牧師メッセージを掲載しています

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2018年7月15日 今や、恵みの時

◆コリントの信徒への手紙二 6章1〜10節
06:01 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
06:02 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
06:03 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
06:04 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
06:05 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
06:06 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
06:07 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
06:08 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
06:09 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
06:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

◆詩編18編26〜35節
18:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし
18:34 わたしの足を鹿のように速くし 高い所に立たせ
18:35 手に戦いの技を教え 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

この手紙を書いたパウロさんは苦労の多い人でした。わたしたちが想像するのも難しいような苦労を経験しています。4〜5節にある通りで「苦難、欠乏、行き詰まり、むち打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」。今、わたしはさらっとお読みしましたが、この中のたった一つでもわたしが経験したら耐えることができるだろうかと思うほど重みのある一つ一つです。しかし彼は大いなる忍耐をもってこのような苦しみにあっても大切なことを忘れずにいたのです。6節にある「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」。苦しみの中にあってもこれらを忘れずに示そうとしていたのです。どうやったらこんな大変なときに心広く親切に愛をもっていられるのかと思うのですが、それは人間の力ではなく7節にある通り「真理の言葉、神の力によって」そうすることができるのです。

わたしたちもこのパウロさんのように苦しいことにあっても潰れてしまうのではなく、それに耐えることができ、あわよくばそのような時であっても心広く親切で愛を忘れないでいたいと思います。これは苦しいことに直面した時になって対策を練るのでは間に合わないことだと思います。できるだけ常日頃から心と魂を健やかに保っておくこと、そして何よりも神様から毎日、恵みをいただいているんだと受け止めて感謝して、「神様、今日もありがとうございます」と祈る日々が必要です。それは、パウロさんがこう伝えているからです。2節「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。

現代日本社会で生きていますと「あなたにはあれが必要です。保険の見直しをしましょう。新しいこの商品がいいですよ」などなど繰り返し聞くことになります。そうしますと「自分にはまだ足りないものがある」という、感謝の思いとは違う気持ちにさせられていきます。もちろん新しくて良いものもありますが、テレビでも街を歩いていても繰り返されるこのような声は知らぬ間にわたしたちの意識の奥に入り込んできますから気をつける必要があります。わたしたちが「これは本物だ」と心を開いて聞くべきものは聖書が伝える福音の宣言です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。今、すでにわたしたちは恵みの時にいる。神様がわたしたちの願いを聞き入れてくださった恵みの時は今この時なんだと繰り返し受け止め、感謝するのです。例えば、「苦しいから助けてください」との願いはイエス様によって聞き入れられています。わたしたちが一番恐れるのは独りになること、誰からも愛されず、思いを寄せられない独りになることです。イエス様はそのことをよくわかってこう言われます。「あなたがたのまことの親である神はあなたがたに必要なものをご存知である。だから明日のことまで心配しないでもいい。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。

パウロさんは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言い、神様は「救いの日にわたしはあなたを助けた」と言っておられますから、わたしたちはすでにイエス様によって助けられています。この日本では、大きな災害が起きたり、えらい人が平気で嘘をついたりと悪いことばかりが起きているようで、悲しみや怒りを感じることがあります。わたしたちの気持ちは自分の体の調子によっても変わりますし、社会で起きていることによっても影響を受けます。でも、パウロさんが苦しい状況におかれても「もう、わたしはダメだ」とくじけずにいられたのは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と日々信じて神様に感謝していたからだと思うのです。ある人がこう言っていました。「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる」。これは真理です。周りの状況に合わせて良い時には「あー幸せだな」と感じて感謝する。でも状況が悪くなると感謝しないではなく、どのような時でもここにはきっと神様の恵みと救いがあるんだと信じて「神様が今のこの時をくださったと信じ、感謝します。この病気になってもあなたはわたしを見捨てないと言っていると信じます」。一言、祈るのです。

2節「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神様は言っておられます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。このイエス・キリストによって与えられた恵みと救いがあるならば、どんなことがあってもくじけないで歩いていけると信じます。それは一人で困難に立ち向かうことではありません。なぜなら、これはパウロさんの日記ではなく、同じ神様を信じる仲間に送った手紙だからです。パウロさん自身がこのように自分の思いを伝えることによってそれを聞く人が励まされるはずですし、パウロさん自身もそのように仲間から励まされてきたからこそ、力強くコリントの人たちにこう伝えることができるのです。同じ手紙の1章6節で彼はこう言っています。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。

神様がこのわたしの願いをすでに聞きれてくださっているのだから、今や恵みの時。神様がわたしをすでに助けてくださっているのだから、今こそ救いの日、なのです。イエス・キリストにおいて願いは聞き入れられ、イエス・キリストの十字架と復活においてわたしたちはすでに助けられているのです。わたしたちの状況がどのようなものであるにもかかわらず、大丈夫だと言える信仰を持つわたしたちの真骨頂がここにあります。

先日、ラジオで面白いことを話していました。長生きの秘訣の9つのポイントです。世界各地の長生きをする人の多い地域を調査研究した結果、わかったこととして話していました。長生きですから、心も体も健康で生き生きとした歩みをするコツとも言えると思います。わたしはこの9つのポイントを聞いて、これはなんだか教会のことを言っているように思いました。全部が教会に当てはまるわけではありませんが、重なるところが多いと思いますのでお伝えします。このようなポイントです。1.適度な運動、2.腹八分、3.野菜中心の食事、4.適量の赤ワイン、5.家族第一、6.スローライフ、7.目的を持つ、8.人とつながる、9.信仰を持つ。どうですか。教会に来ている皆さんはこの9つの多くを実践しているんじゃないでしょうか。1の適度な運動。これは教会ではちょっと難しいかもしれませんが、週に1回教会に歩いてくることもそれなりの運動です。2の腹八分は聖書が伝えることと重なります。十戒でも貪るなとあり、新約でも「自分の持っているものに満足しなさい」と伝え、イエス様は少しのパンと魚をたくさんの人と分かち合いました。腹八分です。3の野菜中心の食事。聖書には肉は食べてはいけないとはありませんが、殺すなとありますから生きている動物を殺さないで生きるには野菜中心の食事となります。4の適量の赤ワインはどうでしょうか。原町田教会では聖餐の時ブドウジュースになっておりますが、教会は長年、パンと赤ワインを主の食卓でいただいて来ました。5の家族第一はどうですか?イエス様がもっとも大事だと言われた「隣人を自分のように愛しなさい」。これはまず第一にすぐ近くにいる家族のことだと言えます。人が心も体も健やかに「自分を信じて、自分を大切にでき、同時に隣人を大切にする人」として成長するためには、何よりも家族の中で「生まれてきてくれてありがとう。あなたが今、ここにいることが何よりもわたしの喜びです」と言われる愛の中で育つことが大切です。無条件に受け入れられることが「自分は自分でいいんだ」というその人の土台となりますから、家族が大切です。この自己肯定感と呼ばれる土台は子どもの頃だけでなく、大人になっても常に更新される必要がありますから、大人もこの教会という神の家族の中で互いに「あなたは神様に愛された大切な人」として受け入れられることが重要です。

さて、次に6のスローライフはどうでしょうか。日曜日も教会に来て忙しいと感じる人もいるかもしれません。神様は週に1日は必ず何もしないで休みなさいと安息する日を与えています。ですから、教会に来て忙しくて大変ですとなるのはできるだけ避けるべきです。ただ、教会は来てゆっくりと休むことが目的ではないのも事実です。聖書から神様のメッセージを聞いて、わたしたちに生きる意味、生きる目的を神様は教会を通して示してくれますから7の目的を持つとも関係しています。教会の活動に参加することで何かやりがいを感じているのでしたら、忙しくて辛いと思うことはあまりないかもしれません。教会は聖書を通して生きる目的をわたしたちにはっきりと教えてくれています。神様を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。そのために自分ができることは何なのかをわたしたちは考えます。8の人とつながるは、教会以外のところでもできることですが、わたしは地域での人と人とのつながりが薄れてきた現代日本社会だからこそ、教会は胸を張って「わたしたちはつながりを大切にしています」と言うべきだと思うのです。小さい子どもからご高齢の方まで幅広くつながって毎週、このように集うつながりは教会ならではですし、このつながりがわたしたちに苦しいことにあっても忍耐するその力の源になるんだと信じることができます。苦しいことにあっても教会の仲間がいる。わたしのことを祈ってくれている人が教会にいる。わたしたちは独りではないのです。

最後に9の信仰のことですが、ラジオでは「信仰をもてば、病気になった時や何か悪いことがあってもそれを神様のせいにできるから心が軽くなるんです」と言っていました。信仰をそれだけで片付けられてしまうのはちょっと残念ですが、何か自分を超えた存在、わたしたちにとっては創造主であり、救い主イエス様を送ってくださった神様を信じる信仰があって、心も魂も体も健康でいられるとまさに信じるのです。

毎週、こうして教会に集って礼拝を捧げることが、わたしたちの体と心を健やかに保つために神様から与えられた恵みであり、今や恵みの時なんだと受け止めます。9つの長生きのポイントも実は神様からの恵みですし、わたしたちはそれらを神様に感謝します。毎日の当たり前のように思える事柄の中に神様の恵みが隠されていますから、「神様、今日も散歩という適度な運動ができ感謝です。腹八分の食事が与えられ感謝です。美味しい野菜中心の食事に感謝します」と神様から頂いている恵みに繰り返し感謝する。与えられている恵みの今を繰り返し感謝するその日々の感謝の積み重ねがわたしたちの忍耐力を強めていくのだと信じますし、そのようにして神様の力がわたしたちの中で働くようになるのです。わたしたちは「悲しんでいるようで、常に喜び」、わたしたちは「貧しいようで多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。今こそ、救いの日、今や恵みの時がイエス・キリストによって与えられているからです。

2018年7月8日 御言葉の上に立って見る

◆マルコによる福音書8章22〜26節
08:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
08:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
08:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
08:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
08:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

ちょっと昔の話のことですが、わたしはロビン・ウィリアムズという俳優が好きで彼の映画をよく見ました。ご存知の方もいると思いますが、DJ役の『グッドモーニングベトナム』、女装する中年男性役の『ミセス・ダウト』などの映画に出ていますが、その中でもわたしの印象に残っているのが『いまを生きる』という映画です。

伝統ある全寮制の高校にロビン・ウィリアムズが演じる英語教師キーティングが新しい先生としてやって来ます。校長先生の厳しい指導の下で縛られていた学生たちに、キーティング先生は「教科書なんか破り捨てろ」と言い放って、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさを教えようとします。ある日の授業でキーティング先生が突然机の上に靴のまま登って机の上に立って、「常に物事は別の視点で見なければならない! ほら、ここからは世界がまったく違って見えるだろ」と話し、生徒たちも机の上に立たせるのです。その変わった授業に生徒たちは最初、戸惑っていましたが、次第に刺激され、新鮮な考えや、規則や親の期待に縛られない自由な生き方に目覚めていきます。そんな中、ニールという青年がいまして彼は俳優を志して舞台に立つことを決心したのですが、彼の父親はそれに反対。でも、彼は父に内緒で役者の仕事に応募し、見事役者を演じる夢を叶えました。しかし、進学以外、進路を認めない厳しい父親に反抗することができず、悩んだ末に彼は自死してしまいます。そして、この事件がキーティング先生の責任とされて、学校を去ることになります。最後の場面で、キーティング先生が教室にあった荷物を取りに行って、そこを去ろうとしたとき、先生のことが大好きだった数人が机の上に立ち始め、「辞めなさい、そこから降りなさい」と他の先生に言われても降りずにじっと立っている。わたしは感動屋でして、この場面でだいたい涙を流します。すみません、これは映画を見た人にしかわからないかもしれません。

机の上に立って見ると、物事を違った角度から見ることができる。これはイエス様と出会って目が少しずつ開かれたという聖書に登場する人に似ています。イエス様と出会った盲人は目に唾をつけてもらって目が見えるようになりましたが、すぐにはっきり見えるようになりませんでした。はじめに「人が見えます。木のようです」と伝え、2回目に手を当ててもらって何でもはっきり見えるようになりました。イエス様と出会った人はそれまで見えていなかった物事がだんだんと見えてくるようになると聖書は伝えています。わたし宮島もイエス様と出会って、それまで見えていかなったものがだんだんと見えてくるという経験をしてきました。今日は、わたしがイエス様との出会いから目が開かれ、今まで見えていなかったことが見えるようになった経験をお話しいたします。

わたしが洗礼、バプテスマを受けてクリスチャンになりましたのが大学4年生22歳の時でした。その時からクリスチャンとして20数年間生きてきましたが、まさにこの目が開かれた人と同じように物事を見る見方が少しずつ変えられてきたと感じています。今日は2つのポイントからお話しさせていただきます。

まず一つ目ですが、ヨハネによる福音書15章16節でイエス様はこう言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。わたしが選んだのではなく、神様が選んだ。幼稚園の入園式で保護者の皆さんに向けて話すのですが、「みなさんは数ある幼稚園の中からこの原町田幼稚園をみなさんが選んだと思っているかもしれませんが、実はそうではありません。神様が皆さんを選んでこの原町田幼稚園に導いてくれたのです。これからの幼稚園生活を通して「わたしではなく、神様が選ばれた」という経験をしていってください」と話しています。これは幼稚園だけの話ではありません。わたしたちが自分で選んできたと思っていることが実は神様の選びであったということはわたしたちの人生の中にはたくさんあります。神様が選ばれたというのは、夫婦の関係でもそうですし、子どもが生まれることも、また、仕事や自分が今生活している環境も神様が選ばれてわたしたち一人一人をその場に置いてくださっている、そのように見るのです。夫と妻の関係のことで言えば、もし二人とも「わたしがこの人を選んだ」と思っていたとしたらどうでしょうか?自分がこの人を選んだと思っていますと相手が自分の意に反したこと、気に食わないことをしますと「自分はどうしてこんな人を選んだんだろう。もっといい人がいたかもしれないし、実際にもっといい人がいるかもしれない」と思ってしまうかもしれません。そのような考え方が発展しますと二人の関係がだんだんとギクシャクしたものになる恐れがあります。でも、神様がこの人を選んだという言葉の上に立ってみますと現実が違って見えてきます。相手が自分の意に反したことをしたとしても「神様がこの人を選んだのだからこのことにも何かの意味があるのだろう」と受け止めることもできますし、あるいは「神様が選んだのだから、仕方ない」とあきらめることもできます。あきらめると言っても互いに良い関係を保つためのあきらめです。生まれてきた子どものこともそうです。子どものことでいろいろとうまくいかないことがあって、「どうしてこんな子に育ってしまったんだろう」と思うかもしれませんが、そうではなく、神様がこの子をわたしたち夫婦のために選び、届けてくださったとの言葉の上に立つのです。そこに立ちますとうまくいかないことがあっても「神様、この子をくださってありがとうございます」と受け止めることができます。

「わたしが選んだのではなく、神様が選んだ」という言葉の上に立って物事をみる。教会にはそのような文化があります。わたしたちが置かれている学校、仕事、家庭、地域など様々な環境がありますが、時々自分が置かれている環境に不満を感じて、どうしてわたしはこんなことをしなければならないのかとやりきれない思いを持つかもしれません。でも、わたしではなく神様がここにわたしを置いてくださっているんだ。神様がわたしを選んでここに置かれているんだという言葉の上に立ってみますと違った景色がだんだんと見えてきます。「神様がわたしを選んでくださったのだから、きっとこれからうまくいくはずだし、今大変だと思っていたことから何かを学んで次に生かせるのかもしれない」。どのような状況に置かれたとしてもこれはわたしが選んだのではなくて、神様がわたしを必要としてわたしを選んでくださったんだと受け止める。その言葉の上に立って物事を見るように努力する。不満や不安ばかりが見えていたところに一筋の光が見えてくる。神様はわたしたちにそのような経験を与えてくださいます。

次に二つ目です。ヨハネによる福音書の11章でイエス様はこのように言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。クリスチャンとなり、また特に牧師となってからわたしは人の死に何度も出会ってきました。そして親しい人を天に送って悲しむ人たちにこのように伝えてきました。「死は終わりではありません。神様のところで新しく生きる命の始まりです」。わたしは自分で死を経験したわけではありませんから、証明することはできませんが、でも聖書が伝えることを「これは本当だ」と信じて伝えることはできます。そして死が終わりではなくて新しい命の始まりだと信じることで「死ぬこと」に対する不安や恐れはだんだんとなくなってくると思うのです。「死ぬのが怖い。自分がどうなるのかわからない。独りになってしまう」。そんな恐れが心の中に出て来るのも事実ですが、聖書の言葉、揺らぐことのない言葉の上に立って親しい人の死、それといつか必ず経験する自分の死を見つめるならば、恐れや不安はなくなっていきます。

わたしは何年か前に自分の父を天に送った時も悲しくて寂しい気持ちになりましたが、聖書の詩編23編の言葉に支えられました。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」。わたしの父は神様の家、天国に帰って行った、いつかまた天国で会うこともできる、そう思いますと心の中になんとも言えない安心が広がります。

4日前の水曜日にもこの原町田教会で荒谷さんという指揮者のお連れ合いの荒谷和子さんの葬儀が行われました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、自分の葬儀の時には讃美歌を歌って送って欲しいと言っていたので急遽、和子さんの娘さんの友人である牧師から「原町田教会を貸して欲しい」と言われてお貸ししました。その葬儀の中で読まれた聖書が詩編23編で、その牧師ははっきりと言いました。「和子さんは天国に帰って行かれ、今、神様と共にいる」。(間)死は終わりではなく、天国での新しい命の始まりだという言葉を信じて、その言葉の上に立って自分の死、親しい人の死をみるならば不安や恐れは少しずつ減っていきます。

どこに立って自分や人、物事を見るのでしょうか?日頃、あまり意識しないことかもしれませんが、これは大切なことだと思います。なぜなら、多くの場合無意識のうちに不安定な言葉を受け入れてその上に立ってしまうことがあるからです。自分が立つところがグラグラと揺れ動いていましたら、そこに立っている限り不安や恐れは消えません。けれども、決して変わらない土台、揺れ動くことのない方の変わらない言葉の上に立つならば、不安や恐れはなくなって行きます。変わることのない言葉がわたしたちを支えてくださっていると聖書は繰り返し伝えます。「恐れることはない。わたしがあなたと共にいる」。「わたしがあなたもあの人の罪も過ちも赦している」。「死は終わりではなく、新しい命の始まりです」。

揺れ動かない確固とした岩のような神様が、わたしたちと共にいて支えてくださいますし、神様の言葉という確固とした土台がありますから、その上に立って物事を見ることができる。これは何も難しいことではありません。この言葉は本当だと心から信じ続けるのです。

2018年9月2日 お昼ごはん

9月最初の日曜日、まだまだ暑いけれど、みんなで食べて元気を出しました!

2018年8月26日 子どもの教会 かきごおり

8月26日の子どもの教会礼拝後に、かきごおりをしました。中高生がどんどんシャカシャカ、準備を手伝ってくれました。

2018年8月15〜17日 子どもの教会サマーキャンプ

奥多摩福音の家で、2泊3日のサマーキャンプ。
今年は大雨で水が多かったせいか、毎年遊びに行っている川がいつもより深くなっていました。深いところの手前にロープを張ったり、暑い中での水分補給に気をつけたり、子どもたちが元気に安全に過ごせるようにと祈りながらのキャンプでした。
子どもたちを送り出してくださったお家のみなさま、お祈りくださった教会の方々、お支えをありがとうございました。

保護中: [教会員用] 2018年9月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。