2018年2月25日 ホール入り口

一階ホール入り口に、手すりを取り付けていただきました。
靴を脱いだり履いたりする時につかまることができて、助かります!
近くに靴ベラもぶらさげてもらいました。

2018年2月18日のカレーライス

まだまだ寒い日が続きますが、今月も第3週にはカレーをたっぷりいただいて、元気を出しました!

2018年2月18日 新しい契約に生きる

◆エレミヤ書31章27-34節
31:27 見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。
31:28 かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。
31:29 その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く」と。
31:30 人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

◆マルコによる福音書1章12-15節
01:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
01:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
01:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
01:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

灰の水曜日と言われる14日のから受難節に入りました。2月14日から3月31日までの46日間はイエス様が十字架に向かって歩む受難を覚えて過ごすとても大切な期間です。この46日から6回の日曜日を引きますと40日となります。40日と聞いてお気付きの方もおられると思いますが、イエス様が荒れ野でサタンから誘惑を受けられたのが40日間です。ですから、長い教会の歴史の中でこの受難節の40日間に、信徒たちは断食をしたり、自分の好きなものを食べたり飲んだりすることを絶って少しでもキリストの苦しみに連なるようにと勧められることもありました。プロテスタント教会ではあまり知られていませんが、この受難節に入る直前にこれからお肉のようなぜいたく品が食べられなくなるから、その前にしっかり食べて楽しんでおこうと始まったのが、「謝肉祭(カーニバル)」です。ブラジルのリオの謝肉祭(カーニバル)は有名ですね。実はわたしも受難節に入る前の日に謝肉祭に参加してきました。リオではなく上野のカトリック教会に行きまして美味しいステーキをたくさん頂いてきました。

わたしはこれまで20数年間、信仰生活、教会生活を送ってきましたが一度も受難節に何かを断つということはしてきませんでした。修行みたいなことをするのはキリスト教的信仰にとってはあまり意味がないと考えてきたからですが、今回わたしは一つのことに挑戦しています。ある好きな飲み物を46日間断つことにしました。なぜ、そんなことをするのか。体の健康のためではありません。神様から頂いている挑戦状、あなたは本気でわたしに従ってきていますかと言われることに自分は「はい、従って行きます」と約束して、神様の恵みに応えることができているのか、この46日間の小さなチャレンジを通して見つめなおしてみたいと思ったからです。「少しぐらい飲んでも誰も見ていないから大丈夫だよ」といった誘惑の声はたびたび聞こえてくると思いますが、「飲んでもいいよ」と声が聞こえたら「これは神様と交わした約束だから今日は飲まない」と言います。このような試練を通して神様はわたしの心を今まで以上に神様に向けさせてくださっているんだと受け止めて受難節を過ごしていきたいと思っています。

なぜ、わたしがそのような心境になったかと言いますと信仰生活は日曜日だけでなく、月曜日から土曜日こそが信仰者として挑戦すべき日だと聖書が教えるからです。マルコによる福音書1章13節にあるとおりイエス様がサタンから誘惑を受けたのは46日間ではなく40日間でした。受難節を40日間とするならば、それは日曜日以外の月曜日から土曜日までとなります。月曜日から土曜日までの生活の中でどれだけ神様のこと、イエス様のことを考えて行動しているのか。そういう意味でも自分自身をもう一度試して見つめる必要があると思ったのです。

イエス様もサタンから40日間誘惑を受けられました。神様から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を頂いた直後のことです。「自分は神様に愛されている神の子なんだ」という確固たる土台、「神様の心に適う者なんだ」という揺るがない基礎をいただいた直後に、イエス様は誘惑を受けられました。神様の愛があればもう大丈夫。御言葉があればなんの問題もないと簡単に思ってしまうのですが、実はバプテスマ(洗礼)はイエス様にとって試練の始まりでしたし、わたしたちにとっても月〜土曜日の生活の中でキリスト者として生きていくことの始まりですから、サタンの誘惑もあるのだと聖書は伝えます。バプテスマを受けて、「わたしはイエス様に従って行きます」と告白したからこそ、サタンの誘惑をより強く感じるのです。

マルコによる福音書には誘惑の中身は何も示されていませんが、わたしの小さな試み、大好きなものを断ってみて少し見えてきたのは、誘惑とは神様と交わした約束を邪魔するものだいうことです。このように神様を信じる仲間、神の家族と教会に集っていますと安心して神様の御言葉に集中して、心を神様に向けることができるのですが、月曜日から土曜日までの日々はそうはいきません。日曜日に神様から愛と恵みを頂き、よし今週はこの御言葉を大切にしていこうと思ってこの世へと遣わされるのですが、月曜日、火曜日、水曜日と日を追うごとにその気持ちは弱くなっていきます。そして、自分はダメだ。神様に従っていけない罪ある者だと思ってしまうような「誘惑のサイクル」の中に入ってしまうのです。そうではなくて、イエス様が40日間の誘惑を経て確信したことは「時は満ち神の国は近づいたのだから、悔い改めて福音を信じる」ということでした。神の国はすぐそこまで来ている。エレミヤが伝えるように新しい契約の時代はイエス様によって始まっている。神様はモーセの石の板ではなくわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださったのですから、そのことに目覚めるのです。イエス様が言われる「悔い改め」とは、何か悪いことをしてそのことを反省してもうやりませんと思うことではありません。「悔い改め」と訳されたメタノイヤという言葉は、視点を変えるという意味ですから、こんな自分はダメだと思って心の中で内省するのではなく、神様がすでにわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださった。だから、わたし自身がどれだけ弱く小さくてもわたしの中のイエス様がわたしを支えてくださると信じて月曜日から土曜日の生活の中で何度も神様の方を向き直して歩き始めることなのです。悔い改めは心の中の問題というよりも生き方の問題です。自分はどっちに向かって進んでいくのか、心も体も生活も全てを含んでいるのが悔い改めですから、日曜日に教会に来て悔い改めるよりも、むしろ月〜土曜日の生活の中で神の方を向いて生きていくことが本当の悔い改めと言えます。

「悔い改めて福音を信じなさい」。神様の方向を向いて進むことがこの世的にみますと苦しいこと、受難の始まりなのですが、しかしそこには福音、喜びの知らせがあるとイエス様は言われます。詩編91編にはイエス様を信じて生きる人を支える福音が繰り返されています。3節「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」。月曜日から土曜日の生活の中で誘惑の言葉によって神様を忘れてしまっても、神様は必ず手を伸ばして進むべき道に引き戻してくださいます。わたしたちの道案内はこの世の言葉ではなく、聖書の御言葉ですから、日々の生活の中でこのような御言葉に支えられます。ただ、日曜日に神様からこの世へと遣わされたわたしたちは道半ばで疲れてしまい、「神様、もう歩けません」と言いたくなることもあります。でも、神様はわたしたちを見捨てずに言われます。91編4節「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾」。母鳥が寒さに震え弱っている小さいヒナたちを羽の中に包み込むように神様はわたしたちを守ってくださいます。

エレミヤ書にも福音の御言葉があります。31章29〜30節「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」。何か原因のわからない病気になったり、自然災害に巻き込まれたりしますと「あなたの先祖が何か悪いことをしたから、今、あなたは苦しんでいる」という声が聞こえることがありますが、神様はそんなことはない、あなたの苦しみは先祖の罪のゆえではないと言われ、続けてこう言われます。34節の一番最後のところ。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。イエス・キリストの十字架によって自分の罪のゆえの罰としての死もなくなり、あなたたちの過ちも罪もすべて赦すとの福音が実現したのです。

古い契約では文字として書かれていましたのでだれが守ったか、守らなかったかとチェックすることができて、それができないと「できていませんね」「ルールを守ってください」と指摘されます。守れない場合には罰が与えられました。しかし新しい契約は義務でもありませんし、守らなければ罰が与えられるものでもなく、ただ神様の愛と恵みに応える喜びの約束となりました。神様とわたしたちとで交わした新しい契約はわたしたちの心の中に記されておりますから、月曜日から土曜日までの生活の中で、わたしたちは神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束したことをそれぞれの賜物を用いて喜んで果たしていきます。  

原町田教会では2年前から「教会の約束」というものを考えて宣教長期委員会で作ってきました。それは神様の愛と恵みをいただいたわたしたちが今度は「神様、あなたにこの約束をいたします」と言ってその恵みに応えてどう生きていくのかを自分たちの言葉で言い表すものです。その「教会の約束」にはこのような言葉があります。「わたしたちは、教会に集うすべての人たちを、神の家族として受け入れ、互いに喜びと悲しみを分かち合い、祈り支え合います」。その他にもこうあります。「わたしたちは、主の力が弱さの中でこそ十分に発揮されることを信じ、病や老い、労苦をも恵みとして受け入れ、すでに救われていることの喜びを証しします」。わたしたちは新約の時代に生きています。今日も、神様から福音という約束をいただきました。「わたしはあなたを仕掛けられた罠から、陥れる言葉から救い出す」「わたしは羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってあなたを守る」。「イエス・キリストの十字架によってわたしはすべての人の悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。聖書が繰り返し伝える約束、「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。わたしはあなたを決してひとりにしない」。神様から繰り返しお約束をいただいているわたしたちが、今度はわたしたちの方から神様に向かって喜んで約束を結び、初めて新しい契約となります。月曜日から土曜日の生活の中で神様からの約束を信じ、それに支えられて、自分が約束したことを守っていこうと生きる。それが私たちキリスト者の生きる力ですね。

受難節は福音に目覚める期節、神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束していることをやっていこうと決意を新たにする期間です。苦しいことがあっても、神様は詩編91編11節「あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださ」いますから、新しい契約に生きてまいりましょう。神様は今日、わたしたちに言われました。「あなたたちの中にはイエス・キリストが生きている。だからもう『主を知れ』と言って教えなくてもいい。あなたたちはすでに神様の恵みの中に生きているのだから、その福音を信じて、あなたがわたしに約束したことを生きていけば、それでいい。それがあなたたちの喜びとなる」。

2018年1月14日 水の中を通って

◆出エジプト記14章15〜22節
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

◆マルコによる福音書1章9〜11節
01:09 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

出エジプトという出来事は、神様がどのような方なのかをわたしたちにはっきりと伝えています。苦しむ人たちがいたら放っておけない。痛む人がいたらその痛みを自分の痛みのように知ってくださる。だからその人たちを救い出すために人を召し出し、その人を苦しむ人のところに遣わす。それが、わたしたちが信じる神様。出エジプト記3章で神様がモーセを呼び出して伝える御言葉にその思いをひしひしと感じます。出エジプト記3章7節「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの声を聞き、その痛みを知った』。そして、神様は苦しみにある人たちを救うためにモーセに呼びかけます。3章9節「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。エジプトに帰ったモーセさんは神様の指示通りにファラオ王と交渉を重ね、過越の災いの後にようやくエジプトからイスラエルの人たちを脱出させることに成功します。でも、ファラオ王はイスラエルの人たちを去らせたことを後悔し、エジプト中の戦車や馬でもって彼らを追いかけ始めます。今日の出エジプト記はまさにその場面です。エジプトを脱出し、自由になったと思った矢先、目の前には海が広がり後ろからはエジプトの軍隊がすぐそばまでやって来る。イスラエルの人たちはモーセに文句を言うのです。「わたしたちをエジプトから連れ出したのは、エジプトにお墓がないからですか。荒れ野でわたしたちを死なせるためですか。こんな荒れ野で死ぬよりもエジプトに帰ってエジプト人に仕える方がましだと言ったではありませんか」。

力強く見えるエジプトの軍隊を見てイスラエルの人たちは恐れおののきます。彼らは神様の方を見ないで人間の現実にだけ目を向けていました。神様が必ず救ってくださるという神の救いを見ないで、エジプト人だけを見たために恐くなったのです。今、目の前で起きている人間の現実だけに目を奪われ、目に見えるものを恐れてそこから動けなくなる。わたしたちも彼らと同じような経験をすることがあります。わたしにとってのそのような経験は東日本大震災でした。地震の直後からテレビやインターネットでの津波で家や車が次々に流されていく映像に言葉を失いました。合わせてその後に起きた原子力発電所の爆発、その爆発によって放出された放射能が自分たちの暮らしているところまで流れているのではないかと言われ始めた後、放射能がどれぐらい流れてくるのか、自分は何をすればいいのか、インターネットやテレビ、人を通して伝わること、何を信じてどう判断すればいいのか。目の前で起きている人間の現実に目が奪われて何をしていいのかわからなくなり、ただ動けなくなる。あの3・11から1週間ほどはそんな状態でした。

それでもあの3・11の2日後の3月13日は日曜日でしたから礼拝がありました。いつもよりも人数は少なく、準備した説教も今、本当に語るべきことは何なのかと思いながら話しました。自分の言葉を失うという感覚というのでしょうか。でも、神様は何を話せばいいのかわからないわたしに聖書の御言葉をくださいました。その日の聖書箇所はローマの信徒への手紙10章8〜13節で、13節にはこうありました。「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」。目の前の現実に言葉を失い、何を語ればいいのかわからなくなる。しかし、神様はただ、わたしの名前を呼び求めればいい。ただ、「イエス様、助けてください」と呼び求めればいい。自分の言葉を失っても「イエス様」ということはできる。救いはそこにあると語ってくださったのです。

前方は海、その海には渡る橋もなければ船もない。そして後ろからはエジプト軍が今すぐにでも襲いかかって来ようとしている。どうすればいいのかわからない彼らに主なる神様は言われます。15節「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい」。イスラエルの人たちと同じようにうろたえ、恐れにとらわれてしまうわたしたちを神様は決して見捨てることなく語りかけてくださいます。「出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ、海の中を、水の中を通って行きなさい。あなたたちは神の栄光をみる」。

神様は、崖っぷちに立たされて、追い込まれて、もはや自分の力ではどうにもならない時、御言葉によって進む道を開いてくださいます。それが神の栄光です。神様はわたしたちに御言葉で語りかけ、モーセのようにわたしたちを通して栄光を現します。「杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べなさい」とモーセは聞きましたが、もし、彼が杖を上げなかったら栄光は現れなかったでしょう。御言葉が伝えられ、その御言葉に従った人たちが神の栄光を見る。神様は直接、御手を差し伸べて栄光を現すことはしません。神様は「わたしにそんなことができるのでしょうか。」と言っていたモーセに執拗なまでに語りかけて、海を前にした彼に杖を高く上げさせました。同じように神様は弱さや欠けをもったわたしたち一人一人を用いて栄光を現します。

わたしたちは度々、「神様の栄光が現れますように」「主の栄光のために教会を用いてください」「主の栄光を現す器としてください」と祈ります。そのようにわたしたちが祈るのは、未だに栄光が現れていない、だから現れますようにと願う気持ちがあるからだと思います。栄光と聞くと何か大きなこと、海の水が二つに別れるようなことをイメージするかもしれません。でも、イエス様が受けられたバプテスマによって実はすでに栄光がこれまでになんども現れ、しかも弱さや欠けをもったわたしたちを通して栄光が現れていると聖書は伝えています。

イエス様が「わたし」と一人称で書かれ、読者が「あなた」という語りかける形で書かれた黙想の本に次のような素敵な言葉がありましたので紹介します。「いつもわたしから離れずに生きていれば、わたしの恵みの光があなたを通して他の人たちを照らします。あなたの弱さとあなたの傷が窓になって、そこからわたしの栄光の光が輝き出る。わたしの強さと力は、あなたの弱さの中でこそ十分に発揮される」。

神様の御業は不思議です。栄光を現すと聞くと力や強さをイメージするのですが、神様はむしろ弱さや痛みを持ったモーセやイスラエルの人たち、そしてわたしたちを通して栄光を現します。自分の体の中や自分のすぐ近くで異変が起き、悲しみや苦しみを感じているときにこそ、神様はわたしたちの近くにいてくださいます。自分の弱さや痛みを思う時に、わたしたちは心から神様に依り頼みますから、神様はそのわたしたちの弱さと傷という窓を使って栄光の光を輝き出す。イエス様の十字架がそうであったようにです。

イエス様が水の中を通ってバプテスマを受けられると天から声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。これはバプテスマを受けた全ての人に宣言される神様の御言葉です。「あなたはわたしの愛する子」。なぜなら、聖書にはバプテスマを受けた人はキリストと結ばれて皆、神の子となると聖書に書いてあるからです。ガラテヤの信徒への手紙3章26〜27節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。水の中を通ってバプテスマを受けた人に神様はイエス様に言われたように「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださいます。水の中を通り、この神様の宣言を聞きますとそれまで恐れていたことが恐れではなくなり、自分でなんとかして生きていこうとする世界から抜け出して、神様が共にいてくださる世界に生きるようになります。

バプテスマを受けるということは、まさに「杖を高く上げなさい」と言われたことに従って、杖を上げれば神様が道を開いてくださると信じて水の中に入っていくことです。神様の御言葉を信じて一歩前に進み出ること。神様の御言葉に従って水の中に入っていくバプテスマにおいて神の栄光はすでに現れています。なぜなら、それはその人にとっての出エジプトと言えるからです。ここにいる多くの人は杖を高く上げなさいと言われた御言葉を信じて一歩前に進み出た人ですし、杖を上げた人によって開かれた海の中を通って行った人たちですから、神の栄光を経験しています。今日は、出エジプトの出来事と自分を重ね合わせて、もう一度、バプテスマを受けた自分を思い出して、水の中を通ったあの時に立ち返りましょう。なぜなら、神様はわたしたちに何度でも「御言葉に従って一歩前に出なさい。わたしが現す栄光を見なさい」と言われるからです。大きな海を渡る出エジプトがバプテスマとしてのスタートとするならば、その後にも小さな川や浅い海を渡る小さな出エジプトがあってわたしたちはその度に神の栄光を経験します。

神様の御言葉に従って進むのはなかなか大変なことです。一人でやろうとしたらすぐに挫折してしまうでしょう。しかし、わたしたちはキリストの体の教会として一緒に水の中を通る出エジプトをしていきます。神の家族と一緒に水の中を進んでいきますから、歩きにくいところでは足腰のしっかりした人が歩きにくそうにしている人を支えます。元気な人だけが早く先に行くことはありません。イスラエルの人たちの中には子どももいれば、高齢の人もいますし、青年も壮年もいて、全員が海を渡れるようにと手を差し出し、時には遅れた人のために後ろに戻って手助けしたはずです。わたしたち教会も互いに支えあいながら御言葉に従います。海を目の前にして「杖を高く上げなさい」と言われ、それに従えば神様が栄光を現してくださると心から信じて、わたしたち一人一人が杖を上げ、二つに分かれた水の中を進んで行きます。イエス様が言われる御言葉に従って一歩、半歩でもゆっくりであっても前に歩み出ます。なぜなら、聞くだけで一歩も前に出なかったとしたら、海の中を渡ることができないからです。

その時に忘れてはならない御言葉があります。水の中を通って進むわたしたちに神様がいつも語ってくださるこの御言葉「あなたはわたしの愛する子」。神様はこの御言葉をできるだけ多くの人に届けたいと願っています。なぜなら、この御言葉が届けられるところに神の栄光が現れるからです。

2018年2月11日 特別伝道礼拝 蒔田教会・古谷正仁牧師

2月11日(日曜日)は、10時半から特別伝道礼拝をささげました。

「あなたの嵐を静める方と生きる人生」  マルコによる福音書4章35〜41節
古谷正仁(ふるやまさよし)牧師  (蒔田教会牧師・日本聖書神学校教授)

古谷牧師プロフィール:1956年生まれ。明治学院大学、日本聖書神学校卒業後、蒲原教会、桜木教会、横浜本牧教会を経て、現在、蒔田教会牧師。日本聖書神学校教授。2002年〜2004年米国ウエスレー神学校に留学。家族5人(夫人、男児3人)、趣味はスキーと合唱。

礼拝後のお茶の会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お茶の会の終わりに、古谷先生と一緒に合唱しました♪

 

2018年2月11日 子どもの教会・チョコレートフォンデュ

2月11日には、礼拝後の分級の時間にチョコレートフォンデュをいただきました!
うっかりチョコレートを服につけてしまった子も続出。

保護中: [教会員用] 2018年2月 主日礼拝音声

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信仰告白

初めて教会に行ったのは、田舎の高校生の時でした。
礼拝は心洗われ、とても清々しいものでした。
北陸の長く厳しい冬に、手足がかじかんでも、教会に通うのは楽しみでした。 
それなのに、いつか離れてしまったのです。
その頃一緒だった同年代には、後に牧師になった方が二人もいたのですが、当時の私にはイエス様の復活が、どうしても信じられなかったのです。
牧師になった一人は、「霊的体験をするかどうかが、分かれ道だと思う」と言ってくれたのですが、その言葉は何となく頭に残りました。

それから、実に40年が過ぎたのです…
普通に生きたつもりでも、葛藤の多い人生だった事は言うまでもありません。
しかし、転機は今年訪れました。

それは、12年を費やしたある悩みに、ようやく希望の光が見えて来たという時、不思議な事に、ある日「いつくしみ深き友なるエスは」と、讃美歌が頭に浮かんできたのです。
思わず歌うと、涙がどっとあふれてきました。
そしてその時、心の奥底から、燃えあがるように、(教会へ行きたい!イエス様に会いたい!)という思いが、こみ上げて来たのです。
同時に、もう一点の曇りもなく、イエス様を信じられるようになっている自分に気がつきました。
それは、去年、実家の父が亡くなってから、私は霊的体験を何度もしていたからです。
そして、遂に8月の第4週、この礼拝堂への階段を、興奮気味に上りました。
40年のブランクの意味も、ここでの入門講座の中でわかりました。罪深い私には、孤独が骨身に染みるまで、40年、耐えて、成長する時間が必要とされたのだと思います。

しかし、やっと帰り道を見つけました。
私はこの先の人生を、もうイエス様の御言葉無しには歩けません。
こんな私でも、愛されていると知り、今度は愛を与える人になります。
他の人につくします。
イエス様が連れ戻して下さったこの道を、まっすぐに歩いてゆきます。

(50代・女性)

2018年2月4日 ジュニア聖歌隊 朝練習

今日は家族礼拝。礼拝の中で、ジュニア聖歌隊が2曲讃美するので、朝から練習です!

「栄光ある主の御名」を練習中。写真をクリックすると音声が聴けます。

2018年2月4日 お昼ご飯

今日も美味しいお昼ご飯。
お野菜が高値のなか、たっぷりの切り干し大根、お味噌汁にはとろろ昆布をたくさん入れた、工夫のメニューです!ごちそうさまでした。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。