2018年1月28日 定期総会の日

1月28日の礼拝後に、2018年度の執事(役員)を選出するための定期総会が開かれました。
多くの教会員が礼拝と総会に出席できて、本当に感謝です。

神様が一人一人に与えてくださっている賜物、時間を、神様のご用のためにもちいていくことができますように!

保護中: [教会員用] 2018年1月 主日礼拝音声

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2018年1月21日 カレーの日

今年も第3週はカレーの日。

あら?まだ食べたことがない?
ぜひおいでください!

2017年12月3日 悲しみは消え去る

◆詩編 82編1〜8節
82:01 【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる。
82:02 「いつまであなたたちは不正に裁き 神に逆らう者の味方をするのか。82:03 弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
82:04 弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から助け出せ。」
82:05 彼らは知ろうとせず、理解せず 闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
82:06 わたしは言った「あなたたちは神々なのか 皆、いと高き方の子らなのか」と。
82:07 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
82:08 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

◆イザヤ書51章4〜11節
51:04 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
51:05 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち望む。
51:06 天に向かって目を上げ 下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業が絶えることはない。
51:07 わたしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。
51:08 彼らはしみに食われる衣 虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き わたしの救いは代々に永らえる。
51:09 奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに 遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。
51:10 海を、大いなる淵の水を、干上がらせ 深い海の底に道を開いて 贖われた人々を通らせたのは あなたではなかったか。
51:11 主に贖われた人々は帰って来て 喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき 喜びと楽しみを得 嘆きと悲しみは消え去る。

◆マルコによる福音書13章24〜37節
13:24 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

アドベントに入りました。イエス様がこの世に来てくださるのを待つ時です。イエス様を待つことができるというのは、希望です。漠然と何がやって来るのか、どのような方を待つのかわからないというのではなく、すべての人を救う方をわたしたちは待っているのです。ですから、今、自分がどんなに大変でも「必ず、夜明けはやって来る。暗い夜の後には暖かい太陽の日差しのようなイエス様が来て、『わたしがあなたと一緒にいるからもう大丈夫』と言ってくださる」と信じることができるのです。アドベントはそのようにわたしたち一人ひとりの「信じて待つ気持ち」を強くしてくれます。

キリスト教にはキリスト教の暦(カレンダー)があって、わたしが肩にかけています「ストール」の色もその暦によって変わってきます。お気付きの方もいると思いますが、先週までは緑色でしたが、今日からはアドベントの色の紫です。クランツのローソクも紫ですね。礼拝で使われる色にはそれぞれシンボリックな意味が込められていて、紫には「待望」待ち望む、そんな意味があります。皆さんもよろしければ、来週から紫色の服や紫色のスカーフでもネクタイでもワンポイント、つけて来られるのもいいですね。教会につながって教会の暦の中で生活をしていますと毎年、わたしたちは待降節を経験します。ですから、毎年いきなりクリスマスの日がやって来るのでもなく、町のお店がクリスマスの飾り付けをしたからクリスマスになるのでもなく、アドベントという4週間ほどの待ち望む期間を通して、礼拝を守りつつこの期間を過ごします。そしてイエス様が来られた日を迎えて、その喜びを信じて待ってきた仲間と共にお祝いする。一緒に信じて待つ仲間を与えられているからこそ、わたしたちは辛い時があっても忍耐することができます。その経験を重ねることによって、わたしたち一人一人の「信じて待つ」力が強くされていくんだなぁと実感しています。毎年、当たり前のようにアドベントが来て、クリスマスがやってくるというのではないんですね。神様が信じて待つ時間を与えてくださっているからこそ、わたしたちは一緒にこのように原町田教会に集うことができています。

聖書に登場するイスラエルの人たちは、まさにずっと長い間、忍耐しながら信じて待ってきた人たちです。ただ、いつも信じて待ってきたかと言いますと、そうでもなくて、いろいろと揺れ動きながら、時には神様に背を向けることもありました。しかし、神様は彼らを決して見捨てることなく、預言者などを遣わして信じて待つようにと伝え続けられます。イザヤ書の時代、イスラエルの人たちの国は侵略され、破壊されて、異郷の地であるバビロンに捕囚として連れてこられました。「もう、自分たちの故郷に帰ることなんてできない」。「神様はわたしたちの祈りを聞いてくれない」「神様はわたしたちを救ってくれない」。そのように言いながら、彼らの多くはバビロンの地に住み着いていました。彼らの目は、地上のことに注がれていて、神様が進めておられる救いには目覚めていなかったようです。だから、イザヤを通して神様はイスラエルの民、そして現代のわたしたちに言われます。51章6節「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ」。心を神様に向けるのです。そうすればこれまでとは違った世界が見えてくるのです。あなたたちの目が地上のことだけを見ていたら、この世の中はどんどん悪くなっていて、自分の心も暗くなるし、平和も遠くなっているように思えてしまう。しかし、天に向かって目をあげる、つまり神様がこの地を造られ、今もその創造の業を進めておられると目覚めるならば、6節〜8節のように信じて救いを待つことができるのです。6節「地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」どれだけ大変なことがあっても、神様の救いはまだ終わっていません。続いているのです。人に嘲(あざけ)られても、人にののしられても、しばらくは辛くて苦しいかもしれない。でも、それが永遠に続くわけではない。神様の恵みと救いだけが永遠に続いているのだから、あなたたちは必ず救われる。いや、「『わたしの救いは代々に永らえる』と言われる神様が今も生きておられ、一緒にいて信じて待つ仲間をくださったから大丈夫」と目覚めるなら、わたしたちはすでに恵みの業の中にいると気づきます。教会のわたしたち一人ひとりが「わたしは神に赦され、愛されているんだ」と自分自身を受け入れて、そして弱さや欠けのある自分を受け入れたように、この世で辛く、苦しむ人を「どうぞ、お待ちしていました」と心から受け入れることによってその人も救いの中に招かれるのです。わたしも教会の人にありのままの宮島牧人として受け入れられ「救われたなぁ」と実感する経験を何度もしています。牧師として、幼稚園の園長としていろいろと責任がありますが、でも同時にわたしは弱さを持った一人の人間です。そんなわたしのためにこれまで何度も祈ってもらいました。「宮島牧師のために祈ります。どうぞ、支えてください」と祈ってくれる教会の仲間によって、間違ったり失敗するわたしだけれども、神の子として受け入れられているなぁと思い、救われています。

天に向かって目を上げて、心を神様に向けましょう。わたしたちが生きるこの世は一見、大変なように見えますが、実はすでにわたしたちは救いの中にある。それが見えてくるということ。それが天に目覚めるということだと信じます。

預言者イザヤは、気づいていない、目覚めていないイスラエルの人たちを目覚めさせるためにエジプトから自分たちの先祖を救い出した神様は今も生きておられる方だと力強く伝えます。10節「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか」。「あなたではなかったか」と繰り返し、あの恵みの業を成し遂げられた神様に「あなた」とまるですぐそこにいるかのように呼びかけることで、とこしえに続く救いは今も継続中だと伝えるのです。地上のことに心奪われている彼らを目覚めさせようとするのです。神様は永遠ですから、神様は今も生きて、苦しむ時のわたしたちを救おうとしています。目を覚まして神様の働きを見るならば、11節のような素晴らしい世界は、もうすでに始まっていることとして見えてきます。51章11節「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」。天である神様に目を向けるならば、その目にはすでに囚われのイスラエルの人たちが解き放たれ故郷に仲間と一緒に肩を組んで、ニコニコしながら帰ってきているのが見えるはずだと伝えるのです。実は、すでにわたしたちは「喜びと楽しみを得」ていて、「嘆きと悲しみ」は消え去っていたんだと気づく。

わたしはキリスト者になってから毎日のように祈り続けていることがあります。それは、この地上に神様の御心である平和が実現することです。武器のない、基地のない、暴力のない平和が実現しますようにと祈り続けています。でも時々、わたし一人がこんなことを祈っていても何も変わらない。だから祈らなくてもいいんじゃないかという悪の囁きを聞きます。これこそ、悪との戦いなのですが、皆さんもそのような声を聞いたことがあるんじゃないでしょうか。今日この後、聖餐式を行いますが、そこでわたしたちは「生活綱領」を読みます。その中に「世界平和の達成を期すること」とあります。「期すること」という言葉の意味を皆さん、ご存知ですか?実はわたしあまり深く考えずに読んでいましたが、この度、調べましたら、「期すること」それは「あることを実現しようと心に誓うことや決意すること」とありました。世界平和が実現しますようにと祈り、働きますとの決意なんです。恵みをいただき、恵みの業によって救われたわたしたちは、永遠であり今も生きて平和を実現するためにわたしたちを用いてくださる主なる神様に目を向けます。

先日、長崎に行き、カトリック浦上教会で行われた宗教改革500年を記念した合同礼拝に出席してきました。その礼拝の中でとっても励まされ、また目覚めさせられる言葉をいただきました。それは、「ローマ教皇とルーテル世界連盟議長による共同声明」の中の一文です。「わたしたちは特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。暴力や過激主義を終わらせるために声を挙げ、知らない人々を受け入れ、戦いや迫害のゆえに逃れることを強いられた人々に助けの手を差し伸べ、難民や亡命を求める人々の権利を守るよう、共に働くことを強く求めます」。

「あらゆる暴力がなくなりますように、あなたの平和がこの地になりますように」との祈りは、わたし一人の祈りではなく、世界にいるカトリック信者とルター派、それに加えて多くのプロテスタント教会のキリスト者が祈っていることなんだと気づいたのです。ちなみにカトリック信者は世界に12億人とルター派は7000万人、その他のプロテスタント教会信者は5億人ぐらい。20億人を超えるキリスト者が神様の御心である平和を祈っているのです。一人で祈っていても何も変わらないと思ってしまうわたしにとっての目覚めでした。ただ、それよりも大切な目覚めがあります。それはわたしたちキリスト者が祈っている以上に主なるキリストご自身が今も「嘆きと悲しみは消え去る」ようにと平和を祈り、願っておられることです。
わたしたちの平和への思いや言葉は強くなったり、弱くなったりして、時になくなってしまうこともあります。でも、救い主であるイエス・キリストが話された言葉は決して無くなりません。マルコ13章31節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

今がどれだけ苦しくても、必ず救いの時が来ます。イエス様は救い主としてすべての人のところに来られたのですから、必ず救いがやってくるとわたしたちは信じて待つことができます。キリスト教のメッセージは、「十字架と復活」。主イエス・キリストは十字架の死で終わらず復活されました。十字架の後には必ず復活が来る。主イエス・キリストは十字架で死んで、しかし、3日後に復活されて今も生きておられます。今は苦しくても、その後には必ず喜びがやって来る。それがキリスト教のメッセージです。イエス様が今日伝えることも同じです。大変なことがあるけれど、その後には人の子である主があなたたちを救うためにやって来る。その救いの時はすぐ近く、戸口に立っているくらいに近いから、目を覚ましていなさいと言われるのです。
「目を覚ましていなさい」とイエス様は言われます。わたしたちは永遠の神様によって建てられたこの教会を通して無条件に受け入れられて、救われています。わたしたちはこの世にいる特に貧しい人、苦しんでいる人、知らない人を受け入れてまいりましょう。一人でいるとすぐに自分一人では何にもならないという眠りに誘われますから、できるだけ信じて待つ仲間と一緒に集い、わたしたちは神様の御手の中にあって赦され、愛されているんだと信じ、お互いに目を覚ましていられるように励ましあってまいりましょう。

2017年11月26日 こんなわたしでも

◆サムエル記上16章1〜13節
16:01 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
16:02 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
16:03 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
16:04 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:05 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:06 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:07 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16:08 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:09 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

◆テモテへの手紙一1章12〜17節
01:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
01:13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 01:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
01:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
01:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
01:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

パウロほど劇的な変化を経験した人はいないかもしれません。キリスト者を迫害していた者から、キリストを信じる者に変えられるという経験です。パウロほど劇的ではありませんが、わたし宮島もイエス様と出会って少しずつですが自分の考え方が変えられ、それにともなって生き方も変えられていると感じています。皆さんはどうでしょうか。テモテへの手紙の1章13節でパウロが「以前、わたしは〇〇する者でした」と言うのと同じようにわたしたちも「以前、わたしは〇〇する者でしたが、今は」と言えることがあると思います。例えば「以前、教会の日曜日の礼拝に出席していませんでしたが、今は礼拝に出ています」というのは多くの方が言えることですし、「以前、わたしは聖書の言葉を知らない者でしたが、今は折々に聖書の言葉を思い出します」とも言えます。以前と比べて変わったのは、日曜日の午前中の1〜2時間を教会で過ごすようになったことだけのように思えますが、この礼拝で語られる福音の言葉は、東に向かって進んでいる人を「いや、わたしは東ではなく西に行くんだ」と思わせるほど力あるものだとパウロを筆頭に2000年の教会の歴史に生きた多くの人が伝えています。今日、わたしたちの進む方向を変える御言葉は15節です。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。

ここでいう罪人とはどういう人のことを言うのでしょうか?聖書にはっきりと「正しいものはいない。一人もいない」とありますから、全ての人が正しく、間違いなしに生きることなどできない罪人と言えます。聖書によれば、罪というのは「的外れ」という意味の言葉ですから、神様の願いから外れてしまっている、神様がこうしなさいと言われていることを守れないこと、それが罪となります。「神様を愛して、隣人を自分のように愛しなさい」と言われたことを守りたいと思っていても完璧にはできませんから、人が神様の前に立つならば誰でも自分の罪を感じずにはいられません。だからこそ、今日の御言葉が心にしみます。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。キリスト・イエスはわたしたち全員をその罪から救うために来てくださったのです。

わたしが「自分の罪」を感じるのは、いつの間にか自分のことを優先して物事を考え、実際にそのように行動して、そのことに後になって気づいた時です。何かをしたい、何かをしようと心に思った時、ふと立ち止まってそれは何のためにしたいのか、誰のためになのかと考えますとなんだかんだ言って結局自分のためなのかなぁと思うのです。ある機会があって外国人問題に取り組んでいる弁護士たちにわたしが行なっている外国人支援のことを話すことになり、ちょっと立ち止まって自分が何のために外国人の人たちの支援をしているのかを考えてみました。わたしが入管収容所に行くようになったきっかけはお世話になったある牧師の一言でした。神学校を卒業する時に、茨城の牛久教会に赴任先が決まったことをその牧師に報告しましたら、「牛久には入管収容所があるから、そこを訪ねたらいいよ。外国人を助けるのはわたしにしてくれたことだとイエス様が言っているからね」と言ったのです。それから9年間、地道に入管収容所にいる人を訪ねてきましたが、どうしてこのように続けていられているのかと考えますとやっぱり自分のためなのかなぁと思います。入管収容所の中で何ヶ月も、長い人は1年、2年と収容されている外国人が「宮島さん、助けてください」と言ってくる。わたしのできる範囲で手を差し伸べ、その人が収容所から出ることができ、「宮島さん、助けてくれてありがとう」と言われた時は嬉しい。そのように心から喜んでくれるのが嬉しくて続けているのかもしれません。でも、この活動を続けていられるのはその牧師を通してきっかけを与えてくれた神様の力があるからだと信じています。ですから、「宮島さん、ありがとう」と言ってくる外国の人にわたしは「神様に感謝してね。神様があなたを助ける天使として宮島を遣わしたから」と言っています。

人のために良かれと思ってやったつもりが他の人の努力の邪魔をしてしまうこともあります。目の病気をしているナイジェリア人のJさんが入管収容所から出るために保証人を必要としているとナイジェリア人のEさんから聞きました。入管もJさんの病気を気にしているので早く申請すればすぐにでも入管から出られるとのこと。Jさんと面会しましたら、彼も早く出たいと言うので、仮放免を申請しました。わたしは1日でも早く出られるといいなと単純に思っていたのですが、何日かして医療支援をしている団体の方から電話があり、Jさんは外にいると目の治療にすごくお金がかかるからあえて入管に収容されてその中で適切な治療を受けて直してもらった方が良いとのこと。弁護士ともそのように相談して決めたことだから、勝手に仮放免を申請しないでくださいと言うのです。1週間ほどして入管からJさんの申請は許可されたという連絡がありました。わたしはJさんに医療支援をしている方の話を伝えましたが、Jさんはとにかく出たいというのです。「出た後の治療の支援はあの団体から受けられなくなるし、わたしも経済的な支援はできないけど大丈夫?」と聞くと「大丈夫だ」というのです。そこで彼の気持ちを尊重し、彼は仮放免されました。しかしその直後ですが、医療支援をしていた方から「宮島さんが責任をとって彼の目の治療をしてくれるのですか。それが無理ならどうして仮放免したのですか」とお叱りを受けました。自分が良かれと思ってしたことであってもそれが人の気持ちを傷つけてしまうことがあります。自分の都合を優先せずにJさんを支援する人たちとの話し合いをしていけばよかったと思っています。

他の人を傷つけず、迷惑をかけずに生きていくことはなかなかできないわたしですから、「配慮が足りなかった」「どうしてあのようなことを言ってしまったのか。やってしまったのか」と後になってから反省して、落ち込むことがあります。最近もあることで落ち込んでいたのですが、神様は今日の御言葉でわたしを励ましてくださいました。16節「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。主イエス様の忍耐には限りがありません。「限りない忍耐をお示しになった」とパウロが言うのは、こんなわたしは許されないだろうと思うほどのことをしたパウロが十字架につけられたイエス様と出会い、こんなわたしでも神様は憐れんでくださると信じることができたからです。パウロは、イエス様を信じる人たちに暴力をふるい、ステファノが石で打たれて殺された時には彼もそこにいてそれに賛成していました。改心した後のパウロには自分が何か償いをしなければならない、自分の命に匹敵するものによって償いをしなければならない、心の深いところでウズウズと癒されない傷のような罪悪感があったはずです。しかし、イエス様がこんな自分のため、自分の罪のために十字架にかかってくださったこと、イエス様の十字架には償うことのできない罪はないと気づき、彼の心の傷は癒されました。だからこう言うのです。14節「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」

こんなわたしをも神様は憐れんでくださいます。聖書が伝える憐れみとは「人が苦しんでいるのを見て、いてもたってもいられなくなって手を差し伸べる」と言う意味で、英語で言えば「コンパッション」です。苦しみを意味するパッションを「コン」共にしようとする。人が苦しんでいたらその痛みを感じてその人のかたわらに立とうとする。それが憐れみです。パウロは十字架につけられたイエス様と出会い、あの苦しみはわたしの苦しみのためなんだと受け止めたのです。どうしてあんなことをしてしまったのだと後悔と罪悪感に苦しむ中で「あなたの苦しみと痛みをわたしの十字架に委ねなさい」と聞いて、彼はそうしたのでしょう。

「こんなわたしでも神様は憐れんでくださる」。わたしたちの理屈や思いをはるかに超えた神様のご計画がここにあります。それは神様がダビデを王として選ばれる時と同じです。主なる神様はサムエルに言いました。「容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は眼に映ることを見るが、主は心によって見る」。神様はわたしたちが見るようには見ません。サムエル記では神様の選びがテーマとなっていますが、テモテへの手紙と共通しているのは、「こんなわたしもですか?」というわたしたち人間の驚きです。サムエルから見れば、王にふさわしいのは長男のエリアブだろう、見た目も良いし長男だからと思うのですが、神様が選ばれたのは末っ子でまだ小さい少年のダビデでした。ダビデにしてみれば「こんなわたしでいいのですか?お兄さんたちでなくてどうしてわたしなんですか?」と思ったことでしょう。

今日は、収穫感謝の日として、横浜市の寿町で路上生活をしている人、いわゆる「ホームレス」の人たちのために毎週500〜600食の炊き出しをしている寿地区センターで炊き出しの食材として使ってもらうために日々、神様からいただいている食料品などの恵みやその他の献金をここに捧げました。年に1回するだけでは自己満足かもしれません。でも、これも神様がわたしたちを用いてくださる神の業です。イエス様が言われています。「与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる」。お望みでしたら、わたしたちを用いてくださいと捧げましょう。神様が今、皆さんの中に生きて働いてくださっているのですから、こんなわたしですが用いてくださいと祈りましょう。

2018年1月19日 合同婦人会

毎年1月に行っている合同婦人会、今年も1月19日(金)10:30−13:30に原町田教会の礼拝堂で開催されました。

今年のプログラムは
・長崎で行われた、宗教改革500年のシンポジウムに出席された宮島牧師からのお話
・腹話術 献ちゃん
の二つ。楽しいひとときを分かち合いました。

献ちゃんとの腹話術の様子です。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。