2018年10月28日 教会・幼稚園合同バザー

みんなで時間かけて、知恵を出し合って、励まし合い、祈りながら準備してきたバザーの日です!
たくさんの方が来てくださって、楽しい交わりの時。ほんとうに嬉しい、感謝でいっぱいの秋晴れの一日でした。

会場の様子をすこしご紹介します。全部のコーナーをお見せできなくてごめんなさい。

2018年10月28日 バザー会場案内図

10月28日のバザー会場案内図をどうぞ。
午後2時からの絵本劇もお見逃しなく!

↓クリックすると、案内図のPDFをご覧いただけます。

2018年10月7日 一緒に福音宣教

◆使徒言行録5章27〜42節
◆詩編37編30〜40節

使徒言行録5章に出ていますペトロは、イエス様のことを3度も「知らない」と言って自分の身に危険が降りかかることを恐れた人でした。またペトロと一緒にいる使徒たちは皆、つい2ヶ月ほど前にイエス様を置き去りにして逃げていった人たちです。でも彼らは、イエス様を捕まえてピラトに引き渡したあの大祭司から「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と言われても堂々と次のように答えました。29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。それに続けて「こんなこと大祭司たちに言ったらイエス様と同じように殺されるかもしれない」と思うようなことをペトロや使徒たちは堂々と言うのです。30〜32節「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。この言葉を聞いた人たちは、激しく怒ったとあります。33節「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」。しかし、そこに民衆から尊敬されていた律法の教師ガマリエルが立って落ち着いた感じで言いました。38節「そこで、今申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」。

ペトロなど使徒たちは、イエス様によって始められた救いの御業は神様が始められたことなのだと確信していました。だから、堂々と大祭司を前にして「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言えたのです。彼ら使徒たちはみんな以前から強い信仰を持っていたわけではなく、皆、自分の力ではイエス様に従いきれなかった弱さや欠けをもった人たちです。でも「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く言えたのは、彼らが聖書をいっぱい勉強したからでもなく、たくさん修行したからでもなく、ただ、神様の力がそこに働いていたからですし、神様が主となってわたしたちと一緒に働いていてくださると信じていたからです。それともう一つ。彼らはイエス様を裏切ったという辛い経験をしていましたが、イエス様はそれをなんの償いもなく赦してくださった。そんなわたしたちだけれども福音宣教のために遣わしてくださった。その神様の愛を経験していたのです。イエス様に従うことができなかった弱さを持った使徒たちが、教会をスタートしていることにわたしは正直ホッと安心しますし、それと同時に神様はそんな彼らを福音宣教という御業のために用いてくださることにわたしは勇気をもらいます。福音宣教というのは、人間主導で行うことではなく、神様がわたしたち人間を用いて行う神様の御業なのだと聖書は伝えているのです。

使徒言行録は駅伝に例えるならば、聖霊の「ヨーイ、ドン」との掛け声によって、福音宣教の使命を受けた教会が走り始めたスタート地点です。山あり谷ありのコースで福音という名前のタスキを手渡して走り続ける教会を神様が先導し、神様がこのレースの総監督ですから、必ずゴールすることができます。スタート地点から走り始めたわたしたち教会は、2000年経った今も走り続けていますから、これは律法の教師ガマリエルが言っている通りです。「あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。原町田教会もその福音という名前のタスキを手渡されて、他の教会と一緒に走り続けています。普通、駅伝は他のチームよりもより早く走ろうとしますが、神様主導の駅伝はより早く走るのではなく、一人でも多くの人に福音という名のタスキを渡すことを目的としていますから、一緒に走る他の教会とも協力して走るのが特徴です。

今日は世界聖餐日であると同時に「世界宣教の日」でもあります。宣教と聞いて、誰がそれをするのか。福音を宣べ伝えるのはもちろんわたしたち教会であり、福音を手渡されているわたしたちだからこそ、福音を伝えることができる、そのように考えます。でも今日の御言葉にも関係していますが覚えておきたいことがあります。それは「神の宣教」、ラテン語で「ミッシオ・デイ」という考えです。キリスト教会の歴史の中で長くヨーロッパの教会は、「救いは教会から世界に及ぶ」と考えていました。その考え方から教会は、まだキリスト教が伝わっていない国々にどんどん宣教師を派遣しました。でも、そのような教会の宣教の業が当時のヨーロッパ各国の植民地主義に利用され、キリスト教を伝えていくことと同時に植民地支配に加担してしまったという負の歴史があります。そのことを反省し戦後になってからですが、WCC(世界教会協議会)は、「救いは教会から」だけでなく、「神様は教会に先立って、この世界で働いており、教会はその神様の働きを共に担い、この世に仕える群れである」と考え方を改めたのです。神様は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっています。だから教会は神様と一緒に福音宣教をしていく。これが「神の宣教」という考えです。

神様がわたしたちよりも先立って世界宣教を進めていると聞いて、ではどうして未だに世界では暴力がなくならず、また貧富の差があって、一部の人がものすごいお金持ちになり、反対にその日の食べるものにも苦労する貧しい人がまだいるのかと疑問も感じます。また、悪いことをする人が栄えていくようにも思えてしまいます。先ほど読みました詩編にもありました。37編35節「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た」。神様の言うことを聞かないで自分さえ良ければいいと思う人たちが勢いを増しているように見えるのです。ただ詩編では36節「しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても見いだすことはできないであろう」とありますから、悪いことをした人はみんな滅びて、良いことをした人が最終的には幸せになると思いたいわたしたちでもあります。しかし、この詩編はわたしたち人間の側からの思いを神様に祈り願う言葉ですから、そこにはおのずと限界があります。悪は滅び、主を信じる者だけが生き残るというのは神様の本当の御心ではありません。なぜなら、神様の前に立って見れば誰でもどんな人でも大なり小なり悪に心を動かされる罪人だからです。だからこそ、神様はわたしたち人間があの人は悪い人だとか、あの人は良い人だと勝手に判断するのを超えて、命与えられたすべての人を救うためにイエス様を送ってくださったのです。31節で神様はイエス様をご自分の右に上げられたというのはそのことを言っているのです。

使徒信条でも、イエス様は復活した後「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と言っています。イエス様は神様の右側にある椅子に今もどしりと座っている、そうイメージする人もいるかもしれません。でもこれはイエス様のいる場所を伝えているのではありません。イエス様が神様の右に上げられたというのは、イエス様が神様と同じようにわたしたちのいるところ、どこにでも共にいる神様の力を得て、今もわたしたちに「あなたは神様に愛された神の子ですから、あなたは独りではありません。だからわたしを信じて生きなさい」と福音を伝えている。「神の右に座したまえり」というのは、イエス様が神様と同じ普遍の存在だと伝えているのです。イエス様はまさに神様と同じ力を持つ救い主キリストであり、すべての人の救い主になられて今も生きて、わたしたちに先立って働いておられるのです。

教会につながる一人一人はこの事実の証人、あかしびと、イエス・キリストについての福音のタスキを手渡す素晴らしい使命を持っています。わたしたちに何か人にうまく伝える能力があるからでもなければ、長く教会に集っていれば福音を理解して伝えるのがうまくなるとか、聖書を勉強しなければできないとか、わたしたちの側の課題は二の次三の次で、まず何よりもこの計画やこの行動は神様から出たものであり、そのために神様が教会をたてられ、毎週日曜日の礼拝で福音が告げ知らされ、それが2000年も続けられている。これが人間から出たものではなく、神様から出たものであることは確かな事実です。

神様はわたしたちに福音を宣べ伝えるという喜びの働きを託されていますが、神様はわたしたちの働きを遠い天で椅子にどしんと座って眺めているわけではないのです。わたしたちに先立って神様ご自身が宣教されているのですから、福音のタスキをなんとか手渡そうと苦労しているわたしたちの走りをすぐ近くで見ていてくださり、時に「こっちの方に行けばいいよ」とわたしたちのところまで戻ってきて導いてくれる。そう思いますとホッとすると同時に力が湧いてきます。

わたしたちにできることは小さく、多くはありませんが、「神の宣教」の考え方からすれば、神様がわたしたちに先立ってわたしたちの小さな業をも福音宣教のために用いてくださっていると信じることができます。そこで特に大切にしたいのは、ただイエス様のことを知識や情報として伝えるのではなく、コリントの信徒への手紙に「愛がなければわたしに何の益もない。愛は決して滅びない」とありますから、愛をもって伝えることです。どれほどの知識があっても、どれほどの大事業を成し遂げたとしても、そこに愛がなければそれらは必ず消えてなくなります。わたしたちが取り組む福音宣教の活動でも愛がなければ、ガマリエル曰く「それは神から出たものではないので自滅する」でしょう。でも、小さな働きであってもそこに愛があれば、その行いを神様が支えてくださるのです。たとえ寝たきりで「生産性がないと思われても」その人が口で描く絵や祈りの言葉で一人でも力づけられるなら、それは小さいけれど愛の業です。80歳、90歳となって自分は「ご迷惑ばかりかけて申し訳ない」と思う人であっても教会の掲示板に説教題を書く奉仕をして、その掲示板を見た人が礼拝に集うようになるならば、それは小さいけれど愛の業です。わたしたちにできること、わたしたちが行うことは本当に小さなことなのですが、でもそこに愛があるならば、私たちに先立って働かれる神様がその働きを必ず助けてくださいます。この後に歌う讃美歌にある通りです。「小さな花をカゴに入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、暗い胸も晴れるでしょう。愛の業は小さくても神の御手が働いて悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう」。

福音宣教はわたしたち自身の生き方だと思うのです。神様がこんなわたしだけれども福音のタスキをくださっているのだから、わたしはあの人に神様の愛を手渡そう。わたしたちに先立っておられる神様がいるのだから、小さなわたしを用いてくださいと祈りながら「これを差し上げます」とタスキを渡す。後は神様の御手にお委ねすればいいのです。それは人間から出たものではなく、神から出たものですから、決して無駄になることも無くなることもありません。自分で伝えることが難しければ、「教会へどうぞお越しください」と心を込めてお招きすればいい。後は先立って働かれる神様の御手にお任せする。

わたしたちが今、手にしている福音のタスキは、使徒たちの時から2000年の間に綿綿と手渡され続けてきたものです。このタスキを手渡すわたしたち原町田教会の福音宣教の計画と行動は、人間から出たものではなく、神様から出たものですから、たとえ「イエスという名前を話してはいけない」と言われても、わたしたちは愛と勇気を持って福音を告げ知らせてまいります。

2018年9月16日 生きていることが素晴らしい ー大いなる肯定―

◆マルコによる福音書14章12〜25節
◆詩編96編1〜9節

今日の御言葉で気になるのは、やはりユダという存在ではないでしょうか。イエス様はこの食事の席でこのように言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしているものが、わたしを裏切ろうとしている」と言われ、続けてこう言われました。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。イエス様はユダについて言われているのですが、この言葉はあまりにもひどいなぁ、どうしてイエス様はこんなことを言うのかなぁと思ってしまう。この一言はそんな言葉です。この言葉は一見、イエス様がユダの命を否定しているようにも見えてきます。しかし、今日の箇所全体を読みますとイエス様はご自分のすぐ近くにいるユダを否定するわけでもなく、排除するでもなく、ユダも含めたすべての人のためにご自分の命をかけて大切なことを伝えようとしているのが見えてきます。

この食事の席にはユダがいました。イエス様がパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えた時も、杯を飲んで「これは多くの人のために流されるわたしの血である」とイエス様が言われた時もユダはそこにいてパンを食べ、杯から飲みました。ヨハネ福音書ではイエス様に裏切りを予告された後、ユダはすぐにそこから出て行ったとありますから、他の福音書でもユダは裏切りの予告の後にすぐ退席したと思うかもしれません。でも、マルコによる福音書が最も古い福音書ですし、もし退席したならそのように書いてあるはずなのですが、今日読んだところにも、マタイやルカ福音書にもユダが食事の席から立ち去ったとは書いてありません。ですから、イエス様は「これはわたしの体である」と言って手で裂いたパンも「これは多くの人のために流されるわたしの血である」と言って渡した杯もユダは受け取ったのです。もし、ユダがこの席にいなかったとしたらイエス様が命をかけて伝えたことが限定されてしまいます。しかし、イエス様はそこにいたみんなが杯から飲んだ後に「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」と言われました。ここからイエス様が自らの命を多くの人の罪のために献げられたと解釈されるようになりました。なぜなら、彼らは過越の食事をしていたからです。本当ならば罪を犯した人がその償いのために罰を受けなければならないのですが、その罰はその人の前を過越していき、イエス様ご自身がその罪すべてを小羊のように負ってくださったのです。イエス様が言われる「多くの人のために」というのは、すべての人のためにと言い換えても良いと思います。なぜなら、聖書は、繰り返し神様はこの世にいるすべての人を救うために御子イエス様をお送りくださったと伝えているからです。例えば、招詞で読まれましたヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。すべての人の命は神様が与えられたものですから、その中でこの人はダメで、この人は救われると神様が選別することはありえません。この世界、この世を愛されたというのですから、神様はこの世にいるすべての人を愛され、すべての人の救いのためにイエス様の命を過越の小羊のように犠牲とされたのです。

「すべての人のため」ですから、そこにはイエス様を裏切ったユダも含まれていますし、「わたしなど選ばれるはずはない」と思っている人もすべて含まれています。そこが神様からの大いなる肯定です。「自分はダメだ」と思う人であっても、「こんなわたしなんかゆるされるはずはない」と言う人も、「どうしてあんな人がゆるされるのか」と思ってしまう人でも、神様は「あなたは赦されている。だからあなたは今のあなたで大丈夫」とすべてを包み込む大きな肯定をくださっています。それがこの食卓で手渡される霊なる食べ物です。

すべての人のための「大いなる肯定」を伝えたイエス様ですから、ユダに言ったあの言葉は彼を否定する意味はないと理解します。私訳で聖書を出しています本田哲郎神父はこの言葉を次のように訳しています。「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」。イエス様はユダを否定するのではなく、ユダの気持ちを思いやり、ユダ自身がそのように言っているだろうという表現で訳しています。イエス様はユダの痛みを代弁する言葉を語ったのです。旧約聖書でも自分の生まれた日を呪う言葉が出て来ます。家族のほとんどを失い、財産のほとんどを失って暗い暗い闇の中に放り込まれたヨブはこう言いました。ヨブ記3章3節。「わたしの生まれた日は消えうせよ」、周りの人のほとんどから反対され、迫害されて苦しんだ預言者エレミヤはこう言いました。エレミヤ書20章14節「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない」。また、コヘレトの言葉にも虐げられた人たちへの配慮ある言葉があります。4章1〜3節「見よ虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ」。ヨブもエレミヤも本人が自分に対して「自分の耐え難い苦しみ」を言い表わす一種の慣用句としての表現であり、またコヘレトの言葉はイエス様の言葉にとても似ていて、相手の苦しみを自分のことのように感じるがゆえの表現なのです。イエス様は、自分が生まれて来たことを呪ってしまうほどのユダの痛みを受け止めて、「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」と彼の苦しみを代弁しているのです。それがこのイエス様の言葉の意味です。

イエス様と一緒に囲む食卓は、否定ではなく、肯定の雰囲気で満ちています。「あなたはこれまでもそうだったし、これからもいろいろと大変なことがある。後悔することもあるし、あれはダメだったと思うこともある。でも、今のあなたは確かに生きていて、わたしと一緒に食卓を囲んでいるから大丈夫。取りなさい。これはわたしの体です」。

これはイエス様が伝える神様の赦しです。この赦しはすべての人を肯定する福音の言葉です。

先日、新聞を読んでいましたら9月は小学生や中学生など若い子どもたちが自分の命を絶つのが多い時期だとありました。学校に行きたくない、でも行かなければならないと葛藤する中で八方塞がりになって自らの命を絶つ道を選んでしまう。何年間も日本では自死する人が年間3万人を超えていましたが、数年前から3万人以下になりました。けれども若い年代の数は減るどころか増えています。その新聞ではそのことを憂いて特集が組まれて若い人たちへのメッセージが書かれてありました。その中の一人、お笑い芸人の山田ルイ53世さんは、自身が中学2年生の時の登校中に大便を漏らしてしまい、それがきっかけになって学校に行けなくなり6年間引きこもり生活をしました。その彼がこう言っていました。「引きこもりが自分の糧になったという人もいます。人生の全てに何かしらの意味があって、あの期間も無駄じゃなかったと。それはそれでいいけど、『結局、意味がないと、生きてはだめってこと?』とも思う。無駄や後悔を許さず、意味や意義を求める生き方って、けっこうしんどい」。

わたしはこの記事を読んでいて、アウシュビッツ収容所を生き延びて『夜と霧』を書いた精神科医師のフランクルの次のような言葉を思い出しました。このような言葉です。「生きる意味についての問いを180度、方向転換すること。わたしたちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何かを期待しているかが問題なのだ。もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきだ」。彼は、わたしたちが何を人生に期待するのか、生きることの意味を自分で何だろうと考えるのではなく、命そのもの、人生そのものがあなたの命、生きる意味に問いかけている、そのことに気づきなさいと言うのです。つまり、命そのものがあなたの生き方を肯定していると言うのです。そう、生きていること自体において、あなたには意味がある、命あること自体、あなたには意味があると言うのです。

わたしたちは生きている限り周りから「自分らしくいるのがいい」とか「目的を持って生きなさい」とか、「あなたは何を生きがいにしていますか」とかいろいろな声を聞きます。それによって時に心が揺れて、本当にこんな自分でいいのだろうかと痛みを感じることがあります。わたしが生きている意味ってなんだろうか。いつでもわたしは自分らしくこんな目的や「こんな生きがいを持って生きています」なんて言えるだろうか。自分に無理をして背伸びして心や体に負担をかけたり、反対に必要以上に自分を小さく卑下して見せたりすることもあるかもしれません。でも、イエス様はそのように揺れ動くわたしたちに、変わることのない神様の言葉を伝えてくださいます。「取りなさい。これはあなたのためのわたしの体です。これを食べて元気を出しなさい。あなたは今日も精一杯生きていく」。

イエス様は食卓でパンを手に取って神様を讃美し、杯を取って神様に感謝しました。それは何も特別なことではなく、いつもの食事でしていたことでした。わたしたちの毎日の平凡な生活の中にも神様は「大いなる肯定」をいくつも散りばめられています。食前の感謝の祈り、日曜日の礼拝での讃美の祈り、それらの平凡な生活を通して神様はわたしたちに「あなたと今日もこうして出会えてわたしは嬉しい。あなたが生きていること、それが素晴らしい」、そう伝えておられます。

ご自分を裏切ろうとしているユダと、またご自分を置き去りにして逃げて行こうとする弟子たちと共に、イエス様はパンと杯を手にしていつもと変わらない賛美といつもと同じ感謝を唱えて食卓を囲みました。どんな状況でも、日常と変わらずに食卓で感謝と讃美の祈りを捧げること。私たちも日常と変わらないところで神様からの大いなる肯定を聞きとります。「パンを取りなさい。あなたが生きていることをわたしは喜ぶ」。

神様から肯定の言葉をいただいているわたしたちは日常生活の中でイエス様と同じように隣人に肯定の言葉を伝えていきます。「あなたに出会えて嬉しい。食事を一緒にできて嬉しいです」。

2018年8月26日 最も大いなるものは愛

◆コリントの信徒への手紙一13章1〜13節
◆マルコによる福音書12章28〜34節
◆詩編62編2〜13節

わたしはこれまでいくつかの外国に行く機会がありましたが、外国に行ったらほぼ必ずすることがありまして、それはその土地の言葉で「あなたのこと、大好きです」をその土地の人に聞いて、覚えることです。初めて行ったフィリピンでもすぐに聞いて覚えました。タガログ語で「マハールキタ」。インドに行った時にも聞きまして、旅をしていて会う人、会う人に「わたしはインドの言葉ヒンズー語を知っている。それは『マエアプセピアルカルタホ』」と言うとそこにいた人たちの多くは「ワハハ」と言って笑顔になりました。その言葉を言った相手はほぼ男の人でしたが。まだ行ったことのない国の「I love you」もいくつか知っています。ドイツ語では「イッヒリーベデッヒ」、フランス語で「ジュティーム」。「そういうのは言葉ではなく行動で」と思う人もいるかもしれませんが、わたしはどちらかと言うと主に家族に対して言う方だと思います。聖書にありますように、わたしたちが「あなたのことを大好きです」と言うことができるのは、神様がまずわたしたちを愛してくださったから。ヨハネの手紙一4章19節「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」。

「キリスト教を一言で言ったら何と言いますか?」と聞かれましたら、なんと答えますでしょうか?いろいろな言葉で言い表すことが出来ると思いますが、キリスト教を一言で言うなら、それは「愛」「キリスト教は愛の宗教」と言うことができると思います。ただ日本語で「愛」と一言で言いましても、聖書には実にその「愛」を言い表す元々の言葉はいくつもありまして、招詞で読んでいただいたホセア書6章6節「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。この中の愛と日本語に訳された元々のヘブル語は「へセド」で、他の聖書では「誠実」とか「慈しみ」と訳すことができる言葉です。また、今日の御言葉のコリントの信徒への手紙とマタイ福音書の「愛」はぜんぶ「アガペー」という言葉です。その他にも日本語で「愛」と訳される聖書の中の「愛」はたくさんあります。どうして日本語の「愛」が聖書にはたくさんの言葉で表されているのでしょうか?わたしが思うに、それはきっと神様の愛は人間の言葉では言い表すにはあまりにも大きく、広く、高く、豊かだということに行き着きます。

コリントの信徒への手紙13章を読んでいましても、神様が、どれほど罪深く汚いところを持ったわたしたち人間を愛しているのかが見えてきます。4節〜7節をお読みします。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。愛となっているところを「神様」と変えて読んでみますと愛は神様から出たものなんだとわかります。「神様は忍耐強い。神様は情け深い。ねたまない。神様は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。神様がわたしたちのことを忍耐強く耐え、忍んでいてくださる。神様はわたしたちのことをわたしたちの身になって考えてくださる情深い方です。神様はわたしたちが犯す罪や命を傷つけてしまうこと、取り返しのつかない過ちであっても、じっと耐え忍んでくださり、わたしたちを信じ、「わたしがあなたと一緒にいるから大丈夫」とわたしたちに望みをかけてくださっています。神様が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」のは、どんなわたしたちであっても、神の子どもとして愛してくださっているからです。神様は愛そのものだと聖書は伝えます。

先月の終わりのことですが、わたしは以前、信徒としてつながっていました岩手県の奥中山教会に行ってきまして、りっちゃんという双子の姉妹の妹さんで62年間のこの地上での歩みを終えた友人の葬儀に出てきました。神学校に行く前に信徒として5年間、わたしの信仰を豊かにしてくれた教会の仲間として、一緒に賛美をする集まりをしたり、教会を通してつながってきた大切な人でしたので、妻に相談して日曜日の礼拝後、新幹線に飛び乗って行ってきました。葬儀に出席できて良かったなぁと思います。わたしはこの葬儀に出て、涙を流しましたが、でも悲しいというよりもなんだか心があたたかくなり、また、お姉さんのむっちゃんや親戚の人などがりっちゃんとの思い出を話してくれまして、それが面白くて何度も笑って、わたしだけでなく集った人たちの笑顔をなんども見るような2日間を過ごしてきました。葬儀に出席して心が温かくなるって、なんだか不思議ですが、いま思いますとそこには神様の愛が詰まっていて、わたしはその愛を感じてきたんだろうと思うのです。

りっちゃんの双子の姉であるむっちゃんが「むっちゃんから皆さんへ」という文章を葬儀の時に配りまして、それを読みますとりっちゃんの歩みが神様の愛の中にあり、また、その神様の愛が今もわたしたちを赦し、忍び、信じ、望んでおられると感じることが出来ると思いますので、一部分を読ませていただきます。「神様は体の弱い、でもいつも明るく親しみやすいりっちゃんをわたしたち家族に与えてくださり、その成長と苦難を通して、みんなが愛し合い結び合うことの大切さを教えてくれました。5歳で東京女子医大で最初の心臓手術。小学校中学校は毎日母の背に乗って登校、8年間寝たきりの生活、東大病院、岩手医大、聖路加病院などで大手術が繰り返されました。週3日の肝臓透析が始まり、一日500ccの水分制限、次第に体力もなくなり転倒と骨折、そして車椅子生活となりました。どんな苦しみにもめげないりっちゃんの周りにはその都度、人が集まりたくさんの人が繋がっていきました。2歳までしか生きられないと言われたりっちゃんが起こした奇跡です。そして、7月26日朝、家族全員に手を握られ感謝の言葉を聞きながら静かに心臓の鼓動が止まっていきました。安らかな最期でした。『りっちゃん、ありがとう!たくさんの愛をありがとう!たくさんの出会いをありがとう』これはわたしだけの言葉でなく出会ったみんなの声です。人生に幕引きなんかないような気がします。だって、りっちゃんが作ってくれた仲間がいて、家族がいるのですから。りっちゃんが作ってくれた奇跡はこれからも続きます。『こんなに愛し合う仲間が増えたよ!』。天国にいる妹へこんなお土産話ができる日まで歩んでまいります」。

教会につながっていますとこのような奇跡、神様の愛が引き起こす奇跡を経験すると思います。体に辛い病気を抱えても神様の愛である教会のつながりに支えられて苦しみに忍耐することができる。愛は忍耐強い。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

りっちゃんの葬儀に出て思いましたのは、神様の愛はわたしたちが価値あるものとしてこの世から教えられている知識、お金、科学、山を動かすほどの力などを通して現れるのではなくて、りっちゃん自身がそうであったように病気などの弱さや困難さ、そしてその病気や困難さをめげずに笑い飛ばすユーモアを通す事によってはっきりと現れる、そんな思いを持ちました。今日の御言葉でもこう伝えています。8節「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」。知識は一部分、それはよくわかるのですが、予言も一部分と言われると少しどきっとします。それは神様から預かっている御言葉であってもわたしたちが語る限りにおいては完全ではなく、この世の中が伝える知識と同じ一部分だということです。わたしたち教会が永遠なる命を信じ、死んだ後の復活を信じるのは、それを知識や聖書の御言葉で知っているからではないのです。神様の愛によって耐え忍んでいただいているわたしたちが互いに忍び耐えることによって永遠の命、命の復活を信じることができるのです。

わたしの知り合いに「愛を一言で言えば何になりますか?」とききましたら、その人は「愛は赦しだ」と答えてくれまして、言った本人は忘れているかもしれませんが、わたしは良く覚えています。神様の愛は忍耐強い。情深い。すべてを忍び、すべてに耐える。神様がわたしたちをご自分の子どもとして忍耐強く赦してくださっているのです。それはまるで1〜2歳ぐらいの赤ちゃんを見守る親のようです。そのぐらいの子は歩き始めて階段を見るとすぐにのぼりたがります。小さい子どもが階段を1〜2段登りますと親はその子を少し登ったところで捕まえては下ろす。でもその子はまた同じことをする。親は忍耐強くその子に付き合います。小さい子どもは同じことを何度も繰り返しますが、大抵の親はある程度、その子の繰り返しに付き合いますが、だいたいキリのいいところで「今日はおしまい」と切り上げます。でも神様の堪忍袋はわたしたちよりも大きくて広くて深くて高いのですから、わたしたちが過ちを犯し、何度も何度も失敗してもぐっと耐え忍んでくださいます。

その神様の愛、すべてを忍び、すべてに耐える神様の愛の極め付けがあのイエス様の十字架と復活です。神様がどれほどわたしたちのことを忍耐されているのか。わたしたちが今尚裏切り、傷つけあっているのをどれほど耐え忍んでおられるのか。でも、その神様の忍耐に気づかずにいる多くの人間に神様は声を大にして言われました。「いい加減に気づいてくれ。怖がらなくても、恐れなくもいい。わたしはあなたたちを独り子イエスを愛するように愛している。わたしはイエスの命をささげるほどにあなたたちを愛している」。

この神様の愛は天地創造の時からずーと今に至るまで、そしてこれからも滅びることなく永遠に残ります。なぜなら、その愛はイエス・キリストの十字架と死、そして死からの復活によって示されましたから決して滅びることはないのです。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛」だからです。わたしたちはその神様の愛によって結びつけられています。だからわたしたちはこの教会と、そしてわたしたち自身の間に脈々と流れ続ける神様の愛を何よりも大切にします。神は愛です。イエス・キリストは愛です。わたしたちは愛であるキリストの体にしっかりと結びつけられていますから永遠です。死すらも恐れるものではありません。神様が「りっちゃん、永遠の朝が明けましたよ。起きなさい」と言って彼女の手をとって引き上げてくださるのと同じように、神様はわたしたち一人一人の手をとって死から引き上げてくださると信じ、希望をもってその日まで与えられた命を地上で生きていきます。いつか、死ぬ時がきます。でも、死ですらもわたしたちをイエス様によって示された神様の愛から引き離すことはできません。

神様の愛を頂いているわたしたちにイエス様は愛の生き方を教えてくださいました。愛を頂くだけでなく、愛を生きる者になりなさいと言われます。マルコによる福音書12章30節「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。31節「隣人を自分のように愛しなさい」。

愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢しないで、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、真実を喜ぶ。全部でなくてもいい。この中から1つでもこの愛を実践してまいりましょう。神様が今もわたしたちのことを愛して、耐え忍んでくださっていますから。

2018年 今年もいよいよ10月28日にバザー開催です

恒例の原町田教会・原町田幼稚園のバザー、今年は10月28日に開催いたします。
10時30分からの家族礼拝のあと、12時から15時まで行います。
みなさまどうぞ、おいでください!

 

2018年10月21日 子どもの教会

いつのまにか秋がやってきましたね。子どもたちは元気です。この子どもたちと一緒にすごせる時間を神様に感謝!

保護中: [教会員用] 2018年10月 主日礼拝音声

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2018年10月7日 お昼ごはん

10月第1週のお昼ごはんです。
お好みでコチジャンをつけて、まぜまぜしていただきました。
ビビンパ(ピビンパプ)は、”ピビン”が「混ぜる」、”パプ”が「ごはん」で、「混ぜごはん」ですよね!美味しかったです!

   

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988