2016年8月28日 わたしたちは神の家族

◆ローマの信徒への手紙8章14〜17節

原町田教会の礼拝がいいですね。夏休みをいただき、先週と先々週はそれぞれ違う教会の礼拝に出席しました。違う教会での礼拝も新鮮で、同じところや違うところがあって学ぶこともあります。でも、やはり原町田教会に来ますと自分の家に帰ってきたという感じがして、ホッとします。原町田教会は、わたしにとって魂のホーム、魂のふるさとになったと改めて思います。ここにはまずわたしを受け入れてくれる神様がいます。「よく帰ってきたね」と走り寄り、抱きしめて、帰りを喜んでくれるわたしたちの親である神様がいます。神様は他の教会にもいるのですが、原町田教会にだけ、このわたしを「お帰り」と迎えてくれる家族である皆さんがいます。「お帰りなさい」と迎えてくれるところがあるっていいですね。詩編23編に「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」とありますが、主の家は天に召された後だけでなく、生きている今も教会が主の家になっている。そんな気がいたします。教会に帰ってきてホッとするのは、自分が家族として当たり前のように受け入れられているからなのだと思います。

今日の聖書にはそのことが書いてありました。ローマの信徒への手紙8章14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。今、この礼拝に集っている皆さんは、それぞれ違った事情でこの原町田教会に集うようになったのですが、ひとつだけ共通していることがあります。それは、皆さん全員が神の霊によって導かれたということです。神様がこのわたしに今日も命を与えてくださり、こんなわたしだけど「帰っておいで」と呼びかけ、そして「よく帰ってきたね」と受け入れてくれた。そう信じる人はみんな、霊によって導かれています。

今、「みなさんは、神様の子どもです」と言いました。わたしは何の危険も感じずに「みなさんは神様から愛された神様の子です」と言えます。でも、この手紙が書かれた時代はそうではありませんでした。この手紙をパウロさんが書いたのは紀元55年頃のことです。当時のローマ帝国の頂点に立っていたローマ皇帝は何代にも渡って「神の子」「神の息子」として崇(あが)められ、死んだ後には神として祀(まつ)られ礼拝されていました。たいていの皇帝は、自分が生きている時に自分を神とすることを辞退していましたが、それでも生きている時から「神の子」と呼ばれていました。聖書にはディナリオン銀貨が何度も出てきますが、当時使われていたその銀貨の裏には皇帝の顔が刻まれ、このように書かれていました。「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」。皇帝は神から生まれた神の子と呼ばれ、崇拝すべき方だと毎日のように目にする銀貨に記されていましたので、当時の人たちはそれが当たり前と思っていたでしょう。でも、パウロさんはローマ帝国の中心のローマに暮らす信徒たちに伝えました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。皇帝こそが崇拝すべき神の子だと言われていた中で、パウロさんは勇気を持って次のように言い切っています。「神の霊によって導かれる人はみんな、全員、神の子です」。この言葉をローマの地で聞いた人たちは驚いたに違いありませんし、驚きと共に喜びを感じたはずです。15節で「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とあるのですから、ローマの教会の中には奴隷の身分の人もいたと想像します。「お前は生まれた時から奴隷だから、死ぬまで奴隷として生きていくんだ」と言われ続けてきた人が、教会に行くとパウロ先生からの手紙を読み聞かされます。「あなたは神から愛される神の子どもです。神の子とする霊を受けたのです」。奴隷の身分の人だけでなく、高い身分のゆえに苦しんでいる人もこの言葉によって解放されたに違いありません。身分が高ければ、低い身分の人と対等に話したくてもできなかったでしょうから。霊によって導かれる人はみんな神の子どもと言われて、教会に集う人は、あの人もこの人もみんな自分と同じ神様の子どもなんだと目が開かれたはずです。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。これは福音の言葉です。神様はご自分が命を与えたすべての人たちに、「自分は神様に愛された存在なんだ」と知ってもらいたい、信じてもらいたいと願っています。そのために親である神様は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、今もキリストの霊によって人々を教会に導いています。教会に導かれている皆さんは、神の霊によって導かれた神の子なのです。

イエス様が人となってみなさんのところに来てくださり、みなさんのお兄さんとなってくださいました。その兄貴が神様に向かってとっても親しく「アッバ、父よ」と呼びかけていますから、みなさんも「兄貴がそうしているから、わたしも」と思って「アッバ、父よ」と呼びかけることができます。イエス様は弟子たちに「祈る時はこう祈りなさい」と言って、「天におられるわたしたちの父よ」と教えました。実際、イエス様はゲッセマネでこう祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。当時のユダヤの人たちは多くの場合、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼びかけて祈りを始めます。わたしはこれまで教会の中で、そのように神様を呼びかける祈りを聞いたことはありませんが、もし、聞いたとしたら少し違和感を感じるかもしれません。なぜなら、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と聞くとユダヤの民族の神と聞こえるからです。でも、イエス様は自分が話していたアラム語で父親を意味する「アッバ」と祈り始めました。イエス様は当時、ユダヤの人たちが神様に話しかける時にあったたくさんの呼び名の中から「アッバ」を選ばれました。イエス様が「アッバ」と呼びかけたからこそ、民族の枠を超えて、すべての人に開かれた教会、「お帰りなさい」と誰でもどんな人でも迎え入れる神様をまことの親とする神の家族が生まれました。神様を信じる人であれば、誰でも「アッバ、父よ」と呼びかけることができるようになりました。そこには人種とか歴史の中で築きあげられる「内」とか「外」という区別もありません。アッバと呼びかける2〜3人の集いが神の家族、教会です。あなたたちと神様との関係は、愛し愛される親子の関係なんですよと言われるのです。

さて皆さんは、アッバの子どもですから、アッバから素晴らしいもの、財産をいただく相続人でもあります。しかも、兄貴であるイエス・キリストと共同の相続人です。相続すると聞きますと、財産を持ったアッバが亡くなった後にもらえるものと思ってしまうのですが、天のアッバは亡くなることはありません。生前相続というのでしょうか。アッバは寛大ですから生きている内に財産を相続してくださいます。

先日、西東京教区のある信徒の方と食事をしながら、いろいろと話をしました。その人には中学生の娘さんと高校生の息子さんがいるのですが、息子さんは別の教会に通っていて、彼はその教会の牧師を慕っている。でも、その牧師が少ししたらそこを辞めてしまうことになったと言うのです。「辞める前にその牧師からバプテスマを受けられたらいいのに。でも、うちの妻(お連れ合いさんもキリスト者ですが)はあまり息子の洗礼にこだわっていないので悩んでいる」とのこと。わたしは、その人に「息子さんと時間をつくって、バプテスマを受けるように勧めたらいい」と励ましました。その人は「息子も娘も神様と繋がって生きていってもらいたい。それだけが願っていること」と言いました。

神様が与えてくださる財産ってなんだろうと思っていた時、わたしはその人が言っていた「神様と繋がって生きていくこと」という一言を思いました。永遠なる神様、愛そのものである神様、揺らぐことのない岩なる神様と繋がること、それが相続して得られる素晴らしい宝物ではないか。わたしは神様の子どもです。わたしの親はこの宇宙を創造された全能の神様であり、いつも近くにいて支えてくれる。そのような素晴らしい経験をしますと、それ以外のものはそんなに大切だとは思われなくなってきます。「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、「わたしは神様の子どもです。神様がわたしの親ですから」と答えられることがすでに相続させて頂いた宝物なのではないでしょうか。

みなさんは神様の子どもです。何歳になっても、70歳、80歳、90歳になっても神様から見れば子どもです。子どもは、いろいろなことに挑戦します。そんなの無理と思うよりも先に「やってみよう」と挑戦します。親が見守ってくれているという安心感から、小さい子どもはハイハイしていたところから立ち上がって歩き出そうとします。何度も転びますが、転んでもすぐに駆けつけてくれる親がいるという信頼があるからこそ、次の一歩を踏み出します。子どもですから、たとえ失敗したとしても最後は親が責任をとってくれるという安心があります。親である神様が見守ってくださるから「大丈夫。やってみよう」と何にでも挑戦できます。ですから、まずキリストと共に相続した宝物を、まだ神の家族の輪につながっていない人たちにそれぞれのやり方で伝えることに挑戦していただきたい。「そんなこと言っても伝わらない」と思わずにチャレンジしてみてください。福音という宝を伝えるのは苦労するものです。でも、イエス様がみなさんの苦労をよくわかってくださいまし、苦しむからこそキリストと共に栄光を受けることになる。パウロさんが言っています。「キリストと共に苦しむなら、共に栄光をもうけるからです」。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。これが福音の言葉です。みなさんの真の親である神様は、「あなたに生まれてきてほしい」と心から思って命を与えてくださいました。そしてし、あなたが生まれ、今こうして生きていることを何よりも喜んでおられます。

 

2016年7月17日 永遠の命に至る食べ物

◆列王記上 17章8〜16節
◆ヨハネによる福音書6章22〜27節

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。
この言葉をそのまま読むと、「食べ物のために働くのでなくて、何か別のことのために働きなさい、イエス様は、わたしたちが毎日食べているご飯のために働くことを否定している」、そのように聞こえてきます。でも、イエス様はパンや魚を自ら裂いて空腹の人たちと分かちあいましたし、何度も食卓で「神様、このパンをありがとうございます」と祈って、食べ物を分かちあっていました。その方が、「食べ物のために働いてはいけない」なんて言うはずはありません。

イエス様はこの言葉と似たことを別のところでも言われています。イエス様がバプテスマを受けられた後に荒野に行かれ、何日間も断食をしてお腹を空かしていた時、誘惑する者がきて「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言いました。それに対してイエス様が言われた言葉が、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」でした。今日の御言葉と似ています。後半の言葉を強調したいために、初めの方をあえて否定的に言うやり方です。言い換えるとこうなります。「パンもご飯も大事、でも人はそれだけでは生きていけない。神の言葉がなければ生きられない」。ヨハネ福音書の言葉も言い換えるとこうなります。「朽ちる食べ物も大切。でも、それだけでは本当に生きる意味はわからないから、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。そうすればあなたは命の意味がわかる」。

列王記に登場するエリヤさんの出来事は示唆に富んでいます。神様はアハブ王からエリヤさんを守るために「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」と言われます。エリヤさんはその言葉に従って、サレプタに行きました。歩いていけば2〜3日かかる道のりです。エリヤさんはようやく着いたサレプタで貧しい一人のやもめに会い、「パンを一切れ持ってきてください」と願いますが、彼女は「残りわずかな小麦粉を食べてしまえば、息子とわたしは死ぬのを待つばかりです」と答えるのです。エリヤさんはそこで神様の言葉を伝えます。「主が地のおもてに雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない」。やもめはその言葉を信じてエリヤさんの言葉どおりにしました。すると壺の粉は尽きることなく、彼ら3人を養ったのです。聖書はここで「言葉どおりにした」「御言葉のとおり」と2度繰り返しています。神様が語られた御言葉を信じて、御言葉のとおりにすることで、もうダメかもしれないという危機を乗り越える。もう、食べる物がなくなり後は死ぬばかりと言ったやもめでしたが、御言葉を信じ、御言葉に従って働きました。朽ちることのない御言葉を信じて、壺の中に手を入れて小麦粉をとってパンを焼き続けました。わたしは、彼女のこの姿にイエス様が言われた言葉を重ね合わせます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。御言葉を信じ、御言葉の通りにすることこそ永遠の命に至る食べ物のために働くことではないでしょうか。

神様は食べ物が十分にある人の家にエリヤさんを向かわせて、彼を養うこともできました。でもそうしませんでした。「永遠の命に至る食べ物、神の御言葉がなかったらあなたは生きていけない」と伝えるために、あえて食べ物に事欠くやもめの家にエリヤさんを送られたのでしょう。

今年の春、ジャガイモの種芋をホームセンターで買って、メイクイーンと男爵を娘と一緒に植えました。趣味の園芸ですから、働くというほどのことではありませんが、それでも堆肥をすきこんで、畝を作る作業をして、ジャガイモを半分に切って植えました。芽が出た後に芽摘みをします。芽が6〜8本とたくさん出てきますが、それを摘まないでおくとジャガイモが全部小粒になってしまうので、芽を摘んで3〜4本にします。できれば土寄せもしたかったのですが、時間が取れずできませんでした。それでも順調に成長して7月上旬に収穫しました。まずまずの収穫でした。自分の家で食べるのも嬉しいのですが、知り合いにおすそ分けするのもいいもんです。「どうぞ。家で作ったジャガイモです。無農薬の有機栽培です」と渡しますと「すごい。ありがとうございます」と喜んでくれますし、その「すごい」と言ってもらえることにこちらも嬉しくなります。聖書にも、「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」「受けるよりも与える方が幸いです」とあります。小さいジャガイモが人の心をホクホクにする。もらってくれる人の笑顔を見てわたしも嬉しくなる。わたしは畑で朽ちる食べ物のために少し働きましたが、それで終わらずにその喜びを分かち合うことができました。少しですが、永遠の命に至る食べ物のために働いたのかなぁと感じています。

ティベリアスから数艘の船に乗ってイエス様を追いかけてきた人たちの気持ちはよくわかります。お腹いっぱいになり、満たされると満たされた自分は安心します。その安心は長く続かず、しばらくすると、次のもの、前のものと同じくらいか、できれば少しでもいい物が欲しいと思うのです。パンを食べて満腹になった人たちが、イエス様を探して追いかけたのもそのような思いからだったのでしょう。イエス様は彼らの目を見て、すぐにわかったから「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われたのです。

もし、人が朽ちる食べ物のためだけに働くようになったとしたら、朽ちることのない神様の御言葉を知らない人ばかりになったら、この世の中はどうなるのでしょうか?「朽ちることのないものなどいらない。何よりも食べ物のためだけに働けばいい」。そのように言われ続けたとしたら、わたしたちはどのようになるのか。簡単に想像することはできませんが、まず「永遠」という言葉をすぐに忘れるでしょう。朽ちることのない信仰、希望、愛という言葉も次第に消えていってしまいます。原町田教会では、3月下旬または4月上旬に中学1年生になる子どもたちの成長祝福式を行っています。礼拝の後で子どもたち一人一人に将来の夢を語ってもらっています。でも、朽ちる食べ物のためだけに働く世の中になってしまったら、「わたしは困っている人を助けるような人になりたいです」と言う子や、夢や希望をもって「野球選手になりたいです」という子もいなくなってしまうんじゃないでしょうか。その代わり出席した全員が、同じように「給料をしっかりもらえる会社に入りたいです」と言ったり、「とにかく安定した仕事につきたいです」と言い出すでしょう。もちろん、給料や安定も大切ですが、神様が人を造られたのは給料や安定だけを求めて生きることではありません。朽ちる食べ物も大切ですが、永遠に朽ちない食べ物である信仰と希望と愛を求め生きる時に、朽ちていく人間であっても神様の似姿をちらっと現しているのだと信じます。

牧師になって10年になりますが、これまで何人もの人たちを天に送ってきました。葬儀を終えて、火葬しますと、人の体は朽ちていくもの、骨壷に入れられた骨もいつかは朽ちて土に帰ると実感します。朽ちる食べ物のようにわたしたちもいつかは朽ちてなくなり、誰からも忘れ去られると思うとなんだか寂しくなります。自分は何も残してこなかったと自分のこれまでの歩みを振り返り、落ち込むこともあるかもしれません。イエス様は言われます。「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。朽ちていく食べ物ばかりを求めていたら、本当にあなたたちの体は朽ちていく。でも、わたしが与える永遠に至る食べ物を食べるならば、そのような寂しさ、虚しさは消えてなくなる。あなたの中にはすでに永遠の命が宿っている。朽ちていくわたしたちの体の中には、すでに永遠が生きているとイエス様は言われるのです。みなさんは、すでに永遠の命に至る食べ物のために働いていますし、それを食べています。いつも、そのために働いているわけではありませんが、でも、確かに働いています。永遠の命に至る食べ物は、イエス様その方ですから、イエス様が大切だと言われたことを思い出し、その御言葉を信じてパンを焼く。あのやもめが御言葉を信じて、壺の中に手を入れてパンを焼き続けたようにわたしたちも、永遠の御言葉を信じて、この手を壺の中に入れるのです。命ある限り、最後の時まで御言葉を信じて壺の中に手を入れます。年を重ねてパンを焼くことが難しくなったとしても、話すことすら難しくなったとしても祈ることはできます。神様の御心がこの地になりますようにと祈る。いつか必ず、すべての人の目から涙を拭い去られる主の平和がやってくる。悲しみも嘆きも労苦もない新しい天と地が実現すると信じて、希望を失わないで祈ることができます。苦しむ人を覚えて小さな愛の業を行うこともできます。

永遠の命は、神様の御言葉を信じて生きるイキイキとした命です。永遠に朽ちないものを求める心を神様はみなさんに与えてくださっています。

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988