バザーの写真

10月30日のバザーは、ちょっと気温が低い日でしたが、たくさんのお客様と、子どもたちの元気のおかげで、楽しくあたたかな交わりのうちに終えることができました。神様がわたしたちの真ん中にいてくださることを実感した一日となりました。おいでくださった皆様、バザーを実現させてくださった皆様、ありがとうございました。

2016年9月25日 神の栄光のために 

◆ヨハネによる福音書11章1〜16節
11:01ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:02このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:03姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:04イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:05イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:06ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:07それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:08弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:09イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

原町田教会には、エルサレムに旅行に行った人が何人かいらっしゃると聞いていますが、ベタニアという名前の村には誰も行かれたことはないと思います。行きたくても行けないというのが現実で、そのような名前の村は現在、存在していません。ただ、ある本によれば「エル・アザーリエ」、日本語にしますと「ラザロのところ」という村は今もエルサレムの近くにあるそうです。
イエス様の時代、ベタニアという村はエルサレムから3キロほど離れたところにあって、イエス様はガリラヤからエルサレムに行くときには度々ベタニアを訪れていたようです。どうして、イエス様はこの村に何度も足を運んでいたのでしょうか。それは、5節にあるとおり、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」からだと思います。

今日の聖書箇所に登場するラザロさんは、実はマルコによる福音書に登場するベタニアに住むシモンさんと同じ人ではないかと思うことがあります。先ほど、読んでいただいた11章2節には「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」とありますが、マルコによる福音書でも重い皮膚病のシモンさんの家で一人の女が高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたと記されているからです。今日の箇所では、ラザロさんが重い皮膚病であったとは書かれていないのでヨハネ福音書のラザロさんとマルコ福音書のシモンさんが「同一人物であった」とはっきり言うことはできません。しかし、重い皮膚病のゆえに周りから怖がられていたならば、シモンさんと言う名が本当でラザロという偽名を使っていたか、あるいはその反対だった可能性があります。実際、日本でもハンセン病の疑いをもたれると、施設に収容される際にその人の名前は家族の戸籍から抜かれ、家族とのつながりを分からないようにするために名前を変えさせられたという歴史があります。

イスラエルの地でも、重い皮膚病にかかると、自分の家から出て行かなければなりませんでした。イスラエルには同じ病気の人を隔離する村があったと考えられます。レビ記にこのように記されています。13章45節「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状のあるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。ベタニアの村が重い皮膚病にかかった人たちを隔離する村だったのかもしれません。イエス様は病気のためにベタニアで暮らさざるをえないラザロさんやそこに暮らす人たちを心にかけていたので、その小さな村を何度も訪れていたのだと想像します。

重い病気にかかると体の痛みだけでなく、人とのつながりまで断ち切られてしまうことがあります。ラザロさんも隔離されるためにベタニアという村に暮らさなければならなかったのかもしれませんが、ただ、ラザロさんの場合は、彼を愛する姉妹、マリアさんとマルタさんが共に暮らしていたようです。姉妹たちがどれほどラザロさんのことを大切に思っていたのかが伺えます。そのラザロさんが病気になったと姉妹たちが使いの者をイエス様に送って伝えました。皮膚病の影響なのかもしれません。とにかくすぐにでもイエス様に来てもらいたいと思った姉妹がイエス様の居場所を聞き出して、なんとか使いを送ったのです。イエス様はそれを聞かれてこのように言われました。4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。

病気になると、とにかく1日も早く治りたいとわたしたちは願います。病院に行き、病気の原因がわかり、「ま、薬を飲んで休めば治りますよ」と言われるとホッとして「神様ありがとうございます」と祈ります。でも、医学が発達した現代でも、なかなか原因がわからず、すぐに治らない病気になることもあります。いわゆる難病といって、現代医学でも治療できない病気があります。わたしたちの教会にも、そのような病気を抱えながら日々を歩んでいる仲間がいます。すると今度は、どうして神様はこんな病気を与えられたのか。神様、どうしてなんですかと神様に不満、怒りをぶつけます。神様は良いお方なのにどうしてこんなひどいことを見過ごされるのか。どうして助けてくれないのか。家族の病気、病気と苦しい闘病生活。そして病気によって天に召されていくかもしれないのに。

神様のなさることがわからなくなることがあります。「どうして」と問わずにはいられないことがあります。イエス様が言われたこともイエス様がされた行動も、どうしてなのかと疑問に思います。足のなえた人を立ち上がらせ、目の見えない人の目を開くイエス様であれば、姉妹のことづてを聞いたら、すぐに出かけて行ってラザロさんの病気を癒すことができたはずです。でも、イエス様はすぐにその場をたってベタニアに向かおうとされませんでした。2日間も同じところに滞在したのです。「あなたの愛している大切な人が病気です」と言われれば、すぐに行動してもいいはずですが、イエス様の動きは遅すぎます。2日たった後にようやく「もう一度、ユダヤに行こう」、「わたしの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。まるでラザロさんが死ぬのを待つためにイエス様は2日間そこに滞在したかのようです。弟子たちもイエス様の言われたことがわからずに「また、そこに行かれるのですか?」と聞いたり、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言っています。

よくよく考えてみますと、神様のなさることでわからないことがあって当然です。もし、自分に理解できること、納得できるところだけを取り上げて感謝するのであれば、それはその人がつくりあげた神様となります。宇宙を創造された神様のご計画をわたしたちがぜんぶ理解することなど到底できることではありません。神様を信じていても納得できない現実があります。神様は、御子イエス様をこの世にお与えになったほどに世を愛された方なのに、どうして未だに苦しみがあるのか。自分が、あるいは親しい人が治る見込みのない病気になってしまったが、それにも神様のご計画があるのか。理解できない、納得できない現実に信仰が揺らぐこともあります。イエス様の周りにいた弟子たちも、その渦中にいた時は主の思いを全くわかっていませんでした。弟子たちが言っていることは、トンチンカンなことばかりです。トマスさんなど、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と的外れなことを言っています。ラザロさんの姉妹たちもイエス様の思いをわかっていなかったと思います。しかし、頭で理解できなくても納得できなくても、神様との関係を持ち続けるならば、そこに光が差し込んできます。病気になり、とても不条理なことが起きて、神様に「ひどすぎる」「どうして神様は何もしないのか」「神様なんて信じない」と言いたい放題神様に文句を言ったとしても、そこには神様との関係がまだ保たれています。あるいは、「もう神様を信じない」と言ったとしても関係はすぐになくなることはありません。なぜなら、わたしたち人間の側からの「神様を信じる」とか、「神様を信じない」とかいうレベルを超えて、病気で苦しむ者、その家族のところに神様の方から来てくださるからです。イエス様は主の思いを理解できない弟子たちに言われました。「ユダヤに行こう」「わたしは彼を起こしに行く」「さあ、彼のところに行こう」。イエス様の方から来てくださいます。わたしたちの側からいくら離れようとしても、イエス様の方から関わりを持ってくださるのです。わたしたちが、もう信じないと思ったとしても、時にはしばらく教会から離れたとしても、イエス様は皆さんとの関わりを終わりにすることはありません。

少し想像していただきたいのですが、皆さんが一人の子どもの親であったとします。あなたはその子が生まれてきた時から、今に至るまで心からその子を愛しています。その子が少し大きくなってきたある時、自分の思うように物事が運ばず「ヤダヤダ」と怒り出しました。そして「大丈夫!
あとでもう一回やればできるよ」と励ますあなたに向かって言いました。「大っ嫌い。あっち行け!」。皆さんはそのように子どもから言われても、「あ、また言ってる。しばらくすれば落ち着くだろう」とか「お腹が空いて気分が悪いんだろう」とその子のことを知っていますから、本気でその言葉を受け取ったりしないはずです。子どもが親である皆さんに対してそっぽ向いていたとしても、皆さんは親としてその子との関係をそう簡単に切ったりはしません。むしろ、いろいろなことがあって成長していくんだと見守るんじゃないでしょうか。神様とわたしたちの関係もそれと似ています。皆さんがいくら文句を言っても、神様は皆さんとの関係を切り離したりはしません。じっと聞いてくださり、あなたと一緒に耐えておられます。

神様のご計画はわかりません。病気がすぐに治ることもあれば、治らないで死んでいくこともあります。しかし、イエス様が言われたことははっきりしています。重い病気であっても「死で終わるものではなく、神の栄光のため」だということです。大切な人が病気で苦しんでいる。自分も病気で苦しい。そのことがどうやったら神の栄光となるのか。すぐにはわかりません。しかし、これは十字架の上で苦しみ抜かれ、死んで陰府にまで降られ、その死から復活されたイエス様が言われた御言葉です。だから、わたしたちはこの御言葉を信じ、この病気は死で終わらないと希望を持ちます。イエス様がここで言われる「死」というのは、神様とのつながりがなくなることではないでしょうか。

わたしたちが、どのような病気になったとしても、神様はわたしたちとの関係を持ち続けてくださいます。主イエス様の十字架と復活には、神様の並々ならぬその決断が現れています。病気も死ぬことでさえも神様とのつながりを断ち切ることはできません。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。ですから、この御言葉はここに集う全ての皆さんに、また、病気で苦しむ人たち、その家族全ての人にイエス様が今、ここで言われた御言葉です。「この病気は死で終わるものでなく、神の栄光のためである」。

わたしたちの思いを超えた神の栄光のためにこの病気がある。それだけで十分なのかもしれません。重い病気になったとしても、あるいは病気のゆえに亡くなったとしても、神様とのつながりはなくなりません。主イエス様は、病気で死んでいったラザロさんとその家族との関係を大切にされ、そこに行こうと言われます。同じように主イエス様は、あなたのところに来てくださり、「あなたの病気、あなたの家族の病気は、神様とのつながりを断ち切るものでない」と言ってくださいます。それは消えることのない神の栄光の御言葉です。

 

バザー会場見取り図できました!

10月30日のバザーの見取り図ができました。

どうぞ、10:30の礼拝からおいでください!お待ちしています。

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バザーのポスターができました

10月30日にはバザーが開かれます。今年のポスターができました!
食べ物コーナー、絵本読みグループの人形劇、こどもコーナー、物品コーナー・・・、聞いただけでワクワク。
どうぞご予定ください。お待ちしています。

2016年10月9日 子どもの教会

子どもの教会幼小科では、10月30日のバザーにむけてビーズ手芸や写真掲示の準備をしています。
中高生は新しい讃美歌を練習。アルトの経験者もいるのでハモる練習もしました。

保護中: [教会員用] 2016年10月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。