牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
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2018年1月14日 水の中を通って

◆出エジプト記14章15〜22節
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

◆マルコによる福音書1章9〜11節
01:09 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

出エジプトという出来事は、神様がどのような方なのかをわたしたちにはっきりと伝えています。苦しむ人たちがいたら放っておけない。痛む人がいたらその痛みを自分の痛みのように知ってくださる。だからその人たちを救い出すために人を召し出し、その人を苦しむ人のところに遣わす。それが、わたしたちが信じる神様。出エジプト記3章で神様がモーセを呼び出して伝える御言葉にその思いをひしひしと感じます。出エジプト記3章7節「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの声を聞き、その痛みを知った』。そして、神様は苦しみにある人たちを救うためにモーセに呼びかけます。3章9節「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。エジプトに帰ったモーセさんは神様の指示通りにファラオ王と交渉を重ね、過越の災いの後にようやくエジプトからイスラエルの人たちを脱出させることに成功します。でも、ファラオ王はイスラエルの人たちを去らせたことを後悔し、エジプト中の戦車や馬でもって彼らを追いかけ始めます。今日の出エジプト記はまさにその場面です。エジプトを脱出し、自由になったと思った矢先、目の前には海が広がり後ろからはエジプトの軍隊がすぐそばまでやって来る。イスラエルの人たちはモーセに文句を言うのです。「わたしたちをエジプトから連れ出したのは、エジプトにお墓がないからですか。荒れ野でわたしたちを死なせるためですか。こんな荒れ野で死ぬよりもエジプトに帰ってエジプト人に仕える方がましだと言ったではありませんか」。

力強く見えるエジプトの軍隊を見てイスラエルの人たちは恐れおののきます。彼らは神様の方を見ないで人間の現実にだけ目を向けていました。神様が必ず救ってくださるという神の救いを見ないで、エジプト人だけを見たために恐くなったのです。今、目の前で起きている人間の現実だけに目を奪われ、目に見えるものを恐れてそこから動けなくなる。わたしたちも彼らと同じような経験をすることがあります。わたしにとってのそのような経験は東日本大震災でした。地震の直後からテレビやインターネットでの津波で家や車が次々に流されていく映像に言葉を失いました。合わせてその後に起きた原子力発電所の爆発、その爆発によって放出された放射能が自分たちの暮らしているところまで流れているのではないかと言われ始めた後、放射能がどれぐらい流れてくるのか、自分は何をすればいいのか、インターネットやテレビ、人を通して伝わること、何を信じてどう判断すればいいのか。目の前で起きている人間の現実に目が奪われて何をしていいのかわからなくなり、ただ動けなくなる。あの3・11から1週間ほどはそんな状態でした。

それでもあの3・11の2日後の3月13日は日曜日でしたから礼拝がありました。いつもよりも人数は少なく、準備した説教も今、本当に語るべきことは何なのかと思いながら話しました。自分の言葉を失うという感覚というのでしょうか。でも、神様は何を話せばいいのかわからないわたしに聖書の御言葉をくださいました。その日の聖書箇所はローマの信徒への手紙10章8〜13節で、13節にはこうありました。「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」。目の前の現実に言葉を失い、何を語ればいいのかわからなくなる。しかし、神様はただ、わたしの名前を呼び求めればいい。ただ、「イエス様、助けてください」と呼び求めればいい。自分の言葉を失っても「イエス様」ということはできる。救いはそこにあると語ってくださったのです。

前方は海、その海には渡る橋もなければ船もない。そして後ろからはエジプト軍が今すぐにでも襲いかかって来ようとしている。どうすればいいのかわからない彼らに主なる神様は言われます。15節「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい」。イスラエルの人たちと同じようにうろたえ、恐れにとらわれてしまうわたしたちを神様は決して見捨てることなく語りかけてくださいます。「出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ、海の中を、水の中を通って行きなさい。あなたたちは神の栄光をみる」。

神様は、崖っぷちに立たされて、追い込まれて、もはや自分の力ではどうにもならない時、御言葉によって進む道を開いてくださいます。それが神の栄光です。神様はわたしたちに御言葉で語りかけ、モーセのようにわたしたちを通して栄光を現します。「杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べなさい」とモーセは聞きましたが、もし、彼が杖を上げなかったら栄光は現れなかったでしょう。御言葉が伝えられ、その御言葉に従った人たちが神の栄光を見る。神様は直接、御手を差し伸べて栄光を現すことはしません。神様は「わたしにそんなことができるのでしょうか。」と言っていたモーセに執拗なまでに語りかけて、海を前にした彼に杖を高く上げさせました。同じように神様は弱さや欠けをもったわたしたち一人一人を用いて栄光を現します。

わたしたちは度々、「神様の栄光が現れますように」「主の栄光のために教会を用いてください」「主の栄光を現す器としてください」と祈ります。そのようにわたしたちが祈るのは、未だに栄光が現れていない、だから現れますようにと願う気持ちがあるからだと思います。栄光と聞くと何か大きなこと、海の水が二つに別れるようなことをイメージするかもしれません。でも、イエス様が受けられたバプテスマによって実はすでに栄光がこれまでになんども現れ、しかも弱さや欠けをもったわたしたちを通して栄光が現れていると聖書は伝えています。

イエス様が「わたし」と一人称で書かれ、読者が「あなた」という語りかける形で書かれた黙想の本に次のような素敵な言葉がありましたので紹介します。「いつもわたしから離れずに生きていれば、わたしの恵みの光があなたを通して他の人たちを照らします。あなたの弱さとあなたの傷が窓になって、そこからわたしの栄光の光が輝き出る。わたしの強さと力は、あなたの弱さの中でこそ十分に発揮される」。

神様の御業は不思議です。栄光を現すと聞くと力や強さをイメージするのですが、神様はむしろ弱さや痛みを持ったモーセやイスラエルの人たち、そしてわたしたちを通して栄光を現します。自分の体の中や自分のすぐ近くで異変が起き、悲しみや苦しみを感じているときにこそ、神様はわたしたちの近くにいてくださいます。自分の弱さや痛みを思う時に、わたしたちは心から神様に依り頼みますから、神様はそのわたしたちの弱さと傷という窓を使って栄光の光を輝き出す。イエス様の十字架がそうであったようにです。

イエス様が水の中を通ってバプテスマを受けられると天から声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。これはバプテスマを受けた全ての人に宣言される神様の御言葉です。「あなたはわたしの愛する子」。なぜなら、聖書にはバプテスマを受けた人はキリストと結ばれて皆、神の子となると聖書に書いてあるからです。ガラテヤの信徒への手紙3章26〜27節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。水の中を通ってバプテスマを受けた人に神様はイエス様に言われたように「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださいます。水の中を通り、この神様の宣言を聞きますとそれまで恐れていたことが恐れではなくなり、自分でなんとかして生きていこうとする世界から抜け出して、神様が共にいてくださる世界に生きるようになります。

バプテスマを受けるということは、まさに「杖を高く上げなさい」と言われたことに従って、杖を上げれば神様が道を開いてくださると信じて水の中に入っていくことです。神様の御言葉を信じて一歩前に進み出ること。神様の御言葉に従って水の中に入っていくバプテスマにおいて神の栄光はすでに現れています。なぜなら、それはその人にとっての出エジプトと言えるからです。ここにいる多くの人は杖を高く上げなさいと言われた御言葉を信じて一歩前に進み出た人ですし、杖を上げた人によって開かれた海の中を通って行った人たちですから、神の栄光を経験しています。今日は、出エジプトの出来事と自分を重ね合わせて、もう一度、バプテスマを受けた自分を思い出して、水の中を通ったあの時に立ち返りましょう。なぜなら、神様はわたしたちに何度でも「御言葉に従って一歩前に出なさい。わたしが現す栄光を見なさい」と言われるからです。大きな海を渡る出エジプトがバプテスマとしてのスタートとするならば、その後にも小さな川や浅い海を渡る小さな出エジプトがあってわたしたちはその度に神の栄光を経験します。

神様の御言葉に従って進むのはなかなか大変なことです。一人でやろうとしたらすぐに挫折してしまうでしょう。しかし、わたしたちはキリストの体の教会として一緒に水の中を通る出エジプトをしていきます。神の家族と一緒に水の中を進んでいきますから、歩きにくいところでは足腰のしっかりした人が歩きにくそうにしている人を支えます。元気な人だけが早く先に行くことはありません。イスラエルの人たちの中には子どももいれば、高齢の人もいますし、青年も壮年もいて、全員が海を渡れるようにと手を差し出し、時には遅れた人のために後ろに戻って手助けしたはずです。わたしたち教会も互いに支えあいながら御言葉に従います。海を目の前にして「杖を高く上げなさい」と言われ、それに従えば神様が栄光を現してくださると心から信じて、わたしたち一人一人が杖を上げ、二つに分かれた水の中を進んで行きます。イエス様が言われる御言葉に従って一歩、半歩でもゆっくりであっても前に歩み出ます。なぜなら、聞くだけで一歩も前に出なかったとしたら、海の中を渡ることができないからです。

その時に忘れてはならない御言葉があります。水の中を通って進むわたしたちに神様がいつも語ってくださるこの御言葉「あなたはわたしの愛する子」。神様はこの御言葉をできるだけ多くの人に届けたいと願っています。なぜなら、この御言葉が届けられるところに神の栄光が現れるからです。

入門講座へどうぞ!

神様は、あなたをしておられます。 神様に招かれ、神様のことばを聞き、神様に生かされ、生きているのが嬉しいと感じるのが「入門講座」です。 洗礼を希望される方はもちろん、キリスト教のお話を聞いてみたい方、つらい気持ちを抱えて救いを求めている方、どなたでもお気軽に、いつからでもご参加ください。あなたのお越しを心からお待ちしています。

どなたでも、事前申込みがなくても大丈夫です。

講師:宮島牧人(原町田教会牧師) 日時:日曜日の礼拝後
費用:無料

What’s New!

★2月25日(日) 受難節 第2主日・レント★ 
聖書:マルコによる福音書3章20〜27節
説教:「これだけは譲れない」 宮島牧人牧師

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★1月14日の主日礼拝メッセージ(テキスト)を掲載しました。

★2月11日 特別伝道礼拝の日、お茶の会の写真を掲載しました。
★2月11日 子どもの教会チョコレートフォンデュの様子を掲載しました。

証しを追加更新しました。

★2月4日 お昼ご飯ジュニア聖歌隊朝練習の写真を掲載しました。

★1月21日 カレーの日、1月28日 定期総会の日の写真を掲載しました。
★1月19日(金)合同婦人会の様子を掲載しました。

ゴスペルワークショップ2018年1月〜3月のご案内を掲載しました。

無料英語レッスンのご案内を掲載しています。

原町田幼稚園のまいにち 教会付属幼稚園の公式ブログです。

2018年2月11日 特別伝道礼拝 蒔田教会・古谷正仁牧師

2月11日(日曜日)は、10時半から特別伝道礼拝をささげました。

「あなたの嵐を静める方と生きる人生」  マルコによる福音書4章35〜41節
古谷正仁(ふるやまさよし)牧師  (蒔田教会牧師・日本聖書神学校教授)

古谷牧師プロフィール:1956年生まれ。明治学院大学、日本聖書神学校卒業後、蒲原教会、桜木教会、横浜本牧教会を経て、現在、蒔田教会牧師。日本聖書神学校教授。2002年〜2004年米国ウエスレー神学校に留学。家族5人(夫人、男児3人)、趣味はスキーと合唱。

礼拝後のお茶の会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お茶の会の終わりに、古谷先生と一緒に合唱しました♪

 

2018年2月11日 子どもの教会・チョコレートフォンデュ

2月11日には、礼拝後の分級の時間にチョコレートフォンデュをいただきました!
うっかりチョコレートを服につけてしまった子も続出。

保護中: [教会員用] 2018年2月 主日礼拝音声

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『証し』 キリストとの出会い

神様との出会い、神様からいただいた恵み。
それを人に伝えることをキリスト教会では『証し』(あかし)と呼んでいます。
このページには、原町田教会の教会員の証しを掲載しています。私たちの証しが、あなたと神様との出会いの扉を開いてくれますように。

※クリスチャンになることを決心して洗礼(バプテスマ)を受ける時の証しは、『信仰告白』『救いの証し』とも呼ばれます。自分がどのようにして神様に救われたのかを人に伝えるための大切な証しです。

信仰告白

初めて教会に行ったのは、田舎の高校生の時でした。
礼拝は心洗われ、とても清々しいものでした。
北陸の長く厳しい冬に、手足がかじかんでも、教会に通うのは楽しみでした。 
それなのに、いつか離れてしまったのです。
その頃一緒だった同年代には、後に牧師になった方が二人もいたのですが、当時の私にはイエス様の復活が、どうしても信じられなかったのです。
牧師になった一人は、「霊的体験をするかどうかが、分かれ道だと思う」と言ってくれたのですが、その言葉は何となく頭に残りました。

それから、実に40年が過ぎたのです…
普通に生きたつもりでも、葛藤の多い人生だった事は言うまでもありません。
しかし、転機は今年訪れました。

それは、12年を費やしたある悩みに、ようやく希望の光が見えて来たという時、不思議な事に、ある日「いつくしみ深き友なるエスは」と、讃美歌が頭に浮かんできたのです。
思わず歌うと、涙がどっとあふれてきました。
そしてその時、心の奥底から、燃えあがるように、(教会へ行きたい!イエス様に会いたい!)という思いが、こみ上げて来たのです。
同時に、もう一点の曇りもなく、イエス様を信じられるようになっている自分に気がつきました。
それは、去年、実家の父が亡くなってから、私は霊的体験を何度もしていたからです。
そして、遂に8月の第4週、この礼拝堂への階段を、興奮気味に上りました。
40年のブランクの意味も、ここでの入門講座の中でわかりました。罪深い私には、孤独が骨身に染みるまで、40年、耐えて、成長する時間が必要とされたのだと思います。

しかし、やっと帰り道を見つけました。
私はこの先の人生を、もうイエス様の御言葉無しには歩けません。
こんな私でも、愛されていると知り、今度は愛を与える人になります。
他の人につくします。
イエス様が連れ戻して下さったこの道を、まっすぐに歩いてゆきます。

(50代・女性)

2018年2月4日 ジュニア聖歌隊 朝練習

今日は家族礼拝。礼拝の中で、ジュニア聖歌隊が2曲讃美するので、朝から練習です!

「栄光ある主の御名」を練習中。写真をクリックすると音声が聴けます。

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。