保護中: [教会員用] 2017年9月 主日礼拝音声

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2017年8月27日 ここにわたしの家族がいる

◆マタイによる福音書12章46〜50節
12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

今日、イエス様はわたしたちに「天の父の御心を行う人は、わたしの家族だ」と言われました。これはとても嬉しい言葉です。誰でもどんな人でもイエス様の家族になることができるからです。
どこで生まれたとか、どのように育ったとか、どこの学校を出たとか、なんの仕事をしたのかとか、できるできない、能力のある、なしに関係なく、ただ神様に愛されているあなたとして迎え入れてくれるイエス様の家族となる。心も体も安心して憩えるところ、イエス様に「おかえり」と受け入れられる神の家族ですから、「ここにわたしの家族がいる」とイエス様に言ってもらえるわたしたちは幸せです。

でも、皆さんの多くは「天の父の御心を行う人」という言葉にひっかると思います。「あなたは天の父なる神様の御心を行なっていますか?」と聞かれたら、「わたしは神様の御心を行うことなんてできていません」と言うんじゃないでしょうか。自信ありげに胸を張って「わたしは御心を行っています」なんていう人がいたら、心の中で指に唾をつけて眉毛に塗る人がいるんじゃないでしょうか。

もし、皆さんの近くにいる小さな子どもさんが、お孫さん、甥っ子さん、幼稚園、小学校の子どもかもしれませんが、ある時、こんな質問を皆さんにしたらなんと答えますか?「神様の御心って何?」。幼稚園でも時々、「神様ってどこにいるの?」などズバリの質問を受けることがあります。同じように「神様の御心って何?」と聞かれて、皆さんはなんと答えますか?神様の御心、神様が思っていること。小さい子どもですから簡潔にわかりやすく答えなければなりません。「聖書を読めばわかるよ」なんて答えるのもいいかもしれませんが、わたしでしたら、牧師としての意地がありますから、このように答えたいですね。「神様が『大好きだよ』っていつもわたしに言ってくれているから、同じように神様と近くの人にも『大好きだよ』って言えるようにすることかな」。神様と隣人を愛すること。これはとっても難しいことですから、結局、御心を行うことなんてできやしないと皆さん思われるんじゃないでしょうか。神様の御心を行うなんてできない。でも、本当にそうなんでしょうか。

神様の御心、神様が思っておられることをイエス様が何度か、はっきりとお話しくださったことがあります。その一つに次のようなたとえ話があります。イエス様が「100匹の羊のうち、1匹が迷い出てしまい、その1匹を探しに行って、それを見つけたら、その1匹のことを喜ぶだろう」と言って、このように続けました。「そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。小さな者の一人でも滅びることは天の父の御心ではない。「わたしは聖書をあまり読んでもいないし、いい加減な信仰生活を送っているから御心なんて行うことはできないダメなキリスト者だ」と思っている小さなあなたに神様は「わたしから離れていって滅びてほしくない」と思っておられる。そうイエス様は言われます。

福音書を読んでいますとイエス様がしきりに「福音を信じなさい」「恐れることはない。神を信じなさい」と言われていることがわかります。神様はわたしたちのためにイエス様を送ってくださり、その赦しによってわたしたちを神様の子どもとしてくださったと信じる。ただ、神様の憐れみによってのみ、私たちは神様を賛美することができ、イエス様の十字架の赦しによってのみ「わたしは神様を信じます」と言うことができる。わたしたちが何か良いことをしたからでもなく、ただ神様の憐れみと赦しがあったからだと聖書は伝えています。

詩編では繰り返し「神様を賛美せよ」とありますから、神様がイエス様によってしてくださったことを繰り返し覚えて、「神様は素晴らしい方です」と賛美する。それも神様の御心です。こんな小さなわたしを神様は憐れんでくださり、滅んでいきそうになるわたしをイエス様によって救ってくださった。「神様、ありがとうございます。あなたの御名を賛美します」とこれまでも、そして今日もこれからも礼拝する皆さんは、神様の御心を行なっていると言えます。

もちろん、日々の生活のほとんどの時間は、神様の思いではなく自分の思いを優先して考え、行動しているのがわたしたちです。御心を行なっていますなんて自分では言えないと思うのは当然です。だからこそ、神様は教会を与えてくださり、教会でささげる礼拝だからこそ自分の思いを横に置いて心を神様に向けて、神様を賛美し、神様を信じますと告白するのです。

今年の夏も子どもの教会のキャンプで奥多摩に行ってきました。あいにくの雨で川遊びはできませんでしたが、その代わりにアイデアを出しあって、楽しい室内運動会をしてきました。今年のテーマは「聖書」でした。いっぱい遊び、紙すきをしたり、何も書いていない無地の扇子に絵や文字を書いたり、黒い皮に文字を書いた聖書カバーも作りましたし、礼拝も何回もして、子どもたちと一緒に神様を賛美して、聖書が伝えるメッセージを一緒に聴いてきました。小学校1年生から5年生までの子どもたち27人のほとんどは原町田幼稚園出身ですが、まだ神様からの素晴らしい福音が十分に伝わっているとは言えません。ですから、すでに福音を受け入れ、福音を信じている奉仕者たちは一生懸命に子どもたちに喜びの知らせを伝え、また一緒に楽しい時を過ごしました。イエス様はこのように言われています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。このイエス様の言葉は神様の御心そのものですから、子どもたちに神様のこと、神様はイエス様の命をくださったほどにみんなのことが大好きだよと福音を伝えている原町田教会は、御心を行なっていると言えます。直接、子どもの教会の働きに繋がっている人はもちろんですが、繋がっていない人であっても、皆さんが献げている献金が子どもの教会を支えていますし、子どもの教会の働きを覚えて祈っているその祈りも大きな支えとなっていますから、それは教会として御心を行なうことになるのです。子どもの教会は教会全体の働きなのですから、直接働いている奉仕者とまた直接繋がっているない皆さんも福音を伝える御心を行う働き人なのです。

イエス様は、「あなたの母上とご兄弟たちが外で立っています」と言った人に「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と弟子たちの方を指して言いました。その弟子たちとはどんな人たちだったのでしょうか?私たちとは違って御心を行う力がある立派な人たちでしたか?聖書が伝える彼ら、弟子たちのほとんどは東北ガリラヤの無学な漁師や徴税人でありました。福音書を読めばわかりますが、原町田教会に集うわたしたちと変わらない、良いところもあれば、ダメなところもある人たちです。ペトロさんもいれば、ユダさんもいますし、イエス様をゲッセマネに置き去りにして逃げ去るそんな弟子たちを指差してイエス様は「ここにわたしの家族がいる」と言われ、続けて「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族だ」と言ったのです。ということは、たとえばこの原町田教会の特別伝道礼拝の講師にイエス様が来られお話をしていたとします。その時にイエス様のお母さんと兄弟たちがやってきて、「ちょっとどうしても会いたいので呼んできてもらえますか」と受付をしていた人に言いました。受付の人はイエス様のところに行って「ご家族がいらしています」と伝えます。するとイエス様は原町田教会に集うみなさんを指差してこう言うはずです。「ここにわたしの家族がいる。わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族である」。みなさんを指差してイエス様は言うのです。「ここにわたしの家族がいる」。嬉しいですね。神様が真の親であり、イエス様をお兄さんとした神の家族です。イエス様があなたはわたしの家族だよ、ここにわたしの家族がいると言ってくださるのですから、これは本物です。

イエス様は大きな心でわたしたちを家族として迎え入れてくれています。ですから、わたしたちもそれにならって、教会にやってきた人をあまりその人のことを詮索せずに、神の家族として受け入れたいですね。「どこで生まれたのか。何歳なのか。何ができるのか。どんな仕事をしているのか。などなど」。いろいろと聞きたくなりますが、まず、神様があなたを家族として迎え入れていますよと受け入れたいですね。

御心を行うってどういうことなんだろうと思っていましたら、イエス様がゲッセネマで苦しみながら祈った、あの祈りの言葉が浮かんできました。これから自分は十字架につけられて殺されるかもしれない。いやきっとそうなる。わたしたちと同じ体の痛みを感じられたイエス様は苦しみ悶えながらこのように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。痛い思いをしたくない、苦しみたくないと願うイエス様でしたが、でもその自分の願いでなく、神の思いである御心が行われますようにと祈りました。わたしたちも苦しいことにぶつかったり、痛い思いをすることもあります。そんな時、「神様、どうか助けてください。この苦しみをわたしから取りのけてください」と祈ります。イエス様がそう祈ったのですから、そう祈っていい。でも、いつも自分の願った通りになるとは限りません。そんな時であっても、わたしたちは「御心が行われますように」と祈ることができるのです。神様の御心はわたしたちを滅ぼすことではありませんから、必ずその苦しみに耐えられる逃れの道を示してくださる。滅びではなく、救ってくださる。いやすでに「御心が行われますように」と神様に祈っている時点で救われている。神様と繋がっていることが救いですし、こんな状態で苦しんでいるわたしですら神様は愛し、「わたしはお前を決して見捨てない」と言われていると信じられるからです。「御心が行われますように」と祈ることができるのは、まさに神様の御心なのです。

パウロさんがカイサリアにいた時のことですが、パウロさんのところにユダヤから来た人が訪ねて来て、パウロさんの帯をとって、それで自分の手足を縛って「聖霊がこうお告げになっている。エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に渡す」と言いました。それを聞いた教会の人たちにパウロさんは「主イエスの名のためならばエルサレムで縛られるばかりか死ぬこともさえも覚悟している」と言ったのです。パウロさんのその覚悟は確かで人の思いでは変わらないだろうと思った教会の人たちは、彼に向かってこのように言いました。「御心が行われますように」。

わたしたちも自分のこと、あるいは他の人のことで自分の思うようにことが進まない、そんな経験をします。そんな時、心配したり、落ち込むこともあれば、どうしてこんなことになるんだと怒りを感じることもあるでしょう。でも、わたしたちは「御心が行われますように」という祈りを知っています。神様の御心は自分の思いとは違う。でも、御心は必ず滅びではなく良い実を結びますから、神様を信じて「御心が行われますように」と委ねるのです。「御心が行われますように」。この言葉を口に出して祈ってみてください。イエス様が祈った言葉です。「御心が行われますように」とみなさん、神様を信じて祈ってください。そのように祈るのはすでに御心を信じて委ねる皆さんなのです。イエス様は原町田教会に集うわたしたちに向かって今日、言ってくださいました。「ここにわたしの家族がいる。わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族である」。

 

2017年9月8日 社会教育講演会 晴佐久昌英神父のお話

9月8日(金)に、晴佐久昌英神父をお招きして社会教育講演会を開催しました。

←音声はここをクリック

 

(音声の最初のところに、晴佐久神父と宮島牧師が時計の場所を確認する会話がちょっと入っていますが、すぐに講演会が始まります。)

2017年8月 WORKSHOP 音源ダウンロード

ゴスペルワークショップの皆様

8月の音源ファイルです♪ Amazing Grace♪
ファイル1
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ファイル3
ファイル4

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。