保護中: [教会員用] 2017年10月29日 教会・幼稚園合同バザー

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2017年バザーのご案内

今年も原町田教会・幼稚園合同のバザーを開催します。10月29日(日)の12:00〜15:00です。どうぞおいでください!

 

2017年9月〜10月の写真

9月24日から10月8日の写真をお届けします。

保護中: [教会員用] 2017年10月 主日礼拝音声

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2017年9月3日 希望によって救われている

◆ローマの信徒への手紙8:18〜25
08:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
08:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
08:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
08:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
08:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
08:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
08:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
08:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

◆マタイによる福音書13章24〜33節
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 13:26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

◆詩編90:1〜12
90:01 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:02 山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。
90:03 あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
90:04 千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
90:05 あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。
90:06 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:07 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り あなたの憤りに恐れます。
90:08 あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:09 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。
90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

8月の日曜日のことですが、初めて原町田教会の礼拝に来られた人が礼拝後の入門講座に出てくれました。その人はご自身が10代の時にしばらく教会に通っていたそうですが、ある時から行かなくなってずーと教会から離れていました。でも、ついこの間、ふとした時に「慈しみ深き、友なるイエスは」と賛美歌を口ずさんで、急に教会に行きたくなって、そしてその日曜日、礼拝に出席したと話してくれました。その人は次のように言いました。「わたしの中に種がまかれていたんですね」。

神様が蒔いてくださった種は、蒔かれたその時にはそれがとても小さくてその素晴らしい価値にはほとんど気づきません。でも、命がその種に宿っていて、その人の中に根を張り、芽を出して成長し、いつの間にかその人を導くほどにもなる。自分の中に蒔かれた種に導かれて久しぶりに礼拝に集ったその人だけでなく、皆さんの多くもそのような経験をされていると思います。教会以外のところで、日常生活の中で、突然に聖書の御言葉が浮かんでくる。突然に賛美歌の言葉が自分の中から出てくる。教会で会ったあの人のことが思い出される。教会で語られた説教の短い言葉が自分の中に立ち上がってくる。そして、その言葉が自分を神様に導いていく、そんな経験です。

イエス様は言われました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。

わたしは牧師になる前、信徒として教会生活を11年ほど過ごしましたが、礼拝に出席していて毎週のようにこの御言葉はすごい、今日の説教も素晴らしかったと感動していたかと言いますとそうではありませんでした。時に仕事で疲れて説教中に寝てしまったこともありましたし、説教を聞いていてもピンとこない、わからないこともありました。皆さんもそうだと思います。聞いたその時にはわからない、心に響かない。けれども、確かに命の種はその時、皆さんの中に蒔かれているのです。神様が皆さんの中に蒔かれたその種には命が宿っていますから、やがて根を張り、芽を出し成長して大きくなります。ただ、種が根を張り出し、芽ぶくにはその種に適した条件が整わなければなりません。わたしも以前、マリーゴールドやペチュニア、ベゴニヤなど花壇の花を種から発芽させて作っていましたが、それぞれの花によって発芽する温度が違うので、その花に合わせて温度を調整したりしました。芽が出る条件が整うまで種はじっとその時を待たなければなりません。種の中には長い期間生きるものもあれば、数ヶ月で芽が出なくなるものもあります。種がどれくらい生きるのか調べましたら、数十年前のことですが千葉県で弥生時代の遺跡の発掘をしていた時に約2000年前のハスの種が3粒発見されて、そのうちの1つの種は発芽に成功したとありました。2000年間も芽が出る時をその種は待っていたのです。種は発芽の条件が整うまで長い間、命をしっかりと保ちながらじっとその時を待つことができます。皆さんの中にも神様によって蒔かれた命の種があって、その中にはすでに芽吹いたものもあれば、芽吹かずにそのままじっとその時を待っているものもあるでしょう。確かなことは、蒔かれた時のその種はとても小さいけれど、いったん芽を出して成長すれば、木のように大きく成長するということです。その命の種が皆さんの中に確かに蒔かれているのです。

イエス様は、わたしたちの中に蒔かれた命の種は蒔かれた時は小さくても、成長して大きくなると言われます。いったい、どうやったら芽を出し、鳥が巣を作るほどに大きく成長していくのでしょうか?水をあげ、肥料をあげなければならない、自分がまず何かしなければならないのでしょうか?しかし、イエス様は何も言われません。別のたとえでイエス様は種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのかは人にはわからないと言い、パウロさんも「わたしが植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と伝えます。わたしたちにできることは、何よりも蒔かれた種を成長させてくださる神様を信じることです。「神様が必ず、成長させてくださる。だから、焦らずじっと待とう」と信じ続けるのです。

教会生活をしていて、時々聞くことですが、例えば伝道委員の人がある人に「今度、礼拝の後の証をお願いしたいのですができますでしょうか?よろしくお願いします」と頼みました。するとその人は「わたしはまだ信仰が浅いですから難しいです」と言って断りました。皆さんも「信仰が浅い」という言葉、聞いたことがあるかもしれません。でも皆さんはどう思いますか?信仰にはレベルがあって、浅いとか深い、低いとか高いなどと測ることができると思いますか?信じることの中身をどうやって浅いとか深いと判断することができるのでしょうか?知識の量ですか?それとも教会に通っている年月でしょうか?信仰の浅い深いは決して測ることができません。何故ならば、信仰は神様がくださった命の種の一つだからです。

信仰も神様から与えられたもので、わたしたち人間が努力して勝ち得たものではない。神様が命の種である信仰を与えてくださったからこそ、わたしたちは「神様を信じます」「神様がこのわたしをイエス様によって赦し、神の子としてくださったと信じます」ということができるのです。

先日に参加した研修会でルーテル学院の江藤先生からマルティン・ルターのことを学んできましたが、とってもいいことを聞きました。信仰義認という言葉がありますが、信じることによって神様があなたを良しとする、救われるという意味の言葉ですが、江藤先生は、信仰義認は誤解を招くから「恵み義認」とした方がいいと言ったのです。信仰というとわたしたち人間の側の努力が求められる、信じるというわたしたちの行為が何よりも必要と勘違いしてしまいがちですが、わたしたちが信じるのは、まず第一に神様がわたしたちを招いてくださり、神様が「わたしはお前の創造主としてお前を愛し、わたしの子どもとする」と語りかけてくださっていることです。わたしたちが先ではなく、神様が最初にわたしたちを愛し、祝福し、数え切れないほどの恵みを与えてくださり、御子イエス様の命によって赦してくださっている。その恵みによって、わたしたちは神様を信じることができるのです。その講演会で初めて知ったのですが、ドイツ語で礼拝のことを、神(Gottesゴッテス)と奉仕(dienstディンストゥ)をくっつけて「Gottesdienst」というのです。ルターさんは、礼拝とは人が神へ奉仕するのではなく、神が人間に奉仕することとして理解していたというのです。実際にわたしたちが捧げている礼拝も、まず初めに神様が皆さんを招詞によって招き、聖書を通して神様が語りかけ、説教によって神様が福音を伝え、聖餐によって神様が罪の赦しと新しい命を与え、祝福と派遣によって神様が皆さんを世に遣わされる。その神様からの恵みに応える形で、わたしたちは賛美歌を歌い、祈り、信仰を告白し、献金を捧げるのです。わたしたちが何か、神様に奉仕したから救われたのでもなく、わたしたちが神様に献金をたくさん捧げたから罪赦されたのでもなく、ただ神様が全ての人を救うためにイエス様を送ってくださり、ただ神様が全ての命を大切に思っているからイエス様によって神の子としてくださったのです。

神様がわたしたちの中に蒔いてくださった種は皆、良い種です。信仰もそうですし、希望もそう、愛もすべて神様が蒔いてくださったものですから、良い実を実らせます。でも、残念ながらわたしたちの中には毒の種もまじっていて、芽を出して毒の実を実らせてしまうこともあります。自分の口から出る言葉によって他の人に毒づいてしまったり、自分の中にある毒で人に迷惑をかけてしまうこともあります。その場の雰囲気で何気なく言ってしまったことを後になって「あの時はまずいことを言ってしまったなぁ」と思うこと。ありませんか?自分で気づけばまだいいんですが、自分の言った言葉で他の人が傷ついてもまったく気付かないこともあります。

わたしの中にも毒があります。わたしはその毒に気づいているつもりなのですが、なかなか変えられないでいます。その毒は見方によったら良いところもあるのかもしれませんが、でもやっぱり毒ですね。仕事は早いけど雑という毒。教会の皆さんもそろそろお気づきだと思いますが、原稿依頼されたものとかは、結構早くに終わります。でも、その中身はどうかと言いますと、早いですからちょっと雑です。この「早いけど雑」によってわたしは以前の教会でも、またこちらでも何度かご迷惑をかけています。思いつきで計画を立てるところまではいいのですが、あまり深く考えていませんので、役員会や執事会で提案しても計画倒れすることがこれまでに何度もありました。計画段階ではこれはいいと思うのですが、なにぶん時間をかけるのが苦手ですから準備不足、説明不足なのです。

こんな毒を持ち、またこの口から出る言葉で人に傷つけて迷惑をかけてきたわたしなのですが、神様は「その毒麦をすぐに抜きなさい」とは言わずに「そのままにしておきなさい」と言ってくださるのです。ありがたいなぁと思います。今、わたしがここにこうして生きていられるのも神様が忍耐してくださっているからなんだとイエス様のたとえを読んでわかります。「毒麦なんか生やしておいたら良い麦まで悪くなるからすぐに抜いてしまいなさい」とは神様は言われません。「毒麦を抜き集めておきましょうか?」と聞く人に主人である神様は「いや、麦も毒麦も両方とも育つままにしておきなさい」と言われます。本当ならば、すぐにでも抜かれて束にされて燃やされてしまう毒を持ったわたしを刈り入れの時まで待ってくださる。この神様の忍耐があるから、わたしたちは今も赦されて生きています。

ローマの信徒への手紙でパウロさんが「わたしたちはこのような希望によって救われているのです」と言っているのは、まさに神様の忍耐のことです。もちろん、厳しく悲しく、恐ろしいことがわたしたちの現実にはあります。神様の恵みや神様の愛が見えなくなってしまい、自分の中の毒が元気になってしまうこともあります。そしてなぜか、わたしたちは現実に起きている悲しいことや苦しいことの方に心が傾いてしまう。でも、わたしたちは必ず完全な形で「神の子とされる」「この体が犯してきた罪は全て赦される」と信じて、その時を待ち望むことが赦されています。必ず神様がそうしてくださると信じるわたしたちはすでに救われています。ローマ8:24「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」。このような希望。目に見えないけど確かに希望の種が与えられていることがわかります。「あなたは必ず神の子とされる」「あなたが犯してきた罪は全て赦される」。

毒麦も良い麦も育つままにしておきなさいと忍耐を持って待ってくださる神様がいます。その神様が今日も良い種をわたしたちの中に蒔いてくださいました。その種が神様の愛によって芽吹き、神様の忍耐の中で育ちわたしたちを支え、導いてくれるとの希望によってわたしたちは皆、救われているのです。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。