の健康をお守りください」。わたしたちの祈りの多くは、自分の健康、身近な人の健康を願う祈りだと思いますが、今の季節、祈っていましても風邪を引いてしまうこともあります。そんな時は、「神様がいつもあなたは頑張っているから、少しはお休みしていいのですよ」と休ませてくれたと受け止めるようにしています。誰でも風邪ぐらい引きますし、実際に疲れている時ほど風邪を引きやすいのですから、風邪を引いたときくらいは堂々と「やすみます」と言ってゆっくりできます。でも、病気は病気でも重いもの、なかなか治らない、あるいはずっと治らない病気になった場合はどうでしょうか?「神様が与えてくれた休養期間だ」とは簡単には思えませんから、心から治してほしいとただ心から願い、祈ります。わたしたちの「健康をお守りください」との日々の祈りは、そのような重い病気からお守りくださいとの願いだと言えます。今日の聖書に登場する2人の人物はその祈りを繰り返し祈ってきた重い病気を患った人たちでした。

最初の人は全身に重い皮膚病を患っていました。当時、このような病気にかかった人は、家族から引き離され、街中に住むことが許されず、人に近寄ることもできませんでした。もし、その病いの人が誰か知らない人に近づいた時には「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければならないと定められていました(レビ記や民数記にその定めが書かれています)。でも、この人はイエス様の噂を聞きつけて、何としてもイエス様にお会いしたいと思って、本当は来てはいけないところにやって来て、決死の覚悟で、人に見つからないように待ち伏せしていました。そしてイエス様を見つけたら、さっとそこから飛び出し、目の前にひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くおできになります」と願ったのです。その人がこれまでどんな思いでいたのか、イエス様はその思いと祈りをしっかりと受け止められ、「汚れた者です」と自分で言わなければならないその人にイエス様は手を伸ばし、肩に手を乗せ、ただれた顔や腕に触れ、そしてその人の手をぎゅっと握って言われたのでしょう。「よろしい、清くなれ」。

同じように全身が麻痺して動くことのできない中風の人とその友人たちも決死の覚悟でイエス様に近づいていきます。ちょっとでも間違えたら、屋根が崩れて自分たちも落ちてしまうかもしれません。でも彼らは屋根に上って瓦をはがし、病人を乗せて床ごとイエス様の前につり降ろしました。

この病いの2人とその友人たちは治らないと思ってしまうほどの重い病気になっても生きることを諦めていません。必死に祈り、願い、イエス様に近づいて行きます。その思いを受け止めてイエス様も危険を顧みずに全力で病いを治そうとされています。病気の人も、イエス様も諦めていません。

医学、医療がずいぶんと良くなった現代でも難病と呼ばれて、治すことのできない病気はまだまだあります。わたしの父も難病でしたし、原町田教会の中にも、また幼稚園の家族の中にもそのような病いを負っている人がいます。わたしはその病の中にある人やその家族を前にした時、何を話したら良いのか、どんな言葉で話しかけたらいいのか、迷うことがあります。でも、今日の御言葉が迷うわたしにあきらめず祈りなさいと勇気をくれました。2000年も前のイエス様の時代でしたら、重い皮膚病や中風を患えば、その病気はその人または近い人の罪や過ちに対する神様からの罰と思われていましたから、人間の力では何もできないと諦めるのが普通だったと想像します。しかし、彼らは生きることを決して諦めず、祈り続けていました。そうでなければイエス様に近づくこともしなかったでしょう。イエス様も彼らと同じように生きることを諦めていません。わたしたちも重い病気の人を覚えて祈り続けます。生きることをあきらめずに難病になっても、癌になったとしても、復活され今も共におられるイエス様が触れてくださる、支えてくださると信じ、祈り続けます。

先ほど歌いました讃美歌533「どんなときでも」を開いていただきたいのですが、左上に作詞者の名前「高橋順子」とありまして、その右横に1959年から1967年とあります。59年から67年まで生きたということですから、順子さんは7歳で天に召されたとなります。ご存知の方も多いと思いますが、彼女は福島県の新町(しんまち)教会の教会学校に通っていましたが、幼稚園の時に、重い病気(骨のガン)にかかりました。いろいろと治療してきましたが、治らない中、今度は足にガンが移ったので、片足を切り落とさなければならないと医者に言われました。想像することすら辛いことです。でも、教会学校の先生をしていた人が順子さんの病院に来て、順子さんのお母さんと一緒に「大丈夫、イエス様が一緒にいてくださるから、大丈夫だよ。お祈りしようね」と励ましてくれました。十字架につけられて苦しんで死んでいったイエス様は、その後に復活されて、今も一緒にいてくださると順子さんは教会で聞いていましたし、そのことを信じる教会の人がここに来て祈ってくれる。足を切断する手術を受ける4日前に、順子さんは1つの詩を書きました。それがこの讃美歌の詩です。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの愛をしんじて。どんなときでも、どんなときでも、しあわせをのぞみ、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの愛があるから」。彼女の病気そのものは治りませんでした。けれども彼女の信仰、イエス様の愛を信じていれば、どんなときでも苦しみに負けずに、くじけないで生きていける。その信じる想いは確かに生き続けています。重い皮膚病の人も同じでした。この人もあきらめずに、くじけずにイエス様のところに向かっていきました。中風を患っている人とその友人たちもあきらめずに屋根に登って瓦を外してイエス様のところに行きました。

わたしたちも同じようにあきらめずに祈り続けます。病気そのものが治らなかったとしても高橋順子さんの信仰、皮膚病の人や中風の人とその友人たちの信仰は今も歌や御言葉を通して生き続けていますように、わたしたちの信仰も復活のイエス様に繋がれて生き続けると信じます。今、まさにここに集う原町田教会の家族の中にも重い病気を患いながらも主にある希望を失わずに生きている人たちがいます。病いを患って、時にくじけそうになりながらも「イエス様の愛があるから」と歌うのです。その人たちの生きる姿そのものが、今日の御言葉の現代版なのではないでしょうか。病気を抱えながらもイエス様に会うためにゆっくり歩きながら、普通の人の2〜3倍の時間をかけて礼拝に集う人は、イエス様に友人たちの助けをかりて会いに来たあの中風の人に似ています。

先ほど、招詞で読まれましたコリントの信徒への手紙一の10章11節にはこうあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられなかったようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださいます」。

10日ほど前のことですが18歳の水泳選手、池江璃花子(いけえりかこ)さんは自分が白血病と診断されたことを公にし、それがニュースとなりました。彼女のところにはたくさんの人たちから、温かい励ましの言葉が届き、それに対して彼女は、ツイッターでこのように答えました。「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。いまは、完治を目指し、焦らず、周りの方々に支えて頂きながら戦っていきたいと思います」。彼女のコメントを読んですぐにわたしは、これは、コリントの御言葉だとわかりましたが、皆さんもそうじゃないですか?御言葉は今も生きて、重い病気を患った人など困難にぶつかった人たちを支えています。
わたしもこのコリントの御言葉が好きなのですが、「逃れの道をも備えていてくださる」という箇所を苦しいことがあっても必ずそこから逃げられる道、そこから離れて遠くを通っていくような違う道が与えられるのだと理解していました。しかし、先日読んだあるコラムにはこうありました。「逃れの道とは迂回路ではなく、出口が本当の意味であり、試練を避けて別の道を行くのではなく、その真っ只中を通り抜けた先に与えられる出口。神様が寄り添ってくださるから、どんな試練をも通り抜けて、希望の出口まで達することができる」。

重い皮膚病を患っている人も中風の人も、また高橋順子さん、池江さん、ここに集うわたしたち1人ひとりも試練や苦しみを通る中でこそ、イエス様と出会うことができるのだと思うのです。痛みや苦しみの中にあってもイエス様が寄り添ってくださっている。治ることのない病気、なかなか終わらない苦しみの真っ只中を通って、わたしたちはイエス様に出会います。たとえ病になっても、治るかどうかわからない病気であっても、イエス様を信じる心はなくなりません。なくなるどころか強められていきます。「わたしはあなたが耐えられない試練は与えない」との御言葉によって神様はわたしたちに寄り添い続けておられます。イエス様を信じる信仰は永遠なるイエス様としっかりとつながっていますから決してなくなることはありません。イエス様はわたしたちの手に触れてくださり、わたしたちの祈りを受け止めて言われます。「あなたの罪は赦されている。起き上がって、自分の家に帰りなさい」。わたしたちは「神を賛美しながら家に帰って行った」中風の人と同じように、わたしたちの中で今も生きて働かれる神様の御業をこれからも賛美してまいります。

2019年3月17日 神学生を励ます会

3月に神学校を卒業し、4月から新しい土地へと旅立つ飯泉神学生を励ます会が開かれました。
心づくしのお食事、みなさんからの寄せ書き、思いのこもったプレゼント、ずっと一緒に歌ってきた聖歌隊の友との讃美歌。
原町田教会でそうであったように、これから出会う方々と飯泉さんとの交わりの中心にいつも神様がいてくださいますように!

2019年3月10日 震災復興支援バザー

毎年この時期には、震災で被害を受けた方への支援のためのバザーを行っています。
日用品、衣類、手芸品、手作りのお菓子などが並びました。
この日に向けてご準備くださった方、おいでくださった方、ありがとうございます。
震災で被害をうけた建物の再建費用を必要としている友たちのために、捧げます。

2019年3月10日 震災復興支援バザー

礼拝後に、震災復興を願ってバザーを行いました。
日用品、衣類、手芸品、手作りのお菓子などが並びました。
この日に向けてご準備くださった方、おいでくださった方、ありがとうございます。
震災で被害をうけた建物の再建費用を必要としている友たちのために、捧げます。

保護中: [教会員用] 2019年3月 主日礼拝音声

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2019年3月3日のお昼ごはん

たっぷり豚汁を作ってくださったので、たっぷりおかわりしました。あぁ美味しかった。。。

保護中: [教会員用] 2019年2月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。