2019年1月27日 子どもの教会 紙ひこうき

寒い日が続いていますね!
1月27日の幼小科の分級では、1階ホールで、厚紙を折って紙ひこうきを作って、飛ばしました!

いちにのさん!

2019年1月20日 御言葉は今日実現した

聖書箇所 ◆ルカによる福音書4章16〜30節 ◆詩編111:1〜10

イエス様が小さい頃から大人になるまで暮らしていましたガリラヤ地方のナザレは、ある聖書学者によれば人口500人ほどの村であったと言われています。500人と言いますとこの原町田教会が150人ほどの教会員数ですから、この教会が3つほどのイメージです。そのような小さな村でイエス様は大工仕事をする父ヨセフと母マリア、また兄弟たちと一緒に生活してきました。イエス様は幼少期をどのように過ごしたのか、福音書はあまり語っておりません。なぜなら、福音書の中心はイエス様の十字架と復活だからです。しかしながら、イエス様ご自身が聖書の御言葉をどう理解し、どんな経験をされて、生きてこられたのかを幸いなことにわたしたちは福音書を通して知ることができます。また、それ以上に幸いなことは、聖書が語る御言葉を、現代のわたしたちも経験することができるのです。すでにわたしたちは預言者イザヤが語った御言葉が実現したことを経験しています。イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この御言葉は、2000年前のベツレヘムで確かに実現しましたし、わたしたちも先月ですが、この御言葉の実現をクリスマスとしてお祝いしました。クリスマスにインマヌエルなるイエス様がお生まれになった。それゆえにイエス様が今もわたしたちと共にいてくださり一人一人を支えてくださっているのです。まさに御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現したということです。

これは2000年前のことだけではなく、2019年を生きるわたしたち一人一人が経験することでもあります。イエス様は言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とのイザヤ書61章1〜2節の御言葉が2019年のわたしたちの経験としても実現しているのです。

御言葉が今日、実現しているんだということをわたしたちが経験するためには、まず何よりもイエス様を信頼することが大切です。ナザレの会堂にいた人たちはイエス様の口から出る恵み深い言葉を聞いて驚いたのですが、イエス様の言葉を信じて「アーメン、それは本当です」と言わずに、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。イエス様が「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言ったのですから、ナザレでも捕らわれている人が解放され、見えない人の視力の回復と圧迫されている人の自由がすでに実現していたのですが、会堂にいた人たちはそれを信じることができなかったのです。なぜならば、彼らは御言葉に培われた経験ではなく、人の言葉に培われた経験からイエス様を見てしまったからです。人の言葉から見ればイエス様はどこにでもいるような大工職人ヨセフの息子となりますから、会堂で人に教えるような立場ではありません。「あいつはあのヨセフの子ではないか」と見てしまうのです。しかし、御言葉に培われた経験からイエス様を見ますと違って見えてきます。

わたしたちもこのナザレの会堂にいた人たちのように人の言葉からいろいろと影響を受けています。知らず知らずのうちに、御言葉でなくて人の言葉で物事を解釈してしまうことがあるのです。例えば、何か悪いことがあった時に人の言葉はこう言います。「あなたが何か良くないことをしたからそうなったのでしょう」。わたしたちが事故を起こした時、受験やテストに落ちたとき、災害にあった時、病気になった時、自分自身でも「日頃の行いが悪かったんだ。だからこうなってしまったんだ」と何の疑問もなく思ってしまう。反対に良いことがあると「日頃の行いがいいからだね」と人の言葉は伝えます。しかし、御言葉はそのようには語りません。事故を起こしても、テストに落ちて落ち込んでいても御言葉は、「そのことを通してすら、神様は栄光をあらわそうとされている」と伝えます。災害にあっても、病気になっても御言葉は「あなたが悪いことをしたからそうなったのではなく、あなたの家族が罪を犯したからでもなく、神の業があなたに現れるためだ」というのです。御言葉に培われた経験があれば、自分自身や他の人が経験していることをそのように解釈できるのです。

わたしたちが生きる現代は特に「経済が成長すること」が何にも増して良いことだと伝えます。ですから、そのような「人の言葉」の影響を受けて知らず知らずの内にわたしたちは損得勘定で物事の判断をしてしまうことがあります。損得勘定という人の言葉を御言葉よりも大切にしてしまうのです。「あの人と付き合ったら自分がどれだけ良い経験ができるだろうか?自分にとって学ぶことがあるだろうか?」と思ってしまうのです。教会の礼拝に来ることも「今日の礼拝で自分はどれだけ学ぶことができただろうか?」と考えて、あまり学ぶことがないから止めておこうとなる。自分がどれだけ損するのか、または得するのか?自分の中からすぐに取り出せるものさしが、「損得勘定ものさし」になってしまう恐れがあります。御言葉を信じて今日を生きるわたしたちは、その損得勘定ではなく「御言葉ものさし」を常備しておきたいのです。人との関わりでは、「あの人のことをわたしは祈ったことがあるだろうか?」と立ち止まって考える。礼拝に出て「自分は御言葉によって作りかえられているだろうか?」「神様がわたしをあるがまま受け入れてくださっている、赦してくださっていることに感謝できているだろうか?」と考えるのです。「御言葉ものさし」をすぐに取り出せるようにしていれば、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とのイエス様の御言葉に「アーメン」と答えられるようになっていくのだと信じます。

とは言いましても、人の言葉は繰り返し語り続けます。今や科学(サイエンス)こそが人類を救う鍵だから、バイオテクノロジーを使ってヒトゲノムや脳の研究が進められていまして、難病と呼ばれる治すのが難しい病気も近い将来には治療できると言われています。とにかく21世紀になって科学技術はものすごいスピードで進んでいます。科学こそ人類を救う鍵だからわたしたちはそこにエネルギーを注ぐべきだと人の言葉は伝えますが、その進む先には未知なる世界が広がっています。例えば、人が望めば科学の力によって生まれてくる子どもを自分の理想通りにデザインすることができる、いわゆるデザイナーズベイビーが生まれてくる可能性があります。実際にアメリカなどではすでに精子バンクというものがあって、女性が自分で望む男性の精子をインターネットで検索して、購入して人工受精して妊娠、出産しています。髪の毛の色、目の色、優秀な大学を出た人、病気のことなども調べるのでしょう。科学こそ人類を救う鍵だという人の言葉には注意しなければなりません。なぜなら御言葉はこう言うからです。命あるものはすべて創造主なる神様が造られたもの。それらは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。わたしたちが望んでいないようなことが起きたとしても、望んでいないような人と関わることになったとしても、その人も神から出た大切な命だと御言葉は語るのです。

さて、ナザレの会堂にいた人たちはイエス様を崖から突き落とそうとしました。それは彼らがイエス様の御言葉を勘違いしていたからだと思います。イエス様は「あなたたちに救いはない」と彼らに言われてはいません。イエス様は「すでに救いの御言葉は実現した」、「あなたたちはすでに解放され、視力も回復し、自由となった」と救いを宣言しているのですが、会堂にいた人たちはそれを信じて受け入れなかったのです。そこですでに実現している救いを彼らの目を開いて見せるために、イエス様は旧約聖書の2つの出来事を伝えました。それが列王記のエリヤとエリシャが同胞のユダヤ人ではなく、異邦人を助けた出来事です。イエス様はあえて外国人の2人を例として取り上げていますが、この2人に共通していることは苦しい状況にあっても伝えられた御言葉を信じて、それを行ったことです。サレプタのやもめは自分と息子の分しか残っていなかった小麦粉を使いきってパンをエリヤにあげました。壺の粉は尽きることがないと言った神様の御言葉を信じたからです。ナアマンは3度ヨルダン川に浸かりなさいと伝えたエリシャの御言葉を信じて恥を忍んで浸かりました。御言葉は実現するんだと信じて、自分自身とまわりを見るのです。そうすれば、主イエス様がすでにわたしたちを様々な囚われから解放してくださっているのが見えてきます。

捕らわれている人の解放も目の見えない人の視力の回復も、圧迫からの自由もナザレの人たちだけに与えられた特権ではなく、すべての人に与えられる恵みだとイエス様は伝えます。しかも、救いに預かるはずもないと思われていた異邦人であるサレプタのやもめとシリア人ナアマンが共に神様からの助けを頂いたというのです。これは「人の言葉」によって人を分け隔てて見てしまいがちなわたしたちに対するイエス様からのメッセージです。

イエス様によってすべての人はすでに救われています。すでに赦しは宣言され、主の恵みの年は始まりました。その御言葉を通してわたしたちは繰り返し自分自身を見るのです。こんなわたしは救いに価するのかとか、このわたしが愛され、赦されるなんてありえない、と勝手に決めつけてしまうことはないでしょうか?それは人の言葉で自分を見ているためです。御言葉は言います。「あなたはすでに捕らわれから解放されている。御言葉によってあなたの視力は回復し、自分自身を神様に愛された神の子として見ていいのです。それが圧迫からの解放であり、あなたは主にあって自由なのです」。イエス様を通して、聖書の御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現しています。

2019年1月 子どもの教会 新年会・かるたとり

今年最初の日曜日から、子どもたちが元気に集まってくれました。
この一年も、神様にしっかり手をつないでいただいて歩めますようにと祈ります。

2019年1月6日 お昼ごはん

新しい一年の最初の主日礼拝の日、寒い一日でしたが、身体が温まるようにと美味しいおうどんを準備してくださいました。

2018年12月23日 大きな喜びをすべての人に

聖書箇所 ◆ルカによる福音書2章1〜20節 ◆詩編98編1〜9節

みなさん。クリスマスおめでとうございます。今年はたぶん、原町田教会の108年の歴史の中で初めてイランから来た人が2人もバプテスマを受けますから、ペルシャ語でもMerry Christmasを言ってみましょう。最初にわたしがゆっくり言いますから、覚えてくださいね。「キリスマス モバラックKirismass Mobarak」。では、一緒に言ってみましょう。「Kirismass Mobarak!」。

今日、この後に5人の方たちがバプテスマ、洗礼を受けられます。その中にはイラン国籍のHさんとVさんの二人がいます。日本語がまだあまり上手でないこの二人がバプテスマを受けることは、今日の御言葉が今まさにここで実現していることだと思うのです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。民全体というのは、すべての人たちという意味です。決してイスラエルの民全体だけではありません。今月出版された新しい聖書「聖書協会共同訳」では、このように訳されています。「恐れるな。私はすべての民に与えられる大いなる喜びを告げる」。救い主がすべての人たちのためにお生まれになりました。わたしたちは毎週、礼拝を自分たちの慣れ親しんだ言葉と場所で捧げています。そうしますとついついそれが当たり前のように感じてしまい、いつの間にか神様の思いから離れてしまうように感じます。なぜなら、わたしたちはどうしても、自分の安心のための教会、自分の満足のための教会を求めてしまう傾向にあるからです。しかし、神様の思いは「すべての人」ですから、外へも向かっているのです。ですから、今日は特にこの天使が告げた神様の思いを忘れないようにしたいのです。「私はすべての民に与えられる大いなる喜びを告げる」。すべての人のための教会であれと神様は言われているのです。

今日、バプテスマを受けるHさんとVさんがイラン人という国の違いがありますから、わたしは余計にその神様の思いを感じます。ただ、神様は国の違いだけでなく、価値観が違う人にも、生まれや仕事、生き方が違う人にも、とにかくすべての人のために救い主イエス様を与えてくださいました。Iさん、Nさん、Yさんも国籍は日本で同じですが皆それぞれ違う生き方をする違う人です。神様はどんな人であっても、どこで生まれたとか、どんな学校を出てどんな仕事をしているのか。これまで何をしてきたのか、そのようなことは一切問わずに宣言されるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。生まれも生き方も違うこの5人が今日、「イエス様を救い主と信じます」と告白するのですから、この御言葉がここに実現しているのです。

すべての人が救い主イエス様と出会うことができるようにと神様は、イエス様との出会いの場所を誰でも緊張することなく行ける場所に設定されました。それが飼い葉桶です。神様はイエス様の誕生を当時の会堂、シナゴーグに告げ知らせずに野宿する羊飼いに伝えました。神様はすべての人がイエス様と出会って救われてほしいと願っているからです。もし、当時の人たちがシナゴーグでこの知らせを聞いたとします。でも、「わたしたちの新しい王様がどうして飼い葉桶に寝かされるんだ」と言って、探そうとしなかったかもしれません。あるいは知らされたことを信頼してそこまでやってきて飼い葉桶の中の赤ちゃんを見たとします。でも、「本当にこれが救い主なのか」と疑ったかもしれません。幸いにもそのようなことにはならず、羊飼いたちは急いで行って飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたのです。なぜなら、救い主は飼い葉桶の中にいたからです。もし、天使が羊飼いたちに「あなたがたは布にくるまって金でできた物に入れられた乳飲み子を宮殿で見つけるであろう」と言っていたら、彼らはそこにたどり着かなかったでしょう。でも、天使の言葉を信じていれば、どんな人でもたどり着ける飼い葉桶に救い主は寝かされていたのです。だから、彼らは救い主イエス様と出逢い、その光景をみてそのことを他の人たちに知らせたのです。救い主がお生まれになったという大きな喜びをすべての人に伝えたいという神様の思いが確かにここから始まりました。シナゴーグにあまり行ったことのない彼ら、羊飼いたちでしたが、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

すべての人に大きな喜びが告げ知らされました。わたしたちの周りにいる人、「こんなダメなわたしのところになんか神様の救いなんか来ないだろうと思い込んでいる人」のところにも、あるいは「とても苦しくて今を生きるので精一杯の人」のところにも神様は「あなたにこそ大きな喜びを告げる」と宣言されます。救い主イエス様が生まれましたとの知らせを最初に聞いたのが羊飼いだったというところに神様の思いが表れています。どんな人も、自分なんかダメだと思い込まされている人にも救い主が来たんだと神様は伝えるのです。

羊飼いは当時、律法学者さんたちからは「汚れた罪人」と見なされていましたし、実際に現代でいえば3K「きつい、汚い、危険」の仕事でした。夜通し羊の群れの番をしていたのですから、順番で寝ることができても外で寝なければなりませんし、眠たい時間に起きている必要もあります。羊が死んでしまった時には死んだ羊を葬らねばなりませんが、死んだ動物に触れることは律法では汚れたことでした。また羊を襲う狼や熊、ライオンなどから羊を守るために野獣と闘わなければなりませんので、非常に危険でした。きつい、汚い、危険の仕事をしていた羊飼いたちでしたから、会堂の礼拝に出ることも難しかったでしょう。そんな彼らですから、天使が現れた時にとてもビックリしたのです。

今日、5人の人たちがイエス様を救い主として信じてバプテスマを受けます。バプテスマは、新しい命の誕生でもあります。5人はすでに体をもってこの世に生まれていますが、今日、5人はキリスト者としての命を神様から頂きます。「オギャー」「オギャー」と5人がキリスト者として産声をあげるのですから、わたしたち原町田教会家族は5人が生まれてくることをとっても楽しみにしています。2000年も前に羊飼いたちが聞いた言葉を今日、原町田教会家族のわたしたちも聞くのです。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。赤ちゃんが生まれますから、わたしたち家族は生まれた後のパーティーの準備もして来ました。一緒に新しい命の誕生を祝う愛餐会です。新しく生まれるのですから、この礼拝堂はある意味、分娩室といってもいいかもしれません。わたしたちは家族として、自分たちの家族となる新しい命の誕生に立ち会うのです。わたしたち原町田教会家族みんなにとって、それは大きな大きな喜びです。

わたしは5人が無事に生まれますようにとここ1、2ヶ月間ずっと祈ってきました。5人のみなさんにはそれぞれこの後、信仰告白をしてもらいますが、この中には病気をされて苦しい時を過ごしてきた人もいますし、国に帰ることができないので難民申請していまして、そのために生活が大変な人もいます。バプテスマを受けて、キリスト者になったからこれからはすべてうまくいく、と思いたくなるのですが、そううまくはいくかどうかはわかりません。でも、確かなことがあります。それは皆さん5人は原町田教会の家族になるということです。2週間前の礼拝の後に5人の人たちを礼拝堂の前に招き、会衆の皆さんに紹介をしましたが、どうしてそうしたのかと言いますと、「今回、バプテスマを受ける人たちがどんな人かわからないので、バプテスマ式の時に教会員になることを認めてくれる人は手をあげてくださいと言われても責任が持てないかもしれない」と言ってくださった人がいたからです。わたしは嬉しかったです。神の家族になろう、助け合える家族となるためにも事前に知っておきたいとの声だと受け止めました。毎週日曜日にここに集って礼拝を捧げ、時々一緒にご飯を食べ、お話をしていきますとだんだんとつながりができてきて、互いに祈り合い、助け合う家族になっていくとわたしは信じています。今日、新しく加わる5人も、またすでにつながっているわたしたちも皆、全員が救い主イエス様によって導かれて神の家族となっていますから、これこそ、神様の救いの御業です。

原町田教会のわたしたちは今、新しく会堂と園舎を建てる話を進めていますが、羊飼いたちでも入ってこられるような建物を建てたいと思います。バリヤフリーとかいろいろとハード面でのことが言われていますが、何よりもわたしたちの心が飼い葉桶に寝ているイエス様と同じ地平に立つこと、エルサレムのヘロデ王がいた宮殿ではなく、ベツレヘムにある小さな家の飼い葉桶のような低い心をもったわたしたち教会でありたいと思うのです。

どんな人でも神様の前に立つならば、みんな罪ある人間です。諸国の民を公平に裁いてくださる方の前に立つならば、横にいる人たちも皆、全く同じ高さに立つことになります。みんな等しく罪あるものであると同時に、みんな神様に等しく愛された者でもあるのです。詩編89編にありましたとおり、救い主はこの地を公平に裁くために来てくださいました。それは89編8節に「山々よ、共に喜び歌え」とある通り、嬉しいこと、喜びの知らせなのです。なぜなら、わたしたちが生きるこの地にはたくさんの不公平が蔓延しているからです。わたしたちの心は自分と人とを比較して、幸せを感じようとしたり、人と比べて自分は不幸だと思ってしまいます。あの人の方がわたしよりも愛されているんじゃないか。どうしてわたしはこんなに苦しまなければならないのか。他の人を見ているとどうしても自分と比較してしまうことがあるのですが、救い主を信じるわたしたちは地を正しく裁かれる神様の前に立って、自分の周りにいる人を見渡します。そうしますと、みんな、みんな等しく罪人なんだと気づくのです。あの人も、この人もすべての人が神の前に立つならば、罪人なのです。同じように神様はご自分がお造りになったすべての人を等しく、全く公平に愛しておられます。主なる神様の公平な裁きが、浮き沈みの多いわたしたちの心を平らに、平安にします。そして人と自分を比較することなく、あの人も、この人もわたしと同じように神様に愛された尊く大切な人として見ることができるのです。それが飼い葉桶に寝ているイエス様と同じ地平に立つということ。

この原町田教会という神の家族の中でまずそのことを実践していきましょう。そして少しずつ羊飼いのように、ここ原町田教会で見聞きしていることがすべて神様の話した通りだと信じ、神様を賛美し、他の人たちに「聖書のこと、本当だよ。日本人もイラン人もすべての人に大きな喜びが告げられているよ」と伝えてまいりましょう。

「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

保護中: [教会員用] 2019年1月 主日礼拝音声

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当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988