2017年1月29日 子どもの教会

1月29日の子どもの教会では、幼小科は「トントン相撲」、土俵とお相撲さんを工作でこしらえるところからやりました。
中高科は百人一首。初めての百人一首だった中学生も、結構な枚数をゲット!楽しく遊びました。

2017年1月の写真

1月の写真をお届けします。
寒い日が続いています、みなさまの健康が守られますように、お祈りしています。

2016年12月18日 わたしたちは一人ではありません

◆イザヤ書 第7章10〜14節
07:10 主は更にアハズに向かって言われた。
07:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
07:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
07:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
07:14 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。

◆マタイによる福音書 第1章18〜23節
01:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
01:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
01:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
01:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
01:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
01:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

カナダ合同教会の信仰告白がとても素敵です。最初はこう始まります。「We are not alone, we live in God’s world.」「わたしたちは一人ではありません。わたしたちは神の世界に生きています」。I am not alone、わたしは一人ではありませんとは言わずにWe are not alone、わたしたちは一人ではありませんというところが、教会の信仰告白だなぁと思います。

先日、病院に入院していた90過ぎの方が回復して、老人ホームに移られたと聞きましたので、早速その方をホームまで訪ねました。明るい感じの開放的なつくりのホームの広間で3人の方達がテーブルに座ってお茶を飲んでいる中にそれらしい後ろ姿が見えましたので、「Kさん、原町田教会の宮島です」と声をかけますと、ゆっくり振り向いて「あ、」とわかってくれました。席を変えて少しお話をしました。Kさんがそこに移られてまだ1週間ちょっとでしたので、多分わたしが一番に来たんだろうと思っていましたら、「先日、教会の方が来て下さいました」とKさんが言うのです。むむ、原町田教会やるなと思いました。やはり「We are not alone.わたしたちは一人ではありません」なんですね。神様がわたしたちと共にいてくださるとの信仰告白が原町田教会のみなさんの中に生きています。神様がわたしたちと共におられる。だからホームに入った人を尋ねます。逆に「わたしは一人ではありません」という個人的な信仰告白であれば、皆さんそれぞれが個人的に神様と繋がっていることになりますから、極端に言えば、教会に集まって一緒に礼拝をささげる必要も無くなります。でも、神様とわたしたちの関係はそうではありません。毎週日曜日にこの礼拝堂に集って、神様からの御言葉を神の家族と一緒に聴き続けます。教団の信仰告白にこうあります。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」。

神様がわたしたちと共におられるとの信仰に支えられて、わたしたち原町田教会は、お互いに祈り合い、電話をしたり、ハガキを書いたり、訪問したりして、互いにつながっています。それは、ごく当たり前のように思われるかもしれませんが、聖書を読みますとそうでもないことがわかります。旧約聖書の時代では、神様がわたしたちととても近くにいてくださると信じることは難しかったからです。旧約の時代から、人々は苦しい時や困難に直面した時など、「神様、どうかわたしたちと共にいて、助けてください」と祈ってきました。それは、神様が高いところ、遠いところにおられて自分たちの手の届く方ではないと信じていたからです。モーセさんの場合などが典型的です。シナイ山に一人で登るよう神様に言われたモーセさんが山に登りますと、山全体を煙に包まれ、山を激しく震えさせました。それを見ていた人たちはみんな、恐ろしくなってブルブルと震えました。神様はわたしたちと一緒にいてくださるような方ではなく、近寄りがたい恐ろしい存在として捉えられていました。でも、神様がイエス様という人となってくださり、わたしたちのところに来てくださり、神様はわたしたちと共にいてくださる方なんだと信じることができるようになりました。

今日の聖書箇所のイザヤ書にも「共にいてくださる神様」が示されています。7章14節「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この言葉は、南ユダ国が近隣から攻撃を仕掛けられるかもしれない、しかも、一つの国だけでなくアラムとか、同じ民族である北イスラエルも一緒になって攻め上ってくるかもしれない、神様、どうかわたしたちを守ってくださいという切なる祈りへの応えとして主なる神様が語られたものです。インマヌエル。神様はわたしたちと共におられる。

それから長い年月を経て、片田舎のガリラヤに暮らすマリアさんを通して、神様はインマヌエルを実現してくださいました。「神様、わたしたちと共にいて支えてください。守ってください」との祈りに、神様がしるしとして応えてくださったのが、イエス様の降誕の出来事です。

あるカトリックの司祭がこう言っています。「神は人となった。彼は、わたしたちと共に苦しんでくださる。痛みの理由について、彼は語られることなく、自ら痛みの人となった。わたしたちは孤独の中にあっても、もはや独りではない。神はわたしたちのそばにいてくださる。わたしたちは、もはや孤独ではなく、連帯性の中に結ばれている」。教会はキリストの体です。みなさんの「わたしたちは一人ではありません。神様が共にいてくださるから」と信じる信仰の心によって教会は教会として立っています。神様がわたしたちと共にいてくださるとの御言葉が与えられていて、それを心から信じられるのは恵みであり、神様の業です。

オリーブ会や若穂会、壮年会やからしだねなどの例会では、教会に来ていない人がいると、「あの人、どうしてるんだろうね」という話によくなります。ある会に出た時に「○○さんに電話をしてもらえると嬉しいです」と言われたことがあります。わたしはその声にあと押しされて、ながらく礼拝に集っていない人にハガキを送り、またちょっとしてから電話をかけてみました。電話では「だいぶ元気になってきましたが、小さなことが気になってなかなか行けないんです」とその人が話していましたので、わたしはこう言いました。「神様がわたしに○○さんに電話をしなさいって言われたように感じて、今電話しました。ですから、神様が宮島を通して話しかけていると思っていただけると嬉しいです」。その人は「12月中には行けると思います」と言ってくださいました。

以前、聞いた話ですが、イギリスで実際にあった出来事を紹介します。ある時、交通事故が発生しました。車の下に男の人が挟まってしまい、人間の力ではどうしようもない状態になりました。事故の現場にはたくさんの人が集まり、成り行きを見守っています。その人は車の下敷きになったまま、ウンウン唸っていましたが、救急車やレッカー車はなかなか到着しません。その時です。一人の男性がさっと車の下に入り込んだというのです。何かが起こるのかと、また何か新しい事態になるのかと、人々は期待しました。しかし、何も起こりませんでした。長い時間が経過して、やっと救急車とレッカー車が現場に到着しました。そして、挟まっていた人は助け出されて、病院に運ばれ、見物人たちは、あとから車の下にもぐりこんだ人のことなどすっかり忘れて、去って行きました。しかし病院で手当てを受けた被害者の男性は、やがて人々にこんなことを語ったのです。「自分は車の下でとても不安でした。怪我をしているし、これから自分はどうなるのか。見物人がいっぱいいることがかえって苦痛でもありました。その時、一人の男性が自分の側に入り込んできました。その人はわたしにこう言ったのです。自分は何もできないが、でも、あなたの側に一緒にいることだけはできます。だからそうします。その人はわたしのそばでずっと一緒に寝ているだけでした。でも、それはとても心強く、たいへん慰められました。今こうして助け出され、元の体になってみると、あの不安の中であの人がそばにいてくれたことがどんなに重要であったかがわかります。あの人は何も語らず、ただわたしのそばで一緒にいてくれただけです。でも、自分のことを思ってくれる人が今ここにいる。それがわかるだけでとても慰められ、力づけられました」。

神様はわたしたちを共に生きる者としてお造りになりました。創世記でアダムさんを造られた後、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて肋骨を取られて、もう一人の人を造られました。新約聖書に記されている教会のために書かれた手紙には、互いにという言葉が繰り返しでてきます。「互いに励まし合いなさい」「互いに愛し、互いに相手を優れたものと思いなさい」「互いに相手を受け入れなさい」「愛によって互いに仕えなさい」「互いに重荷を担いなさい」。神様がわたしたちと共にいてくださるから、皆さんは互いに助けあうことができますし、それこそ「わたしたちは一人ではない」との信仰告白に生かされている証しではないでしょうか。

今、原町田教会では、会堂建築の話をしています。今の礼拝堂は皆さんと牧師が向き合う形ですが、教会によっては、聖餐卓を丸く囲んで、礼拝に出席している皆さん同士が互いに顔を見ることができる形の礼拝堂があります。その形はその教会は繋がっている人たち同士の交わりを大切にしていることを示しています。もちろん、原町田教会も週報の裏面の「原町田教会 3つの目標」にあるとおり、交わりを大切にしていますと文章で示していますが、それを形で表すことも会堂建築が具体化したら考えられます。会堂の形で私たちの信仰のあり方を表すこともできるのです。

神様はわたしたちと共にいてくださる。神様がわたしたちのところに来てくださって、わたしたちと同じように病気になって苦しみ、わたしたちと同じように孤独を感じて「死ぬばかりに悲しい」と言われ、わたしたちと同じように空腹を感じられ、そんな課題、問題を抱えるわたしたちと全く同じ人となって来てくださいました。神様が来てくださり、一緒にいてくださるのだから、問題はスッキリなくなるというのではありません。むしろ、問題があるところに神様が来てくださり、一緒に悩み、苦しんでくださいます。インマヌエルなるイエス様はそのようなお方です。イエス様の父になる前のヨセフさんもまさに問題の真っ只中にいました。ヨセフさんはマリアさんと婚約していましたが、マリアさんと一緒になる前にマリアさんが妊娠していることがわかったからです。イスラエルの律法に従えば、彼女はその相手とともに石打ちの刑で死ななければなりませんでした。けれども、ヨセフさんはマリアさんを守るために結婚をやめて、縁を切ろうと考えました。そのような苦しみの只中、問題の只中にあったヨセフさんのところに神様が来てくださり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。原町田教会にも問題は色々あります。問題を抱えたわたしたちの只中に主イエスは来てくださり、わたしたちと共に悩み苦しんでくださいます。

カナダ合同教会の信仰告白の最後はこのように終わります。「In life, in death, in life beyond death, God is with us. We are not alone. Thanks be to God.私たちの生と、死と、死を超えた生において、神は私たちと共におられます。私たちは一人ではありません。神に感謝します」。

保護中: [教会員用] 2017年1月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。