2017年1月~3月 Gospel Workshop

2017年もやります、ゴスペルワークショップ!!!
クワイヤメンバー募集中です。参加費一回500円です。どなたでもいつからでもどうぞ。
1月21日(土)17:00〜18:30
2月25日(土)17:00〜18:30
3月18日(土)17:00〜18:30

2016年11月10日 最も小さい者の一人に

◆マタイによる福音書25章31〜46節
25:31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33羊を右に、山羊を左に置く。
25:34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

神学生時代、わたしは横浜市中区にある「なか伝道所」の礼拝に1年間、研修のために通っていました。妻と上の娘は当時、牧師館をお借りしていた横浜本牧教会の礼拝に出席し、わたしは下の娘がまだ1歳になる前でしたが、彼女をおんぶして自転車に乗って2人でなか伝道所の礼拝に出席していました。わたしの赴任先が茨城県の牛久教会に決まり、そのことをなか伝道所の牧師に報告した時のことでした。その牧師がわたしに「牛久には入管の収容所があるから、そこに行くといい。マタイ福音書25章で『牢にいたときに訪ねてくれた』とイエス様が言われてますよ」と言ったのです。そのことがきっかけとなって、わたしは茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに収容されている人たちを訪問するようになりました。

それまで、わたしはそこがどんなところなのか、まったく知らなかったのですが、入管の収容所に行ってみて初めて、そこは刑務所と同じような厳しいところだということがわかりました。窓のない畳10畳ぐらいの部屋に多い時には7~8人が生活していて、施設の外に出るどころか、その部屋から出ることも午前3時間、午後も4時間ぐらいしか認められていないので、1日の大半をその部屋で過ごさなければなりません。部屋から出られる時間に室内で卓球やサッカーなどのスポーツはできても、刑務所のような労働時間はありませんので、あとは何もやることがない状態になります。食事は毎日、ほとんど同じメニューで朝は二切れのパン、ゆで卵、200mlのミルクまたはジュースです。昼食や夕食もご飯とスープとおかずというように同じようなものが続きます。そこからいつ出られるのか、刑期のようなものはありませんし、強制退去命令が出されている人は、いつ強制的に国に送還されるのかわからない恐れに不安の日々を過ごしています。国に帰っても、家族がいて仕事があるならばそうしますが、そこに留まる多くの人は国に帰ることが難しい人たちです。中には難民として命の危険から逃れるために来ている人もいますし、移民として仕事を求めて、働きたくて来ている人もいます。

わたしが入管収容所の中にいる人たちを訪ねるのは、助けを必要としている人がいるからで、そのきっかけを作ってくれたのが、マタイによる福音書の25章の御言葉です。原町田教会の礼拝にも時々、外国籍の方が来られます。そのほとんどが以前、入管に収容されていた人たちですから、どうぞ、皆さん、教会に来た彼らをこれからもあたたかく迎えてあげてください。入管収容所から出られた彼らですが、出た後の生活もなかなか大変ですから、彼らのためにもお祈りください。

このマタイ福音書25章の御言葉に導かれて、わたしはとっても素敵な人たちと出会ってきました。先日のゴスペルコンサートに出演してくれたAlexさんと出会ったのも牛久の入管でした。背が高くて、会う人たちと楽しそうに大きな声で「ガハハ」と笑っているAlexさんがゴスペルシンガーだったとは、出会ってからしばらく知りませんでした。馬鹿でかい声で笑う楽しいアフリカ系の人を、まさか原町田教会のコンサートに招くことになるとは夢にも思っていませんでした。御言葉を信じて、小さな一歩でも前に踏み出せば、神様が道を開いてくださるんだなぁと実感しています。ですから、「お腹が空いています」という人に出会えば、すぐに何かを差し上げ、病気の人がいて、入院したと聞けば、できるだけ早めにその人に会いに行くようにし、入管収容所にも定期的に行くように心がけてます。御言葉がわたしたちの道を切り開いてくださいます。

新共同訳聖書には、小見出しがありまして、今日の箇所には「すべての民族を裁く」とあります。なんだか、この見出しだけを見ると厳しい感じがしますが、実際にここを読みますとそうではなくて、イエス様がわたしたちにどのように生きて欲しいのか、その生き方を伝えていると受け止めることができます。今もイエス様がわたしたちの生きるこの社会で最も小さい者として生きておられて、あなたが「この一人にしたのは、わたしにしてくれた」のですよと言われています。イエス様は、世の終わりの時に小さな一人にしてくれなかった人を永遠に罰したいからこう言われたのでなく、皆さんは神様によって「助ける者」として造られていますから、そのように生きるのが、あなたの喜びなんだよと言われているのです。
 
ここで王として登場しているイエス様は、終わりの時にすべての人たちを右と左により分けて、まずはじめに右にいる人たちに「お前たちはいろいろと世話をしてくれた」と言われます。しかし、彼らは自分の業績をほとんど気にしていない人たちのようです。自分が積み重ねてきた過去の業績や成果をいちいちしっかりと覚えていて、それを誇りに思う人でもないようです。だから、王様から「あの時あなたはわたしにこれこれをしてくれましたね」と言われても「いつそんなことをしましたっけ」と覚えていない。肩肘はらず、自然体で小さな者を助けるこの人たちが素敵です。

次に左側の人たちに王は言われます。それもいきなり「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の前に用意してある永遠の火に入れ」と言い、「いつ、わたしたちはお世話しなかったですか」という人たちに対して、イエス様は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかった」。だから、お前たちは永遠の罰を受けると言われます。

ここを読みますと、いかにも自分の業績が評価されることなど望んでもいない、「そんなこと、しましたか?」という右側の人たちのようになりなさいよと勧められている感じます。ただ、わたしはつい先ほど、この御言葉がきっかけとなって入管収容所という牢屋のようなところにいる人を訪ねるようになったと皆さんにお話ししました。この御言葉があってそうするようになったのですから、当然自分のしていることをどうしても意識してしまいます。ですから、終わりの時、主の前に立ったわたしに、「あなたは病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれましたか?」と聞かれたら、すぐに「はい、しましたよ。マタイによる福音書25章に書いてあることをできるだけ守ろうとしました」と言うと思います。

そんなわたしがどうして今も入管に訪ねて行くのか、その理由はこの聖書の御言葉がきっかけになったことは確かですが、それよりも前にわたしが経験したことと関係があります。それは大学の時に行ったフィリピンやインドで、経済的にとても貧しい人たちに出会ったことです。その時に「どうしてこんなに貧しい人がいるのだろう」という心の痛みや、「この人たちにわたしは何かできることがあるのか」とわたしなりに苦しんだ経験があって、それが今の自分につながっていると思うのです。ですから、日本という国に来て苦労している人にできることがあればしたいと思うようになりました。

今年の2月に天に召されました佐藤初女さんも同じようなことを言っています。彼女は17歳の時から35歳くらいまで17年間、ずっと闘病生活をしていました。長い長い闘病生活が終って、ようやく苦しみから解放されたとき、彼女は「これ以上の幸せはない。これからはもう何をすることも厭わない」と思ったのです。彼女は70歳を過ぎてからですが、青森県の岩木山麓で「森のイスキア」という居場所を作り、悩みや問題を抱えた人たちを受け入れてきました。佐藤初女さんは、ある本の中でこんなことを言っています。「わたしは心や体を病む人と接する機会が多いのですが、自分の体験から、その人たちのために親身になって考えてあげることができます。お見舞いや看病の仕方、どうすれば病人が癒されるかということが、単なる言葉や知識としてでなく、体でわかっているからです。17年余りの闘病生活は、人生にとってマイナスの時間と人には思われるかもしれません。ですが、わたしは闘病の体験から、病で苦しんだこと以上に大きく大切なものを与えられていると思うのです」。

みなさんもそれぞれに痛みを感じたり、苦しい経験をされていると思いますが、神様はその痛みや苦しみをそのままにされないで、ご用のために用いてくださいます。その一つの道がマタイ25章です。皆さんが経験する痛みや苦しみは、それを経験しているその時には、ただただ、早く過ぎ去ってくれと祈り、自分からそれがなくなることを願います。しかし、痛みや苦しみはそう簡単に自分の中からなくなるものではありません。治療や時間によって治り、それが過ぎ去ったように思っても、傷として心や魂に跡を残すことがあります。その傷跡を見るとあの経験が自分の人生にマイナスだけを残したように感じるかもしれません。しかし、神様はその経験を用いて、他者を助ける糸口としてくださるのです。旧約聖書にこのような言葉があります。「あなたたちの中にいる外国人、寄留者を助けなさい。何故ならばあなたたちもエジプトにいた時、外国人、寄留者だったから」。マイナスだと思っていたあの経験が人を助け、実はそれが自分にとってもプラスとなる。

みなさんが経験した痛みや苦しみは、必ず他者を助けるために用いられます。イエス様は今も、小さい者として、わたしたちの中におられ、こう言われます。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。

2016年10月2日 石を取りのけて出て来なさい

◆ ヨハネによる福音書11章28〜44節 
11:28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35イエスは涙を流された。
11:36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

イエス様はベタニアに着きました。そのベタニアでは、イエス様の到着を待っている人たちがいました。ラザロさんの姉妹マルタさんとマリアさんです。彼女たちは、イエス様が到着するのを今か今かと待っていたのですが、ようやく会えた時には、「今頃来たけど、もう遅い」、そう心の中で思っていたようです。病気であったラザロさんはすでに墓に葬られて4日もたっていました。マリアさんはイエス様にこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。この言葉の中には彼女のいろいろな思いが詰まっています。大切な兄弟が病気のために死んでしまった。主であるあなたが彼の死ぬ前にここに来て、彼を癒してくださっていれば、こんなことにはならなかった。使いの者をやったのに、あなたはすぐに来てくださらなかった。どうしてなんですか?彼女はすんなりと兄弟の死を受け入れることができません。あなたはなぜ助けてくれなかったんですか?イエス様に対する怒りにも似た気持ちが伝わってきます。イエス様はラザロさんが弱り死んでいく時、そこにはいませんでした。マリアさんは、イエス様がそこにいなかった。だから兄弟ラザロは死んだ、と言うのです。

みなさんの中にも受け入れがたい現実にぶつかった時に彼女と同じような思いを持った人がいらっしゃると思います。神様に向かって「どうしてなんですか?」と怒りに近いものを感じたり、こんなひどいことが起こっても神様は何もしてくださらない。あるいは神様なんかいないからこんなことが起きた、神様がいたらこんなことは起きなかったはずと涙を流しながら訴えかけたかもしれません。神様、なぜこんなに苦しい病気をお与えになったのですか?なぜ、あの人が死ななければならないのですか?そのように問いかけた時、みなさんは神様から答えをいただいたでしょうか?何も答えてもらっていないと思う方もいるかもしれません。イエス様が本当に今も生きておられるなら、その時に答えてくださってもいいのに、何も聞こえてこない、そう思うのです。

イエス様は彼女の訴えをお聞きになり、彼女が泣いているのを見て心に憤りを覚え、興奮されました。ある聖書ではそのイエス様の様子をこのように訳しています。「マリアの泣くのを見、マリアとともに来たユダヤ人たちの泣くのを見て、ギリギリと歯を食いしばり、目を真っ赤にし」た。
 
イエス様もマリアさんと一緒に「なぜなんですか?」と叫ぶような気持ちになられたのです。イエス様は言われました。「どこに葬ったのか」。このイエス様の声には、怒りに近い響きを感じます。

みなさんがマリアさんのように「どうしてなんですか?」と神様に訴えかけ、神様は何も答えてくれないと思っても、イエス様はあなたと一緒に嘆き、目を真っ赤にして「なぜなんですか」と叫んでくださいます。その声が聞こえないと思うのは、その声に気づいていないだけなのかもしれません。確かにイエス様はあなたと一緒に怒りの思いを込めて「なぜですか?」と目を真っ赤にして言われています。

この世にあるいくつもの不条理に向かってイエス様は「神様、神様、なぜ、この人をお見捨てになるのですか?」と今も世界のあちこちで叫ばれています。地震や水害などの自然災害で突然に大切な人を亡くした人が「神様、なぜなんですか?」と呻く言葉を主イエス様は確かに聞かれています。テロによって突然に命を奪われた人の家族、病気で思いもしなかった時に死んでいった人の家族の叫びをイエス様は聞いてくださり憤りを覚えて「なぜ」とその人たちと一緒に叫ばれています。

イエス様のその憤りに気づく人もいたようですが、そうでない人もいました。イエス様の憤りをわからない彼らは言いました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」。今、まさに進行中の神様のご計画が見えないのです。神様の御業を見えなくする力が彼らの心を覆っています。同じように皆さんの目を塞いで神様の御業を見えなくする大きな石があります。それは皆さんの心にささやく声です。「自分は救われないんじゃないか」「わたしは天国に行けないのではないか?」「こんなダメ信徒、ダメキリスト者が証などしていいのだろうか」。あなたはイエス・キリストによって救われたと神様の御業が示しているのに、心の目が神様の方ではなく自分の方に向いてしまい、「救われないんじゃないか」と思ってしまうのです。「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」「わたしたちの本国は天にあります」「天への道はイエス・キリストによって開かれた」と主は救いを宣言されているのですが、心の目が自分の方に向いていると、「こんなわたしは天国に行けないのではないか?」と思ってしまうのです。そのように大きな石によって塞がれた人の心の目を開くためにイエス様は叫ばれます。「その石を取りのけなさい」。みなさんが救われたのは、みなさんが良いことをしたからではありません。神様がみなさんを愛しているからです。みなさんが天国に行くことができるのは、皆さんの努力の結果ではありません。イエス様の十字架と復活があったからです。自分のことでなく、神様があなたにしてくださったことに目を向けるためにもあなたの心の中にある「石を取りのけなさい」とイエス様は言われるのです。

そう言われて皆さんは「はい、イエス様。そうします」と応えられるでしょうか?石を取りのけるのはイエス様でなく、皆さん自身です。「でも、イエス様。石をどかしても何も変わりませんよ」とどこか心の中で思っていませんか?もう、こんなに歳をとりましたから、石をどかす力もありません。わたしは病気ですから、石をどかすことはできません。そう言い訳して石を動かすことに消極的になっていませんか?マリアさんも「主よ、四日もたっていますから、もう臭います」と人間の現実に目を向けて文句を言っています。

あまりにも人間の現実がひどくて、神様が見えなくなることがあります。祈っても祈っても一向に憎み、争い、殺し合いはなくなりません。祈っても何も変わらない。むしろこの世は前よりも悪くなっているんじゃないだろうかと思ってしまいます。神様は平和をもたらすことができないのか。わたしたちの現実の中の不条理が大きな石となって神の栄光を隠し、見えなくしています。「主よ、苦しみや悲しみは一向になくなりません。もう何もできません」。マリアさんはわたしたちの現実を主イエス様に伝えました。イエス様は言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」。

イエス様の声に促されて、人々は石を取りのけました。どんな気持ちだったのでしょう。どうせ無理だよと思っていた人もいたでしょう。こんなことしても意味がないと思う人もいたでしょう。でも、人々はイエス様の言葉に押し出されて石を取りたのです。もし、人々が石を取り除けなかったら神の栄光は見られなかったはずです。イエス様が一人で洞穴をふさぐ石を動かすことはできたかもしません。しかし、イエス様は自分一人で石を取りのけず、人々にそれを任せました。石を動かすのは、みなさん一人一人なのです。
 
最近の祈祷会では、イエス様のたとえ話のシリーズをやっていますが、先日、タラントンのたとえを学びました。マタイによる福音書25章14〜30節の御言葉です。祈祷会では、まず聖書を読んで、10分間ほど黙想をし、それぞれが御言葉から与えられたことを分かち合っていきます。その中である人が面白いことを言いました。「このたとえでは5タラントンもらった人も、2タラントンもらった人も商売に成功しているけど、たとえ5タラントンもらった人が商売に失敗し、負債を抱えてしまっても、神様である主人は同じように『忠実な良い僕だ。よくやった。』とほめたはず。二人とも成功しているので、儲けることがいいことのように読めてしまうけど、神様の思いに忠実であることが大切だから、このたとえ話に失敗した人もいれたらよかったのに」。

わたしはとっても励まされました。福音伝道のためにこれまでも色々と挑戦しては失敗を繰り返してきたわたしですが、たとえ失敗したとしても神様が望んでいることはこれだろうと信じて、これからも挑戦し続けていこうと思うことができました。福音を伝えてもなかなか教会につながってくれる人は増えていきません。他の教会でこのクリスマスには6人がバプテスマを受けましたなんて聞きますと、いいなぁと思って自分はダメだなと思ってしまいます。人と自分を比べてしまって、神様がわたしにくださったものが見えなくなってくるのです。だから、イエス様は「石を取りのけなさい」「神様があなたを心から愛していると信じることができるように神様の方を見なさい」と言われます。

石が取りのけられますとイエス様は続けて言われます。「ラザロ、出て来なさい」。洞穴の中に閉じこもっていないで、人間の現実ばかりに目を向けていないで、そこから出て来なさいと言われます。勇気を持って心の中にある石を取り除いて、一歩外に出てみますとそこには明るい陽の光があります。信仰生活は「出て来なさい」とのイエス様の呼びかけに応えるところことから始まります。「こんな私が何の役に立つのか。自分なんかに何ができるのか」と心をふさごうとする石を取り除いて、主イエス様にできないことは何もないと信じてまず一歩でも半歩でもいいのです。信じて外に出るのです。イエス様は今も、これからもあなたのために祈ってくださいます。「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。

神様にできないことは何もないと信じることができるように、イエス様はわたしたちのために今も祈ってくださっています。失敗を恐れずに心の中にある石を取り除きましょう。主イエス・キリストが必ず助けてくれると信じて、与えられた福音を伝えるために外に出てまいりましょう。

2016年12月25日 キャロリング

12月25日の夕方、聖歌隊とジュニア聖歌隊でみぎわホームにうかがって、クリスマスの讃美歌を歌いました。
各フロアでは、カーテンを閉めて広間を暗くして、ろうそくを模った灯りを持った子どもたちがやってくるのを待っていてくださいました。
「いいねぇ」と思わず指揮をするポーズをとってくださった方もおられました。
迎えてくださったみなさま、子どもたちと一緒に来てくださったご家族の方々、ありがとうございました。

新しい年もみなさまに主の豊かな祝福がありますように祈ります。

2016年12月25日 クリスマス愛餐会

クリスマス礼拝の午後は、持ち寄りの愛餐会。今年もたくさんのご馳走が並びました。
今年のゲームは、これまでありそうでなかった「讃美歌イントロクイズ」、結構難しくて、全問正解チームはいませんでした♪

2016年12月23日 子どもの教会クリスマス

12月23日の午後2時から、子どもの教会のクリスマス礼拝と祝会をもちました。
子ども達と大人を合わせて100人以上が集まって、イエス様の誕生をお祝いしました。

2016年12月18日 大掃除でした

窓ガラスや、普段は手の届かない高いところもお掃除しました。

2016年12月4日 ランチタイム

12月は、チキンスープ、大根サラダ、いろいろなパン、甘味をいただきました!

保護中: [教会員用] 2016年12月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。