9月11日(火) 絵本作家 宮西達也さん講演会のお知らせ 

原町田幼稚園主催の講演会を開催します。入場無料です。
9月11日(火)12:30〜14:00、絵本作家の宮西達也さん
日大芸術学部美術学科卒業後、人形美術・グラフィックデザイナーを経て、絵本作家に。また、絵本のみならず、童話や紙芝居、プラネタリウム、イラスト、エッセイ、小学校教科書東京書籍の挿絵なども手がけ、幅広いジャンルで活躍。『おとうさんはウルトラマン』、『うんこ』は剣淵絵本の里大賞・びばからす賞も受賞。『にゃーご』は小学校2年生の国語の教科書に掲載。『おまえうまそうだな』は、小学校低学年の部読書感想画中央コンクール指定図書、2010年にはアニメーションで映画化されるなど、多くの作品を世に送り出しておられます。

2018年7月22日 9時からは「みんなの礼拝」です

2018年6月24日 この時のためにこそあなたはいる

◆エステル記4章10節〜5章8節
◆使徒言行録13章13〜25節
◆詩編33編4〜11節

エステルには両親がいませんでしたので、彼女は小さい頃に親戚にあたるモルデカイにもらわれて、自分の娘のように育ててもらいました。二人ともペルシャ帝国に暮らすユダヤ人でしたが、モルデカイは王妃になったエステルに自分がユダヤ人であることを隠しておくように伝え、彼女はそれを守っていました。そんなある日のこと、モルデカイが国で王様につぐ力を持っていたハマンに敬礼をしませんでした。ハマンはそのことに腹を立てモルデカイだけでなくモルデカイが属するユダヤ人を皆、滅ぼすようにと命令を出し、王様も「お前がしたいようにすればいい」と認めてしまいました。モルデカイはその恐ろしいニュースを知って王妃であるエステルに伝えたのが今日の聖書の出来事です。モルデカイはエステルに「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか」と伝え、その企(たくら)みを阻止するように迫りました。今日の聖書の後、7章になりますが、エステルは王様に「わたしの民族が滅ぼされそうになっておりますので、助けてください」と言い、「誰がそんなことを企んでいるのだ」と聞かれエステルは「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」と言って、その企みを止めさせることができたのです。

エステルは国中にいる同胞のユダヤ人たちが滅ぼされてしまわないように、勇気を出して王のところに行きました。育て親のモルデカイの一言「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか」。この一言が彼女の背中を押し、彼女は滅びの危機にあった「この時」を見逃すことなく、王の前に立つことができ、ユダヤの人たちを救い出したのです。

神様は原町田教会のわたしたち一人ひとりにも「この時のためにこそあなたはそこにいる」と言われます。いつが自分にとっての「この時のためにこそ」なのか。誰かが危機の中にあって、自分が何かをすればその人が助かるという「この時」はいつなのか。エステルにとってのこの時はモルデカイによって知らされましたが、わたしたちにとってのこの時を誰が知らせてくれるのでしょうか。わたしたち一人一人にとって、またわたしたち全員にとっての「この時」を見逃さないように、聞き逃さないようにと神様が今日の御言葉を伝えます。

今日の御言葉はエステル記と使徒言行録ですが、実は、今日の教団の聖書日課ではそれに加えてマルコによる福音書の6章14〜29節があります。その箇所は、洗礼者ヨハネさんがヘロデ王によって首をはねられて殺されるところです。権力を持つヘロデ王が妻ヘロディアの娘に「欲しいものがあればなんでも言いなさい。お前にやろう」と客の前で豪語した後、彼女が「洗礼者ヨハネの首を」と言ったので客の手前「それはできない」と言えず、ヘロデ王はヨハネの首を跳ねさせるのです。そして今日のもう一つの聖書箇所、使徒言行録ではイスラエルの民が王を求めたとあります。本来であれば神様だけが国を治めるまことの王であるにもかかわらず、彼らも「王様が欲しい」と言い出したのです。使徒言行録では短くそのことを伝えていますが、ここは大切なところなので詳しくサムエル記上8章をみてみたいと思います。イスラエルの民は、「わたしたちのために王を立ててください」と当時、預言者だったサムエルに願いました。神様は「彼らの声に従いなさい。ただし、王が持つ力を教えておきなさい」と言われ王を立てたら、あなたたちはこうなると次のように具体的に教えています。「あなたたちの上に立つ王はあなたたちの息子を戦争のために徴用し、娘を働き手として徴用する。あなたたちから10分の1の財産を奪い取る。こうしてあなたたちは王の奴隷となる。その日、あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶ」。サムエルは人々にここまで話したのですが、人々はその声を聞かず「王が必要なのです」と言い張ったので、サムエルはサウルの頭に油を注いで王をたてたのです。王が持っている権力とそれによって戦争が始められると神様ははっきりと言われ、実際にそうなりました。これはイスラエルだけのことではありません。わたしたちのこの国のことでもあり、世界中にある国々のことでもあります。どのような形であっても王のように国で権力を持つ人は息子を戦争のために連れていき、税金を取り立てて戦争を始めようと間違うことがあるのです。

今日、与えられた聖書箇所が共通して伝えることは、人が集って国をつくり、そこで力をもった者は、時に間違ってその力を用いることがあり、その結果、弱い立場にある人たちの命が脅かされるという事実です。福音書の洗礼者ヨハネもそうですし、エステルたちユダヤ人もそうでした。ですから、日本という国の中で生きるわたしたちは国の中で力を持つ人たちを見張っていかなければなりません。エステルにしてもモルデカイにしても、できればあのようなギリギリの事態になる前に止めたかったと思います。でも危機的なことは、ギリギリに迫ってこないと気づかないのかもしれません。実際、王宮の中にいたエステルは何が起きているのか気付かずにモルデカイに指摘されて初めてその危機に気づきました。同じようにわたしたちも今、自分たちがどのような時代を生きているのか、エステルのようなギリギリの事態にはまだ至っていないのかもしれませんが、それに似た時が近づいているかもしれません。「この時のためにこそあなたはそこにいる」と神様がわたしたちに言われる「この時」は、エステルのような決定的な一瞬だけでなく、わたしたちの日常の生活の中にも刻まれているのではないでしょうか。

わたしたちの淡々としているように感じる日常の中にもいくつもの「この時のためにこそ」が隠されています。わたし自身が経験したことなのですが、ついこの間、ある人にとっての「この時」を見逃してしまったような辛い思いをしました。それは今年の4月でしたが、わたしが保証人として仮放免を申請していたインドの青年が自らの命を絶ってしまったことです。31歳の彼は昨年の4月に日本にやってきて、3ヶ月後の7月にオーバーステイで入管に収容されまして、去年の9月にわたしは彼と初めて品川の入管で面会しました。彼はインドでビジネスに失敗して多額の借金を抱えておりましたので、国に帰るとヤクザに命を狙われるから帰らないと言っていまして、何とかここから出たいとわたしに連絡して来ました。その11月に1回目の仮放免を申請をし、12月末に不許可となり、彼は茨城県の収容所に移され、今年の1月に2回目の申請をしまして、その結果が3月に届いていました。わたしは茨城の収容所には面会に行っておりませんので、収容されている人たちからかかってくる電話でその結果を伝えておりましたが、4月12日に彼のインドの友達から電話があり、わたしはその人の保証人もしていましたので「結果はどうでしたか?」と聞いてくる彼に「ダメだった」と伝え、「そうだ、彼にもダメだったと伝えてください」と電話で話しました。そう伝えた次の日の4月13日、彼はシャワー室で首をつって命を絶ってしまったのです。わたしは不許可の結果を伝える時、「何回ダメになっても、何回でも申請してあなたがここから出るまで保証人をするから大丈夫」と伝えているのですが、その時にはそれを言えませんでした。

もちろん、このことはわたしだけの問題ではなくて収容制度の問題でもあります。いつ収容所から出られるのか、全く見通しが取れない状態にとどめて、いつ強制送還されるのかわからない状態で、長い場合では2〜3年もほとんど自由のないところに収容している入管のあり方にも問題があります。でも、わたしが直接関わっていたことですからショックを受けましたし、「必ず出られるから大丈夫。わたしが最後まで保証人をやるよ」と伝えておけばこんなことにならなかったと思いました。「この時のためにこそ」を見逃してしまったように感じるのです。

ただ、神様はこんなわたしなのですが、いまだに用いてくださっていると実感できることがつい先日ありました。2年も大阪の入管に収容されていたスリランカの女性の仮放免が先日許可されたのです。彼女から電話がくる前に一緒に彼女を支援している人から「仮放免が許可されました」と連絡がありましたので、その同じ日の夕方、彼女から電話がかかってきて「宮島さん、ありがとう」というので「よかったね。また、こっちに遊びにきてね」と話しました。ただ仮放免で万事オッケーという訳ではないのですが、とりあえず辛い収容所からは解放されたのですから、よかった、神様ありがとうございますと祈りました。

わたしたちの近くに困っている人がいたら自分ができることをしていこうという気持ちによって、「この時のためにこそ」を見逃さずにいたい。特に国の権力によって社会の中で弱い立場にある人たちの命が脅かされることのないように「この時のためにこそあなたがここにいるのだ」との声を聞き逃すことのないようにしたいです。そのためにはイエス様のように弱い立場に置かれている人たちをできる範囲で訪ね、その人たちの声を聞かなければならないと思います。

神様は言われます。「この時のためにこそ、あなたはそこに生きているのではないか」。この国の中でわたしたちは、だいたい毎日のように同じ人たちと会って生活をしています。そうしますとあまり国の力によって辛く苦しい立場に置かれる人たちとは出会わないかもしれません。しかし、クセルクセス王の国にユダヤ人がいたように、わたしたちのこの国にもモルデカイやエステルのようにすぐに弱い立場に追いやられてしまう人たちがいます。わたし宮島は個人的にほとんど何も関われていないのですが、原発事故によっていまも十字架を背負わされている福島県の人たち、また、アメリカ軍の基地という十字架を背負わされている沖縄の人たちのことを祈り続けなければならないと思うのです。祈り続けることは、「この時のためにこそ、あなたはそこにいるのだ」との神様の声を聞き逃さないようにするための最低限のことです。わたしは3年前に沖縄に行く機会が与えられ、その時に「基地ができませんように」と祈り続けていた辺野古に行くことができ、1時間ぐらいでしたが、基地建設反対をする人たちと一緒に座り込みをしてきました。辺野古を去る時に一人のおばあさんが動き出した車の中にいるわたしに向かって「牧師先生、わたしたちのこと、忘れないでくださいね」と大きな声で叫んだその言葉がわたしの胸に残っています。

「この時のためにこそ」との声を聞き逃さないでエステルのように行動することはとても難しいことだと思います。でも、もし聞き逃してしまったらその人たちだけでなく、わたしたち自身も大変なことになると聖書は伝えますから、国という大きな力によって苦しい立場に置かれている人たちの声を聞き続け、また祈り続けましょう。

詩編33編10節「主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」。人間の計画や企てはその時はうまくいったように見えますが、とこしえに立つことはありません。6節「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」。神様だけがすべての命を平等に愛し、治められる方。すべての命が等しく愛され、大切にされる神様の思いがこの地になりますようにと祈りつつ、小さくされている人たちの声を聞き逃さないようにしましょう。「この時のためにこそ、あなたはそこにいるのではないか」。

2018年6月10日 あなたも家族も救われます

◆使徒言行録16章16〜34節
◆詩編 32編1〜7節

わたしはあまり知りませんでしたが、自分のことを占って欲しいと思う人は今の時代もたくさんいるようでして、インターネットで「占いの市場規模」と調べますと、右肩上がりでなんと日本国内だけで5000億円もあるとありました。

使徒言行録に出てきます占い師の女性も占いによってたくさん儲けていまして、でもそのほとんどは主人たちに取り立てられていました。彼女はきっと占うのが上手だったのでしょう。相手の恐れや不安、自信のなさを巧みに読み取ってこのように話していたのかもしれません。例えば、子どもが欲しくても与えられない女性がやってきて「どうしてわたしには子どもができないんですか?」と藁をもすがる思いで聞きます。すると彼女は「あなたの先祖には子どもに悪いことをした人がいるようです。まずその悪い霊を取り除かなければなりません」と言って誰でもそうかもしれないと思うようなことを伝え、でもその不安は必ず取り除かれると解決策を提示します。すると聞いていた人は「本当かもしれない」と思い込み「ではお願いします」と言ってしまうのです。占い師は「この水晶を買って家に置いておけば子どもが生まれます」と言って、ちょっと高い、でも買えない値段ではない水晶を買わせていたのかもしれません。彼女は巧みにわたしたちが感じる病気への不安、家族や職場などあらゆる人間関係からの不安、将来への不安、お金の不安など心の揺れ動きを上手に掴み取り、「ズバリ、あなたの不安は悪い霊のせいです」と間違ったことを思い込ませ、高額な利益を得ていたのだと想像します。

しかし彼女自身、そのような偽りの生活をやめたかったのでしょう。人に間違った思い込みをさせて騙して大儲けしていたことに「こんなことはダメだ」。彼女は本当にこのままでいいのだろうかと不安や恐れを感じていたはずです。だから、彼女はパウロさんとシラスさんにしつこくついて行って「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と救いを求めて声をあげたのです。パウロさんはたまりかねて彼女に向かって言います。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。占いはお金をとって除霊などをしますが、パウロさんは無料でその人に救いを宣言します。こうして彼女は嘘をついてお金を騙し取る生活から解放されたのです。

占いの彼女とは対照的に彼女を使って金儲けをしていた主人たちは、パウロさんとシラスさんを高官たちに引き渡し、はらいせに本当はしてもいないことまで訴えたので、2人は鞭打たれ牢屋に入れられてしまいました。鞭で背中を打たれて、足かせをはめられて牢屋に入れられたら普通、気持ちが落ち込んで「もうダメだ」と思ってしまいますが、二人は牢屋の中でも賛美歌を歌って神様に祈っていました。神様は必ずわたしたちを助けてくれる。神様にできないことはないと2人は思い込んでいたのです。この2人の思い込みが人を救うことにつながっていきます。

神様を信じて生きることは、「神様の思いこそ本当のことだ」との思い込みでもあります。この2人は、必ず神様が助けてくださるし、たとえ牢から逃れられなかったとしてもこの中にいる人たちに福音を伝えて救いに導くことができると思い込んでいました。それとは反対に自分はもうダメだと思い込んでしまう人がここに登場します。牢屋を見張っていた看守です。彼は自分の間違った思い込みで自分自身を滅びへと追い込んでしまいます。大きな地震があって、牢の戸が全部開いて、囚人たちを逃げないようにつないでいた鎖も全部外れてしまいました。真夜中でしたので寝ていた看守は目を覚まして牢の戸が開いているのを見て、「囚人たちが逃げてしまった」と思いました。牢の戸が全部開いたのですから、そう思って当然です。もう、終わりだ。一人ならまだしも、囚人全員が逃げたとなるとわたしの人生もおしまいだ。そう思って持っていた剣を抜いて看守は自害しようとしましたが、でも、それは間違った思い込みだったのです。27節にある通りです。「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのをみて、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」。しかし、救いの言葉が看守の耳に届きます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。パウロさんとシラスさんの二人だけでなく、囚人は皆そこにいたのです。牢の戸は開き、すべての囚人の鎖が外れていたにもかかわらず、誰もそこから逃げませんでした。看守はこの時点ですでに救われていました。こうなって当たり前だと思っていたことが実は違っていた。こうなるだろうと思っていたことは単なる人間の思い込み、間違った思い込みで、神様の思いは違っていた。そのことに目が開かれたのです。

わたしたちもこの看守のように思い込んでしまうこと、あると思います。「こんな自分はダメだ」「わたしはこんなに欲深いから神様から見放される」「自分は幸せになれないような気がする」「持っているお金も少ないし、自分を助けてくれる人なんか誰もいない」、そんな風に間違ったことを思い込み、自分は救われないと恐れにとりつかれてしまう。しかし、これは全部、人間の思いですし、神様の思いとは違います。そのような間違った思い込みは、わたしたちを神様から遠ざけようとしますから、間違った思い込みは悪い霊の働きと言うこともできます。わたしたち、あまり気づいていないのですが、間違った思い込みによってどれほど神様の思いを自分の中に入れないようにしているのか。でも、神様の思いはいつまでも変わらず語りかけてくださいます。「わたしはあなたを愛している」。「わたしはあなたを守る。わたしはあなたのまことの親だから、あなたを決して見捨てない」。「あなたはすでにわたしの救いの中にある」。わたしたちは繰り返し神様の思いを聞いて「本当にそうだ、アーメン」と受け止め、自分の中にある自分の思い込みには、「どうぞ、もう出て行ってください」と伝え、神様の思いで心を満たしていただくのです。

自分の思いは単なる人間の思い込みなんだ、と気づいてわたしたちもこの看守のように「救われるためにはどうすべきでしょうか」と心を神様に向かって開きます。そして「神様はイエス様によってわたしを愛してくださり、ゆるしてくださっている」と信じるだけでいいのです。壺や水晶など買う必要もなければ、除霊もしなくてもいい。ただ主イエス様が本当の救い主だと信じるだけ。「そうすれば、あなたも家族も救われます」。パウロさんが言ったこの言葉には、すでに差し出されている神様の救いが大前提にあって、それが省かれていますので、わたしなりに補いますとこうなります。「すべての人にはすでに神様の救いが差し出されています。だから、主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。もうすでに自分の家族も救いの中にいるとあなたが信じること、神様はすべての人を愛していると信じること。それが自分の救いであり、家族の救いでもあります。自分の家族は教会にも来ていないし、聖書の言葉もあまり知らない。でもすでに神様の救いの御手の中にあると信じる。すでにあの人も救いの中にある、神様の愛の中にあると信じるのです。神様の思いはわたしたちの思いをはるかに超えて大きく全ての人を包み込んでいます。その救いのしるしとして「わたしはイエス様を信じます」と信仰を告白することで、神様はわたしたちに「本当にわたしは救われたんだ」とまことの救いを実感させてくださいます。この看守も「わたしたちは皆ここにいる」と言われ命びろいをしてすでに救われていたのですが、彼はその自分が救われたというしるしを求めました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。パウロさんとシラスさんは、看守とその家族に主の言葉、神様の思いを伝えたところ、真夜中でしたが、看守は「わたしはイエス様を救い主として信じます」と信仰を告白し、バプテスマを受けました。看守とその家族は、バプテスマによって教会につながる者となりました。ここに救いがあります。教会につながることで神様の思いを繰り返し聞いて、自分の間違った思い込みを減らし、神様の豊かな思いで心を満たしていくことができるからです。神様の思いを仲間たちと一緒に聞いて、その仲間たちと一緒に食事をする。そこに救いが実現しています。

人間の間違った思い込みからの解放。自分の思い込みでなく神様の思いを自分の中に受け入れていく。わたしたちも自分の思い込みに気をつけたいです。「わたしは神様からこうしなさいと言われていることをほとんどできていないから、天国には入れないはずだ」。「嘘もついたこともあるし、自分が言ったことで人を傷つけてしまったこともある。だから、神様に合わせる顔がない。自分は赦されないだろう」。そんな思い込みはいつでも忍び寄ってきます。自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の失敗やだらしなさによって「自分はダメだ」「わたしなんかいてもいなくても同じだ」「自分は救われない」と思ってしまうこと。そのように思い込んでしまうのはそんなに難しいことでなく、看守がそうだったようにちょっとしたことでどんな人でも思ってしまうことなのです。

しかし、誰がなんと言おうと、わたしたちがどれほど「自分はダメだ」と思い込んでいたとしても、神様は変わらず神様の思いを伝え続けます。「わたしはあなたを愛している」「あなたはすでにわたしの救いの中にある」。「そのことを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」。

この世界、この社会、わたしたちの周りには、神様の愛に気づかず、神様の思いを受け入れる機会が少なくて、たくさんの人が苦しんでいます。わたしたちも時々、間違った人間の思いに引っ張られてしまうこともありますが、でも神様の思いを聞き続けて、「神様の思いこそ本物だ」と信じていますし、互いにこうやって信じていこうと励まし合い、祈り合う仲間もいます。だからこそ、わたしたち教会は、自分の思い込みで苦しんでいる人たちに向かって神様の思いを伝えます。「神様はイエス様によってあなたもあなたの家族もすべて愛し、ゆるしています。そのことを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」。

2018年7月1日 お昼ごはん

7月に入り、暑くなってきました。
お食事グループの心づくし、冷やし中華をいただきました。

2018年7月1日 子どもの教会 分級の様子

梅雨が明け、暑くなってきた中、子どもたちが元気に子どもの教会に集まってくれています!
子どもたちを送り出してくださっているお家の方々、ありがとうございます。

保護中: [教会員用] 2018年7月 主日礼拝音声

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当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988