2018年5月27日 でも、『わたしは神の子』

◆ローマの信徒への手紙8章12〜17節
08:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
08:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
08:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
08:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
08:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
08:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

◆マルコによる福音書1章9〜11節
01:09 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。イエス様のバプテスマによってこの救いの御言葉、福音の言葉がよりはっきりとすべての人に届くものとなりました。「あなたはわたしの愛する子」。

しかしながら、教会の歴史の中ではイエス様がどうしてバプテスマを受けられたのか、その意味を巡って論争が起こることもありました。キリスト者を悩ませ、論争を起こしたのは、洗礼者ヨハネさんのバプテスマが、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」だったからです。「罪なきイエス様がどうして罪の赦しのバプテスマを受けなければならないのか」という問いにどう答えればいいのか、大きな問題でした。全く罪のないイエス様が一体どうして悔い改めのバプテスマを受けなければならないのか。ある人はイエス様がバプテスマを受けたというのは歴史的事実ではなく、聖書を書いた人の作り話だと言うほどでした。

ここにはバプテスマとは何なのか、バプテスマをどのように理解すれば良いのかがこの問題を解く大きな鍵となります。本来的には、バプテスマは救いの条件ではありませんでした。「バプテスマを受けたらあなたは救われます」というものがバプテスマであったとしたら、イエス様は「それは本当のバプテスマではないから、わたしはそれを受けない」と拒否したことでしょう。でも、イエス様はバプテスマを受けられました。なぜなら、それは救われた者にとっての「救いの印」だったからです。すでに神様はわたしを愛してくださっている、救いは与えられているのだから、わたしはその印としての洗礼を受ける、そのようにしてイエス様は洗礼を受けられたと理解します。

わたしたちが教会で受けるバプテスマ(洗礼)も同じです。そこにはなんの条件もありません。わたしたちが良い行いをしたからでもなく、わたしたちが救われるに値するからバプテスマを受けることができる、そういうことでもありません。神様がわたしたちを赦し、神様がわたしたちを愛してくださっている。すでに神様から救いは差し出されている。だからわたしたちはその救いに気づいて、信じて、救いの印としてのバプテスマを受けるのです。

イエス様がバプテスマを受けられたのは、すでに差し出されている救いをすべての人に伝えるためでした。わたしたちが悔い改めたから救われるのではなく、すでに救われていてバプテスマを受けたからわたしたちは悔い改めて、愛を中心にして生きていこうと変えられていきます。悔い改めのバプテスマはそういう意味なのです。イエス様がバプテスマを受けられた後、霊が鳩のように降ってきて天から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエス様がバプテスマを受けられたことで、聖霊は全ての人に与えられている命そのものだということが再確認されました。「わたしの心に適う者」を直訳すれば「わたしはあなたを喜ぶ」となりますから「これはわたしの愛する子、わたしはあなたの存在を喜ぶ」となります。

この天から声は、神様がすべての人に命の霊を吹きかけたあの創世記の出来事をほうふつとさせます。今日の招きの詞で読まれました創世記2章7節の御言葉です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。4月終わりの頃でしたが、幼稚園でわたしはこの箇所を子どもたちにお話しました。神様が土の塵で人を作りましたが人は動きださなかった。でも、神様がその人の鼻にふーと息を吹き入れ、「大好きだよ。生まれてきてくれて本当にありがとう。あなたがいること、それがとっても嬉しいよ。いろんなことに挑戦してね、応援してるよ」と園児たちの前に行って何度か声を息を吹きかけるように話しかけましたら、その言葉に子どもたちの目がキラキラしてですね、ある子はその時に「そう言ってくれて嬉しい」とばかりに立ち上がって拍手をしてくれました。これ、わたしが自分で創作した話のように思うかもしれませんが、そうではなくて聖書の言葉をそのまま話しているだけです。創世記で「息」と訳された言葉は「霊」と訳すことができる「ルーアッハ」という言葉ですから、イエス様のバプテスマを受けて降った霊は、すべての人に注がれている神様の息をリバイバル、再現させたのです。イエス様のところに降ってきた霊は「あなたのこと大好きだよ。あなたがいること、それがとっても嬉しい」とある通りで、それはまさに神様が天地を創造されて人に命の息を吹き入れられた出来事の再現なのです。

パウロさんは言っています。ローマ8章14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。15節「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」。神様が天地創造の時から今も続けて、すべての人に「あなたのこと大好きだよ。あなたがいること、それがとっても嬉しい」と息を吹きかけられています。だから、そのことに気づき、信じるわたしたちは神様に向かって「天のお父様、アッバ」と呼びかけることができるようになりました。神様はわたしたち、すべての人の親なのです。ローマ8章15節「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。イエス様が実際に使っていたアラム語。小さい子どもが「父さん」と親しみを込めて呼びかけるような響きの「アッバ」。神様に向かって何度も「アッバ、父さん」と呼びかける、それほど親しく近い、肉親よりも深いつながりを持つ、そういう関係、それが親なる神様とわたしたち子どもの関係なのです。御子イエス様と親なる神様との強く、決して切ることのできない豊かな関係をそのまま同じようにわたしたちも持つようになったのです。

わたしたち教会は「あなたは神の子です」とすべての人に向かって宣言します。これが福音のメッセージです。わたしが神学校に通っていた時にある神学生がわたしに「素敵な讃美歌があるから聞いてみますか」と言って一枚のCDをくれました。その中には「Child of God」神の子という英語の讃美歌が入っていました。その賛美歌はわたしたちが生きる現実の中にある様々な痛みや苦しみを歌っているのですが、でもわたしは神の子だ、と主にある希望を繰り返し歌います。妻が夫から受ける家庭内暴力の現実、国際的な経済格差が生み出す貧しさの現実、同性愛者への差別偏見の現実、紛争地域の子どもの現実。でも、その苦しい困難な中にあっても、どんなに苦しくても「でも、わたしは神様に愛された神の子だ」と歌うのです。わたしがその歌詞を日本語に訳しましたので、4人の登場人物の声を、彼らがどのような状態におかれているのかを想像しながら聞いてください。

「わたしの名前はマリー。昨晩、彼はわたしを殴りつけて、わたしは床に倒れました。これまでも何度も殴られてきた。彼はわたしに『ごめんね』と言って綺麗な花を持ってきて、しばらくは良い状態となるが、またちょっとすると、彼はわたしに『お前なんかいなくなればいい。最低なやつだ』と言って殴る。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はエマニュエル。あなたたちがどうして豊かに生活しているのか、わたしのこの傷ついた手が教えることができます。これまでずーっと働いてきましたがわたしの家族はいつまでも貧しい。だから、あなたたちはバナナもコーヒーも安く手に入れられる。わたしの雇い主はこう言います。「お前の代わりの労働者などはいくらでもいるから、お前の言うことなんか聞かない」。雇い主は続けて言う。「お前の魂はいつか天国で自由になるんだから、今の辛いことなんか気にするな」。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はジェローム。先週家に帰った時、自分に正直になろうと思っていた。でも、お父さんはそれを聞いて部屋から出て行こうとし、お母さんはその場にへたり込んだ。「一体どうやったらお前は自分を男と言えるんだ?お前が自分は同性愛者だと言い張るなら、お前は家からいなくなったと近所の人には伝える」と言い、続けて「お前は病気だし、恥ずかしい。死んでしまえばいいのに」と両親はわたしに言った。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はエイミー。7歳の女の子。もう苦しいことに疲れてしまった。わたしの周りにはドラッグ、離婚、紛争は終わらない。でも、わたしは踊ったり、遊んだりしたい。戦争が終わって家族が一緒に暮らせること、アイスクリームを食べることをわたしは夢見ている。だって、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

どんなに苦しくても、どんなに辛い現実であっても、でも、わたしは神の子だ。これはすべての人、神様から命の息、神の霊をいただいているすべての人が胸を張って言えることです。パウロさんは8章16節でこう伝えます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。

「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。これは神様からの福音の宣言です。神様がすべての人に向かって繰り返し伝えられる喜びの知らせです。神様はこの知らせを天地創造の時に伝え、そしてまたイエス・キリストを通してもう一度、よりはっきりと伝えてくださいました。「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。この福音を聞き続けているわたしたちは、自分自身で「わたしは神の子です」と信じて、それで終わらずに身近にいる人にこう伝えていきます。「あなたは神様に愛された神の子です」。

2018年6月24日 9時からは「みんなの礼拝」です

保護中: [教会員用] 2018年6月 主日礼拝音声

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2018年6月17日 特別伝道礼拝のお知らせ

6月17日10時半から、牧野信次牧師をお迎えして、特別伝道礼拝をおささげします。

『神の言葉に生きる』 モーセの生涯に学ぶ
聖書箇所:申命記8章1〜10節、マタイによる福音書4章4節

どなたでもどうぞおいでください。
聖書・讃美歌は教会に備え付けのものがありますので、お持ちでなくても大丈夫です。

2018年6月10日は「家族礼拝」

2018年6月3日の写真

2018年5月13日 永遠の輪の中に入れられて

◆ヨハネによる福音書17章1〜13節
17:01 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:02 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:03 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:04 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:05 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:06 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:07 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:08 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:09 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

イエス様の祈りは神様への信頼で満ちています。神様を「あなた」と呼び、ご自分を「わたし」と言うようにとても親しく語りかけています。ただ、イエス様が弟子たちにこのように祈りなさいと教えられた「主の祈り」とはずいぶん違っています。マタイ福音書で、イエス様は「あなたたちが祈るときは、くどくどと長くする必要はない。言葉数が多ければ聞き入れられると思っているがそれは違う。神様はあなたたちが願う前から必要なものをご存知だから、シンプルに祈りなさい」と言われています。でも、ここでのイエス様の祈りは長くて、同じようなことを繰り返し祈っています。イエス様が「こうしなさい」とわたしたちに言っていることとご自分でしていることが違っていると思うかもしれませんが、ヨハネ福音書17章の祈りは、「主の祈り」のような日々の祈りとは大きく違っています。18章以降のことを見ても、また祈りの中にもあるとおり、この祈りはご自分の死を目の前にしたイエス様の最後の祈り、遺言の祈りなのです。ですから、どうしても長くなりますし、最後にこれだけは祈っておきたいとの強いイエス様の思いが込められています。祈りの初めに「父よ、時が来ました」と言われ、13節では「今、わたしはみもとに参ります」とご自分の地上での命が終わる時が来たと告げられます。

「もうすぐ、あなたは召されます。あなたは何日かしたら死んで神様のところに帰っていきます」と神様のみ使いがやって来て、突然そのように告げられたとしたらどうでしょうか。残された時間は少ない。わたしたちは何をするでしょうか。そんなの嘘だ、信じられないと言って拒否するでしょうか。それとも、静かにその時を待つのでしょうか。「もうすぐ、あなたは召される」。そのように告げられた後、わたしたちは何を思うのでしょうか。自分がこれまでしてきたことを思って感謝するのでしょうか。それとも後悔するのでしょうか。地上での人生は終わってしまう。もっとやりたかったことがあったのに。明日、そうなることが何年か前にわかっていれば、こんな無駄なことをしてこなかったのに。もっと前にわかっていればもっとましな人生を生きてこれたはずなのに。

イエス様が自分の死を目の前にしてしたこと。それは祈りでありました。この祈りにはイエス様の最後の願い、心からの思いが現れています。1節「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。1〜5節までの祈りのキーワードは栄光です。これからイエス様の死と復活を通して神様が現される栄光をすべての人に与えてくださいと繰り返し願っています。実は、イエス様はすでにその言葉と行動を通して神様の栄光を現していました。4節に「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とある通りです。しかし、まだ、すべての人に永遠の命が与えられるとの素晴らしい知らせを多くの人がまだ知っていないので、イエス様は「栄光を与えてください」と再度願うのです。モーセが杖を高々と上げて海を二つに割るような輝かしいことは、もちろん神様の栄光の現れですが、そのようなことだけではなく、もっと単純で、もっと身近なことです。それは、神様がわたしたちを造られたから、神様はわたしたちのことを大切にし、最後の最後まで守ってくださること、それを自分のこととして知り、信じることです。イエス様はそのことをこう言っています。3節「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。神様がイエス様を送ってくださり、その命を与えてくださったほどにすべての人を愛している、その変わることのない愛を自分のこととして知り、信じること。それが永遠の命であり、神様の栄光が現れることです。

わたしたちは、日頃のほとんどの時間、死ぬことについて考えることはありません。死ぬことを考えるのは良くないこと、そんな雰囲気もありますから、死のことをあえて話さないようにしている節もあります。年齢を重ねていきまして80歳、90歳、100歳となりますと若い頃と比べて、時々ですが自分の死を思うことはあるかもしれません。それでもできれば、あまり考えたくないというのが正直な気持ちだと思います。けれども今日、イエス様は、ご自分の死と真剣に向き合い、ご自分の命をかけて、わたしたちのために祈っておられます。「肉体的な死を恐れるのではなく、魂の死に気をつけられますように」とわたしたちのために祈っておられるのです。最終的な肉体の死よりも、むしろ今の自分、毎日の自分が誰かから必要とされているのか、何かの求めに応えられているのかという魂のレベルでの生死の方が差し迫った課題だからです。それはもちろんご高齢の方だけでなく、どの世代の人にとっても重要なことです。「自分は本当に必要とされているのか」、「自分が生きていることに価値はあるのか」、そのような魂からの問いかけです。

イエス様はその問いに明確に答えてくださいます。6節「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」。神様が造られたものすべてはイエス様のものとなりました。ですから、わたしたちはこのように信じるのです。「わたしの命はわたしのものではなくて神様のもの、イエス様のものです」。これが永遠の命です。7節で「わたしに与えてくださったものみな、あなたからのものである」とあり、9節でも「彼らはあなたのもの」とイエス様が言われています。すべての人、人間だけでなく命あるすべてのものは神様のものであり、イエス様のものですから、わたしたちは神様とイエス様とつながっています。神様がこのわたしに命を与えてくださっているのだから、神様がわたしの命の所有者であり、その所有者がそれを必要ないと思えばすぐにでも捨ててしまうはず。でも今もこうして生きているのだから、神様がこう言われるのです。「今もあなたは誰かのために生きているし、あなたがいるからあの人も喜んでいるし、何よりもわたしがあなたを喜んでいる。わたしがあなたを必要としている」。

イエス様は死と復活を経て永遠に生きておられます。その永遠なるイエス様と自分はつながっている。わたしたちはそう信じていいのですが、ヨハネ福音書17章を読んでみてわたしは改めて目が開かれた思いをしました。それは、「永遠の命は、個人的なものではない」ということです。個人的にイエス様を信じて、個人的にイエス様とつながっていると感じること以上に、イエス様と神様との親しい関係の中に神様に愛された人たちと一緒に入れられている、そのことに気づく、それが永遠の命だということです。10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました」。わたしたちすべての人は神様のものでもあり、イエス様のものでもあり、その切っても切れない輪の中にもうすでに入れられている。何よりも嬉しいことは、どれほど小さい者であっても、どれほど年老いた者であっても、祈りすらままならない者であっても、イエス様がその人たちを神様とつながる輪の中、永遠のサークルの中に入れられているということ。そのつながりは永遠ですから、わたしたちが生きている今もそして肉体的に死んだ後にもそのつながりから切り離されることはありません。イエス様はその大きな安心感、わたしは神様とつながっているから大丈夫と信じていました。だから、自分の死を前にしてもこのように語ることができるのです。13節後半「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるためです」。

教会の礼拝に出ていまして、賛美歌や祈りを一緒にするときに集った人たちとつながっている、一体感というのでしょうか、そのような気持ちを感じることがあります。それはそこにいるみんなが同じ思いになったとか、みんなが互いに愛し合うようになったと軽々しく言うことではなく、むしろ、苦手な人、嫌いな人もいる。けれども自分の心がその人のことから離れて神様に向かって祈り、賛美する時があり、ここに集められた一人一人の心が人への思いから神様に向かって「アーメン」と祈る。神様に向かって「ハレルヤ」と賛美する。それはもはや人間の力でも人間の業でもありません。神様がイエス様との輪の中にわたしたちを入れてくださっている、それをわたしたちが実感できた瞬間なのだと思います。それはわたしの個人的な感覚かもしれません。でも、それはイエス様が繰り返し「一つになるため」と言われていることだと信じますし、それが、わたしたちの目指すところであることは確かです。神様とイエス様と聖霊とが手を携えたその輪の中に入れられている、そのようなイメージです。

時々、祈ることすら難しくなってしまうことがあります。聖書を読んでも心に響かない。礼拝に出ても牧師の説教が心に響かない時もあります。そのような時のためにイエス様は、御名を現してくださいました。神様のお名前です。11節「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。イエス様は御名によって人々を守られ、これからもすべての人を御名によって守ってくださいます。

わたしたちは神様の御名前を知っています。神様のお名前は「わたしはある、あなたと共にある」(出エジプト記)であり、「インマヌエル」「主我らと共にある」。ヨハネ福音書によれば、イエス様は良い羊飼い、命のパン、まことのぶどうの木、世の光です。どれもわたしたちにとって身近な名前です。どの名前を聞いてもイメージが浮かんできます。良い羊飼い、命のパン、ぶどうの木、光。そしてイエス様。どのお名前でもいい。永遠の輪の中に入れていただいていますから、祈れないときにはただ御名を呼べばいい。「イエス様」と心の中で呼びかければいいのです。

イエス様の願いはすべての人が一つになることです。神様がすべての人を愛しているという真理をすべての人が知って、信じること、それが一つになるということです。わたしはなんのためにここに生まれ、何のために死んでいくのか。わたしたちは永遠の命を受けるために生まれ、永遠の命を生きるために死んでいきます。2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。イエス様はすべての人に永遠の命を与えることができますし、十字架の死と復活によって神様の栄光は、父と子と聖霊という永遠の輪の中に現れました。ですから、わたしたちは素直にイエス様の思いを受け入れます。「わたしたちはすでに永遠の輪の中に入れられている」。イエス様のこの喜び、わたしはすでに永遠の輪の中に入れられている。その喜びがすべての人の内に満ちあふれますように。祈りましょう。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。